魔法少女リリカルなのは 妖精の舞う空   作:スカイリィ

40 / 46
第三十六話 情報勘

 

 ヴィヴィオという少女が高町なのはに引き取られたその日、六課の食堂ではヴィヴィオを歓迎するためのささやかな昼食会が催されていた。

 

 昼食会、と言ってもパーティのような大々的なものではなく、ただ単に皆で昼食をとりながらヴィヴィオとの親睦を深めよう、という程度のモノだった。豪華な御馳走が出るわけでもないし、きらびやかな飾り付けが施されているわけでもない。しかしその程度の歓迎会であっても幼いヴィヴィオにとっては新鮮に感じられたようで、年相応に目を輝かせていた。

 

 ちなみに零と八神はやて、リィンフォースの三人は参加していない。零は報告書と始末書を書かなかった罰として隊舎全部の男子トイレ掃除を命じられ、はやてとリィンは先日の爆発で生じた被害に関する報告書と請求書、さらに零が書かなかった報告書の処理に追われて参加できなかった。

 それと合わせてソフィアも出禁を食らっていた。もれなくついてくるカールによって全ての食材を食い尽くされかねなかったからだ。

 

 その四人と一匹と一機とは対照的に、普段から多忙な機動六課に転がり込んだ天使のように可愛らしい少女の姿は、心なしか周囲の空気を癒していた。さらになついてしまったのかヴィヴィオは雪風の隣にべったりとくっついてしまって離れようとしない。それがまた癒しの空気を底上げした。可愛いと可愛いの二乗である。六課の人間達はその愛らしさに魅了され、修羅場のごとき書類仕事からその精神を現実逃避させることに成功していた。

 

 なお、シャマルだけは雪風のいるテーブルにいることを八神はやて直々に禁止された。曰く『食事どころじゃなくなるから』だった。それだけ雪風とヴィヴィオの可愛らしさは凄まじかった。

 雪風とヴィヴィオの可愛らしい姿を遠くから眺めるしかないシャマルは、半ば泣きそうな顔になりながらステーキをやけ食いしていた。もはや六課の人間達はその光景をなるべく見ないようにしていた。特に時折聞こえる『拡大機能付きカメラ持って来ればよかった』という呟きは聞かないようにした。いくら雪風の母親代わりであるとはいえ、それはもはや盗撮の部類だろう、と。

 

 なのはとフェイトは、主賓であるヴィヴィオと、彼女のお気に入りである雪風の両脇に座って昼食をとっていた。相変わらず無口で無愛想な雪風はともかく、ヴィヴィオは雪風と、己の母として認識しているなのはに挟まれる格好となっていて満足そうだった。

 

 しかし歓迎会も終盤となったところでヴィヴィオの表情は不機嫌なものになってしまった。

 

「ピーマン、きらい」

 

 己にあてがわれたオムライスにピーマンが添えられていたことが原因だった。幼いヴィヴィオの味覚はピーマンの苦味と青臭さを受け付けなかったのだ。

 

「ヴィヴィオ、好き嫌いは良くないよ」

「苦いの、きらい」

 

 母親代わりとなった高町なのはがそれを注意するが、ヴィヴィオはそれでも首を横に振って拒否の意を示していた。ヴィヴィオはこういうとき頑固だった。

 

「ほら、雪風は好き嫌いしないでなんでも食べてるよ?」それを見ていたフェイトがその隣にて黙々とサラダを咀嚼している雪風に視線を向ける。「お肉だけじゃなくて野菜もいっぱい食べてるから、雪風はあんなに綺麗なんだよ」

「……?」三人からの視線を受けたのを感じ取ったのか、レタスを口に運ぶ手を止める雪風。私がなにかしたか? といった顔つき。左のフェイトの顔をチラリと見た後、同じように右のなのはの顔を確認する。

 

 そして数秒ほど考え込む表情をしたのち、彼女達の視線が特に意味のあるものではないと判断したらしく、再びウサギかハムスターのように小さな口でサラダをもしゃもしゃと頬張って食べ始める。サラダを飲み込むたびにわずかに震える尖った耳がとても可愛らしかった。

 

「見てごらん、こんなにいっぱい野菜食べてるんだよ? ヴィヴィオも頑張んなきゃ、ね?」

「む~」

 

 確かに雪風は綺麗で可愛らしいが、なにか論点をすり替えられているような気がする。ヴィヴィオの表情からはそんな困惑が見てとれた。

 

 

 

「あはは。それにしてもエディス先生、どうしてピーマンってあんな苦いんでしょうね」そんな光景を傍目で見ていたスバルがテーブルの反対側に座るエディスに訊いた。

 

「ん?」ほどよく柔らかい牛肉ステーキを口に含んでいたフォス大尉は、一瞬だけ考え込むような表情になってから、口の中にあった肉片を飲み込んでから答える。「ピーマンの苦味成分はポリフェノールの一種『クエルシトリン』によるものなの」

「く、クエル……?」理解不能な単語の出現に思わずパスタを巻き取るフォークの動きを止めてしまうスバル。

「クエルシトリン。フラボノイドのクエルセチンおよびデオキシ糖のラムノースの配糖体のこと。昔はアルカロイドの仲間が苦味を出しているとされていたこともあったけど、少し前にクエルシトリンであることがわかったの。それがピーマンの主要な苦味成分よ」

「へ、へえ。そうなんですか」キョトンとした表情のスバル。

 

 体育会系のスバルとて座学の成績は悪くないのだが、あいにくと食品化学の知識は持ち合わせていなかったらしい。フォス大尉はスバルのそんな様子を見て、少し専門的すぎたかと反省する。地球有数の名門大学UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の大学院を卒業したフォス大尉ならではの失敗だった。

 

「……まあ、そんなこと言ってもなにがなんだかわかんないでしょうけど、とにかくそれが苦味の原因。これが舌に触れることで『苦い』と判断されているのよ」それでもフォス大尉は優秀だった。次の瞬間にはスバルのような一般人でも理解できるよう、新しい説明を繰り出していた。「それはそうと、人間は苦味を持つ化学物質を毒であると認識するようになっているというのは聞いたことあるかしら?」

 

「え。そうなんですか?」

「自然界において毒は苦いことが多いから、進化していく中で身に付いたのよ。苦味を感じて毒を食べない個体が生き残って、苦味を感じることができない個体は死んでいったの。だから生き残った方の子孫である私達はこうして苦味を感じて毒を回避できる。ま、普通の食品で感じる苦味は毒性を持っていないものがほとんどだし、クエルシトリンにも毒性無いから安心していいわ」

「へー」

 

「自然の中で暮らしていた頃の名残ってことですか」横からティアナが口を挟む。「子供がピーマン嫌いなのは」

「そう。特に、身体が小さな子供のうちは少量の毒物でも致死量になっちゃうでしょ? だから子供のうちはそんな苦味に対しては敏感にできているの。それでもって、ピーマンは見事な緑色。自然界で緑色といったら葉か、熟していない果実なのよ。普通の葉は食べても栄養価が低いし毒成分があることもあるし、未熟な果実にも毒があることが多いから、これも子供がピーマンを嫌う原因ね。視覚的に受け付けないってこと。あとピーマンの青臭さも嫌われる原因。これも熟していないと判断されてしまうのよ」

 

「そっか」スバルは納得したようにうなずいた。「『苦くて、緑色で、青臭い。どう見ても熟していない。これはきっと毒があるぞ』って無意識に考えちゃうんだ。そういうふうに進化してきたから」

「そう、子供のうちはね。大人になるといろいろな味を経験するようになって慣れてくるし、理性が本能より強くなるから苦味に対する拒否反応も薄れてくるの。個人差はあるけど」

 

「なんていうか、ピーマンって子供に嫌われるべくして存在しているような野菜なんですね」とティアナ。「自然の中で身に付いた本能ってことは、逆に言えば子供のピーマン嫌いは数億年単位でDNAに刻みつけられたトラウマってことじゃないですか」

「その通り。ピーマン嫌いな子供からしたら毒っぽい何かを食べさせられるのと同じってわけ。私だってピーマンはあまり好きではないわ。──だから無理に食べさせようとしないことが大事なの。確かにピーマンを食べるのは身体にとても良いのよ。毎日食べてもいいぐらいだわ。……でも無理強いすると子供の精神に悪影響が出てしまうし、そんなことしたって美味しいとは感じない。無意識と本能が拒否しているんですもの、口で言ったってそうそう通じないわ。時期を見て食べさせるのが一番よ。あとは料理を工夫して子供の舌を騙す、とか」

 

「で、あれみたいな状況ではどうするんですか?」首を傾げてヴィヴィオの方を見るスバル。「現在進行形でなのはさんが困っていますけど」

「うーん、そうねぇ。この場合……親がそれをおいしそうに食べているのを見せつける、ってのがオーソドックスなのよね」

「じゃあ、今はなのはさんが食べてあげるしか方法はないわけですね」

「別に親しい人なら誰でも──そうだわ」

「?」

「雪風に食べてもらえばいいのよ」

 

 ヴィヴィオは確かに高町なのはに懐いてはいる。しかし、ほぼ大人である彼女がピーマンをおいしそうに食べたところで、ヴィヴィオはそれに共感することはあまりないだろう。しかし、ヴィヴィオと見た目年齢が近い雪風がそれを行えば、強い共感と良い感じの対抗心を生み出すことができるかもしれない。すなわち『雪風ができたのだから、私でもできるはず』という心理状況を作り出すのだ。

 

 エディスは胸ポケットからメモとボールペンを取り出すと、通常英語ではなくFAF英語で文章を書き始めた。スバルとティアナはその様子を覗き込むが、FAF英語はスペルも筆記体もミッドチルダ英語と異なるため二人には解読できない。

 

『雪風、ヴィヴィオの代わりにピーマンを食べてあげなさい。なるべくおいしそうに』

 

 その一文を書いたメモを一枚ちぎって、ヴィヴィオの隣に座る雪風の方へさりげなく向ける。雪風は目が良いからこの距離からでも充分見えるはずだ。

 雪風がそのメッセージに気が付いたのはフォス大尉がそれを掲げてから5秒ほど経った時だった。雪風はその指令をまじまじと見つめた後、小さく首を振った。横に。どうやらこの一文は雪風に命令として扱ってもらえなかったようだ。あのピーマンを食べる必要があるのはヴィヴィオの方で、自分には関係ない。命令するのであれば目的を明確にするべきだ、という理屈だ。

 

 それを見たフォス大尉はすかさずそのメモの先頭に追加の文章を記す。雪風は理屈の塊だ。ならば同じように理屈をこねて反論できなくしてしまえばいい。

 

『こちらフォス大尉、緊急。長期的視野におけるヴィヴィオの食生活改善、および健康状態の維持のため、B-503雪風に対し協力を要請する』

 

 この自分は特殊戦軍医ではあるが、シャマルと共に六課の隊員達の健康管理を担っている。六課に協力することは現段階において対ジャム戦につながる。これはその仕事の一巻であり、雪風の協力を必要とするものである。──フォス大尉はこの一文にそういった意味を含ませていた。

 

 そうして再びそのメモを雪風に提示する。雪風はその文章を見て少しだけ驚くような表情をした後、無表情になって、自身のフォークでヴィヴィオのオムライスに添えられたピーマンを突き刺し、そのまま己の口に運んだ。

 

「あ、雪風ちゃん」虚をつかれたような声色でなのは。

「ユキおねえちゃん、ピーマン平気なの?」雪風が平然とピーマンを食べるのを見て驚いているヴィヴィオ。彼女は雪風のことをユキおねえちゃん、と呼んでいた。日本語に慣れていない彼女にユキカゼという単語は独特で発音しづらかった。

 

 その二人を無視して、雪風は口の中のピーマンを良く噛んで、無表情ながらまるでその味を楽しんでいるかのような仕草を見せていた。旨みに頬が落ちそうになる感覚までも伝わってきそうなほどだった。迫真の演技だ、とフォス大尉は思った。ピーマン好きな人間でもあそこまでおいしそうに食べたりする者は少ないだろう。

 

「ほら、雪風はピーマン平気だよ?」フェイトがすかさずフォローを入れる。「次はヴィヴィオも食べてみよう? 一口でいいから」

「う~」嫌いなはずのピーマンを食べてもらったというのに、ヴィヴィオは悔しそうに唸っていた。

 

 

 フォス大尉は三人がそうやって会話をしている隙に、雪風が無言でコップの中の水を一気飲みしているのを見て、思わず吹き出しそうになっていた。まるで口の中の苦味を全て胃に流し込むような動作だった。あそこまで人間臭い行動をとった雪風の姿は久々に見る。よっぽど苦かったのだろう。

 

 そしてこちらのテーブルのティアナとスバルも口元を緩めているのがすぐわかった。

 

 三人はアイコンタクトで、各々が思っていることを共有した。

 

 そういえば雪風もピーマン嫌いだったのだ、と。

 

 

 

 

 

 これで全部だろうか。零は掃除用具をロッカーにしまいながらため息をついた。こんな数のトイレを一度に掃除したのは高校以来ではないだろうか。もう十年以上昔だ。

 

「やっと終わったな」用具室のドアからザフィーラの声。狼の姿で。「少々手を抜いていたようにも思えたが……まあ及第点といったところだろうか」

「さすが狼。鼻が利くんだな」

「汚れも洗剤の臭いも狼には強すぎる」狼形態から人間形態になるザフィーラ。「お前がちゃんと掃除したかどうかをチェックしろだなんて。主もひどい仕事をくれたものだ。鼻がおかしくなりそうだった」

「六課に男は少ないからな」軽く同情しながら零。ヴァイスではチェックに手心を加えるかもしれないし、はやての補佐官であるグリフィスにこんな仕事を押し付けるのは不適当だ。そういうわけでザフィーラに白羽の矢が立ったわけだ。

 

「だが、意外だった」

「なにが?」

「お前がちゃんとトイレ掃除をやった、ということだ」肩をすくめるザフィーラ。「てっきりすっぽかすと思っていた」

 

 始末書書かされるよりはマシだ、と零はため息混じりに言う。「おれはここを追い出されるわけにはいかないし、そもそも言葉では女に敵わないさ。男が勝っているのは腕っぷし程度だろう。だが暴力を振るうわけにもいかない。うまく言葉で説き伏せたとしても、今度は感情を爆発されてしまうかもしれない。特に八神はやてみたいな女は厄介だ。言葉を使ったやり取りに慣れている。……シグナムくらいなら良かったんだが」

 

「だから渋々従った、か。下手に刺激しないように」遠回しにシグナムの単純さを示唆され、笑いをこらえるようなザフィーラ。「まあ怪我人に始末書を書かせようとした主にも非が無いわけではない。書類仕事でもお前は処理が早いから、簡単に終わるとでも思っていたんだろう」

「おれは文官じゃない。肉体労働の方がまだいい」

「俺なんて武官どころか狼だ」

「フムン」

 

 掃除用具を仕舞い込んだ零は近くの水道で手を洗って、ザフィーラと共に男性用更衣室に向かう。さすがに零も一張羅でトイレ掃除しようとするほどではなかった。今着ているのは汚れても良いジャージだ。着替えはザフィーラが持っていてくれた。

 

「今頃、主はお前がサボった報告書を書くのに苦労しているだろう」制服が入った鞄を渡しながらザフィーラ。「隊長室には近づかない方が身のためだ。どやされるか、手伝わされるはずだ。昼食会が終わらないうちに着替えて雪風の所に行けばいい。彼女一人で放っておくのは心配だろう」

「雪風はガキじゃないぜ」

「違う。雪風が危険にさらされるのではなく、雪風が危険を振りまく可能性があるということだ」

 

 少しばかり驚く表情で零はザフィーラの顔を見やった。するとザフィーラは憮然とした表情のまま、狼の形状をしたその耳で周囲に誰もいないことを確認しつつ、言った。

 

「彼女はロスト・ロギアより危険な存在かもしれない、と俺は思っているよ」

 

 へえ、と零はザフィーラの観察眼に感心した。こいつは理解しているようだ。雪風の危険さを、その獰猛さを。狼ゆえ野生の勘が効くのか、それともヴォルケンリッターという人工知性体であるがゆえに同じ人工知性体の本質に気づきやすいのか。

 前者ならキャロが連れているフリードリッヒも雪風の力に気づいている可能性があるが、後者であるなら他のヴォルケンリッターのメンバーやインテリジェントデバイス達もそれに気づいていることになる。

 

「いつごろからだ」零はとっさに訊いていた。

「何がだ?」

「彼女の知性体としての性質に、だ。いつごろから彼女が異質な存在だと思い始めた? 昨日今日ってわけではないだろう」

「知性体としての本質……というのは俺には理解できないが、そうだな」思い出そうとするように腕を組むザフィーラ。「最初に会った時から、こいつは凄まじいやつだと感じてはいたな。相対するだけで膚がピリピリする。反撃の準備をしろ、と脊髄が反応してしまうくらいだ。強い魔力を持っているというのもそうだが、彼女の存在が、凄まじいと思ったんだ」

 

 いい線を行っている、と零は思った。ザフィーラは続けた。

 

「守護獣として長く戦ってきたが、あそこまで純粋な闘争本能のニオイは俺も初めて嗅いだ。剣の切っ先を喉元に突きつけられているような存在感さ。確かに彼女の見た目は可憐な少女だろう。絶世の美少女だ。──だがアレの中身はまさしく『戦闘』だ。それしかないんだ。戦う、という概念が実体化したら雪風みたいになるんじゃないか、と今なら思える。他の奴らが──主を含めてだが……雪風を前にして平然としていられるのが俺には信じられない。あれは周囲の存在全てをいつでも殺しにかかろうとする目だ。野獣だよ。いつこの首を噛みちぎられるのかと思うと、正気じゃいられない」

 

「他の奴、というのはあれか? お前達の言う守護騎士(ヴォルケンリッター)とやらも含まれるのか?」

「いいや、シグナムもヴィータも大なり小なり雪風の異質さを感じ取っていると思う。リィンフォースは、まだ製作されて日が浅いし、血で血を洗うような戦いを経験していないからなんともないのかもな」

「シャマルは?」

「雪風の異質さに驚いたあまり、頭のネジが10本ほどまとめて飛んだとしか思えん」

 

「フムン」零は一瞬、シャマルの奇行の数々をその説明で納得しようかと考えた。

 

「たぶん……これはあくまで推測だが、俺が雪風のことを恐ろしいと思うのは、雪風と俺達ヴォルケンリッターは近い存在だからなのかもしれない」

「どういうことだ」

「戦うために作られた存在、ということだ」ザフィーラは己の掌を見つめる。「今の俺達は確かに自我を持っているし、感情も持っている。任務と関係のないことを考えたりもするし、テレビのコメディを見て面白いと思うことだってある。……だが最初から今のような状態だったわけではない。作られた当初は、今の主に会うずっと昔は無感情で、それこそ戦闘マシンみたいだった。長い時間と奇跡みたいな過程を経て今のような状態になったんだ」

 

 どこか遠くを見つめるような目つきだった。零はヴォルケンリッター達がかなり長い時間を過ごしてきていることを知っていた。きっとそれを思い出しているのだろう。遠い過去を。

 

「最初はあんたも」零は立ち止まって言った。「戦闘知性体に近い存在だった。戦闘に純粋特化した知性体だ。雪風なんかがその代表だ。あんた達も、そうだった。──だが人間とコミュニケーションすることを念頭に置かれて製作されたために、人間に近い思考アーキティクチャを持つよう設定されたんだ。それが、あんたの言う長い時間経過の中で様々な刺激を受けたことで、奇跡的に感情に近いモノを再現するようになったんだ。人間の言動を理解するために設けられたシミュレーションプログラム領域を使って、感情もシミュレートできたんじゃないかな。それがいつしか単純な再現から本格的な感情の発露へとつながったんだろう」

 

「言動をシミュレート……なるほど。相手の言うことを理解するには、相手と同じ思考回路を自分の中でも再現しないといけないからな」

「お前達自身がどれだけ無感情に作られたとしても、それを使役するのは感情を持つ人間だ。その感情を理解できなければコミュニケーションの上で不都合が生じるだろう。最初から感情を再現する機能が組み込まれていたのか、それとも後天的に獲得したのかは知らないが、あんた達はその機能を使って感情を再現しているんだ」

「他人が本当に、自分と同じように感情や感性を持っているのかなんてのはわからない。他人から見たら、俺の持つ感情は感情とは呼べないモノなのかもしれないということだな」

「哲学的ゾンビというやつだ。もしかしたら自分以外の人間には感情がなくて、ただ機械的に反応しているだけなのかもしれない、ゾンビみたいなやつなのかもしれない、という概念だ。おれも、あんたが本当に感情と呼べるものを持っているのかなんてのはわからない」

 

「逆もまたしかり、だな。他人が自分と同じようにモノを感じて考えていると思うのは錯覚だ。わかるのは自分の気持ちだけだろう」

「そう。だから、あんたが感情を持っているかなんてことは他人には確かめようがない。重要なのはあんたが『他人から見た場合、感情であると判断されうる』反応をしているということだ。他者からはそれしか理解することはできない。人間もそうだ。それしかない」

「知性も、か」

「その通りだ。つまりあんたが感情と知性を持っていると確信できるのは、あんた以外に誰もいない。あんたが感情を不必要だと思うなら、それを感情だと思わなければいい。他人はそれに文句をつける権利はない」

 

 ザフィーラは少し考えるような表情をした後、零の瞳をまっすぐ見て口を開く。

 

「俺は、感情があって、幸せだと思う。幸せだと思うってことは、俺には俺なりの感情があるんだと思う。どうどうめぐりだが、そう考えた方が俺には合っているよ。我が主、八神はやてのもとにいるのは、幸せだ」

 

「そんなのは好きにすればいい。それはあんたの権利だ。……しかし、あんたが雪風のことを近い存在だと思うのなら、雪風もそう思っている可能があるってことだ」

「なんだと?」いきなりの話に驚くザフィーラ。

 

「さっきも言ったように、あんたと雪風は思考のアーキティクチャが近い知性体同士である可能性が出てきたわけだ」

「そうだ。近い存在だからその本質を感じ取れる。理性で感じ取るか本能で感じ取るのかはわからんが、要するに共感しやすいんだな。歳が近いと共感しやすいのと同じように」

「雪風があんたのことを『己に近い存在である』と認識しているなら、あんたのことを良く理解できるんじゃないか? つまり雪風は人間が考えていることを読み取るよりも、あんたが考えていることを読み取る方が簡単なのかもしれない」

「再現(シミュレート)しやすいんだな」

 

「正直言って、あんた達と雪風の出会い方は最悪だ。あんた達からすれば自分の主を傷つけようとしたわけだから当然かもしれないが、雪風からすれば敵意を向けられたのと同じだ」

「雪風はその敵意を、他の人間からのそれよりも強く感じとってしまった可能性があるのか。雪風は他の人間より俺達ヴォルケンリッターの考えを理解する方が得意で、敵意を向けているか否かというのが他の人間のそれよりもわかりやすいかもしれないとお前は言いたいんだな。確かにシャマルを別にすれば、雪風は俺達のことを嫌っているな、未だに」

 

 犬好きな人間に対して犬は尻尾を振って甘えるが、犬嫌いな人間には吠える。犬や猫などの動物は向けられる好意には好意を、敵意には同じく敵意を向ける。雪風が敵意を向けるのはそれとほぼ同じ原理だ。

 

 零は己の頭の中で、雪風が可愛らしい犬耳を付け、甘えるようにふわふわした尻尾を振っている光景を想像し、少しばかりひらめいた。

 

「雪風がシャマルに対しておとなしくしている理由がわかったかもしれん」

「なに?」

「シャマルが雪風に対し初対面で強烈な好意を向けたとするなら、雪風はそれを他の人間のものより敏感に感じとったということになる。初対面で敵意を向けてくる相手は間違いなく敵だが、初対面でいきなり好意をむけられたとなると敵なのか味方なのか判断できない。こちらのことを知らないはずなのに、どうしてこんな好意を向けてくるのだろうってな。雪風は混乱したんだ」

 

「その仮定が正しいとするなら」はたと気づき、まるで後悔でもするかのようにザフィーラが己の額に手をやる。「シャマルは雪風が敵味方の判断をする間もなく、雪風の持っていた『敵意を向ける』という行為を封じてしまったわけだ」

「そうなるな」

「シャマルのやつ、雪風の敵意を初対面で封印して、混乱させて、挙句の果てにその混乱に乗じ、己の欲望に任せて着せ替えさせるだの化粧させるだの好き勝手やっていたということなのか。なんてやつだ。考えてやっているならまだしも、これ全部意識しないでやっているとしたら、あいつ──」

「ヴォルケンリッターの中で最も戦闘知性体らしいのがシャマルであるという可能性が出てくるわけだ。いや、戦闘知性体というよりは、変態知性体だろう」

「ひどい話だ」

「まったくだ」

 

 二人は、雪風に頬ずりしながらだらしない笑みを浮かべるシャマルの姿を想像し、どちらともなくため息をついた。

 

 

 

 

 

「ウェヒヒ。雪風ちゃん、すっごくやわらかーい」すりすりと雪風の頬に自分の頬を擦り付けながらシャマルが締まりのない声で言う。食事を終えた彼女は、なのはと雪風の間に割り込み雪風を抱きしめる格好となっていた。

 

「マシュマロみたい。食べちゃいたいわぁ」

 

 彼女は顔をいったん離してから雪風の頬に口を付け、愛おしむように軽く吸い始めた。するとそれを見ていたひとりの少女が席を立って、そこへ駆け寄る。

 

「ずるーい! ヴィヴィオもちゅーするー!」

 

 そう宣言したヴィヴィオもシャマルのマネをするように、雪風の反対側の頬に唇を押し当てた。幼いヴィヴィオの唇と雪風の白い頬がむにむにと押し合う。雪風は二人から頬にキスされてどうしていいのかわからないように困惑した表情を浮かべていた。

 

「ほうほう。そやったら私が雪ちゃんの唇を──」

「はやて、それ実行したら絶交だからね」頬を赤く染め己の唇を不気味に突き出しながら忍び寄っていた八神はやての顔前に、自身の手の平でストップをかけるフェイト。彼女の手の平にはやての唇が一瞬だけ接触する。

「うー。なんでや! ようやっと書類との格闘が終わったっちゅうのに、雪ちゃんの唇くらいええやんか! 私も雪ちゃんの唇ちゅーちゅーしてお持ち帰りしたいんや!」

「不潔」

「フェイトちゃんのいけずー」

 

 

「……フムン」

「すまん。主の性格は昔からずっとあんな感じでな」

「レズか?」

「女の豊かな胸が好きだとかなんだとか言ってはいたが……。たぶん、普通だと思う」

「フェアリィにもホモはいたしレズビアンだっていたが、あんなアホみたいなのは初めて見る」

「言わないでやってくれ。あれでも優秀だから二佐の階級なんだ」

「ブッカー少佐が聞いたら泣くな」

 

「こらー、そこ聞こえとるよー。誰がアホや!」

「あんた以外に誰がいるというんだ」はやての怒声にも平然と答える零。「おれは掃除が終わったから、報告に来ただけだ」

「ううう。否定せんとスル―しおった。やりおるわ、深井さん」

「何がだ」

「ま、ええわ」軽くため息をつくはやて。「深井さんとザフィーラもなんか食べるんか?」

「おれはいい。後で食べる。腹がまだ減っていない」

「俺も結構だ。鼻の調子がおかしくて食べる気にならない」ザフィーラが狼の形態に変身しながら答える。

 

 聞いたところによると、皆の前では威圧感のない狼姿の方が余計な気づかいをしなくて済むらしい。つまり今は疲れているのだ、と零はその様子から判断した。はやてもザフィーラの様子からそれを察したようだった。

 

「深井さんは相変わらず協調性皆無ですぅ」

 

 リィンフォースがはやての耳元でそう言っているのが聞こえた。本人はこちらに聞こえないよう話しているつもりなんだろうが、だだ漏れだ。しかし八神はやてだけでなくリィンフォースにも報告書を押し付けてしまった形になっていたので、零は聞き流すことにした。このくらいの陰口は許すべきなのだろう。フェアリィでも慣れている。

 

「罰はこれで終わりなんだろう? 今日は休ませてもらう」

「了解。……ああせやけど、聖王教会から呼び出しかかっとんのや」

「あんただけで行けばいいだろう」

「ちゃうちゃう。深井さんと雪ちゃんが、や」

 

 なに? と零は自分の部屋に行こうとしていた脚を止める。あの聖王教会から呼び出し? このおれと、雪風を指名して?

 

「まあ、明日なんやけどな。聖王教会の騎士、カリム・グラシアから直々の呼び出しや」

「なんだ? カリム? だれだ」

 

 零はカリム・グラシアという名前をどこかで聞いたか見たような気がして、自身の記憶に探りを入れる。

 そういえば今まで見てきた報告書のいくつかにそのカリムという女性の名前があった気がする。六課から上層部へ提出されるような報告書なんかだ。何度か見た名前であるから少しだけ印象に残っている。書類上でよく目にするということは、六課に関わりのある人間なのだろう。

 

 そんな奴からいったいなんの呼び出しだというのだ。聖王病院でシャッハとかいう女とやらかしたことで何か言われるのだろうか。しかしあれは完全に向こうが悪いのであって、特にこれといった被害を生じさせていない自分は何の非もない。言いがかりだ。軍法会議と同じで、そういった呼び出しではたいていこちらにはどうでもいいことをクドクド言われるに決まっているのだ。地位の高い人間ほどくだらないことをする。

 

「なんで聖王教会の騎士とやらの呼び出しをおれが受けなくてはならないんだ」零は言ってやる。「おれが協力しているのは六課だ。教会の意思に従う義務はない」

「そう言うな。騎士カリムは管理局の理事官でもあるんだ」ザフィーラが口を挟む。「聖王教会と教会騎士団は、ロスト・ロギアの保守管理もしているから管理局と縁が深くてな。特にカリム・グラシアはこの機動六課創設の後援者でもあるんだ」

「えらいのか」

「まあな。詳しくは会って話せばわかると思うが、彼女にはとある特殊技能(レアスキル)が備わっていてな、それが実に役に立つんだ。管理局もそれを頼りにしている部分がある」ザフィーラは視線を雪風の方に向ける。「それと今日雪風が戦ったっていうシャッハ・ヌエラは彼女の秘書みたいなもんだ」

 

 よりにもよってか、と零は内心で舌打ちした。向こう側の不手際とはいえ、自分の秘書を縛られて拘束されたのだから文句の一つも言いたくなるだろう。

 

「つまり、苦情の申し立てか。くだらない」

「どうしてそうなるんや」はやてが呆れたように言う。「苦情だとかそういうんやないで。向こうさんが単純に会見を申し込んできてるんや。二人に大事な話があるんやと。ちゃんとしきたりに乗っ取っとる会見申込みや。深井さんの言う、雪ちゃんとシャッハさんの話はもう解決したことなんやろ?」

「……」

「それに、カリムはそないな苦情でいちいち呼び出すような人やない」

「へえ」知り合いなのか、と零は思ったが口には出さなかった。

 

「予定の時間は明日の12時。お昼や。話の内容はともかく、ご飯の一つや二つは出ると思うで。それを楽しみにしとったらええんとちゃう?」

「おれと雪風以外にだれか行くのか?」

「ん~? 私とフェイトちゃんとなのはちゃんがついていくで」

「はやてちゃん。私は?」とシャマル。

「お留守番。マジメな会見やからな」

 

 猛烈に落胆するシャマルだが、零も八神はやてもそれを無視した。確かに大事な話の最中に雪風に頬ずりしていたら色々と問題があるだろう。

 

「おもしろそうね。私もついて行っていい?」少し離れたテーブルで話を聞いていたフォス大尉が挙手しながら言う。

「エディスさんも?」となのは。

「そのカリムって人に興味が湧いたわ。雪風はともかく深井中尉に会おうなんて、よっぽど変わった趣味嗜好があるに決まっているわ。その人の精神がまともなのか、診断しなくちゃ」

「うわぁ」カリムにではなく零に向けられた皮肉に顔が引きつるフェイト。

「まったくきみは良い研究者だ」皮肉っぽく零。

「あら、ありがとう。──で、行っていいの? だめなの?」

「行きたい人は明日の11時、六課の駐車場に集合ですぅ」リィンフォースがフォス大尉に答える。「ちゃんと正装で来るんですよ?」

「了解したわ」

 

 遠足じゃないんだぞと零はエディスを睨むが、彼女は彼の視線など気にも留めないように悠々と食後の紅茶を楽しんでいた。

 零は他人に聞こえないような声で舌打ちをしようとしたが、近くに狼姿のザフィーラがいたので、やめた。

 

 

 

 

 

「ねえ、雪風ちゃん」

 

 

 昼食会を終えた高町なのはは、一人廊下を歩いている雪風に声をかけた。

 

「雪風ちゃんはどうして、深井さんについていくの?」

 

 聖王病院の中庭で聞いた深井零の『雪風のことは兵器だと思った方が良い』という言葉。あれが深井零の雪風に対する真意なのだとしたら、自分はそれをどうにかしなければならない、となのはは思っていた。

 

 しかし、だ。もしかしたらあれは単なる比喩表現であったのかもしれないし、そもそも彼らの関係を改善するにあたっては雪風本人の意思も確認しなければならない。だから、ひとまずは雪風が深井零という人間のことをどう考えているのか尋ねてみることにした。

 

 なのはの前を歩いていた雪風は立ち止まると、チラリとなのはの方を見た後、彼女に背を向けたまま口を開く。

 

「……あなたには関係のないこと」

「深井さんが強いから?」

 

 深井零の能力は確かに優秀だ。今まで魔法に触れたことが無かったにも関わらず、雪風のサポートによっていきなりエース級の実力を手にし、しかもその力を冷静かつ効果的に使いこなしている。戦闘機パイロットがこんな短期間で魔導師として実戦参加可能になるとはなのは自身、思ってもいなかった。深井零の戦闘勘をランク付けするとしたらSランクに相当するだろう。

 だから、雪風は深井零に付き従うのかとなのはは思っていた。すなわち深井零が優秀だから、雪風は彼を頼りにしているのか、と。

 

「その表現は正確ではない」雪風は向き直ると、なのはの推測を否定する。「私は深井中尉と共に戦い、彼と共に存在する。彼がいるから、私がいる。私がいるから、彼がいる。ただそれだけのこと」

「じゃあ、深井さんが強かろうが弱かろうが、関係ないってこと?」

「違う。私が今言ったことは、彼が優秀であることが前提である。彼が優秀であり、想定されうる最適な判断を下し続ける限り、私は彼と共に戦う」

 

 そう語る雪風の瞳はとてもまっすぐで、研ぎ澄まされた日本刀にも似た凛とした輝きがその奥からにじみ出ていた。それを見たなのはは思わず身震いする。迷いなど欠片もない、どこまでも無垢で、そして冷徹な瞳。その鮮やかさからは一種、無機的な存在感を覚えてしまう。まるで、人形。

 

 人形、という己が抱いた印象を振り払うようになのはは雪風の言ったことを反芻する。『彼が優秀である限り、私は彼に付き従う』ということは、彼が優秀でなくなったら雪風は彼を捨てるというのだろうか。

 

 そこまでして。そこまでして何のために戦うというのだろう。深井零という唯一無二の相棒を捨ててまで。雪風は何を成すために戦うというのだ。

 

 もしかしたら、自分はとんだ勘違いをしていたのかもしれない。今までは深井零と雪風の関係はもっと暖かくて優しいものであると考えていたが、それは違うのかもしれない。特に、雪風は深井零に対してこれといった感情を抱いていない可能性もある。

 

「じゃあ、雪風ちゃんは深井さんが戦えなくなったら──例えば植物状態になったとしたら、深井さんを見捨てるの?」

 

 嘘であってほしい。そんな恐ろしい考え方で深井零に接していたということが事実だとするなら、自分は今までのように雪風と接することができなくなってしまう。半ば恐怖を感じながら問うなのは。

 

 雪風は首を横に振ることでそれを否定した。

 

「仮に深井中尉が植物状態になった場合、私は彼を覚醒状態に移行させるべく手段を尽くす。彼が最高性能を発揮できるよう、想定されうる全ての手段を私は実行する」

「……?」見捨てはしない、という雪風の解答になのはは思わず安堵の息をつくが、それと同時に雪風の発言の矛盾点に気づき、首を傾げる。

 

 先ほど雪風は『深井中尉が優秀である限りついていく』と言ったはずだ。それなのに雪風は今、戦えなくなった深井零を見捨てない、という反対の言葉を出した。後者の方が自分にとっては嬉しい意見ではある。だがこれは矛盾ではないだろうか。

 

 なのはが感じている疑問を感じ取ったのか、それとも自分の言ったことがおかしいと自分で気づいたのか、先の解答から5秒ほど間を開けてから雪風がそれを言い直す。

 

「先の発言を訂正する。私は、深井零が深井零である限り、彼と共にある」

「深井さんが、深井さんである限り……?」

「そう。彼が、深井零という人間である限り、私は彼と共に戦う」

 

 

 それは──彼が深井零である以上、彼は常に優秀である、と。そういうことなのだろうか。先の雪風の言葉と合わせるとそういう意味になる。なのはは雪風の言葉に静かな驚きを覚えた。すごい。つまり雪風は、深井中尉が優秀であることを前提として彼と接しているのだ。ある意味では微笑ましいことだが、これは一種、彼に対する全面的な信頼だ。

 

 人間はときおり判断を間違える生き物だ。一生のうちに一度も間違いを犯さない人間などありえない。時として、この人は優秀でない、と他人から判断されうるミスをしてしまうことだってあるだろう。

 

 それなのに雪風は、深井零がいかような判断を下そうとも、彼は常に優秀であると言っているのだ。例え『彼の判断』が間違っていたとして、それに自分が気づいてその判断に逆らい、彼の判断を意味のないもの、優秀でないものだと判断したとしても『彼そのもの』は常に優秀であり、そのことは変わらない、と。彼が彼以外のものにならない限りは。

 

 これは盲目的な信頼ではない。雪風は本当に、心の底から深井零を信じているのだ。なのははそれに気づき、胸の奥に広がる暖かいものを感じた。深井零と雪風の関係はこの自分から見たら変わっているのかもしれないが、彼らはいかなる形であれお互いを信じ合う関係であって、決してひどい関係などではない。信じ合っている者同士が築く関係は、敵であれ味方であれ素晴らしいものとなるからだ。それはこの自分が身を持って体験してきた。

 

 どうして雪風がそこまで深井零のことを全面的に信じているのかはわからない。しかしなのはは『少なくとも雪風は深井零のことを信頼しているし、深井零も雪風に信頼されうる言動をとっている』という自分なりの結論を心の中に刻んだ。

 

 これなら、大丈夫なのかもしれない。なのはは思う。冷徹な性格の雪風とはいえ、自らを心無い兵器として扱う人間のことを全面的に信じたりはしないだろう。深井零のあの言葉は、シャッハ・ヌエラに対する比喩的な警告だったのかもしれない。

 

 どうやら雪風の側から彼らに干渉する必要はなさそうだ。これで万が一、深井零が雪風に対し歪んだ考えを持っているとしても、その時は砲撃をぶち込んででも彼の考えを改めさせればよいことであって、今の雪風に水を差すようなことは必要ないのだ。ディバインバスターを十発も叩き込めばあの深井零とはいえ改心するだろう。

 

 しかし深井零が深井零でなくなる時とは、どういうことだろう。そうなった時雪風は彼を見捨てるというが、それは単純に言えば彼の性格が変わってしまったら見捨てる、ということか。

 

「でも雪風ちゃんは、どうしても、どうやっても深井さんを見捨てなくちゃいけない状況になったら、深井さんを見捨てるの?」

「いかなる手段においても深井零を彼たらしめられない事態に陥った場合、という仮定の上でなら、肯定する」凛として雪風は答えた。

 

 むう、となのはは悩む。どうしても深井零を助けられないという仮定を付けた上で聞いたのだが、雪風はこれをなんのためらいもなく肯定してしまった。せめて『深井零を助けることをあきらめない』という答えだったらまだ納得できたし感動もしただろう。

 これはもしかしたら、雪風の方が深井零に対して冷酷な態度をとっているのかもしれない。それは考えたくないが、雪風の言動からしてそれもあり得ることだ。

 

 仮にそうだとしたら、先ほど雪風が言った彼に対する全面的な信頼と矛盾することにならないだろうか。心の底から信じているのに、使えなくなったら見捨てる。これはおかしい。少なくとも自分の中の論理ではこれは破綻している。

 雪風は嘘をつかないし、常に論理的で賢い。それなのにどうしてこんな破綻した論理が導き出せてしまうのだろう。自分の頭がおかしいのだろうか。それともこの自分がまだ知らぬ未知の論理形態が存在しているというのだろうか。

 

 しかしいかなる論理段階を経たにしても、今の答えは悲しいものだ。なのはは少しばかり悲しくなった。雪風は、どうして、そこまでして戦う必要があるのだろう。

 

 

「……深井さんを捨ててまで、どうして、何のために戦うの?」なのははしゃがみこみ、雪風の目線の高さに合わせながら聞いた。「ジャムを倒すため?」

「その認識で相違ない。私は、どんな手段を用いてでもジャムを殺す」

「今のところジャムはこのミッドには確認されていないよ。それに、管理局だってバカじゃない。何かこの次元に跳んできたらすぐにわかるはずだよ」

 

 だからそんなに戦うことを意識しなくてもいいんだよ、となのはは語りかけるが、雪風は首を横に振って即座に否定する。

 

「ジャムはすでにこの世界に来ている可能性が高い」

「どうして、わかるの?」なのはは首を傾げる。「雪風ちゃんがそれだけ言うんだから、なにか根拠があるわけでしょ?」

「言語による説明は困難と判断する。この推察は、人間に例えるなら非言語的思考によって行われたものであり、その思考の流れを言語によってトレースすることは、私には難しい」

「えっと……それってただの勘なんじゃないかな。そんなに不安にならなくても──」

 

<勘と当てずっぽうは違いますよ、マスター>待機状態でなのはの首からペンダントとして下がっていたレイジングハートが口を挟む。

「レイジングハート?」

<雪風は当てずっぽうに今の結論を導きだしたわけではない、と私は判断します>

「どういうこと? 雪風ちゃんが、勘じゃないなにかで『ジャムがいる』って判断したなら、それは言葉で説明できるものなんじゃないかな」

<マスターの言うそれは、極めて人間らしい視点からの意見です>

「?」どういうこと、と首を傾げるなのは。

 

<今からそれがどういうことなのか説明します。例えば──雪風は今どこにいますか?>

「え、ここにいるよ。私の目の前」雪風を見て答えるなのは。

<なぜそう言えますか?>

「そんなの──ほら、こうして触れるし、見れるし、雪風ちゃんの声だって聴けるよ?」なのはは雪風の頭を優しく撫でた。珍しく雪風はそれを拒否しなかった。「これじゃあ証明にならないの?」

 

<それが幻でないという確証はありません。もしかしたらその雪風はよくできた幻術魔法で、本物の雪風は自室で昼寝しているのかもしれませんし、ドクター・シャマルのもとで服を着せ替えられて写真撮影されているのかもしれません。あるいはドクター・シャマルと共に入浴中である可能性もあります。マスターの答えはそれらの可能性を全て否定しています。なぜ、そのような結論に至ったのですか? 私に説明してみてください。言葉で。論理的に>

 

「だって、ここにいるでしょ?」なのはは困った顔でもう一度言った。「それ以外に説明しようがないよ。そんな、いちいちどこにいるのかの証明なんてしなくたって、見ればわかるんだもの」

<大変結構な答えです。私もマスターと似たような回答をすると思います>

「どういうこと?」

 

<マスターはマスター自身が感じ取った情報、すなわち触覚、視覚、聴覚を動員してそのような結論を出したわけですが、これ以外でも、マスターが今まで蓄積してきた経験や知識もこの判断に使用されているのです>レイジングハートは、学校の先生のような口調で説明しだす。<つまり『この自分の触覚・視覚・聴覚に異常などない』『自分は幻覚など見ない』『雪風には双子の姉妹などいない』『雪風は幻術魔法を用いない』などいった数多くの知識と経験に基づいた判断をマスターはたった今、したわけです。しかしこれらの知識と経験においても先ほど私がしたような反論をすることは可能です>

 

「でも、そんなことしていたら、何をするにも疑心暗鬼になっちゃうし、いちいち反論していたら頭がパンクちゃうよ」

<その通りです。意識上においてこれら無数の知識経験を総動員して一つの判断を下すというのは全くもって非効率的ですし、現実的ではありません。極端な話、今の証明を限界までやっていたら、足を一回踏み出すだけでも宇宙の年齢を超える時間が必要となるでしょう。しかし、無意識下においては、これらの処理は常に実行されているのです>

「無意識? それって、いつもそんなたくさんのことを、私の脳が処理しているってこと?」

 

<はい。例を挙げるなら、歩行です。マスターたち人間は、意識しなくとも直立二足歩行で安定して移動することができますが、それらの処理はほぼ全て脳と脊髄で行われていることはわかりますね>

「それは、確かに、常識だけど」

<それらの処理を意識的に行うことはできますか? つま先の角度を何秒かけて何度に設定し、足の各指の位置を何度に固定し、どれだけの力を何秒間かければ良いのか、といったことをひたすら考えるのです>

 

 なのははそうやって意識しながら歩いている自分を想像し、首を横に振る。「そんなこといちいち考えていたら、気をとられて転んじゃうよ」

<そうです。すなわちこのようなことは意識上で処理するには不向きな情報処理ということです。ですが、無意識下で行うには非常に簡単な処理ということになります。現にあなたも雪風も、健康な脚を持つ全人類が、歩いている>

「……」

 

<これでもうわかりますね。人間は、常に無意識下においてスーパーコンピュータも発狂してショートしてしまいかねないほど無数の情報処理を行っているわけです。しかし、この無意識下で行われる情報処理はあまりにも莫大すぎて、意識上、すなわち言語として言い表せる形態に変換するというのはあまりにも非現実的なのです。私でも先の『雪風はどこにいるか』という質問を厳格に、論理的に答えようとしたらとんでもない時間がかかってしまうでしょう。ですから、マスターの答えは模範解答と言えます>

 

「なんとなくわかったけど。……それが、雪風ちゃんの話とどうつながるわけ?」

 

<それを今から説明します。機械的な言い方をするのであれば、雪風は『ジャムがこの世界にいる』という計算結果そのものについては確信を持って、正しいと主張できるのですが、その際に雪風の脳内で行われた計算内容を人間にわかる言葉で説明するのは不可能ではありませんが、先ほどの説明でわかった通り、非常に困難なのです。これは、マスターたち人間における第六感に喩えられるでしょう。無意識野での情報処理でなされる意思決定、すなわち勘を働かせる、という行為です。無数の有機的ニューロンで構成された人間の場合、勘は当たり外れが多く『当てずっぽう』や『適当』という言葉と混同されがちですが、雪風や私達インテリジェントデバイスの場合は違います。当てずっぽうは、ろくな情報処理もせずに『どちらにしようかな、神様の言う通り』などのような非論理的な手段によって行われる意思決定であると私は認識していますが、私のような機械知性体はそのような非論理的情報処理を行うことはありません。雪風についても同じです>

 

「雪風ちゃんが、機械みたいって言いたいの?」なのははむっとして言った。

<雪風の思考は非常に機械的です。恐らく、私よりも>

「……」

 

 言い返せなかった。確かに、雪風の考え方は人間である自分とは全然違う、と思えることがある。

 

「えっと、じゃあ、雪風は、私達が目でものを見て、それがなんであるのかを無意識のうちに判断するのと同じ次元で『ジャムが来ている』ってことを判断したってこと?」

<まさしくその通りです。マスターは理解が早い。『勘』という情報処理は人間なら人間、機械なら機械というように、似たような情報処理システム間において強く働きます。マスターは、初対面の人間であってもなんとなくその気持ちを推定することができますよね>

「誰かの気持ちを理解することはとても知的、ってレイジングハートが前言っていたやつだね」

<そうです。人間は相手の表情や姿勢、話声からそれらを無意識下で推定するのですが、これは方法は違えど私のような機械知性にもそれが当てはまるのです>

「レイジングハートは、人間よりもバルディッシュとかインテリジェントデバイスの気持ちを予測する方が簡単ってこと……になるのかな」

<それが、雪風においてもあてはまるのです>

 

 

 ぴたり、となのはの頭の中で最後のピースがはまった。まさか、そんな。ジャムがこの世界にいるということを、雪風がその『勘』によって推定できるということは……。

 

 

「まって、それって……」

<はい。恐らく、ジャムという知性体は雪風と似ている。いえ、我々機械と似た情報処理をする知性体なのかもしれません。だから、雪風はジャムの考えを『勘』で推定すすることができ、どの世界にいるのか、この世界にいるのかを推定することができるのでしょう。だとしたら、筋道が通ります>

 

「機械でできた、宇宙人? もしかしてジャムって、ロボットで、地球人を奴隷にしに攻めてきたんじゃ……」

<単純に、機械で身体を構成された宇宙人というのなら話は違うでしょう>レイジングハートがそれを否定する。<どこかのアニメ映画であったような、地球人を奴隷として見なし労働力として搾取するという行動は、非常に人間的なものであり、機械的なものではありません。領土的野心による侵略もまた同じです。推測ですが、ジャムは、もっと非人間的な目的を持って地球に侵攻してきたのかもしれません>

 

 なんということだろう。なのはは小さく震えた。雪風が機械みたいというのはあまり考えたくなかったが、ジャムが、雪風と似たような存在だなんて。そんな。極端な話、同士討ちという可能性だってあるわけだ。もしかしたら、雪風がこの世界に来てまでもジャムを倒そうと躍起になっているのは、ジャムが雪風の考えを同じように『勘』によって推定してしまい、手の内を読まれる可能性があるからだろうか。だとしたら、早く叩かないと危ない。

 

「雪風ちゃんは、どう思っているの? ジャムが機械みたいな存在なのかどうか」早く叩かないと危ないといっても、敵であるジャムがどんな存在で、何の目的で地球侵略を始めたのかを知らなければ対処のしようがない。なのはは手っ取り早く、ジャムを一番知っているであろう雪風に訊くことにした。「ジャムがなんのために攻めてきたのか、わかる?」

 

 

 雪風は首を横に振った。なのははそれを見て落胆したが、その直後の雪風の発言を聞いて、自分とレイジングハートの推測が的を射ていることを間接的に知ることになった。ジャムは、機械的な存在の可能性があり、しかも、その目的を人間が理解することは困難であるのだ、と。

 

 

 雪風はなのはをまっすぐに見つめ、言った。

 

 

「私がそれらを、人間の言語により説明することは困難である」

 

 

 




<あとがき>

 次回、超絶的・急展開!!

 ……にできたらいいなぁ。はたしてそこまで収まり切るかどうか。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。