魔法少女リリカルなのは 妖精の舞う空   作:スカイリィ

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第三十一話 黒猫

「ペチニャウ、ペチャクチャニャ」

「ここでは人間の言葉で話せ」青い狼ことザフィーラが自分の身体の上に陣取る黒猫に言った。「何言っているのかわからん」

「ちぇ、猫の世界じゃ今のは世界標準語だぞ。そのくらい勉強しておけよ。青オオカミ」ぺしぺしとザフィーラの背中を尻尾で叩く黒猫カール。ついでに大きくあくび。

「知らん。なんて言ったんだ」

「『あーうまいもの食いたい。食いたい』だけど? ついでに昼御飯奢ってくれない?」

 

「訊くまでもなかったな」その傍で呆れたようにヴィータが呟いた。「言っとくけど、あたしはお前なんかに奢らないからな」

「気前悪いなぁ。そんなだからソフィアよりもチンチクリンなんじゃないの、赤チビ」

「誰が赤チビだ。バカ猫」

「にゃう」ヴィータによるデコピンを食らって額を抑えるカール。「くそう。人間のクセにこのカール様にたてつくとはいい度胸じゃにゃいか。食っちまうぞ」

「やめておけカール。きっとあまり美味くないだろう」ザフィーラが皮肉っぽく言った。「お前みたいにな」

「ザフィーラお前それ、あたしがこのアホ猫と同じくらい不味いって言っているのか?」

「フォローしたつもりだったんだがな。食べたことがないからわからないが、不味いと言っておけばとりあえずこの黒猫に食われる心配はなくなると思ったんだ」

「お前の考えはおかしい」

 

 そうか、とだけ言ってザフィーラは自身の背中に居座る黒猫を首をよじって見た。人間と違い視界の広い狼の身体なので難なくその姿を眺めることができた。たぶん自分の考えがおかしくなったのはこの黒猫使い魔のせいだろう、なぜだかそう思った。

 

「ザッフィー。こいつと俺が同等な存在だなんて不愉快だぜ。訂正を要求する」と普通の猫のように前足を舐めながらカール。

「誰がザッフィーだ」

「俺が今寝ころんでいる座布団のことだよ」

「俺は座布団じゃない。降りろ」

「この世界で一番偉いカール様の座布団になれるんだ。光栄だと──」

 

 冗談じゃない。ザフィーラはそう言うとカールを振り落すべく、その場でジャンプして空中で後ろに一回転した。カールはしなやかな動きで空中一回転を決めたザフィーラについていけず飛ばされ、少し離れた床に尻から叩きつけられた。ぎにゃ、という悲鳴。

 

「お前猫だろ。猫なら綺麗に着地してみせろよ」ニヤニヤとその様を見ながらヴィータ。

「くそう、やっぱりガキと犬野郎は嫌いだ」

「俺は狼だ」尻もちをつくカールを見下ろしながら冷やかにザフィーラが言う。「まあ、お前に嫌われたところで俺は別にどうってことないがな」

「ふん、俺様はこの世の主人公なんだぞ。たいていのストーリーじゃあ主人公に嫌われたらロクな目に遭わないんだからな」

「他のキャラクターに嫌われる主人公というのもどうかと思うが」

「うるせー。この世界は俺様の世界なの! だからこの宇宙はカール様を中心に回っているんだ!」

 

「ある意味で天動説だな」

「天動説?」座った状態で人間のように首をひねるカール。「何それ、美味しいの?」

「あ、それ知ってるぞ」突如思い出したようにヴィータが口をはさむ。「何百年も昔の地球で信じられてたやつだろ。地球が宇宙の中心で、太陽とか月がその周りを回っているっていう話。はやてから聞いたんだ。コペルニクスって奴が考え出して、その後プトレなんとかってやつが地動説を言ったんだってな」

「ヴィータ、それでは逆だ。天動説を唱えたのがプトレマイオスで、コペルニクスがそれを否定して地動説を主張したんだ。よくコペルニクス的転回と言うだろう? あれはそれまでの天動説の見方を180度変えてしまう地動説を打ち出したコペルニクスのことが元になっているんだ」

 

 ザフィーラの理路整然とした説明にヴィータは恥ずかしくなったのかそっぽを向いた。その様子を見てニヤリと笑うカール。

 

「にゃひひ、間違えてやんの。やっぱりおれさまはサイキョーなんだ!」

「笑うな! お前なんか名前も知らなかったくせに」

「ぐぎぎぎぎ」

 

「こらカール! またなんかやらかしていたのね!」

 

 女性の怒鳴り声が聞こえてくる。見ると隊舎の廊下を、赤い髪を炎のように揺らめかせながらソフィアが歩いてきていた。彼女を見て、ゲェ、と露骨に嫌そうな顔をするカール。

 

「ソフィアー、こいつらひどいんだぜ。こんなに可愛いカール様を寄ってたかっていじめるんだ」

「あら、そうなの。──わざわざありがとうございます!」ヴィータとザフィーラに向けてビシリと敬礼をしながら礼を言うソフィア。それを受けて茫然とする二人。

「なんで、ありがとうなんだよ。ここは注意するところだろ?」

「私の労力が省けるからに決まっているじゃない。この胃袋ブラックホール猫。また私がとっておいたチョコレート食べたわね」

「いーじゃんかよ、別に。減るもんじゃないんだし」

「減るわよバカ!」

「えー、だって昨日冷蔵庫の中身全部食べたけど、今日見たら元通りになっていたぜ? 冷蔵庫って自動で食い物補充してくれるんじゃないの?」

「私が補充してんのよクソ猫」

「へー」

 

「あんたがしょっちゅう冷蔵庫の中身食い荒らすせいで私の財産がどんどん減っているのよ? エンゲル係数がインフレーションよ。どうしてくれるの!」

「こうしてくれる」カールは大きくジャンプしてソフィアの顔に飛びかかると、彼女の顔面を爪で2回、ひっかいた。きゃあ、と悲鳴を上げるソフィア。一拍遅れてカールを両手で捕まえて渾身の力を込めて引きはがし、床に叩きつけた。

 カールは、びたん、と床に大の字──手足が短く尻尾と耳があるので半の字というべきか──になって叩きつけられるが、すぐさま平然とした様子で起き上がる。

 

「乙女の顔になんてことしてくれるのよ。そこ動くな。焼き猫にしてやる!」胸ポケットからサディアスを取り出すと同時にショットガン形態へ変化させるソフィア。

「猫って、うまいのか?」

「お前を見る限り不味そうだ」恐ろしく冷静に答えてやるザフィーラ。その隣でうんうん、とうなずくヴィータ。

 

<私は、興味がありますね>ソフィアの腕に握られたサディアスが発言する。<前々からカールが本当に猫であるのか確信できなかったのですよ。あれだけの量を食べる生命体が猫であるはずがない。第一、猫には毒であるはずの玉ねぎを平然と食べていたことがありますからね。カールは、猫でない可能性が高い。ミッドチルダを食い尽くそうとしている黒猫型侵略宇宙人かもしれません。確かめる必要があります>

「それが、焼き猫とどう関係があるんだよ」首をかしげながらカールが訊く。「あ、でも玉ねぎは美味いけどさ。丸かじりすると最高だ」

<あなたを焼いて白骨化させれば、骨格から猫であるかどうかが判断できます。──いい機会です、ソフィア。日頃の八つ当たりをかねてカールをバーベキューにしましょう>

「食べたら胸やけ起こしそうね、それ」ソフィアはサディアスを黒猫の鼻先に突きつける。「ああ、もう本当に非殺傷設定なんて、どうしてこんなものがあるのかしら。なかったらこのアホ猫を本当に真っ黒の消し炭にできるのに」

「もとから黒いじゃねーか」ヴィータがぼそりと呟く。

 

「クソ猫、アホ猫、ゲス猫。うう、言葉が出てこないわ」

「このあいだ面白いアプリケーション見つけたぜ。罵詈雑言辞典。各種言語で──」

<残念ですが>呑気なサディアスの声。<そのアプリケーションは私の汎用メモリにインストール済です。話題そらそうったって無駄ですよ、カール>

「にゃるほど。だからお前の話し方は下品なんだな、サディアス。そろそろ中枢AIユニットを取り換えたら? そうだ、ネズミの脳みそを入れよう。きっと今より性格良くなる」

「サディアス、こんなクレイジースタマック猫相手に罵詈雑言辞典起動する必要なんてないわ。死ね、の一言で済むんだもの」

<ミッドチルダ式罵詈雑言辞典は私が起動している際は常に展開されています。私の自己の一部、と言ってもいいかもしれませんね>

「それはそれでどうなんだろうな」ヴィータがザフィーラに呟くが、やはり青い狼は同じように呆れたような表情で首を横に振った。

「それにしてもソフィア、今日はやけにカリカリしてんな。カルシウム不足だぜ。魚の骨でもしゃぶったら? あ、もしかしてあの日か──」

「FCS作動。ミニマムショット、レディ」

<Roger. Ready M Shot>

 

 実に景気の良いサディアスの返答と共に、その先端にミッドチルダ式の魔法陣が展開される。それを見てエメラルド色の瞳をギョッとさせたカールは、脱兎のごとく逃げ出そうとする。猫だが。

 

「逃がすか! ファイア!」

<汚物は消毒だー!>

 

 銃口に展開された魔法陣から、魔力で構成された光弾が無数に吐き出される。それらは距離にして約1メートルほど先を逃げるカールの尻へと向かうが、その尻尾に触れるか触れないかのあたりで急速に輝きを弱め、消失した。

 

「このバカソフィア! 本気で撃つやつがあるかよ!」

 

 そう叫びながらカールは壁に爪を立てつつ、全身の力を込めて大ジャンプ。そのまま壁を飢えたゴキブリのごとき猛スピードで駆け上がり、上部に備え付けられた分厚い換気口の蓋を一瞬で噛みちぎって内部に侵入。逃走した。

 

「あのゴキブリ猫め。なんて身軽さだ」

<ソフィア、その言い方ではゴキブリがかわいそうです>

「あいつ、換気口の蓋を噛みちぎったぞ、金属製のはずなのに」ヴィータが茫然として言った。

「魔法を使った痕跡がないな。信じられない顎の力だ。猫のくせに俺よりパワーがある」ザフィーラは床に転がった、見るも無残に食いちぎられて歪んだ銀色の蓋の匂いを嗅いで言う。「この分じゃあ鋼鉄も食いちぎられるぞ」

<カールの噛みつきは殺人的なんですよ。下手に噛まれると骨まで砕かれかねない。前に逮捕した犯人は右足の踝を噛み砕かれました>

「それ、猛獣じゃねぇのか?」ヴィータが引きつったような表情で訊く。同じように、もしかしたらあの黒猫は猫などではなく小型の黒豹か何かを素体にした使い魔なのではないか、といった考えがザフィーラの頭をよぎる。

「フム。こんな場所で魔法を撃ったことを咎めようかと思ったが……猛獣相手なら仕方ないな。そもそも、悪いのはカールだ。デリカシーが無さすぎる」

「理解してもらえてうれしいわ、ザフィーラ」

 

 ニコリ、とソフィアがザフィーラに微笑みかけた。ソフィアはスタイルさえ無視すればなかなかの美女で、そんな彼女にありがとうと言われるのはザフィーラも悪い気はしなかった。しかし、その美女がにこやかに黒光りするショットガンを構えているのが何とも恐ろしい。

 なんだったかな、セーラー服とガトリングガン、だったかな。いや、アサルトライフルか、サブマシンガンか、そんな映画が地球にあった気がする、とザフィーラはソフィアを見上げながら、思い出す。確か女子高生が銃を連射して快感を得るといった物騒な映画だったような。あまり覚えていない。とにかくその映画のワンシーンと今の場景が良く似ている。悪寒。

 

「でも、さっき撃ったのは何なんだ? ミニマムショット、だっけ? あんな射程短くて役に立つのかよ」とヴィータ。

<主に建物の中での戦闘に使用されるソフィアの射撃魔法です。建造物の破壊を極力防ぐため射程は1メートルもありませんが、威力は彼女の魔法の中でも最強クラスです。射程内ならばほとんどの防御魔法を破壊できます>

「なるほど、確かに狭いところで長射程の射撃を行っても意味がないからな。市街地戦や、対テロ戦闘に向いている」納得したようにザフィーラ。「後は建物の中へ突入する時に、ドアや壁を撃って破壊するというのも考えられるな。あれだけ射程が短ければ中に人質がいても当たる心配がない。ドアや壁だけを破壊できる」

<すばらしい。まさにその通りです。それゆえ私達はこの魔法を『マスターキー』とも呼んでいるのです>

「どんなドアでも開けるってか? ドアごと吹っ飛ばして。でも使えるよな。防御されてもシールドごとぶち破れるんだもんな」ヴィータが感心したように言う。

「あのボケ猫にはなかなか当たんないだけどね。逃げ足だけは早いんだから、まったく」

「本当に、苦労、しているんだな」ザフィーラは目の前にいる一人と一機に同情の声をかけた。

 

 鋼鉄を食いちぎる、ゴキブリのように身軽で、ブラックホールのごとき胃袋を持つ黒猫。なんという怪物だろう。

 そしてそんな怪物と一緒に住んでいる彼らに、ザフィーラは同情したのだった。

 

 

 

 

 

「えー。零兄、どこにも行かないの? せっかくの休みなのに?」

「お前には関係ないだろう。ランスターと一緒に行きたいところへ行けばいい」

 

 呆れ半分、驚き半分の口調で訊いてくるスバルに、零は面倒くさそうな表情で答えてやる。

 今日はフォワードメンバーの全員に休暇が言い渡されていた。つまりオフの日だ。久々の休暇だということでスバルとティアナはヴァイスから借りたバイクで街に行くつもりらしい。ティアナがバイクの免許を持っているとのことなので、スバルが彼女の後ろに乗るのだろう。

 実は零にも休暇が言い渡されていたが、特に行くところがない。雪風はいつものようにシャマルに連れ去られてしまっている。

 それでも零は、たまには自室でのんびりと身体と心を休ませるというのもありだろう、と思った。そしてジャージに着替えて自室のベッドで横になっていたところ、スバルが『零兄はどっか行かないのー?』と突撃してきたのだった。

 ちなみにエリオとキャロは街でデートするつもりのようだ。若いというのはいいことだ。

 

「だけどさ。ユッキーだってどこか連れて行った方が良いと思うよ? 遊園地行くとか、公園とか、プールとか」

「おれはお前にアドバイスされる筋合いはない」ベッド上で寝転がる零は、こちらを見下ろしてくるスバルにぶっきらぼうな態度で言う。「おれは行きたいところに、行きたい時に行くんだ」

「零兄、それ自己中過ぎない? ユッキーもどこか行きたいと思っているんじゃないの?」

「雪風がどこかへ行きたいなら、雪風が自分の口で言うさ。彼女は我慢なんてしないからな、要求があればすぐに言う」

「でも──」

「いいから、おれに構うな。時間の無駄だ。……ランスターだって待っているんだろう?」

「むう。たまには気分転換した方が良いと思うのにな」

「世界と世界をまたぐほどの気分転換があると思うか?」

「……零兄が言うと説得力すごいね」

「まあな」

 

 零はそれだけ言って布団の中にもぐりこんだ。世界がどれだけ変容しようと布団の中の、この心地よさは変わらないだろう。

 

「こんな早くから昼寝? 日曜日の中年おじさんじゃあるまいし」

「いいから出てけ」

「せっかくの休みなんだよ? 零兄こそ時間を有効活用するべきだと思うな」

「おれの時間の使い方はおれが決める。お前が決めることじゃない」

「いいから、ほら、起きようよー。朝だぞー!」零のもぐりこむ布団をゆさゆさと揺らすスバル。

 

 本当に、どうしてこの少女は自分などに構ってくるのだろう。こんな、冷徹で、機械のような男に。まさかこの自分に気があるわけでもあるまいし。将を射んと欲すればまず馬を射よの理屈で、自分と仲よくなることで雪風と触れ合おうとしているのだろうか。

 とにかく、やめてほしい。これ以上この自分に関わらないでくれ、と零は思った。これ以上彼女達のような人間と触れ合っていると、ブーメラン戦士としての自分がどこかへ行ってしまうのではないかと考えてしまう。すでに自分の人格は変容しているのかもしれない、とも思ってしまう。そんなのは、嫌だ。

 

 スバルには悪いが──いや『彼女に悪いが』などと考えてしまう時点でブーメラン戦士としてはおかしいのだろうが──ここら辺で強く突き放しておかないと、余計に自分がおかしくなってしまいかねない。彼女と自分は、違う人種なのだ。いい加減、お互いに離れるべきなのだ。

 

 そう思い、いいかげんにしろ、と怒鳴るつもりで零が息を吸い込もうとしたときにそれは起きた。

 

「ギニャア!」

 

 バキン、ゴキン、ガシャン、という金属音と共に、猫のような悲鳴が二人の耳に聞こえた。思わず零は布団を跳ねのけてベッドの上で身構える。スバルは零の跳ね除けた布団に巻き込まれ、そのまま下敷きになった。

 

「うーいてて、どこだ、ここ」

「……カールか。なんでここにいる」

 

 零の視線の先には、ほこりまみれになった大きな黒猫──もとい、黒猫型使い魔のカールが床にへたり込んでいた。警戒すべき存在ではないことに零は安堵し、ため息をつく。

 見れば、カールの頭上には換気口らしき穴が開いている。先ほどの金属音は換気口の蓋が壊されて床に落ちた音だった。カールは換気口の蓋をぶっ壊して侵入してきたのだ。少なくとも零はそう認識することにした。

 

「なんだ、フカイのやつじゃにゃいか。ユキカゼはどうしたんだよ」

「雪風ならシャマルと一緒だ。おれが訊いているのは、どうしてお前が換気口の蓋をぶっ壊しておれの部屋に侵入してきたのか、ということだ」

「ソフィアの奴がいじめるからさ、逃げてきたんだ。かくまってくれ、ついでに昼飯奢って」

「だれがお前に奢るか。とっとと出てけ」

 

 零はカールがとてつもない大食いであることをソフィアから聞かされていた。この悪魔のような黒猫に一食でも奢ろうものなら、それが習慣になってしまい、自分がこの世界で貯めたなけなしの財産が数日で消失することだろう。

 

「えー、ケチ。そんなにカリカリしてると将来禿げるぜ?」

「いいから、出てけ」

「せめてかくまってくれよー。見つかったら焼き猫にされちまう」

 

「じゃあ、私と一緒に街に行く?」布団の下からスバルが這い出して言った。「私達これからバイクで街に行くつもりなんだよ。よかったら一緒にどう?」

 

「いくいく!」カールは尻尾をピンと立てて、心底嬉しそうに答えた。「それならソフィアから逃げられるし、街なら美味いモノたくさんあるもんな!」

「あ、でも。それだとバイクで三人乗りになっちゃうな。大丈夫かな」床から立ち上がりながら、スバルがううむ、と考え込む。

 

「……猫だから三人ではないだろう。二人と一匹乗りだ」冷静に言う零。

「……それもそうだね」

「よし、じゃあ早く連れてってくれ! せめて今日一日は逃げ切らないといけないんだ」ぶんぶんと尻尾を大きく揺れ動かして、カールがスバルの元に駆け寄る。「猫焼くべきか死すべきか、それが問題だ、だよ」

「それ、どっちも死んでるぞ」

 

 確か『生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ』のはずだ。ハムレットだったかな、と零は思う。シェイクスピアは同じイギリス人のブッカー少佐もそれなりに好きだったから、前に言っていたような気がする。この大食猫にはハムレットなどではなくハムエッグがお似合いだ。

 

「ま、とりあえず行こうか。──じゃあ零兄、またね。一時間もしたら起きなよ? 夜眠れなくなっちゃうから」

「今度ソフィアが怒ったら、かくまって」

「二度と来るな」

 

 部屋から出て行くスバルに嬉々としてついていくカール。猫のクセに器用に二足歩行でついていくというのはいったいどういうことなのか。まったく謎の黒猫だ。

 

 ああ、もう。眠れなくなってしまったではないか。零は床に散乱した布団を軽く叩いて、再びベッドに戻して眠ろうとしたものの、スバルとカールにひっかき回されたせいで眠気がほとんど飛んでいたことに気づき、小さくため息をついたのだった。

 

 そろそろ本格的に、彼女達から遠ざからなくてはならない。零は布団の中にもぐりこみながらそう思った。六課から出る、という物理的なものではなく、心理的に彼女のような人間から自分を離した方がいい、という意味だ。それがスバルにとっても深井零という人間にとっても良いに違いない。

 

 きっと、あの明るくて暖かい少女達と触れ合い続けることになるなら、自分は彼女達の色に染まって、もう二度とブーメラン戦士の色に戻ることができなくなってしまうだろう。この自分を不可逆的に変容させてしまう存在は、自分にとって大きな脅威だ。自己を何か別のモノに変えられてしまうのは、消化されてしまうのと同じで、怖い。

 

 今回はカールが乱入してきてくれたからスバルが出て行ってくれたものの、もし自分があの時点でスバルを拒絶するような言葉を吐いていたら、どうなっていたことだろう。彼女は傷つくだろうか。零は静かに考えて、己が出した結論に、再びため息をついた。

 

──きっと、あの少女は突き放してもまた来るのだろう。そういう人間なのだ。自分とは違って──

 

 

 

 

 

──こういう時、深井さんならどうするだろう──

 エリオは身体を固まらせながら、少々熱っぽくなった頭で考えた。なぜとっさに思い浮かんだのが深井零なのかというと、こういう状況に一番慣れていそうな男性が、自分の知り合いの中では彼だろうからだ。

 

 顔も良いし頭も良くて雰囲気もクールだ。なによりも空軍特殊部隊のエリートである。きっと元の世界では女性にモテたに違いない。というか、女性だらけの六課でも戸惑うことなく暮らしているから、少なくとも女性には慣れているということだ。女性に関心がないという可能性もあるが、それは精神衛生上の問題から考えないことにする。

 いろいろと異論はあるだろうが、六課で女性に慣れていそうな男性といったら深井零以外に考えられない。明るい性格のヴァイス・グランセニック陸曹や、八神隊長の副官であるグリフィス・ロウラン准陸尉も確かに女性に慣れている可能性はあるが、深井零は特に──性的に、というか、恋愛的な意味で──女性経験が豊富そうなのである。

 

 いや、性的にって、僕は何を考えているんだ。エリオは自分の思考を責める。

 違う、なんというか、その、性的だとかそんないやらしい観点じゃなくて、もっとこう、扱いというか、触れ合いというか。多くの女性と関わってきたというか。とにかくそんな観点から見た場合、深井零は六課の誰よりも女性とのスキンシップやらコミュニケーションやらに慣れていそうなのだ、と自分は感じたのだ。

 

 自分でも何を考えているのかわからなくなってきた。エリオは心を落ち着かせようと大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。落ち着こう。状況を整理するべきだ。まず話はそれからだ。

 ドクンドクンと胸の中の脈動がうるさく感じられる。止まれとは言わないけど少しは落ち着け僕の心臓。

そう自分でも普通ではないと感じられる思考を自覚するエリオ。とりあえずもう一度深呼吸。

 

 

 自分は今、公園のベンチに座っている。天気は快晴。青空が綺麗だ。風はそよ風程度。自分はベンチに座った状態で背筋をぴんと伸ばしている。なんだか面接を受ける時の姿勢のようにも見える。それだけ緊張しているわけだ。

 

 では、何が原因でエリオ・モンディアルという少年、すなわちこの自分がそれほどの緊張状態に置かれているのかという問いが言語的に、必然的に、発生する。何らかの現象が起きるのはそれに対応した理由や原因が無くてはならない。小難しい言い方をするのであれば因果律というやつだ。この宇宙はそれによって普遍的に支配されている。宇宙のどこへ行こうと変わらない。そんなことを何かで知った気がする。

 

 自分を緊張状態に置いている存在。それは良く知っている存在だ。良く知っている、などというものではなく、日常的に接している存在だ。そしてその存在は現在、極めて間近に、いる。そう、いるという言葉を使った通り、その存在というのは人間なのだ。女性だ。その女性が、この自分の身体と心をひどく緊張させているのである。

 

 エリオは、その女性を再び視覚によって認識するべく、固まりかけた視線を少しだけ下にずらす。ほんの少し移動させただけでその女性を視界の端に捉えることができた。

 桜色の美しいショートヘアーが視界を埋める。繊維状にされた宝石のような光沢がきらきらと陽光を反射してエリオの眼を刺激する。そしてその毛髪、および皮膚から香るなんとも言えない、未発達な少女のにおい。さらには大腿部前面──座っている現在ではすなわち上部──に感じられる柔らかく、繊細な身体の心地よい重み。

 これは、いけない。エリオは沸騰しそうな脳髄で、かろうじてそう思考した。

 

 単刀直入に言ってしまうと、エリオ・モンディアルという少年の大腿部は、キャロ・ル・ルシエという少女の上半身によって圧迫されているのである。

 

 人はそれをこう呼んでいる。『逆膝枕』と。

 

 

 ただの膝枕ならまだしも、キャロの上半身が位置している場所がいけなかった。ほとんどエリオの胴体部と密着しているのである。11歳のエリオの身体と心は、今まさに子供から思春期の男へと変化していこうとしている最中だ。当然女性の身体への関心は加速度的に高まっている時期となる。

 そんな時期に、同じ年頃の少女の身体が、よりにもよって男の象徴に触れるか触れないかの場所にあるのだ。というかすでにキャロの頭部はエリオのモノを服の上からわずかに圧迫しているのである。動揺しないはずがなかった。

 

 どうしてこうなった、とエリオは自問する。すでに何回も自分に問いかけたことであるが、問わずにはいられない。もしかしたら無意識の内に神にも問いかけているのかもしれない。

 

 そう、フェイトの車でキャロと二人、街まで送られたのは覚えている。その後少し歩いてこの公園について、売店でクレープを一緒に買ったのだ。うまかった。それはいい。問題はその後に起きた。食べながら歩くのは行儀が悪いので近くのベンチに座ってクレープを食べていたのだが、食事をしたことによるものなのか、キャロが眠気を訴えたのだ。

 まあ、それは良くあることだ。食べたら眠くなるのは異常でもなんでもない、ただの生理現象だ。だから、その後彼女がエリオの肩にもたれかかって眠りこけてしまったのも全く持って普通なのだ。直後にエリオが少し身じろぎしたことによってキャロの上半身が膝の上に乗っかってしまったということを除けば。

 

 本当にどうすればいいのだろう。エリオは考えた。このままキャロが起きるのを待つにしても、それまで自分はこの状態で耐えなくてはならない。なんだ、このラブコメ展開は。恥ずかしくて悶え死にそうだ。嬉しいと言えば確かに嬉しいのだが、理性から湧き出す『恥ずかしい』という感情がそれを覆い隠してしまっている。

 

 恥ずかしいと言えば、通行人の視線も痛い。通りかかった人々は、皆一様にこちらを見て、ニヤニヤするのだ。あいにくと自分には見られることで快感を得るような趣味嗜好は存在しない。恐らく皆こちらのことを微笑ましく思っているのだろうが、その優しさが痛いのだ。

 

 こんな時自分が『どうだ、うらやましいだろう』などと今の状況を自慢できるような度胸と図々しさを持っていたら、と思ってしまう。

 あまりの恥ずかしさに自分の顔が真っ赤になっていることは感覚で分かる。顔が猛烈に火照っているからだろう。

 どうして感情というやつはコントロールが効かないのだろう。ああ、キャロ、早く起きてくださいお願いします勘弁してください。

 

 先ほどから起こそうと呼び掛けているのだが、キャロはエリオの膝の上で完全熟睡している。少なくともあと10分、いや30分はこのままだろう。

 すなわち、自分は、あと30分程度はこの羞恥に耐えなくてはならないというわけだ。ある意味拷問だ。

 

 誰か、助けて。念話は使わないが、心の中でそう念じた。

 

 誰でもいい。神様でも悪魔でも、天使でも、猫でも──

 

 

「よ、エリオ。こんなところで何やっているんだ?」

「ほひゃ!?」

 

 背後からかけられたその声にエリオはビクリと身体を震わせた。ついでに思わず開いた口から変な声が漏れる。

 

「にゃんだよ。変な声出しやがって。そんなに驚いたのか?」にゃはは、と声変わりを始めたばかりのような声質の笑い声が左肩の辺りから聞こえた。

 

 エリオは錆びついたネジのごとく、ギギギと音を立てそうなくらいぎこちない動きで首を左に向けた。正面から90度向きを変えるだけだというのに、動揺のあまりその動作に5秒ほどを費やした。

 

 ベンチの背もたれの上に、黒猫が乗っかっていた。

 

「カカ、カ、カール。い、いったいどうしてここにいるの?」

 

 その黒猫は最近機動六課に居座り始めたソフィアという女性の、使い魔だった。ソフィアは六課が気に入ったのか、それともエディスと零にまだ怨みがあるのか、はたまた雪風が可愛いと思ったのか、元の隊に長期休暇を申請して六課に入り浸っているとのことだ。

 良く知っている猫だったことが余計に動揺を誘った。動揺のあまり舌がもつれるエリオ。

 

「スバルとティアナに頼んで、バイクに載せてもらったんだよ。二人とも街に出かけるって言っていたからな。だから、ついてきた。街でいっぱい、いろんな御馳走を食べるんだ」

「じゃあ、スバルさんとティアナさんも来ているの?」

「まあな。でも、あちこちの店を食べ歩いていたら、はぐれちまったんだ。で、知っている人間の匂いがしたからここに寄ったのさ」

 

 それを聞いてエリオは、ほう、と安堵の息をつく。良かった。あの二人がこの場にいたらさらに面倒なことになっていただろう。目撃者は少ない方がいい。なんだか犯罪者の心理みたいだ。

 

「で、なんなんだ。こいつ」カールは細い背もたれの上に乗ったまま、器用に前足で眠りこけているキャロを指した。「お前に膝枕してもらっているみたいだけど。お前らデキてたのか?」

「いやいやいや、そんなんじゃないよ。ただ、クレープ食べたら少し眠くなって、そのまま寝ちゃったんだよ」

 

 ふうん、とカールはその答えを特に気にもしないように、キャロとエリオの顔を交互に見つめた後、何を考えてか背もたれから大きくジャンプし、ひらりとエリオの足元に着地した。猫以上に軽やかで、しなやかなその動きにエリオは感心した。

 

「すごいね」

「そりゃあ、カール様だからな」前足を舐めながら答えるカール。

 

 そこで会話がいったん途切れた。特に話すことも無かったし、エリオとしてはカールにどうこの場の目撃証言を喋らないようにさせるべきか悩んでいた。エリオはその沈黙を気まずく思い、カールは相変わらずマイペースに毛づくろいを続けていた。

 

 20秒ほど経ってから、一通りの毛づくろいを終えたカールが、唐突に口を開いた。

 

「お前、この子と交尾したいのか?」

「ふぁっ!?」

 

 思いがけず変な声が出た。

 

「ど、どういう意味なの、それ」

「だから、お前はこのキャロって子と交尾してみたいのか、って聞いているんだよ」

「こ、こここ、交尾って、ええ!?」

「だから、交尾、だよ。男のイチモツを女のあそこに突っ込むんだ」呆れたようにカール。「そんなことも知らないのか」

「知るもなにも、僕たちはまだ子供だよ!」慌てながらエリオは反論した。

 

 一応、同年代の子が知っている保健体育レベルの知識は持っているが、それでもその方向の話をするのは恥ずかしい。

 それに対し、首をかしげて不思議そうにするカール。

 

「そうか? お前の体臭は、この子と交尾したいって言っているんだけどな」

「僕の、体臭?」

「まあな。俺の鼻は人間よりずっと鋭いんだ。だから嗅げばその人間の体調とかも分かるのさ。で、今お前の匂いを嗅いだら、発情している人間のオスと同じ匂いがしたんだ。一番近くにいる人間のメスはその子しかいないだろう。だから、お前がこの子と交尾したいって考えているんじゃないかって思ったんだ」

 

 予想以上に論理的な話であることに驚くエリオ。確かに犬や猫の嗅覚は人間のそれを遥かに凌いでいる。犬に至っては尿の匂いを嗅いだだけで、その人の体内にガンがあるかどうかわかるほどだ。だから、対象となる人間の体臭からその人間が発情しているのかを知ることができても不思議ではない。

 

「人間ってのは不便だな。自分達が住みやすくなるために作った社会のせいで、交尾したい時に交尾できないなんてさ。猫の世界じゃあしたい時にするんだ。気持ちいいぞ」

「猫と人間を一緒にしないでほしいな」顔を真っ赤にしながらエリオ。「それにその……人間の社会じゃあ、女性にそういうことをしたいって直球で言うのはマナー違反なんだ。ビンタされても文句は言えないよ」

 

「俺、人間でなくてよかった」ぴょこん、と尻尾を上に立ててカールが言う。「人間っていうのは生きるのをスムーズにするために、いつも本音を建前の後ろに隠しているんだよな。そのせいでお互いの気持ちが分からなくて喧嘩したりするんだ。わけがわからないぜ。何のために本音を隠しているんだか。交尾したいなら交尾したいって言えばいいのにさ。猫の方がマシだ」

 

 むう、とエリオは押し黙った。思っていたよりもずっとこの黒猫型使い魔は頭が良いというか、鋭い。言っていることは少々下品だが、人間の社会の問題点をそのまま言っている。

 人間が高度な文明社会を構築してからまだ一万年も経っていないのだ。生命の進化のスピードからしたら一瞬にすぎないわずかな時間だ。そんな短期間にそれまで培ってきた本能やら習性を現代社会に適合させるのは不可能と言っていい。それまで何百万年も狩猟採集生活を続けてきたのだ。急に合わせろというのが無理な話だ。

 狩猟採集生活を営んできた遺伝子と本能を持ったまま、高度な情報社会で窮屈な生活を営むことを強いられている。ストレスが溜まらないはずがない。

 カールは、まさしくそのことを言っているのだ。

 

「お前もその子も猫だったらよかったのにな。そしたら発情期に好きなだけやりまくれる。我慢する必要なんてないんだ。もっと自由に生きようぜ。俺みたいに好きな時に寝て好きな時に食べて好きな時に交尾するんだ。きっと楽しいぜ」

「だから、僕もキャロもまだ子供なんだよ。そういうのには適齢期ってものがあるんだ。僕たちはまだその歳に届いていないから、考えていないだけなんだ」

「それが、建前っていうんだろうけどな」尻尾を左右にゆらゆらと揺らしながらカール。「ま、いいさ。そういうことにしておいてやるよ」

「いやだから、実際そうなんだって──」

 

「エリオくん、適齢期って、何の話?」

「き、キャロ!?」

「あーあ、起きちまった。お前が慌てるから」

 

 それまでぐっすりと寝ていたキャロが、むくりと起き上がる。眠たそうな目をこすりながら。

 

「あ、カールくん。おはよう」

「おはよー」右前脚を上げて応えるカール。おもしろそうなことになったな、といった目つきで口元をニヤつかせながらエリオとキャロを見る。

「あー。寝ちゃったんだ。私」何事も無かったかのように伸びをして小さなあくびをするキャロ。「で、何の話だったの? 適齢期がどうとか言っていたけれど」

「それはな、エリオの奴がお前とこう──ムム、ムガムガ」

「ははは、は、なんでもないんだよ、キャロ。ハハハ」

 

 カールの口と鼻を右手の掌で包むようにして掴んで黙らせたエリオは、不思議そうにこちらを見てくるキャロにわかりやすすぎる愛想笑いを向けた。

 

 さすがに『人間の交尾の話をしていた』などとは口が裂けても言えないエリオだった。

 

 

 

 

 

「ねぇねぇ、さっきカールと何話していたの?」

「いや、だから、なんでもないってば」

「適齢期がどうとかっていうのは?」

「それはその……お、お酒の話だよ。うん。カールがお酒飲まないかって聞いてきたから、そう返したんだよ」

 

 大人にならないと味わえない、という意味では間違っていないはずだ。エリオはうまくごまかせたことに満足する。

 

「カールはもう大人なんだね」キャロが自分達の足元を歩くカールに訊いた。「ワインとか、飲むの?」

「ああ、飲むぜ。貴腐ワインってのが甘くて好きだ。あとニトログリセリンも甘くて好きかな」

「待って、僕の耳がおかしくなったのかな」信じられないようなものを見る目でエリオ。「ニトロ、グリセリン?」

「ああ、狭心症の薬のやつを加工して、爆発できるようにしたやつを飲むんだ」二人の足元でカールの尻尾がくるりと空中に輪を作る。「腹の中で爆発すると効くんだこれが」

「さらっと危険物取扱法違反をバラさないでほしいな。それにお腹の中で、爆発? そんなことしたら死んじゃうでしょ?」

「俺の胃袋は特別製なんだ」ニヤリ、と器用に表情を作るカール。「なんならピンの外れた手榴弾を丸飲みしてみようか? 口から爆炎吐けるぜ」

「しなくていいしなくていい。だいたい、どこからそんなものを」

「少し前にテロリストだかマフィアが持っていたのを1ダースほどちょろまかして、おやつにしていたんだ。お前も食べるか?」

「……どこからが冗談でどこからが嘘なのかわからないよ」

 

 疲れるよ、本当に、と言わんばかりの呆れ顔でエリオが肩をすくめた。キャロはすごいねー、だとか、相変わらず少しずれた反応を示している。

 

 二人と一匹は先ほどいた公園から少し離れた通りを歩いていた。

 久々の休暇だ。ずっと公園でのんびりしているのはもったいない。たっぷりと味わうべきだろう。隊長達もそのために今日をオフにしてくれたのだ。この黒猫と一緒なのは少し変な感じがするが、キャロがいる。それだけで嬉しい。そう思うエリオは小さく微笑んだ。

 

 すると足元の黒猫は、エリオの心を読んでいるかのように彼を見上げ、にしし、と不気味な笑みを浮かべた。うっかり念話で今の思考を漏らしていたのではないか、と不安になるエリオ。

 

「ねぇねぇ、次はあそこのアイスクリーム屋さん行ってみようよ」彼の不安など露ほども知らないキャロがはしゃぐようにして前方を指さす。「この前テレビでやっていたお店だよ」

「うまそうだ」じゅるり、とカール。「ワサビのアイスクリーム、あるかな。美味いんだあれ」

 

 この二人、いや一人と一匹は意外と相性がいいのかもしれない。エリオはそう思ってしまい、内心ため息をついた。この黒猫がいると、まるで自分の方が異常なのではないか、と考えてしまう。というよりも自分が正気であるのかどうか自信がなくなってしまう気がする。こう、足元がぐらつくような──

 

「あれ?」妙な違和感を覚えたエリオはその場で立ち止まった。今さっき、足元が本当にぐらついたような気がしたのだ。しかも自動車が通る時のような響く振動ではなく、下から突き上げてくるような揺れを感じた。

「どうしたの、エリオくん」

「今の……地震?」

「ちっとも揺れてないよ」

「……気のせい、か」

「んにゃ、気のせいじゃにゃい」カールがエリオの足元に近寄って言った。見ればエリオの両足はマンホールの上に乗っかっている。「このマンホールの下から、人間の匂いがする」

「誰か、いるってこと?」キャロが心配そうに見つめてくる。

「工事じゃないことは確かだね。落下防止のために何か警告を置いておくはずだもの」エリオはゆっくりと後ずさりながら、マンホールの蓋から目を逸らさないで言った。「このマンホールは大型の地下水路のやつだ。誰かが出ようとしているのかな。何か地下で事故があったとか」

「開けてみようぜ。犯罪者なら俺が殺してやる」

「物騒なことは止めてよ。──でも、どうやって開けるの? 道具もないのに」

「俺に任せろ」カールがそう言うと、彼が身につけている銀色の首輪が強く輝いた。「マスターはあんなオタンコナスだけど、俺だって使い魔なんだ。魔法の一つや二つ、ちょろいもんだ」

「それ、デバイスだったんだ」ちょっと驚くところがズレているキャロ。

「まって、ここは市街地だよ。それにマンホールなんて壊したら器物損壊罪が──」

「構うもんか。緊急避難を適応しろ」銀色の首輪から放たれる赤い魔力のビームが、マンホールを固定していた6つの留め金を瞬時に焼き払った。「もしかしたらうまいこと人命が関わってくれるかもしれない」

「むしろそれがない方が良いんだけどな」

「それより見ろよ、誰か出てくる」

 

 カールが警戒する猫のようなポーズで叫んだ。留め金が破壊されて自由になった金属製の蓋が、ガタリとずれる。それを持ち上げている手が見えるが、予想以上に小さかった。自分達の手よりも小さいのかもしれない。

 そして中から出てきたのは──

 

「お、女の子!?」キャロが悲鳴に近い声を上げる。

「ち、食い殺し損ねた」少し残念そうなカール。

 

 マンホールの蓋をどかして内部から現れたのは、年端もいかない金髪の少女であった。自分よりももっと幼い。5歳かそこらへんじゃないのだろうか。片手にスーツケースのようなものを抱えながら、這い出てきている。

 

「ケガしているみたいだ。とりあえず保護しないと。──きみ、名前は?」

 

 エリオが少女の腕を掴んで引っ張り上げるが、少女は外の明るさに目がくらんだのか、一瞬まぶしそうな表情をしたあと、気絶するようにして倒れた。

 

「き、気絶しちゃったよ」

「とりあえず、六課に連絡を入れよう。なにか事件が起きているのかも」

 

「思いっきり事件だぜ」カールが少女の這い出てきたマンホールの暗闇を覗き込むようにして言った。「この臭い、たぶんガジェット・ドローンだ」

「こんなところに!? どうして」

「しらねーよ。その子を追いかけているのかもな。──まだ距離はあるけど、こっちに近づいてきてやがる。十体はいるぞ」

「どうしよう」

「おれが行く」少女と二人を一瞥してカール。「ガジェットの十体くらい、食い殺してやる」

「だめだ。危険すぎるよ。皆の応援を待って──」

「おれがやりたいんだよ。今日はなんだかムシャクシャする。ガジェットにでも八つ当たりしないと、気が収まらない」

「カール!」

「終わったらトウガラシ入りアイス用意してくれ。頼んだぜ」

 

 カールは楽しげに尻尾をゆらりと一回揺らして、暗闇の中に飛び込んだ。

 

 

 

 

 

『カール! 戻ってきなよー!』

 

「にゃひひ。こんな面白そうなこと、楽しまなくてどうするんだ」

 

 頭上から聞こえてくるエリオの声を無視してカールは暗い水路の足場に降り立つと、えらそうな態度を示すように前足を組んで、そのまま後ろ足二本だけで歩き始めた。えへん。俺を誰だと思っているんだ。天下のカールさまだぞ。

 

「安心しろ。俺は猫だぜ。この程度の暗闇」カール、段差に足を取られ、人間のように派手にすっ転ぶ。「……どうってことあるな。──シルバーバイン、環境探査モード」

 

 その声に応答するように、彼の首輪が銀色の光を一瞬だけ放った。シルバーバインと名付けられた首輪型のデバイスは、すでに周囲の空間形状の探査を始めていた。カールの首にその情報が直接入力され、脳に伝わる。視覚ではなかったが、カールには水路の構造やその内部の様子が『見えた』。

 

「こっちだな」

 

 水路の様子が解るとはいっても、紫外線や赤外線で見えている様子を可視光で見たときのように見せているだけだ。実際に目で見るのと大差ないから障害物の向こうに何があるのかまではわからない。カールは己の嗅覚を頼りにガジェットのいる方向へ進み始めた。今度は油断せず、四足の駆け足だ。

 

 進むにつれてどんどんガジェットの放つ金属臭が近づいてくる。人間には『機械の臭い』程度にしか判断できないが、カールにはそれがガジェット・ドローンの放つ臭気であることが分かっていた。

 奴らの臭いは本当に気に入らない。鉄臭いくせに血の一滴もありゃしない。これでは詐欺だ。食べがいがない。最初は中に血がいっぱい入っているとばかり思っていたのに。──ん?

 

 カールは気づいた。臭いの濃度上昇を考慮した限りガジェット達の進行速度が鈍っているようにしか思えなかった。どうやらあの少女を見失ったらしい。つまり、こちらから仕掛ければ向こうにとっては奇襲となる。絶好のチャンスだ。おやつにちょうどいい。カールは暗闇の中でほくそ笑んだ。

 

 とうとうガジェットの臭いが間近に迫った。鉄臭さがプンプンする。

目の前は左右へ直角に通路が伸びている。丁字路だ。この左右のどちらかに敵はいる。臭いだけではどちらにいるのかまではわからない。

 

 ひょこり、と角から顔を出す。右を見て、いない。左を見て、いた。見える限りでは4体。ここから20mほどの位置。

 

 先手必勝だ。と心の中で叫ぶカール。その首輪から伸びた赤い光線は一撃のもとにガジェット・ドローンの装甲をぶち破り、内部の中枢コンピュータを粉砕。一瞬で中枢ユニットを失ったガジェットは全機能を停止してしまう。

 

 

 

「にゃはは。正義は勝つのだ!」

 

 ガジェットは調子に乗ってそう叫んだカールの声を集音マイクによって探知。そして先ほど受けた射撃から敵位置を推定した3体がカールの方を向いた。火器管制レーダーと赤外線センサーが暗闇の中にいるカールの姿を火器管制コンピュータの映像処理ユニットに映し出す。火器管制コンピュータが射撃指示。Fire。

 

「当たるかよ。そんなの」ガジェット三体が撃ってきたビームをジャンプで回避するカール。「この中古野郎」

 

 空中に飛びあがったカールは、進行方向上の壁を足場にしてさらに跳躍。反対側の壁を利用してさらに飛ぶ。両側の壁を蹴り続けることによって、カールは空中を高速でジグザグに移動していく。ある時はガジェットに近づき、ある時は遠ざかり、しかしその間にも左右へ飛び続ける。ガジェット達の火器管制コンピュータは黒猫の素早く変則的な挙動についていけない。

 

「もらい!」カールは隙をついてガジェットの一体に飛びかかり、その表面に牙を立てた。バキリ、と音を立ててガジェットの装甲の一部が剥ぎ取られる。装甲のはがされた部分からはガジェットの内部機構が丸見えになっていた。

 

「いただきまーす」にやり、と不気味な笑みを浮かべて黒猫がその穴に入り込む。ガジェットの中枢コンピュータは己の内部に敵がいることを認識できず、目標を見失う。他の二体も味方の内部に敵が入り込むという状況を理解できていない。

 入り込まれた個体の中枢コンピュータは、目標を探せ、との指令を火器管制コンピュータと環境探査ユニットに伝達しようとするが、遅かった。

 その両ユニットとも、すでに黒猫の歯で噛み砕かれていたからだ。

 

 

 

「んー。まずい。スカリエッティとかいう奴は味オンチなんじゃないのか?」ガジェットの中枢ユニットであったものを奥歯でバリバリと砕きながらカールが呟く。「肉が欲しいな。──なんだこれ?」

 

 ガジェットの内部機構をあらかた食い尽くしたカールは、妙な容器を見つける。ラグビーボールを少しだけ円形に近づけたような容器だ。全長15cmほど。これまでのユニットに比べてやけに密封性が高い。液体か何かが入っているようだ。牙を缶切りのように使い、その金属製容器に穴を開ける。ガリガリ、バキン。

 

「うお! 脳みそだ!」

 

 カールは感嘆の叫びを上げた。容器の中に封じ込まれていたのは、人間の脳髄とよく似た有機体であった。

 しかし人間のそれよりもずっと小さい上に、形がかなり違っていた。脊髄に相当する部分もなく。ただ大脳だけで構成されているような感じだ。医者か人体に精通している者に見せれば、それが人間のものではないことはすぐにわかるはずだった。さらには人工的に成型されたような部分さえもある。

 

「うまそ」

 

 それが人間のものだろうがなかろうが構わないと言いたげに、即座にカールはその脳髄モドキにかぶりついた。前歯でその新皮質のような組織をえぐり取る。柔らかくて、うまい。しかも脳髄モドキが浸されている液体は、とても甘かった。ブドウ糖の味だ。カールにとってこれらはまさしくデザートのようだった。

 

「うまい!」ペロリと脳髄モドキを平らげてカールが言う。ついでに容器に入っていた液体も残さず飲み干す。「こいつはとんだごちそうだぜ!」

 

 予想外の美味に感極まったカールは、先ほどガジェット内部に侵入する時開けた穴からピョコンと顔を出し、残る二体のガジェットを見て笑みを浮かべた。

 

「お前ら、良いもん持ってるな」

 

 二体のガジェットが再び姿を現した黒猫にロックオン。カールは構わずに装甲だけになったガジェットの抜け殻の上に乗って、その二体に飛びかかる態勢をとった。

 暗闇の中にエメラルドグリーンの瞳と、三日月のように耳まで裂けた真っ赤な口が浮かび上がる。

 

「お前ら全部俺様の獲物だ。残らず食らい尽くしてやるよ」

 

 その笑みは、さながら悪魔のようであった。

 

 

 それから5分ほどで、地下水路を徘徊していた残りのガジェット・ドローン8体は全滅した。

 

 

 


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