魔法少女リリカルなのは 妖精の舞う空   作:スカイリィ

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第三十四話 I am that I am

「深井中尉」

 

 天使を思わせる柔らかく澄んだ声を受けて、零は目を覚ました。

 

 拘泥するような眠気のない、心地よい目覚めだった。天国での目覚め、という感じ。

 開いたばかりの目で見る景色は白ばかりだった。まだぼんやりとしていてはっきりしない。

 

「私の姿を視認せよ」

 

 その声とほぼ同じくして、視界を覆っていた薄い膜がはじけ飛ぶように視界がクリアになる。鈴の音のようにやわらかく優しい、しかしはっきりとした刺激が脳へと伝達され、零の意識は急速に覚醒状態へと移行した。

 

 視界いっぱいに広がる美しい少女の顔。雪風がこちらを覗き込むようにして見ている。

 いや覗き込むと言うよりは、この自分の身体に馬乗りになって真正面から顔を近づけているらしい。腹の辺りにわずかな圧迫感を覚えるが、彼女の身体は軽いのでそれほど苦にはならない。

 

 雪風の繊細な両手は零の肩に置かれている。しなやかで小さいその手からは彼女の暖かい体温が伝わってきていた。あたたかい、と零はそのぬくもりで生きていることを実感した。自分も雪風も、生きている。

 

 純白の髪が重力に従って、彼女の頭から無造作に白いシーツの上へと流れていた。ちょうど視界の上下方向を除いた左右を雪風の髪が囲う形になっている。無機質な照明の光がその白銀の流れにほどよくさえぎられて、それが天蓋から降りるシルクのカーテンのように見えた。

 視界が白かったのはこのためだ、と零は納得する。清らかで、美しい、白。天使のような。

 

 彼女がいるということは、ここは天国ではないようだ、と零はぼんやりと思った。雪風は雪風である限りあの世へは行かない。彼女は天使ではなく、不死鳥だ。

 背中に滑らかなシーツの感触と、頭部の枕の感触。ここは、ベッドの上だろうか。

 

「起きた?」首を傾げて訊く雪風。無機質であると同時にどこまでも無垢な蒼瞳が零を見つめる。

 

「……起きたよ」

 

「そう」そう言って雪風は自らの上体をちょっとだけ彼の顔から離し、乱れた髪を手早く整える。そこでようやく零は彼女が白のワンピースを身につけていることを知った。

 

 雪風の安らかで優しい声は最高の目覚めを零の脳に促していた。実際彼は今まで生きてきた中でも最高クラスの心地よい目覚めを感じていたし、それを嬉しいとも思っていた。このまま死んでもいいかもしれないとまで考えてしまうが、それを口にすると彼女に愛想を尽かされかねないので言わなかった。

 

 雪風は美しい。零の手は自然と彼女の髪に触れていた。粉雪よりも軽やかで、絹糸よりも繊細な髪が手の中で流れる。心地よい。ずっと触れていたくなる。まさに天使の髪。いや妖精の、髪だ。風のように軽やかな、雪風の髪。

 

 雪風はそんな彼の手を取ると、互いの視線を交りあわせ、静かに、滑らかに口を開いた。零は彼女の小さく愛らしい唇の間から、聴く者を魅了する天使の歌声が聞こえてくるような気がして、その瑞々しい唇をしっかりと見つめていた。

 

「3の2乗から7を引いた値は?」

「2だ」

 

「あなたの身長をフィート単位で答えよ」

「5フィート10インチだ。メートル単位では179センチ」

「高町なのは一等空尉の所有するデバイスの名前は?」

「レイジングハート」

「イタリア共和国の首都は?」

「ローマ」

「エディス・フォス大尉のスリーサイズを上から順に述べよ」

「知らん」

 

「……あなたの脳は正常であると私は判断する」

「そうか」

 

 零は手を伸ばして、雪風の頭を優しく撫でてやった。雪風は少しくすぐったそうにするが、同時に気持ちよさそうに目を細めて彼の大きな手のひらを受け入れていた。

 

 いつも通りの雪風だな、と思って、零は安堵のため息をついた。

 

 

 

 

 

「ここは、どこだ」上体を起こして周囲を見渡す零。やはりどこかの病室のようだ。白い壁と天井。白いベッドとカーテン。わずかな消毒液の匂い。「六課のメディカルルームではないな」

 

「聖王病院の病室」雪風は零の身体から降りて、彼の隣にちょこんと座りこんだ。白いシーツの上に座るだけでもその姿は絵になった。ひざ裏まで届く白い髪が、同じく白いシーツの上に広がって、キラキラと輝く。

「聖王、病院?」

「あなたは失神していた」雪風は淡々とした報告口調で言った。「敵の攻撃より発生した急激な圧力上昇によって、あなたとカールは失神状態になった。あなたは地上へ落下する前に高町なのはによって救助を受け、カールはフェイト・T・ハラオウンの救助を受けた。救助後、中尉もカールも目を覚まさなかったため、八神はやての判断により六課の保護下にあった少女と共に聖王病院へ搬送されることになった」

 

 ああ、そうか。零は納得するように思い出す。自分達を狙ってきた犯人二人組をいいところまで追いつめたものの、煙幕とチャフをばらまかれた挙句に爆発を引き起こされて逃げられたのだ。

 

 

 あの爆発は恐らく、アルミの粉を使った粉塵爆発だろう。かなり強烈だった。どのような原理かはわからないが、犯人二人はばらまいたチャフそのものを遠隔的に爆裂させて、煙幕の中に仕込んだアルミニウム粉末に着火したのだ。チャフを爆裂させたのはおおかたそういう類の魔法だろう。爆裂魔法とでも呼ぶべきか。爆発する着前に高エネルギー反応が見られたからそれが兆候だったのだ。カールと雪風の警告が無かったら死んでいた。

 

 魔法ではなく、電子レンジにアルミホイルを入れた時と同じようにマイクロ波でアルミ箔から火花を散らすということもできなくはないが、もしどこかから照射を受けていたのなら雪風が気づいていたはずだし、それほどの出力があるならメーザーとして直接照射した方が効果的だ。

 

 粉塵爆発は粉塵の濃度が濃すぎても薄すぎても燃焼が伝播できないほど不安定なものだが、複数箇所で同時に着火させてしまえばもはや関係なくなる。伝播しないのなら全部まとめて火をつけてしまえば問題ない、という理屈だ。本来爆発というのは一瞬のうちにまとめて火がつくことで起こるわけなのだから。あるいはアルミニウム粉末はただの燃焼補助で、煙幕の中に含まれていた他の物質がメインの燃焼剤となった可能性もある。

 

 もし即座に脱出していなかったら、周囲で起きた爆発の圧力によって身体を押しつぶされていたかもしれない。零はそう考えて背筋が凍る思いをする。身体丸ごと爆縮だ。バリアジャケットがあるとはいえ、ただでは済まないだろう。煙幕の端で爆発を受けてこのざまなのだから。チャフを爆発させた魔法だってそれ単体の威力だけで充分破壊的である可能性も否定できない。くそう。なんて奴らだ。

 

「一通りの検査は完了している。あなたの負傷は脳震盪と頬の軽い火傷のみ。バリアジャケットで大きくダメージを軽減されている。後遺症の可能性はゼロに等しい」心の中で悔しがる零をよそに、報告口調で語る雪風。「つまり、敵の捕縛に失敗したものの、あなたは無事に生還した。損害は無いに等しい」

「カールは?」

「下の階の購買で食事中であると思われる。脚の怪我は脱臼であると判明し、すでに治療済」

「タフな猫だ。ゴキブリよりもしぶとい」

「カールのデバイスに記録された敵の人相と、牙および爪に付着していた血液のDNAをもとに、過去の逮捕者のリストをフェイト・T・ハラオウンが洗っている。しかし、今のところ該当者はいないとのこと」

「だろうな」

 

 敵はかなり周到な用意のもとで今回の襲撃を行ったのだ。そのような連中が、すでに顔の割れている者をあのような任務にはつかせないだろう。

 カールのデバイスは確かシルバーバイン、だったか。銀色の首輪型デバイスだ。単純な射撃しか攻撃能力を持たないが、環境探査モードなどといった高度な情報機能を有しているらしい。マタタビというふざけた名前の割には良いデバイスだ。いや、カールにはぴったりかもしれないが。

 

「今回の戦闘において死者は発生していない」だから負けてはいない、と言いたげに雪風。「物的損害はあの周囲のビルの窓ガラスが、急激な圧力変化によって合計18壁面分崩壊しただけ。落下したガラスの破片による怪我人は数十人ほどいるものの、重症者は確認されていない」

「ガラス屋と医者が儲かりそうだ。あと清掃業者か」生きているのだから、負けてはいない。しかし、勝ったわけでもないだろう。零はそう思った。今回の戦いで勝利したのはあの女達と、スカリエッティと、ついでに一部の業者だ。自分達は、勝ってなどいない。

 

「あの女達は、いったい何者なんだ」零は自分に問いかけるようにつぶやいた。砲手の女に掴まれた右手が少し痛む。「魔法を使っていたにしろ、あんな速度で反応するなんて人間とは思えない」

「ジェイル・スカリエッティは人体の改造を得意としている」さらりと雪風が言う。「人体の筋肉や骨格を機械に代替すれば、あのような動作と反応速度を人間が保有することは可能である、と私は思う」

「改造人間か。確かに機械の力でならあれだけの動きを再現することはできるだろうが、正気じゃないな」

「……あの敵は、スカリエッティによる洗脳を受けている、ということ?」

「いや、そうじゃなく……まあ、確かにその可能性もあるだろうな。目つきはしっかりしていたが、まともな目じゃなかった」

 

 機械によって身体機能を向上させたところで、そんなことにどんな意味があるというのだろう。零は雪風の視線を受けながら、思った。確かに機械の身体の方がより速く走れ、より高く跳び、より多く殺すことができるが、それによって改造を受けた本人の人間としての価値が向上するわけではない。所詮は機械の力を借りているだけであって、人間としての存在が向上したわけではない。少し考えればわかる話だ。そんな単純なことに気づかないなんて、スカリエッティは、まともじゃない。

 

 そんな意味で『正気ではない』とスカリエッティのことを称したのだが、雪風にその意図は伝わらなかったらしい。代わりに、あの二人はスカリエッティによる洗脳を受けている可能性を示唆してきた。確かにその考えはある程度は的を射ているとは思った。しかし、自分の言いたかったことではそうではないのだ。それは雪風にとって理解できない概念だったらしい。

 

 零はわずかに落胆しつつも、彼女にとって『人体を機械に置き換える』という行為は論理的に理解できるものなのだと悟って、少し怖くなった。機械の身体なんて、自分は嫌だ。しかし雪風は嫌ではない、と言っている。それがどうしようもなく彼女との隔たりを感じさせた。彼女の人間観は、人間とは違うのだ。機械から見た、人間の姿。

 

「まあいいさ。今はゆっくりさせてもらうとしよう」零は茶を濁すように話題を打ち切った。「雪風、お前も休め」

 

「了解した」

 

 

 雪風はベッドサイドに降り立つと、ベッドの隣に備え付けられた小さな机の引き出しを開けた。

 

「それは?」

 

 そう零は訊くが、雪風は黙って引き出しの中にしまってあった十数枚程度の紙をごそごそと取り出し、彼の隣にぽさっと置いた。

 

「なんだこれは。…レポート用紙?」

「八神はやてから。あなたが起きたら渡すように、と」

 

 差し出された雪風の手には、日本でよく見るような茶色の封筒が握られていた。とりあえずその封筒を受け取る零。封はされていなかった。中に入っていたのは二つ折りにされたメモ用紙だった。開くと横書きで何か書いてあるのが分かった。

 

『深井さんへ』

 

 日本語だ。いったい何年ぶりに読む祖国の文章だろう。その書き出しの下をざっと見れば漢字と、ひらがなと、カタカナ。それら三種の文字が調和のとれた構成で並んでいる。きれいな女文字だ。しかし人間らしい文字のクセもところどころ見受けられる。八神はやての直筆だろう。ちゃんと心がこもっている文字。久しぶりに見る日本語を零は一文字一文字確かめるようにして読んだ。

 

『今回の事件の報告書、忘れないうちにとっとと書いといてください。ちなみに病院の設備に悪影響出るとアカンのでコンピュータ使わずに手書きでそこの用紙に書いてください。あと入院費は六課の経費で落とすので、心配せんでも大丈夫です。代わりに犯人取り逃がしたこととかアグスタのこととか全部まとめて始末書10枚で勘弁しときますので、明後日正午までに私かなのはちゃんかフェイトちゃんに提出お願いします。書くためのボールペンはそこの引き出しに入ってます。期限内に提出できなかったら始末書倍にします。書かないって選択肢は深井さんにははなからないのそこのとこよろしく。 八神はやてより(ハートマーク)』

 

「……」

「?」無言の零の顔をのぞきこむ雪風。

「……フムン」

 

 人使いの荒さはクーリィ准将に匹敵するな、と零は八神はやての顔を思い出しながら、思った。くそう。

 

 

 

 

 

「相変わらずタフね」病室を出ると、扉の向こう側にはフォス大尉が立っていた。「おはよう、中尉。よく眠れた?」

「まあな。火傷のおまけつきだ」頬に張り付けられたガーゼを見せながら零。フォス大尉の性格ゆえ、彼女がこの病院のどこかにいるというのは予想していたが、まさか扉一枚の向こうにいるとは思わなかった。「名誉の負傷といえば聞こえはいいが、痛いな。ヒリヒリする」

「その程度の火傷なら残ることはないわ。きれいさっぱりなくなる」

 

 そうか、と言って零は隣についてきた雪風の頭を撫でた。彼女に触れていると頬の痛みが少しだけ退くような気がした。その様子を見たエディスは微笑ましそうに目を細める。恐らく彼女はこの自分を見張るための要員だろう。なのはやフェイトだって暇ではない。適任と思われるのは彼女くらいのものだ。暇人。

 

「雪風ったら、あなたの傍からずっと離れようとしなかったのよ。シャマルさんが心配しちゃって」

「おれは、どのくらい寝ていたんだ」

「丸一日よ。──大丈夫。雪風はちゃんと私が面倒見ていたわ。ちゃんとシャワーも浴びさせたし、昨日のゴスロリから着替えているでしょう?」

 

 腕を組んだままエディスは顎で雪風の姿を示す。確かに、昨日シャマルが着せたと思われるゴスロリ服ではなく、簡素な白いワンピースを彼女は着ている。たぶんクローゼットにあった服の中で、一番持ち運びが簡単だったものを選んできたのだろう。ものぐさな判断だが、合理的だ。自分でもそうしていたと思う。シャマルなら別だろうが。

 

「他の奴らは、どこにいる?」

「ソフィアさん達はこの下の階で食事中。なのはさんとフェイトさんは金髪の女の子の件で病院の人と話し合っているみたい。レリックの管理云々の話があるらしくて、はやてさんは六課に戻ったわ」

「シャマルはいないんだな」

「六課から医者が一人もいなくなったらいけないわ。それに、私はあなたの主治医ですもの。専門じゃないけど火傷くらいなら簡単に治療できるのよ」当たり前でしょ、と言いたげな顔でエディス。「私はあなたが嫌い。でも、今は私の患者よ。医者たるもの自分の患者は責任を持って治療しなくてはね」

「そうでなくては困る」

 

 そう言った瞬間、零はエディスの表情が医者の顔から研究者のそれへと変わるのを見た。何かスイッチが入ったようだ。余計なことを言ったかな、と舌打ちしそうになる。

 

「それは嫌い、ということについて? それとも火傷の治療に関して?」

「両方だ。火傷云々は置いておくとして、もしきみがおれのことを好いてしまったら、いったい誰がおれの精神を客観的に見るんだ」同じく、当たり前だと言わんばかりの表情で零。エディスに正面から向き合って言う。「きみはおれの精神世界に取り込まれてはいけないんだ。だからおれの精神から距離をとる必要がある。おれ達の間に互いを結び付ける恋愛感情はいらないし、むしろ邪魔なだけだろう。おれときみはFAFの仲間であって、夫婦でも恋人でも友人でもない。仲間は互いを好きになる必要なんてないんだ」

「友人はともかく、あなたと恋人だなんて、とんだホラーね」

「おれもそう思うよ。……嫌い合っていても、仲間という概念は成立する。おれときみの場合、好き合ってしまっては作戦行動に支障が出る。そのくらいきみもわかっていることだろう。特殊戦ならな」

 

 特殊戦は、余計な情で結びつく必要などない。情などという不確かで不安定な結びつきではなく、『自らが生き残るために』という恐ろしく強く利己的な衝動によって部隊全員がまとまっている、文字通り特殊な部隊だ。それこそ異世界に隊員の一部が飛ばされてもその一部だけで特殊戦として機能するほどに。その強固さと柔軟さは並大抵のものではない。

 クーリィ准将の作り上げた、最強の軍団。特殊戦。フォス大尉もその人間である以上、この概念は理解しているはずだし、していなくては困る。

 

「合格よ」ニッ、と意地の悪い笑顔がこちらに向けられる。「深井零という人間は嫌いだけど、あなたのそういうところは嫌いじゃない。評価に値する」

「きみらしいな。ここでも精神分析か」

「いいえ、患者に対して必要な検査よ。精神面での」

 

 すました表情で零の顔を値踏みするように見つめるエディス。零はそんな彼女が、いつも通りのエディス・フォスであることを実感して妙な安心感を覚えた。きっと彼女はこちらが混乱をきたしている時であっても、冷静に深井零という男の精神を分析することだろう。こっちの事情や心境などお構いなしに。システム軍団にいた割にはこの女も意外としたたかで、いい感じに身勝手だ。

 しかしそうでなくては困る。こちらの事情や心境を配慮して分析をためらうような心理分析官は、使えない。自分勝手でない人間はクーリィ准将に必要とされない。

 

「きみは良い医者だ」小さな笑みを見せて零。「おれもきみのことは気に入らないが、その実力は信用しているよ」

「OK。パーフェクト。現時点におけるあなたの精神は完璧よ。私が保証する」右手の親指を立てるエディス。

「では退院でありますか。主治医殿」

「そうしたいところだけど、はやてさんから『深井さんが始末書を書き上げるまで缶詰させておいて』と念を押されているのよね」

「フムン」

 

 病室の前に立っていたのはそれが理由か、と納得する零。癪だから、報告書はともかく始末書は書かない方向で行こう。ブッカー少佐に殴られた経験からすれば、小娘のビンタくらい安いものだ。ビンタで済めばいいが。

 

「ま、いいんじゃないの? 少しくらい外に出たって。殺されることもないだろうし」

「できれば脱走したい気分だ」

「散歩してくれば気も紛れるでしょ。雪風なんて昨日からトイレとシャワー以外、あなたの病室から出ていないのよ。気分転換は必要だわ。日の光を浴びれば元気が出る」

「おれと雪風は植物じゃないぜ」

「似たようなものね。雪風は別として、あなたも植物も同じ真核生物よ。バクテリアは原核生物。細胞学的に見たらあなたとバクテリアより、植物の方が近い」

「おれの見た目がバクテリアに近いって言いたいのか」

「あら、よく分かったわね。──この病院、大きな中庭があるのよ。そこで二人仲良く日向ぼっこすればいい。ついてらっしゃい。西海岸ほどじゃないけど、良い日差しよ」

 

 それだけ言ってスタスタと歩いていくエディスの背中を少しだけ眺めてから、零は彼女の後ろについていった。雪風もつれて。

 

 

 

 

 

「……いい風だ」

 

 聖王病院の中庭は、それほど広くはなかった。一般的な病院にもありそうな、いくらかの広葉樹と時期せいか花の咲いていない花壇。それらが青々しく茂る間を薄茶色のタイルがヒトの為に歩く道を提供している。人工的な植物の空間。

 しかし、零の鼻腔には植物たちの醸し出す生命の香りがさわやかな風と共に満ち溢れていた。なんと心地よい。生きた緑の匂い。都会育ちゆえ、祖国でもこれほど生々しい緑の香りを嗅いだことはあまりない。香りを運ぶ風と共に木々の葉がこすれ合い、音を立てる。それは木々が生きている証のようにも思えた。子供じみた幻想だが、木々の話し合いが聞こえてくる、そんな感覚に陥る。そしてこの空間を囲うように立つ病錬によって区切られた青空から降り注ぐ、陽光。

 

「でしょう? ずっと部屋にこもっているよりは、風と太陽の恵みを身体に受けた方がいいわ」

 

 そう言って中庭の中央に立つフォス大尉。両腕を広げて、太陽から降り注ぐ光が彼女の身体を照らす。彼女の生まれ故郷、アメリカ西海岸を照り付ける日差しほど強くはない。それでもフォス大尉は心地よさそうな笑みを浮かべていた。彼女は太陽が好きなのだ。

 

「ああ、日本ではアマテラス、だったわね。だから、アマテラス・オオミカミの恵みよ」

「アマテラス、なんて、よく知っているな」

 

 零も日本人である以上、常識としてアマテラスの名前くらいは知っていた。天照大御神。日本神話の太陽神。現存する世界最長最古の王朝として名高い天皇家の祖。そして、太陽を司る女神。アマテラスがいなければこの世は闇に閉ざされる。天を照らすから、アマテラス。ブッカー少佐曰く最高神ではないそうだが、それでも一番尊い神だという。

 

 零は神などこれっぽっちも信じてはいなかったが、なるほどこうしてしばらくぶりに暖かい日の光を全身に浴びると、神の恵みとやらが少しは理解できるような気がした。地上に生きる生命は太陽の光で生きながらえている。太陽を糧としないのは深海の熱水噴出孔周辺の生物か、大深度地下の生き物たちだけだ。昔の人間がそんなものを知っているわけがない。

 

 かつて幾多の畑を耕し、水をたたえた田で大地を埋めた日本人は、自らを取り囲む自然が太陽の力を受けて命としていることに自ずと気づいていたのだろう。太陽は、全ての源だと。だから彼女を大神として祭り上げた。

 同じ農業国だった古代エジプトや古代マヤも日本人と同じ考えに至った。太陽信仰。これはある意味もっとも科学的な信仰だ。なにせ現代科学においても世界は太陽によって生かされていると分かっているのだから。太陽がなくなれば、世界は永遠の闇に閉ざされ全てが凍りつく。

 太陽の光で膚の下までも温められる感覚を得ると、古代人達の気持ちがわかるような気が零にはした。太陽は、嫌いじゃない。この溢れる光で自分達は生かされている。ミッドチルダでも太陽は太陽だ。闇を祓い、命を育む、聖なる光。

 

「なのはさんから教えてもらったの。アマテラス・オオミカミ。日本神話って珍しいわね、太陽神なのに女神なんて。それでもって月の神がツクヨミノミコト(月讀命)って男の神なんでしょう?」

「普通は太陽神が男神で、月神が女神だからな。どちらも男神であることもあるが」太陽に向けていた意識をフォス大尉に向ける。確かに変わっているな、と思った。例えばギリシャ神話の太陽神はアポロで、月神がアルテミス。男と女の双子神だ。「しかし、普通の日本人はアマテラスの恵みなんて言わんよ。太陽の恵みとは良く言うが」

「あら、そうなの。てっきりそういう言い回しなのかと」肩をすくめるエディス。

「キリスト教徒だってヤハウェの恵み、とは言わんだろう。『ヤハウェ』でなく『主』ならあり得るだろうが」

「なるほどね。それはわかりやすいわ」

 

 神の名をたやすく口にすることは、古今東西において少なからず恐れ多いことだ。日本では親しみを込めて『さん』付けで呼ぶこともあるらしいが、西洋、特に一神教のユダヤ教とキリスト教では神の名を呼ぶことはあまり良くないとされた。YHVH。母音の無い子音だけの単語が神を示している。母音がないから誰にも正確な発音がわからない。そうすれば神の名を呼ぶことを避けられる。根本的解決。今は便宜的に仮の母音を設けてヤハウェと呼んでいるのだ。これには諸説あるが、零はそう覚えていた。その解釈の方がしっくりきた。

 一応はカトリックであるエディスも、零の言わんとしていることを理解したようで、納得したような笑みを浮かべた。

 

「風の神様はなんていう名前なの?」エディスが零に向き直って言った。「八百万も神様がいるんだから、当然いるわよね。私はアマテラスとツクヨミ以外に、その親のイザナギとイザナミしか教えてもらってないの」

 

 スサノオが抜けているが、日本を知らないアメリカ人にしては上出来だ。自らが知らない日本の神話と神道に興味が出たのか、と零は思ったが、彼女の視線がどこに向いているのかを見てそうではないと理解した。

 彼女の視線の先にいたのは、雪風。シルフィード。西洋圏における風の精霊。神の眷属。エディスは彼女を見て、気になったのだろう。零は祖国にいた頃の記憶を絞り出して答えた。風の神といったら、一つしか思い浮かばない。

 

「風神だ。風の神、意味はそのまんまさ。雷神という雷の神といつもセットだ。どっちも筋肉もりもりマッチョマンの神だよ」

「日本人て、たまに変なところで手を抜くわよね。風の神にもアマテラスみたいな凝った名前つければいいのに」

「アマテラスだって『天を照らす』という意味だぜ。凝ってはいないよ」

 

「……日本神話において風の神はシナツヒコノミコト(級長津彦命)。またの名をシナツヒコノカミ(志那都比古神)。風神は通称」唐突に口を開く雪風。「あと雷神は全部で八柱いる。それとは別にスガワラノミチザネ(菅原道真)も雷神になったとされている」

 

 零は、彼女の言葉を唖然とした表情で聞いていた。エディスも同じような顔で雪風を見ていた。

 今彼女はなんと言った? シナツヒコノミコトと、菅原道真?

 シナツヒコノミコトは知らないが、菅原道真なら聞いたことがある。怨みから怨霊になってしまい、今は怒りを鎮めるために京都で学問の神として祀られている、有名な古代日本の人物だ。きっとブッカー少佐なら百科事典顔負けの解説をしてくれるだろう。

 それはともかく、なぜそれを彼女が知っている?

 

「雪風、いったいどこでそんな知識を仕入れたんだ」二人のうち、最初に口を開いたのは零だった。「おれだって知らないぞ、そんな神話知識」

 

 ミッドチルダのインターネットには地球の情報も存在している。やろうと思えばこの世界にいながら地球の各種神話を調べることも可能だろう。

 しかし、世界的に有名なキリスト教の聖書ならともかく、よりにもよってアジアの一島国にしか語り継がれていない原始宗教の神話を彼女が調べるなんてことは、まずありえないと零は思っていた。恐らくエディスもそう思っていたに違いない。第一、雪風がそんな非科学的なことを調べる理由がない。

 零の質問にちょっと間を置いて、雪風が静かに答える。

 

「シャマルに読み聞かせられた本に書いてあった。それで、記憶した」

「なんて本だ、それ」

「『日本書紀』と『古事記』」

「なんだって?」

「なに、それ」とエディス。

 

 当然のことだがエディスはそのどちらも知らないし読んだことも無いらしい。しかし零は雪風が挙げた二つの書物の名前を良く知っていた。学生時代の記憶が蘇る。

 

「聖書の創世記や出エジプト記みたいなもんだ。神代の出来事が書かれた古代日本の歴史書さ。少なくとも子供に読み聞かせるものじゃない。シャマルらしいといえばシャマルらしいが、……ミッドチルダに日本書紀の英訳本なんて売っていたのか」

 

 需要なんてあるのか、と零が不思議そうな表情をすると、雪風はそれを否定するようにふるふると首を横に振って答えた。

 

「私が読んだものは、日本語で書かれていた。恐らく地球から持ち込まれたもの。それをシャマルが日本語で私に聞かせた。他にも多数の本を読んだ。日本書紀と古事記はその一部にすぎない。聖書も英語文のものならば既読済み」

「雪風、あなた、日本語読めるの?」

 

「理解できる」エディスのFAF語による質問に対し、雪風の口から流暢な日本語が流れ出す。「そして話すこともできる。漢字は常用漢字程度なら理解すると同時に書くことが可能。──発音は、これで合っているか、深井中尉」

 

「合っている。完璧だ」零は驚きながら、同じく日本語で答えた。まさか雪風と日本語で会話することになるとは思わなかった。「しかし、どこで覚えたんだ。シャマルに教わったのか」

「すごい、ちゃんと会話が成り立っている」生粋のアメリカ人であるエディスに日本語は理解できないはずだが、それでも聞き慣れない音の、ある程度規則だった羅列から二人が完璧な日本語で話していることは何となくわかっているようだった。「誰に教わったの?」

 

「中尉と融合している間に、その思考から読み取った」再びFAF英語で雪風。「中尉は英語で会話をしているが、脳内では母語である日本語で思考を行っている。理解できた方が戦闘時において中尉の思考を読み取るのが容易になり、戦況を有利に進められる」

「おれの脳から、日本語を丸ごとダウンロードしたっていうのか」

「その解釈で問題ない」

 

 やはり、融合時において彼女はこの自分の思考を読み取っているのだ、と零は実感し、わずかな寒気を覚えた。思考の読み取りは予想していたことだったが、言語までも読み取られているとは思わなかった。彼女と初めて融合した時の頭痛は、強制的に言語情報をダウンロードされたことによる痛みだったのかもしれない。

 

「さすが雪風ね。じゃあ、いろんな言語のネイティブとかたっぱしから融合すれば、全部の言語をマスターできるってわけね」

「融合適性の問題があるため実行不可能であるが、理論上は可能である」

 

 凛とした声で答える雪風。一点の曇りもなく、簡潔な受け答えだった。

 その瞳は今頭上に広がる青空と同じようにどこまでも澄み渡っている。美しい、瞳。しかし人間の及びもつかない力を秘めた、人外の瞳。零はその瞳が自分を捉えていることに気づき、背筋が凍る思いになる。やはり、彼女は人間とは別次元の存在なのだ。

 

「さらっととんでもない能力をカミングアウトされたわね」そんな零の心境に気づいていないエディス。「……羨ましいわ。じゃあ、記憶力のテスト。聖書を読んだっていうなら、そうね、出エジプト記の……第3章の13節目を諳んじてごらんなさい。英語で構わないから」

 

「了解。旧約聖書、出エジプト記、第3章13節」雪風の口から流れていたFAF英語が一瞬で通常英語へと変化する。「モーセは神に言った。『私がイスラエルの人々の所へ行って、彼らに〈あなた方の先祖の神が、私をあなた方の所へ使わされました〉と言う時、彼らが〈その名はなんというのですか〉と私に聞くならば、なんと答えましょうか』」

「そのモーセの問いに対し、神はなんて答えた?」

 

 一拍置いて、無感情な声で雪風は答えた。「『われは、われである』」

 

「大正解。すごいじゃない。完璧よ」エディスが雪風の頭をくしゃくしゃと撫でる。想定外の問いかけに対しても正確に答えたということは、雪風はそれこそ完璧に聖書の内容を暗記し、理解しているということなのだ。

 

 褒め称えるようなその撫でつけに雪風はくすぐったそうに眼を細めるが、嫌がってはいなかった。その微笑ましい光景に心なしか安らぎを得る零。

 

「きみも良く覚えているな、フォス大尉」

「いいえ、そこしか覚えていなかったの。医学書の記述だったら覚えているんだけど」肩をすくめるエディス。

「それでもおれよりすごいさ。おれなんて中学校の教科書にあった『そうかそうか、つまりきみはそういうやつだったんだな』のセリフしか覚えてないぜ」

「エーミールね。『少年の日の思い出』の。あれ日本じゃ教科書に載っているのね」

「日本では有名だよ。でも物語の題名なんて忘れていた」

「でしょうね、昔の女の名前と顔すら忘れるくらいだもの」

「フムン」

 

 そう言われると、確かに自分は自分以外のことに対して無頓着だ。中学の例の言葉を覚えていたのは、それを国語の教科書でやった後、クラスでそのセリフが大流行したからだ。何かが生徒たちの琴線に触れたのだろう。このフレーズは今でも日本のネットのあちこちで見受けられる。それだけ流行ったのだ。あまりにもすさまじかったので零もそれを覚えてしまった。それだけだ。学生時代のことはほとんど覚えていない。

 

 それに比べ、雪風の記憶力たるや。聖書を完璧に暗記するなどという、並大抵の人間には不可能なことを平然とやって見せるその頭脳には脱帽するばかりだ。

 見た目はこんなにも幼いというのに、彼女が内に秘める力は途方もなく巨大で、獰猛だ。人間にはその力の一部しか認識できないのではないかと思ってしまうほど。それでいて、その美貌は世界がひれ伏すほどの高みにある。まるで王だ。この世をわが物とするべく降臨した、妖精の女王。

 

 零はそんな彼女に目線を合わせようと、膝を曲げてしゃがみこんだ。ちょうど、騎士が己の仕える姫に跪くような格好となってしまったが、悪い気はしなかった。別に自分は彼女へ忠誠を誓っているわけではない。ただ敬意を表しているだけだ。その強さと美しさ、そして恐ろしさに。

 

 雪風を間近で見れば見るほど、その可憐さと凛とした美しさは際立った。気を抜くと本当にひれ伏してしまいそうになる。零にさえそう思わせてしまうほど、美しいのだ。

 零は彼女の瞳をじっと見つめ、雪風も彼の瞳をまっすぐに見つめ返した。アイコンタクト。眼による非言語的相互コミュニケーション。この世界に来てから幾度となく繰り返した、二人だけの儀式。

 

 

 

 ふと、視線をずらして彼女の特徴的な尖った耳を見ると、それがわずかに動いていることに気づいた。ピクピクと、ウサギの耳のように。

 

「雪風?」彼女の耳が動いている時は、決まって何か不審なものが近くで音を立てている時だ。「なにか、聞こえているのか?」

「誰か、いる」

 

 ウサギのそれのように耳を一度大きく動かして雪風が言う。普段ならもっと緊張感のある言葉づかいで報告してくるはずだが、零には彼女の口調がさほど緊急性のないもののように感じられた。

 

「あの木の陰」静かに雪風が振り向く。視線の先には一本の木があった。根本は花壇の陰になっていて見えない。「呼吸音と、衣服の摩擦音。でも、どちらも人間にしては小さい」

「もしかして、ニンジャ?」のんきなフォス大尉。「ハナカマキリめいたニンポ(忍法)を使って息をひそめているってこと?」

「?」

「雪風、今のフォス大尉の発言は無視せよ」すかさず零。日本書紀などを読んで極めて正確な日本観を持っている雪風に、エディスのアメリカ人らしいズレた日本のイメージはすぐには理解できないのだ。「誰かがおれ達のことを隠れて見ていたということか?」

「わからない。──これは、子供?」

「入院患者じゃないのか?」

「子供であるのなら、近くに大人がいなければならない。保護者とはそういうものであると私は認識している」

「フムン」普段からシャマルやエディスに雪風を任せっきりにしているせいか、妙に耳が痛くなる零。

 

「面倒臭いわね。わかんないなら見に行きゃいいのよ。うだうだ言ったってしょうがないわ」零に『無視しろ』と言われたのが気に食わなかったのか、強めに言うエディス。「ニンジャだかスモトリ(相撲取り)だか知らないけど、何かいたとしてもここは病院よ。怪我したって問題ない」

 

 そう言って、つかつかと雪風の視線の先へ歩き出す。どうも彼女の中では忍者と力士は同じカテゴリの中に分類されるらしい。『バカ』と『猪突猛進』という二つの単語が零の脳内に浮かび上がるが、すぐに消去。なかったことにする。

 

 そんなエディスの後ろに雪風がちょこちょことついていく。仕方ないので零も後を追った。今度はエディスではなく、雪風を。

 

 

 

 

 聖王病院の中庭はそれほど大きくはない。だから、目的の木の傍にくるまで一分はかからなかった。

その樹木の根本には、確かに雪風の言っていた通り、誰かいた。座り込んでいる。白い病人服を着た子供だ。5歳くらい。金髪の、少女。左右で瞳の色が違う、オッドアイ。

 

「……だれ?」

 

 ミッドチルダ語。すなわち英語による質問が、弱々しく三人に投げかけられる。おびえているのだろうか、自らに歩み寄ってくるエディスを見て少女は震えながら縮こまっていた。少女の様子を見てとっさに立ち止まるエディス。その後ろに雪風。さらに零。雪風はエディスの陰に入って少女の位置からでは見えない。

 

「この子──」

「昨日保護した少女だな。名前は?」少女に悟られぬよう、小声かつ早口のFAF語で零。

「まだ聞いていないの。私が診た時はまだ意識が戻っていなかったし、身元を証明するものが一つも無かった。……もしかしたら一人で起きて、病室から抜け出してきたのかも」

「どうするんだ。何か訊こうにも病室へ戻そうにも、おびえてるぞ」

「そりゃ見知らぬ大人二人が迫ってきたらおびえるわよ」

 

 確かにそうだ、と零はその少女を見て思った。目が合うと、余計に怖がるように見えたので零はなるべく視線を合わせないようにした。きっとエディスに対してもそうなのだろう。目を合わせると警戒されるなんて、オッドアイなのといい、まるで猫だ。人間を怖がっている仔猫。

 

 しかしこのまま放っておくのも問題だ。病院の外がどうなっているのか知らないが、勝手に抜け出して交通事故に遭わないとも限らない。医療器具に手を出して怪我をすることも考えられる。だれかが傍にいてやらなくては危険だ。できればこちらの言うことを素直に聞いてくれればいいのだが。

 

「フムン。では、子供を使おう」

「雪風を?」

「見た目の歳が一番近い。警戒心を緩められるだろう」フォス大尉の後ろに立っている雪風の頭にポン、と手を乗せる零。彼女の見た目は7、8歳程度だ。少女の見た目は5、6歳。かなり近い。「それに雪風に見惚れてくれるなら、あの少女も大人しくなるはずだ」

「名案ね。──雪風。あの子とお話ししてきてちょうだい。ここにいる理由と、名前を訊き出してきて。警戒されないように、優しくね」

「了解した」フォス大尉の脇をすり抜けながら雪風が言う。ゆっくりと、少女に近づいていく。

 

「……!」

 

 明らかな変化があった。少女の瞳から恐怖の色が消えたのだ。入れ替わるように現れたのは、親しみと、羨望の色。そしてそれらの色を保ったまま、彼女の眼は天使のごとき雪風の美貌に釘付けになっている。零にはそう見えた。

 

「わぁ……!」感嘆の声が少女の口から漏れる。雪風が近づくにつれて、その美しさが目に映しだされているかのように、少女の目がキラキラと輝き始める。まるで美しい宝石か、満天の星空でも見ているかのような。「……きれい……!」

 

 座り込む少女から1メートルほどの位置で雪風は立ち止まり、そのまま静かにひざまずく。ひざ裏まで届く長い髪が地面につかないように、後ろ髪を左右の肩の上に通す形で前に持っていった。その動きはとても優雅で上品で、滑らかだった。

 

 しかしワンピースの裾には無頓着なようで、前側の裾は雪風の膝を覆い隠す格好となった。その裾の上に白銀の髪がサラサラと流れる。そろそろ髪をまとめてやるべきかな、とそれを見た零は思った。ポニーテールか、三つ編みか。切るという選択肢もあるがそれはシャマルが反対するに違いない。その辺は後で考えよう。

 

「お名前、なんていうの?」

 

 身を乗り出して少女が訊ねる。そこでようやく零は彼女がウサギのぬいぐるみを大事そうに抱きかかえていることを知った。それほど大きくはない。長い耳を含めても零の靴のサイズといい勝負だった。病室に置いてあったものをそのまま持ってきたのだろうか。

 

 少女の目をしっかりと見つめながら、雪風は彼女の質問に答えた。「私は、雪風」

 

「ゆき、かぜ?」日本語独特の音を噛みしめるように、そっと口にする少女。「ゆきかぜ。ゆき、かぜ。……ふしぎな、お名前」

「あなたは?」

「え?」きょとんとした表情。

「あなたの、名前は?」いつもの冷静な口調とは打って変わって、柔らかい声で問う雪風。

「えっと……ヴィヴィオ」

「そう」雪風はこくりと頷く。「ヴィヴィオは、どうして、ここにいる?」

 

 雪風の言葉づかいは優しく、子供でも聞き取りやすいようにしっかりと発音し、意図的に文節を区切っていた。どうやらフォス大尉の命令をよく理解しているらしい。それとも自らがシャマルに施されたことをマネしているのか。子供扱い。

 

 しかし少女は聞き取りやすいはずの雪風の質問に戸惑うようなそぶりを見せた。どうしてここにいる、という漠然とした質問が幼い少女には難しかったのか。どうして病室から出てきたのか、と訊いた方がより具体的だろう。

 雪風もそう判断したのか、訊き直そうと口を開くが、少女の方が幾分早かった。

 

「ママ」

「?」

「ママを、さがしてたの」心細いのか、ウサギのぬいぐるみをギュッと抱きしめる少女。「起きたら、ママ、どこにもいないの……」

「ママ……あなたの?」

「うん。……いっしょに、さがしてくれる?」首を傾げる少女。

「……わかった。少し、待っていて」

 

 そう言うと雪風は立ち上がって身をひるがえし、零とエディスのもとへ駆け寄ってくる。

 

「報告。この少女の名はヴィヴィオ」雪風はきびきびとした日本語で零に言う。わざわざ日本語なのは少女に悟られないためだろう。FAF語では元が英語ゆえ感づかれる可能性がある。「姓およびその他の身元は、少女の推定年齢および状況を鑑み、現時点において聞き出すことはできないと判断。病室から出てきた目的は、自らの母親を探すことであると判明。以上、報告終わり」

「ごくろう。よくやった」同じく日本語で零。労うように彼女の頭を撫でる。

 

「訳して、中尉。日本語じゃわからないわ」

「……あの子はヴィヴィオと名乗っているそうだ。母親を探しに出てきたんだとさ」零は再び小声のFAF語を使ってエディスに言う。「母を探してなんとやら、だ」

「母親を……確かに目覚めたらいきなり見知らぬ天井が目の前にあって、お母さんが近くにいないんですものね。心細くもなるわ」

「大人のきみですら一人では心細くなるもんな。もう二十代後半だっていうのに。三十路まであっという間だぜ」

「はっ倒すわよ。……とりあえず、病室に連れて行きましょう。まだ終わっていない検査があるかもしれないし。身元の確認はなのはさん達がやっているはずよ」

「妙な話だ。こんなに文明が発達しているのに、身元確認がすぐに済まないなんて。遺伝情報なり指紋なりですぐにわかると思ったんだが。……なにか、あるのか?」

 

 親が犯罪に関わっているのか、それともすでに死亡しているのか。そういった場合は身元が分かってもすぐには伝えることはできないだろう。そう考える零に、エディスが首を横に振って否定の意を示す。

 

「まさか。あったとしてもあの子には何の非もないわ。子供は悪くない。悪いのは全部大人よ」

「それもそうだ。面倒事は大人が処理すべきであって、子供は遊ぶか、家事を手伝うか、勉強していればいいんだ」

「たったいま雪風に面倒事を押しつけた男のセリフとは思えないわね」

「それは賛同したきみも同罪だろう。──雪風、あのヴィヴィオとかいう少女を病室に連れ戻すぞ。母親はおれ達が探すから心配いらない、とでも言っておけ」

 

 零は肩をすくめながら言う。これはある意味で嘘であり、ある意味で真実だ。少女の母親を探し出すのは自分達の役割ではない。機動六課を含めた管理局のすることだ。もしかしたら簡単に母親は見つからないのかもしれないし、すぐにでも見つかるのかもしれない。

 

 それは自分達の知ることではない。これではあまりにも身勝手で、無責任だ。しかし大人とはそういうものだ。零はそう思い、自分も大人になったものだ、と実感した。大人とは汚いものだ。人は汚れながら大人になる。自分は汚れている。しかし雪風もあの少女も汚れてなどいない。汚れた自分が彼女達に触れていると、その汚れが彼女達を汚染してしまうのではないかという幻想に駆られる。きれいなものは、きれいなままの方が良い。

 

 零はそれを顔には出さなかった。あの少女はともかく、雪風に触れないというのは現実的ではない。そんな不毛な思考はすべきではない。雪風もこのような思考を深井零が行っていることを知ったら、その悩みを一蹴することだろう。無駄だ、と。

 

 

「了解。さきほどと同じように接近し、ヴィヴィオを病室へ誘導す──」

 

 

 そう言って雪風がヴィヴィオの所へ行こうとした瞬間、零は見た。雪風の目つきが豹変するのを。

 

 そして彼女の姿が掻き消えるのを。あとに残ったのは一陣の風。零はその風から彼女が消失したのではなく、どこかへ高速で移動したことを知った。雪風、どこに行った。

 

「雪風!」零はとっさに背後へ振り向いた。彼のその動作と同じくして、中庭に甲高い金属音が鳴り響く。

「な、なによ!? 今の音!」零の後ろでフォス大尉が混乱しているが、今は無視。

 

 零の位置から20メートルほどの場所に雪風はいた。彼女を視界におさめることで零はひとまず安心した。

 だが、いたのは雪風だけではなかった。

 

「あ、あなたは!?」女性だ。ショートヘアーの。突然現れた雪風の姿に戸惑っている。

 

 その女性と雪風は、互いの得物で鍔競り合っていた。雪風はコンバットナイフ型のデバイス、女性はトンファー型のデバイスで。魔導師か。もしかしたらあの女性はこちらに攻撃をしかけようとしていたのかもしれない。それに雪風が反応して迎撃に出た、とか。

 

 二人とも地面のタイルに足を付けて踏ん張っており、雪風が二本のナイフで女性のトンファーを受け止める形になっている。しかし、零には女性の方が押されているように見えた。女性は表情を歪めているのに、雪風は平然としているからだ。

 

「ぐ、なんて、力……!」

 

 得物に力を込めながら女性が言う。雪風の構えるナイフはピクリとも動かない。雪風の方が強いというよりは、雪風の方が背が低く、女性を押し上げる形となっているため踏ん張りが効き、力を発揮しやすいのだ。

 一方女性の方は背の低い雪風を押し付ける形となり、力を込めようとすればするほど身体が地面から浮いてしまい、踏ん張りが効かなくなってしまう。ただそれだけのことだ。零の優れた観察眼はそれらを瞬時に把握している。きっと雪風もそれを認識しているのだろう。

 

「あなたは、いったい、何者なんですか!」この状況は不利であると悟ったのか、一度雪風から距離をとり、右のトンファーで打撃を加えようとする女性。零は、雪風が傷つけられようとしているのにその光景を見ていてもそれほど怒りや動揺を覚えなかった。むしろ危険なのは女性の方なのだ、と心のどこかで思っていた。あの女性は雪風の力を知らない。

 

 零の想定通り、女性の攻撃を雪風はたやすく避けていた。再び雪風の姿が掻き消える。トンファーが雪風の立っていたタイルを叩き割るが、そこにはもう雪風の姿はない。その光景を信じられない、といった眼差しで見つめる女性。「そんな、どこに!?」

 

「われは、雪風」

 

 その声に女性が反応すると同時に、その首筋にナイフが突きつけられる。冷酷で、無機質な声色。

 雪風は女性の背後に立っていた。そのまま、女性の背中を見下ろすようにして右のナイフを彼女の頸動脈の上に置いている。それは警告であると同時に、自らの存在を女性に知らしめている。零にはそう見えた。

 

 女性は動けなかった。零は彼女の心情を自分のことのように感じ取ることができた。幼い少女の姿には似つかわしくない、人間が想像もできないほど圧倒的な力。そのような存在が己の背後にいて、この自分をいつでも殺害できる状況にいる。もはや恐怖を通り越して、何も考えられないのだ。逃げることすらできない、人間を超越した存在。

 

 

 雪風はそのまま、女性への返答を冷酷に、告げた。

 

 

「われは、われである」

 

 

 




<あとがき>

 どうも、スカイリィです。

 今回雪風が口にした、出エジプト記第三章14節は非常に不思議な言葉です。

 聖書の日本語訳において、この一節の訳し方はいくつか存在しています。
「我は有て在る者なり」
「わたしは有って有る者」
「わたしは、『わたしはある』という者である」

 ではなぜ私が今回の訳を使ったのかというと、英語訳の存在が大きいです。

 英語では
I am that I am
I am who I am
I will be what I am
 などと訳されています。
 ほら、一つ目と二つ目は、なんとなく「われは、われである」って訳せませんか?
 今回の雪風のセリフは、サブタイトルにある通り「I am that I am」と答えたと解釈していただけるとありがたいです。なんかWhoよりもThatが入っていると、言った時にカッコいいので。

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