魔法少女リリカルなのは 妖精の舞う空   作:スカイリィ

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第二十八話 戸惑い

 

 哀れ、などとは感じなかった。

 

 このありさまは彼女自身が引き起こしたものであり、自分が干渉する必要性などどこにもない。零はティアナが憔悴しきっている様子を見ながら、思った。

 このような練習を積み重ねていれば、いずれ疲労がたまって自滅するのは目に見えている。彼女はそれを自覚していない。そんなことは零にでもわかった。

 

 自滅するなら、勝手に自滅してしまえばいい、零はそう考える。このような鍛練をしたところで、得られるのは無意味な充実感と疲労だけだ。それがもとで戦死することがあったとしても、それは彼女が作り出した結果であって自分には関係のないことであり、何ら心配すべきことではない。

 

──まさかここまでとはな──

 

 ティアナは零と雪風が立っているところからおおよそ20mの辺りで射撃訓練を続けていた。鍛練に夢中になるあまり零の存在には微塵も気づいていないようだった。

 

 

 ティアナには大きな才能がある、零もそれは充分に理解していた。彼女は優秀だ。作戦立案、戦況を理解できるだけの状況把握能力、正確な射撃、幻影による欺瞞工作。それらは敵と一対一で戦うにしても、多数対多数の戦いを仕掛けられるにせよ、絶対に必要になってくる力であり才能だ。それらを兼ね備えた彼女は、恐らく一般の魔導師からしてみれば羨ましい限りの存在だろう。

 

 しかし彼女は自身の力を把握していない。周囲に才能を持つ人間が多すぎて、むしろ己を『凡人』として卑下している。

 零はそれをバカバカしいと思った。それは最もたちの悪い誤解の仕方だ。

 

 戦場において自身の力量を把握することは、正確な射撃を行えるのと同じくらい重要なことだ。

 遥か昔、古代中国の兵法でも己の力量、あるいは自軍の力量を把握することは絶対条件だったのだ。弱者には弱者の、強者には強者の戦い方がある。それを理解しない者はどんな天才・強者であろうとも敗北・自滅という哀れな末路をたどってしまうことだろう。

 

 ティアナの場合はまさにそれを理解できていない状態だ。自身の内側にあふれる才覚を認識できず、自分を弱者だと思い込んでいる。

 

 

──バカな奴だ──

 

 半ば軽蔑するような目つきで零はティアナ・ランスターを見ていた。優れた資質を持ち合わせているというのに、今の彼女は効果的な鍛え方をしていない。高町なのはが行う効果的な教導に素直に従っていればいいものを、自らその効力を薄めている。なんと馬鹿馬鹿しく愚かな行為なのだろうか。そんなのは非効率的だ、低性能だ。

 

 零は怒りの感情も入り混じった視線でティアナの姿を追う。彼女の両手には二丁拳銃の形態をしたインテリジェントデバイス、クロスミラージュが握られている。あれもまたレイジングハートやバルディッシュと同じく高度な意識作用をもった人工知性体だ。まだ作られてから間もないようだが、自分で周囲の状況を認識し、判断し、人間とコミュニケートし、自らの判断で主のサポートを行うことができる。

 

 サポート、だ。主の。彼らインテリジェントデバイスは人間に匹敵するだけの高度な知性を有しているにも関わらず、自らのマスターのために手助けを行う存在として扱われている。そこが零の気に入らないところだった。

 魔導師とデバイスは真の意味において対等な関係にはないのだ。魔導師はデバイス無しでも魔法を行使することが可能だが、デバイスは使用してくれる人間がいなければ何もできない。道具なのだからあたりまえだ。どれほど高性能なデバイスであろうと出来の悪い使用者に拾われればそこまでで、最高性能を発揮することもできず最後は捨てられるか、持ち主と共に戦死であの世行きだ。なのはやフェイトという優秀な魔導師に巡り合ったレイジングハートとバルディッシュは幸運だったのだ。

 

 なんと不公平なのだろう、零はクロスミラージュを見ながら思った。インテリジェントデバイス達はみな高度な知性を持っているというのに、『デバイス』という名の通り結局は人間の使役する道具でしかない。唯一リインフォースはユニゾンデバイスというカテゴリに属し、自由に行動できる身体を有しているが、現在のミッドチルダではユニゾンデバイスは作られておらず、その数もほとんどいないという。

 

 製造されていないということはその技術が失われたか、存在が危険視されたかのどちらかだろう。

 これはミッドの機械知性に対する価値観の現れなのかもしれない。零はこの世界に来てから幾度となくそれを考えた。機械が人間に牙を剥かないように、ただの道具としてのみ使役する。人間側がどれだけ友情だの絆だの言おうとも、デバイスに対する生殺与奪の権限が使用者にある以上、結局は人間と道具という関係でしかない。

 

 深井零はそれを愚かしいと考える人間だった。コンピュータという高性能で優れた存在を、人間という出来の悪い生き物の都合でその力を制限するなんて、どうかしている。

 

 少なくとも自分は雪風の力を制限したくなどない、零はそう考えて握る雪風の手に力を込める。彼女には、常にいかなる条件であろうと最高性能を発揮してもらいたい。彼女が最大限の力を発揮するためなら自分は死ぬこと以外なら何だってしてやる。人間の作り出した枷で彼女を縛るのは絶対にやってはいけない愚行だ。

 

 だがティアナはそんなことを考えてなどいないだろう。自分のことで精いっぱいで、自分のデバイスのことなど気にしていないのかもしれない。

 今の彼女はクロスミラージュの性能を持て余す戦い方をしているんだ、零はそう考えて目を鋭くする。もっと効率の良い訓練の仕方だって少し考えれば思いつきそうなはずなのに。あれではクロスミラージュが憐れだ。

 デバイスも機械である以上メンテナンスを必要とする。つまりは消耗するのだ。所有者が無駄に使用するということはすなわち無駄に消耗していくことになる。

 

──ひどい話だな──

 

 デバイス自体は何も悪くないのに、所有者の愚かな行動の割を食う。どうしようもない不均衡だ。性能の悪いマスターに使われているのでは、いかに高性能なデバイスでも敵には勝てない。それではそのデバイスが──

 

 

 

「よっ。こんな時間に、ちびっこ連れて覗き見とは感心しないな」

 

 突然、背後から声をかけられた。零は一瞬だけ身体をこわばらせるが、その声が知った人間のものだと認識して力を抜く。

 

「……何の用だ、グランセニック陸曹」突き刺すような冷たい口調で背後に立つ男に言う零。

「だからヴァイスで良いって言っているのに。おれもあんたのこと零って呼ぶから」

「……気安く呼ぶな」吐き捨てるようにそう言うと、零は男の方に向き直った。

 

 ヴァイス・グランセニック。それが零に声をかけてきた男の名だ。階級は陸曹。前にホテル・アグスタへ向かった際に乗っていたヘリを操縦していたのが、彼だ。陽気な性格だがヘリパイロットとしてはかなりの腕前らしく、A級ライセンスを保有しているという。

 

 そんな男がどうしてここにいる、と零が無言のまま睨み付けると、ヴァイスは苦笑しながら肩をすくめた。

 

「そんな怖い顔しないでくれよ。なんで俺がここにいるかって? かわいい新人のことが気になったに決まっているじゃないか」

「……ランスターのことか。知っていたのか」

「まあな、ずっとあんな調子でさ」ちらりとティアナの方へ視線を向けるヴァイス。「さすがに心配だから俺だって注意したんだ。でも聞かなかったよ。やっぱり頑固だな」

「……注意してもあの状態なのか」驚くのも通り越してあきれる零。

「ああ、あんたからも言ってやってくれよ。そんなに無理をしたら逆効果だ、って」

「おれには関係のないことだ」

「仲間に対してその言い方は無いんじゃないのか」

 

 それに、関係のないことならどうしてこんなところで覗き見しているんだ? とヴァイスは小さい笑みを見せて問いかける。

 

「……雪風が物音に気付いて、それが気になったからだ」

 

 へえ、とヴァイスは関心したように雪風を見つめてその頭を撫でてやろうとするが、雪風は頭に触れる寸前にその右手をはたき落した。バチン、と良い音が響く。私に触るな、と言いたいらしい。

 

「──可愛い顔してるのに性格きついな。あんた似だよ、ほんと」

「……言いたいことはそれだけか」

「いやだからさ、あんたからもティアナを説得して欲しいんだよ」雪風に叩かれたのが意外と痛かったのか右手をさすりながらヴァイス。「同情してやれ、とは言わないけれどさ。仲間をいたわってやることぐらいは良いだろう。あんなありさまを見て何も思わないってことはないんじゃないか?」

「……別に」

「本気かよ。女の子が傷だらけになって頑張っているってのに、それを何とも思わないのか?」

 

 ヴァイスの問いかけに、少し考えてから零。「……何も考えることがない、と言ったら嘘になるな」

「ほら見ろ。あんたがどれだけ冷たかろうが、仲間を思いやる気持ちぐらい持ち合わせているはずだぜ」

「おれは、あいつに使われているクロスミラージュが哀れだと思っているだけだ」

「はあ?」ヴァイスは怪訝な顔をした。何言っているんだお前、というような表情。「ティアナ、じゃなくて、クロスミラージュ?」

 

 ああ、そうだ。零はそう言ってヴァイスの方に向いていた顔をティアナのいる方向に向ける。

 

「主人の都合で、あんな無駄な練習に付き合わされて……哀れだよ。あれでは最高性能を発揮できない。もっと効率の良い運用法があるはずなのに」

「……」零の説明を、何やら気味の悪いモノを見るような目つきで聞くヴァイス。

「だから、むしろランスターにはそれに対する怒りの感情の方が強いな。お前の都合でクロスミラージュの性能を損ねるな、ってところだ」

「あんた、変わってるな、いろいろと。──それでもってアルコール入ってるだろ。酒臭いぜ」

「正解だ。よく分かったな」零はかつてブッカー少佐にしたようなしぐさで肩をすくめ、軽く息をつく。弱いアルコールに脳が浸されて、自分でも饒舌になっているのが分かった。普段だったらこんなに会話することもないだろう。「だがアルコールが入っていようとなかろうと、この考え方は変わらない。おれはもともとこういう人間なんだ。人間よりも、機械の方が共感できる」

「……やっぱり変わってるよ、あんた」

「そうか」零はそれだけ言って立ち上がると、六課の隊舎に向かって歩き出した。

「どこへ行くつもりだ?」

「自分の部屋に決まっているだろう」振り返りもせずに零。「もう雪風を寝かせてやらないといけないからな」

「……」

「雪風、行くぞ」ヴァイスの時とは違って、今度は背後を向く零。

 

 だが、彼女はいるべき位置にいなかった。

 

 

 

 

 

 ふと背後に気配を感じて振り返ると、そこには見知った少女が立っていた。

 

「ゆき、かぜ?」

 

 思わずティアナはそう呟いていた。息も絶え絶えに、ぎこちない言葉使いでその妖精の名を口にする。

 

「どう、して。ここに?」

 

 疲労にまみれた身体が言うことを聞かない。もう疲労の限界だった。雪風の存在により緊張の糸を切られたティアナは、茫然としたような表情でペタリとその場に座り込んだ。心は叱咤しても、もう足が動かなかった。頬をつたう汗が気持ち悪いが、それをぬぐう気力すらない。

 

 雪風は何も言わずにただティアナを見つめていた。ティアナの荒く疲れ切った息だけが二人の間に響く。

 

 なぜ、雪風がここにいるのだろう、ティアナはうまく廻らない頭でそう考える。彼女に興味を持たれる要素なんて、こちらには皆無なはずなのに、なぜ。

 

「私を、笑いに来たの? それとも同情?」そのどちらもあり得ないだろうな、と思いながらティアナが皮肉っぽく呟くと、雪風は黙って着ていたパーカーのフードを下ろし長い髪を後ろに流した。そして静かにその白銀の髪を揺らめかせながら彼女の元に歩み寄る。その姿は幻想的で、自分とは別世界の存在であるようだ。自分なんかよりずっと清らかで、透明な壁一枚隔てた向こう側のもののように感じられる。

 

 こないで、と言いたかったが、その言葉はティアナの喉元から出てこない。疲労のせいではなく、雪風のせいだ、きっと。ティアナはそう思う。

 

 いつしか雪風はティアナの目の前にまで近づいていた。小さな雪風の背丈であっても座り込んだティアナよりはいくぶん高く、ティアナは雪風を見上げる形となっていた。そしてそんな彼女を黙って見降ろす雪風。

 

 悔しげにティアナの顔が歪む。彼女の深井零に対する強くどす黒い嫉妬心がわずかながら目の前の少女にも向けられ、怒りの感情となって胸の内から湧き出ていた。この子にまで見下されるなんて、こんな子さえも私を馬鹿にしているというのか。自然とそう考えている。

 

 彼女が怒りを孕んだ視線で睨み付けていても雪風は毅然としたままだった。

 夜風に純白の髪がわずかになびき、白磁のように白く瑞々しい肌と共に月明かりに照らされて闇の中おぼろげに輝く。その淡い光は女神か天使が空から降臨する際の後光にも似ていて、気を抜いたら跪いて拝んでしまいそうなほど気高く、清らかなオーラを雪風に纏わせていた。

 

 そんな雪風の妖しさにも近い美しさがかえってティアナの怒りを助長した。これでは雪風が神か天使で、自分がそれに救いを求めている愚者のようではないか。馬鹿にしている。どうして深井零と雪風は、そろいもそろってこちらを惨めな気持ちにさせるのか。まったく腹立たしい。

 

「帰りなさい。あんたがここにいても意味ないわよ」ティアナは怒りを抑えつつ、しかしここぞとばかりにきつく言ってやる。「私はね、正直言ってあんたのご主人が嫌いなの。……でもあの人の方が私よりずっと強い、それが私には我慢ならない」

 

 そこまで言ってもなお、聖者のように動ずることなく佇んでいる雪風を前にすると、なぜだか自分が醜いもののように思えてしまい、ティアナはそれ以上雪風を見つめていることができなかった。語りかける口調も怒りと悔しさで論理的なものからずれていく。

 

「あんたには馬鹿らしく見えるのかもしれないけれど、私だって必死なのよ。私は凡人だから、皆と並ぶには皆よりずっと努力しなくちゃいけないの。……それでもこれまではどうにかなってきた。隊長達も優しかったし」

 

 それなのに、あんた達がやってきた、とティアナは拳を握って悔しげにつぶやいた。「大して努力もしていないあんた達が、副隊長に模擬戦で勝って、実戦でも撃墜数稼いで、味方のピンチを救って……。何様のつもりよ。これじゃあ今まで馬鹿正直に鍛えてきた私が惨めみたいじゃない。こんなの、おかしいわ」

「……」

 

 そうだ、深井零さえ来なければ、今まで通りに頑張っていけたのだ。隊長達に怒られても、周りに対する劣等感を抱いたとしても、自分はそれに耐えることができたはずだ。今のように醜悪な嫉妬心を抱くことも無く、ただひたすら訓練を重ねることでもっとスムーズに己を伸ばすことができたに違いないのだ。

 それなのに、それなのに。深井零も雪風も、申し訳なく思うどころかこちらをあざ笑うかのごとく成果を上げ続けているではないか。どうして、どうして。私だけがこんな惨めな気持ちを噛みしめなくてはならないのか。絶対に、おかしい。こんなの、間違っている。

 ギリリ、と悔しさのあまり思わず歯を食いしばるティアナ。

 

「……そんなのどうでもいいって顔ね。私が悔しい思いをしようが、どれだけ努力しようが、あんたにとってはどうでもいいことなのかしら」ティアナは食いしばった歯の間から絞り出すように言った。

 

 あなたの言うことは意味が分からない、と言いたげに今度は首をかしげる雪風。彼女の仕草は明らかに疑問や疑念を示すものであるはずなのに、表情は全く変化しない。どこまでも澄んだ一対の空色の瞳がぶれることなくティアナを捉えている。まるで人間ではないかのように。

 

 一瞬ティアナは自分が人形を相手に話しているような錯覚に陥った。これではまるで人形相手の一人芝居ではないか。ティアナは半ば激昂した状態で雪風に再度問いかける。怒りのあまり声が上ずってしまうこともお構いなしだった。

 

「なんとか言いなさいよ、雪風! 笑いたければ笑いなさい、怒りたいのなら怒りなさいよ! なんでもいいから思ったことを言えばいいじゃない。私はあなたに訊いているのよ!」

「それは無理な話だな」

 

 

 そう言って雪風の背後に立った男の姿を見たティアナは、突拍子もない出来事によって数瞬間ほどその人物が誰なのかを把握できなかった。

 

「雪風はお前に興味なんてないはずだ。あるとしてもそれは、お前の持っているデバイスに対しての関心だろう」

 

 その静かな口調でティアナに語りかける男は、子猫でも愛でるかのごとく雪風の頭を静かに撫で始めた。彼の大きく無骨な手が触れると、雪風は今までの氷のような表情をほんの少しだけ緩めた。

 それとは真逆に、まるで見てはならないモノを見てしまったかのようにティアナの顔が凍りつく。

 

「──深井、さん?」

 

 ティアナは自分の唇が震えているのを意識した。深井零、彼が、なぜ、ここにいるのだ。

 

「こんな夜中に何をしているんだ」

 

 彼はいつものように淡々と、感情のこもっていない口調で問いかける。彼と会話するときはいつもこんな感じだということをティアナは理解していた。もう慣れている。

 

 だが、今だけは彼の喋り方がどうしようもなく不気味に思えた。あまりにも感情が希薄すぎて、まるで機械と話しているようだ。デバイスの人工音声よりもっと機械的で、無機質で、人間の話し方には思えない。それが、どうしようもなく怖い。

 

「……なにをしていようと、あなたには関係のないことでしょう?」その不気味さを心の隅に追い払ってからティアナは返答をした。彼の質問が発せられてから3秒ほどたっていた。「それに、その質問をされるべきはあなたじゃないんですか? こんな夜中に小さな女の子を連れ出して」

「ただの散歩だ。それに雪風が付いてきただけさ」

 

 零は再び雪風の頭を優しく撫でた。普段は親子のそれのように微笑ましい光景だが、今は違って見える。まるで、こちらが馬鹿にされているような、相手にもされていないような、そんな感じだ。その感覚がティアナの心を逆なでする。

 

「……じゃあ、早くあっちに行ってください。練習の邪魔です」吐き捨てるかのようにティアナ。

「そうもいかない。おれはお前に少し文句を言わなくてはならないんだ」

「私は、あなたに文句を言われる筋合いなんて──」

「お前がそうやって無茶な自主練ばかりしているから、こっちにもとばっちりが来たのさ。こればっかりは『関係ない』では済まされない。まったくいい迷惑だ。せっかくだから、言いたいだけ言わせてもらう」いまいましげに零が言う。

「とばっちり?」

「お前がそんな無茶ばかりしている原因がおれに対する嫉妬だ、とか。それを止めるにはおれが説得しなければならないだとか、フォス大尉がうるさくてな。いい加減迷惑なんだ。この状況じゃあ他のやつまで同じことを言い出しそうな感じだ。なんでもかんでもおれのせいにされる」

 

 そこまで聞いたティアナは彼の口から出た名前が予想外なものだったことに驚いた。エディス先生が? 確かあの人は精神科医だから人の心理を読み取るのは長けているはずだが、自分はあの人のカウンセリングを受けた覚えなど無い。だからこちらの思いなど知らないはずだというのに、なぜ、そこまで自分の心境を見透かしているのだ。

 

「──単刀直入に言う。こんな意味の無い練習は、今すぐやめろ。朝練もだ。それと教導中も教官の言うことを素直に聞け」

「そんなの、私の勝手──」

「言わなかったか? そうでないとおれが迷惑をこうむるんだ。おれは別にお前が疲れ果てようが高町なのはに注意されようが戦場で殉職しようが、どうでもいい。無駄に疲れたいのなら勝手に疲れろ。死にたければ一人で勝手に死ね。……だがおれまで巻き込むのは許さない。何度も言わせるな。おれはお前のせいで迷惑している。早くやめろ」

 

 月明かりに照らされた零の顔が、わずかながら怒りに歪んでいた。ティアナは零の怒った顔を見るのは初めてだった。ナイフのように鋭くとがった視線がティアナの瞳を射抜く。

 

「……ずいぶんと偉そうな態度ですね。あなたは私に命令できる立場にいませんよ」

「訓練の最中に教官の命令を無視しまくっているお前が言うか」

「……よけいなお世話です」

「よけいなのはお前の変に高いプライドだ。プライドを持つことは別段問題ではないが、お前のそれは性能を低くする厄介なタイプのプライドだ。高性能になりたいのなら、高町なのはに従え。それが一番の近道だ」

 

 何気なく出た『性能』という言葉がティアナの心をチクリと刺した。性能を低くする? 高性能? この男は、まるで兵器か機械を見るようにこちらを見ているというのか。

 

「嫌です。あなたの言うことを聞くなんて気は毛頭ありません」

「お前は自分の能力を計りきれていない。そんな状態なのに自分でトレーニングメニューを作るなんてのは愚の骨頂だ。第三者に教えを乞う方がマシなんだ」

「自分の力ぐらい、自分で分かります」

「自分自身のクセやら動きの特徴やらをお前は全部把握しているのか。そんなことは人間ではまずありえない。主観に依存する人間という存在である以上、絶対に第三者の客観的意見が必要なんだ。そのための教官だ。それをお前は──」

「私は、あなたの意見なんて聞いていないんです」零の言葉を頑なに拒むティアナ。「あなたに、私の何が分かるって言うんですか! 今まで私がどれだけ頑張ってきたのか……」

「お前がどれだけ努力しているかなんてことは興味ないし、おれには関係のないことだ。それにどれだけ努力してところで結果が出せなければ意味がない。軍人だろうが管理局員だろうが、どんな職業の人間だって結果が全てなんだ。そんなことも分からないのか」呆れたようにため息をつく零。「とんだ学生気分だな。努力さえすれば評価されるとでも思っているのか。馬鹿馬鹿しい」

 

 言い返す言葉も無かった。ティアナはくやしさからギリリと唇を噛む。彼が言っているのは紛れもなく正論だ。だが、正論ほど言われて痛いものはない。彼はこちらがどれだけ悔しい思いをしているのか、想像すらしてくれていないのだろう。これならひと思いに殴ってくれた方がマシだ。

 

「それに、だ。こんな練習は、お前が今手に持っているクロスミラージュの性能を下げることにもなりかねない。そいつのためにも止めるべきだ」

<なぜそこで私が関係するのですか? 深井中尉>それまで沈黙を保っていたクロスミラージュが零に訊き返す。

「クロスミラージュは、お前の無駄な練習につき合わされて、無駄なメモリと無駄なエネルギーを浪費させられている。余計なエラーだって蓄積するだろう。……お前だけダメになるならともかく、クロスミラージュまで巻き込んでその性能を下げるなんてのは、馬鹿馬鹿しくて見ていられない」

<そのような事実はありません>零の言葉の終わりから一拍置いてクロスミラージュが答えた。<あなたは憶測で話しているにすぎません、深井中尉。通常の機械なら使用するごとに消耗するかもしれませんが、私は常に最高性能を発揮できるよう、自分自身をモニターしています。それによると現在の私がベストコンディションを維持していることは明白です。私の性能は低下していません>

「そういう意味ではないんだ」零はティアナに対して放っていた冷たい口調から一転、ほんの少し柔らかい口調で語り出す。「お前達インテリジェントデバイスは、使用者の戦闘データを学習して自己の構築に役立てるだろう。使用者のクセを把握して、より適したプログラムを自分で作り出す。つまりどんなデバイスになるのかを決めるのは使用者たるマスターなんだ。マスターが馬鹿ならその行動パターンを学習したデバイスも間違った行動を学習するだろう?」

<間違ったビヘイビアを学習したデバイスは非効率的な自己プログラムを構築するため、システムとしての性能が落ちる。ということですか?>

「まあそういうことだ」零はおどけたようにわずかに肩をすくめるが、ティアナとクロスミラージュはそれに気づかなかった。彼の顔は先ほどと同じく、冷たく、無機質だ。

<仮にそういった現象が私に起きているとしても、私にはそれをモニターすることはできません。モニターする自己そのものに欠陥が生じるわけですから、どれだけ自己管理しようと無駄です。第三者の意見が必要となります。しかもその第三者は私よりも高い演算処理能力を持っていなければその意見を信用することはできないでしょう。もしくは視点の異なる複数の立場から提供される意見及びデータが必要となります>

「そんなのは当たり前だ。自分の性能を把握するというのは、主観的なやり方ではできなくて当然なんだ」

 

 そこまで言うと零は茫然とその会話を聞いていたティアナに目を向ける。

 彼の視線が自身に移るのを認識してから、さっきはこちらを無視していたのだ、とティアナは気づいた。

 

「わかっただろう? 機械ですらこうなんだ。人間のお前ならなおさらだろう。お前は自分の性能を把握していない。それは明らかだ」零はほんの少し得意げに言った。彼自身では意識していないであろう小さな優越感が一瞬現れて消えたのをティアナは感じ取るが、無視した。

「じゃあ……どうしろって言うんですか?」

「さっきから言っているだろう、教官の言うことを聞け。それだけのことだ。なにも無茶なことは言っていない」

「それじゃあ、ダメなんです」うつむくようにして言うティアナ。

「……なぜだ? 不満があるなら口に出せばいいだろう。今みたいに」わずかに驚きの感情をあらわにする零。

 

 機械のような性格の彼でもこんな表情をするのか、とクロスミラージュは内心驚いていたが口には出さなかった。

 

 

 

「……私は凡人だから、人より努力しないと追いつけないんですよ」座り込んだまま、ティアナは零の目を見つめるように顔を上げた。「六課の皆は、私よりずっと優秀なんです。そのくらい深井さんだって知っているでしょう? スバルもエリオもキャロも隊長達も才能の塊で、その中に凡人の私がいたところで足手まといになるのは目に見えているんですよ。それに……」

「おれと雪風、か?」

「はい」感情の一切こもっていない声でティアナが肯定する。顔色は先ほどから変わっていないが、零はその裏に耐えがたいほどの劣等感を含ませていることに感づいていた。「さっきも言いましたよね? 私は正直言って『二人が来なければよかったのに』って思っているんです」

「……だろうな。お前がどう思っていようがおれには関係ないことだが」

「今まででも充分優秀な人材が密集していたのに、そこにまた優秀なのが転がり込んできたんですよ。これじゃあ私みたいな凡人の居場所なんてどこにもないじゃないですか。……凡人の集団の中に優秀な人が一人二人いても問題は無いかも知れませんが、天才集団の中に凡人一人放り込むなんてのは一種の拷問ですよ。周りは私にできないことを簡単にやってのけるのに、私一人が置いてけぼりにされる。私はそんなの耐えられない」

「フムン」

 

 零はひとまず納得したような顔つきで目をつむった。なるほど、彼女の劣等感は自分が想像していた以上に強力なものらしい。殉職した兄の無念を晴らすという目的への執念と、才能豊かな周囲への劣等感、加えてこの自分と雪風に対する対抗心、それらが圧縮された強烈な感情が彼女の心を支配しているのだろう。零は脳髄からできるだけアルコールを追い出すようにして考えた。

 

 まったく、聞けば聞くほど馬鹿馬鹿しい理由だ、と零はティアナを見下ろしながら思った。周りの人間達の才能を気にして劣等感を持つなど、愚かしいにもほどがある。自分は自分、他人は他人。同じ能力や才能を持った人間などこの世のどこにもいないというのに、それと自分を比べるというのはどうかしている。戦闘機と輸送機ヘリを比べるのと同じくらい、無駄なことだ。能力というのは他人と比較するべきものではないのだ。

 

 兵器も戦士も戦場という環境にどれだけ適応できるかが鍵なのであって、どれほどのハイスペックを持っていたところで適応できなければ全て無駄だ。

 逆に言えばどれほど陳腐な性能を持つ兵器や戦士であっても、うまい具合に戦場に適応できればそれは役に立つものとなる。どれほど弱くても環境へうまく適応すればいいのだ。その適応する柔軟さこそが『才能』そして『性能』と呼べるものであるはずだ。射撃の腕だとか、反応速度だとか、そんなものは二の次だ。確かに戦場においてなくてはならないものではあるが、それらがどれだけ高くても戦場に適応できなければ何の役にも立たない。そう零は思った。

 

「お前に才能が無いと誰が決めたんだ?」

「……へ?」

「おれはお前のことを無能だとは一言も言っていない。むしろお前は有能な方だと思っている」平然とした顔で零は言う。「おれはお前のやっていることは間違っている、と言っただけだ。お前がどれだけ高性能であるかを真に決定するのはお前自身でも教官でもコンピュータでもない。戦場そのものが決めるんだ。テストやら模擬戦やらでそいつの才能やら能力やらを計るなんてのは参考データでしかない。戦場でどう働くかによって判断するのが最適なんだ。無能であればあの世行き、有能であれば生き残る。単純なことだ。お前が無能ならとっくにやられている」

「でも、私は──」才能がないから、と言おうとしたが零がさらに言葉を続けようとしているのを見てティアナは口をつぐんだ。

「つけあがるな、と他人から嫌われるくらいでちょうどいい。でなければ戦場では生き残れない。力が無ければ敵に殺されるだけのことだ。自信過剰の味方とやりにくいのは事実だが、弱気な相手はなお悪い。駄目な味方はそいつ自身だけでなく他の味方も巻き添えにすることだってあるんだ」

「……自信を付けろ、ってことですか? 深井さんのように」戸惑いながらティアナは訊き返した。

「適度にな。弱気よりははるかにマシだろう。おれはお前の巻き添えで死ぬなんてことは御免だ。それだけは絶対にやってくれるなよ」

 

 

 

 

 

 ぽかん、とティアナは口を開けて茫然とした表情で零の顔を見つめた。何を言い出すのだろうか、この人は。てっきり『お前には才能なんてない』とか『お前は凡人だからあきらめろ』だとか、そんな冷たい言葉が飛び出してくるとばかり思っていたのに。

 

 彼が他人の心を気づかってお世辞を言ったり、嘘を言ったりする人間でないことは良く知っている。その人が嬉しくなろうが落ち込もうが、彼にとってそれはどうでもいいことなのだ。他人がどうなろうと知ったことじゃない、それが深井零のスタンスだ。

 

 彼が、こんな自分を特別視して励まそうとするなんてことは絶対にありえない。ただ思ったことを口にしているだけだ。その機械のように冷徹な思考で客観的にこちらを評価しているだけであって、こちらを思いやる気持ちなど微塵も含まれていない。彼はこちらにエールを送っているわけではなく、ただ、真実を言っている。

 

 深井零が激しい戦争を潜り抜けてきた歴戦の戦士であることはわかっている。同時に彼が優れた戦術眼を持つ人間であることも。機械のように冷徹で、冷酷で、どこまでも正確無比に判断を下す頭脳を持っていることも、だ。

 

 そんな優れた戦士が、こんな自分を認めてくれた。自分には才能がある、と率直に、飾り気のない言葉で伝えてくれた。

 

 そう考えるだけでティアナの心は波立った。管理局に入ってから、己の心の中にずっと滞留し続けてきた負の感情。それがほんの少しだけ溶けだして、心の外へと流れ出して消えていく。ティアナはそれが『喜び』という心の働きであることを意識した。喜んでいる? 彼の言葉に? 私が?

 

「おれの言ったことが分かったなら、今日はもう寝ろ。それから明日からこんな自主練は止めろ。いいな?」

「は、はい」

 

 流されるままにティアナは彼の言葉に従った。へたり込んだままの身体を持ち上げ、ふらつく足で地面を踏む。

 それまで嫉妬の対象でしかなかった人に慰められる、などというのはただの屈辱だ。屈辱でしかないはずだった。なのに、そんな彼から嘘偽りのない評価をもらって、自分は喜んでいる。それを意識してティアナは表情には出さずとも少なからず驚いていた。

 

 その様を見ていた零は小さく息を吐くと、雪風の手を握って隊舎の方へ身体を向けた。

 

「雪風、戻るぞ」

 

 いつもの機械のように早口な英語で雪風に呼びかける。ふわり、と粉雪のように白く細やかな髪が揺れた。彼に手を引かれながら雪風も歩き出す。

 

「あ、あの!」

 去りゆく背中をティアナが呼び止める。だが零の足は止まらない。

 

「その、──ありがとうございました」

 

 ピシッ、と右手を額につけ、背筋を伸ばし、ティアナは零に敬礼した。

 零はその敬礼をチラリと見た後、何も言わずに去っていった。

 帰り際に「キザなやつだな」というヴァイスらしき男の声が聞こえたが、零はそれを無視した。

 

 

 

 

 

「それじゃあ、おれはきみの策略にまんまとはめられたわけだな、フォス大尉」

「策略にはまった、という言い方は良くないわ。都合よく利用された、の方が適切よ」

 

「そっちの方がなお悪いな」零はため息混じりにジト目でエディスを見やった。二日酔いの頭に自分の声とフォス大尉の声が響くたび、ズキズキと鈍い痛みが走る。「……そうだったな、きみが精神科の医者だということをすっかり忘れていたよ。とことん憎たらしい性格をしているくせに腕はいいからタチが悪い」

「人間としての性根が腐りきって白骨化しているあなた達ブーメラン戦士には言われたくないわね」

 

 エディスは平然とした顔でそう言うと、朝食のビフテキにナイフを入れ、大き目に切り取ったそれを口に頬張った。レアに焼けた肉がほどよく口の中でとろけ、エディスの舌の上を肉汁で満たす。

 

 ついでにエディスはそばで立っていた雪風にもう一つ肉を切り取って食べさせてやる。雪風は霜降りの高級牛肉をモグモグと咀嚼しながら満足そうな表情を浮かべた。いつもと大して表情の変化はないが、その顔色から食べたものが美味いか不味いか程度の判断はつく。

 雪風の愛らしさで二日酔いの頭痛を紛らわせながら零は口を開く。

 

「性根が腐っているのはきみの方だ。あのワインに何か入れたんだろう。医師のすることとも思えない」

「あら、よく気づいたわね。私が何か盛ったって」ニヤリ、とエディスが零を見てほくそ笑む。

「……起きた時に目ヤニが大量に出ていたからな」目をゴシゴシとこすりながら零。「顔を洗っても流しきれないくらいだ。目ヤニってのは血管中の老廃物なんかも含まれるんだろう? 血中に異常をきたすとしたら、昨日のワインしか考えられない」

「大丈夫なはずよ。ちゃんとした実験用100%エタノールですもの」

「……高濃度エタノールなら、せめてスピリタスくらいにしてほしかった」ウウム、と頭痛に耐えながら零が言った。「それは変なものも入っているはずだな」

 

 

 ティアナと会話してから一夜明けて、零は自分が二日酔いに陥っていることに気づいて驚いた。そして昨晩の記憶が──フォス大尉とワインを一緒に飲んだ後の記憶が完全に飛んでいるということも驚きに拍車をかけた。

 

 たかがワインの2、3杯ごときで記憶が飛ぶほど零は弱くない。日本人は酒に弱いのが定番だが、零はイギリス人のブッカー少佐と共に飲み合える程度には強い。ちょくちょく黒ビールを飲んでいたし、ウイスキーだっていけるクチだ。しばらくアルコールを控えていたとはいえ、ここまで酔うというのは明らかにおかしかった。

 

 当然疑惑の矛先はワインを零に与えたフォス大尉に向かった。彼女は零がしばらく酒を控えていたことも知っているし、ワインをあまり飲まないということも知っている。酒のアルコール度数の感覚が鈍っている上に、慣れていないワインになら何か細工をしたところで零には気づかれない。彼女がそう考えた可能性がある。

 

 零は二日酔いの頭痛を雪風に気づかわれながら食堂へ向かい、何食わぬ顔で2ポンドのビフテキを食べようとしているフォス大尉を見つけ出し、彼女の隣に座って問い詰めた。

 すると彼女は悪びれた様子もなく『ティアナさんを説得するのに必要だったのよ』と白状したのだった。

 

 

「……ということは、あれか? おれは昨日の夜、ティアナ・ランスターに無茶な自主練をやめるように説得したっていうのか?」零が戸惑うような表情で訊く。「自分のことだが信じられないな。酔っていたにしても、おれがそんなことをするなんて」

 エディスは誇らしげな顔でコーヒーを一口飲むと、一拍置いて口を開いた。

 

「普段のあなたならそうでしょうね。ティアナさんが自主練しているところに出くわしたところで無視するか、『おれは性能の低いやつは嫌いだ。機械も人間も』とかなんとか言って、そのままどっかに行ってしまうかのどちらかでしょうね」

「おれ自身そう思うよ」

「でもあなたはそうしなかった。なぜだと思う?」

「わからないから首謀者であるきみに訊いているんだろう、フォス大尉」

「人に訊くだけじゃなくて自分でも頭を使ってごらんなさい、深井中尉」

 

 フォス大尉がいたずらっぽい笑みで断ると、零はとたんに口をつぐんで席を立とうとした。

 

「わかった、わかったわよ。そうカリカリしないで」思っていたよりも零が怒っていたことに驚いたエディスは慌てて彼を止める。

「さっさと教えろ。こっちはきみのせいで二日酔いなんだぞ」苛立ち紛れに零。

 

 しょうがないわね、とエディスはビフテキを食べる手を止め、いつもの医者としての顔に戻った。

 

「とりあえず私の作戦はこんな感じだったの。その一、深井中尉にアルコール濃度を高めたワインを飲ませて酔わせる。その二、ティアナさんの話をして中尉の頭の中に彼女に対する共感を生み出す。その三、彼女があのようになったのは中尉のせいだ。あなたが説得した方が良い、と言って中尉に責任意識を持たせる。その四、中尉の部屋のエアコン設定温度を少しだけ上げておいて外に出るよう促す。……これだけよ」

「そんな程度のことでおれが彼女を説得したっていうのか?」零が驚き半分、呆れ半分の声で言う。「そんな馬鹿な話があるか。おれが彼女に共感する、だって? ありえないだろう。おれは彼女が失敗しようが殉職しようがどうでもいいと思っているんだぞ」

「確かにね。あなた達ブーメラン戦士がたかが一人の女の子に特別な共感をするなんてのは、通常では考えられないことよ」ツンツン、とビフテキの肉をナイフでつつきながらエディス。「でも、あなたと彼女には大きく共通するところがあるの。私はそこにかけたのよ。その部分にあなたが深く共感して、彼女を少しでも憐れんでくれれば、ってね」

「いったいどこだっていうんだ。おれと、彼女の共通する部分っていうのは」

「二人とも肉親がいない、ということよ」

 

 エディスの言葉に零の表情が凍りつく。図星だった、というような顔ではないが、驚愕と、恐れと、わずかな悲しみの感情が見て取れた。その顔を見てエディスが満足そうにうなずく。

 

「──あなたが里親制度の下、いくつもの家庭をたらい回しにされて育ったってことくらい、私も知っているわよ。書類の上の話だけどね。あなたは実の親の顔すら知らないはずよ」

「……知らないわけではないが、記憶の中の顔のうち、どれが本当の親なのかわからないだけだ」

「似たようなものでしょう。あなたには、本当の意味での家族というものが存在しない。彼女と同じようにね」

「……おれの両親はおれが生まれてすぐに離婚したんだ。親兄弟が死んでいる彼女とは違う」

「孤独、という点では非常に似通っているわ」再びコーヒーを飲むエディス。「共感という感情を呼び起こさせるのに大した苦労は必要ないわ。少しでも似た境遇を持ってさえいれば、その人に対して共感を覚える。同じようなことを考えていれば、その人と共感し関わりたいと思うようになる。人というのはそういう生き物よ」

「そういうものなのか」

「そういうものよ」

 

 

 零はいまいましそうな顔でエディスの目を睨み付けたあと、テーブルに肘をついて小さくため息をついた。

 その隣で雪風がエディスにビフテキの催促を目で訴えていた。エディスが微笑みながらもう一口分切り取って食べさせると、雪風はまた美味そうにそれを咀嚼した。

 

 そんなマイペースな雪風の行動を見て、零は自分が今どれほど馬鹿馬鹿しい状況に陥っているのかを実感し、さらに落ち込む。彼女のようなマイペースさこそが本来の姿なのであって、そうなっていないというのはすなわち己が異常であるという証なのだ。こんな自分は、ブーメラン戦士らしくない。

 

「まったくきみは本当に優秀だよ。要するにおれが彼女の身の上話を聞いていたときの反応で、おれがどんなふうに共感するのかを判断していたんだな?」

「そうよ。あなたがいつまでたっても反応を示さなかったら、私はずっと居座ってあなたにティアナさんの話を続けていたでしょうね」

「それで、おれが彼女に憐憫の感情を抱くことに期待したんだわけだ」

「あなたは確かにブーメラン戦士らしく冷酷で冷徹な機械みたいな人間だけれど、まったくの無感情、というわけではない。笑いもすれば怒りもするし、泣くことだってある。なかなか感情のメーターが動かないだけで、一度動かしてしまえば普通の人間と大して変わらない」

 

 フムン、と納得した零は再び目をこすった。二日酔いの頭がズキズキと痛む。あの時フォス大尉が自分にティアナの話をしてきたのは、ただ愚痴を言いに来たのではなく零がティアナのことを少しでも意識するよう仕向けるためのものだったのだ。

 

 零も、自身の中から感情という感情が抜け落ちているというわけではないことくらい、自覚している。人間である以上、無感動を貫くにも限界というものがある。怒る時は怒るし、笑う時は笑う。ただそれが普通の人間より希薄なだけだ。

 

 ひどく酒に酔った時、その希薄な感情が増幅されないという保証はない。下手をすれば酔って暴れる、ということにもなりかねないのだ。フォス大尉のとった方法はかなり博打の傾向が強いが、酒を飲ませるというのはかなり効果的で簡単な方法だ。

 

「そこまではいいとして、あとの方は完全な賭けだったわけだな。おれが彼女に対して同族嫌悪のような感情を抱いて、彼女を罵倒する可能性だって無きにしもあらずなわけだろう?」

「0%ではないけど、その可能性はほとんどない、と私は思っているわ」

 

 フォークでビフテキに添えられたフライドポテトを突き刺し、口に運ぼうとするエディス。

しかしお約束のように雪風が無言の催促をしてきたため、そのポテトは雪風の口の中に消えた。内部に熱を溜め込んだ大きめのポテトをハフハフと息で冷ましながら舌の上で転がす雪風。

 

「どうしてだ?」

「女の勘よ」

「はあ?」

「──冗談よ。でも、あなたが年頃の女の子を罵倒するような人ではないことは、私がよく知っているもの。そこまであなたは落ちぶれていない、と信じていたから」

 

 フフフ、と自信ありげに笑うエディスを見ながら零は二度目のため息をついた。まったくこの女医はどうも苦手だ。つかみどころがない。

 

「きみの勘を信じるとして、あとの不確定要素はおれが彼女を見つけ出すか、ということだな。おれが練習中の彼女をうまく見つけ出せなければきみの計画は意味がなくなってしまうだろう」

「その辺は平気よ。雪風に頼んでいたから」

 

 雪風に? と訊き返そうとして零は思い出す。

 そういえば、フォス大尉が部屋から出ていく前に、雪風の頬にキスをしていったような気がする。記憶があやふやだが、まさかあの時に……。

 だがあんな一瞬でティアナのことについて雪風に指示できるはずがない。高速のFAF語を使っても無理だ。

 

「たぶんあなたが想像している通りよ」クスクス、とエディスは零をあざ笑うように言った。「でも別に私はティアナさんのことについて雪風に言ったわけじゃないわよ」

「じゃあ、──なんて言ったんだ?」

「私が言ったのは『深井中尉をよろしくね』の一言だけ。そう言えばあなたが夜風に当たりに散歩へ行こうとしても、雪風はあなたのそばについていくと思ったのよ。雪風は耳が良いから、ティアナさんが自主練していることにきっと気づくはずだから」

 

 そこまで聞いて零は「降参するよ。きみにはかなわない」と言って机に突っ伏した。具合が悪いのかと勘違いした雪風が『大丈夫か』と視線で問いかけてくるが返答する代わりにその頭を撫でてやる。

 

「おれは何から何まできみの手のひらで踊らされていたわけだな」

「別に負けも何もないわよ。人助けのためなんだから」エディスはニヤつきながら親指で背後を示した。それを見て上半身を起こしエディスの向こう側を見る零。

 

 見るとフォワードの四人が朝食をとっているところだった。四人で集まって、にぎやかな会話を交わしている。

 スバルが何か言って、それにティアナが突っ込みを入れ、さらにエリオが話を付けたし、その隣でマイペースなキャロがフリードリヒに朝食のパンをちぎって与えている。

 

 いつもの光景だ、漠然とそう思った。若くてはつらつとした生気がこちらにも伝わってくる。

ふと、元気なやつらだな、と思ってしまうのは自分がそう若くはない証拠なのだろうか、それとも二日酔いでこちらの生気が抜けきっているだけなのだろうか。

 

「……あれが、どうした。いつものことじゃないか」

「いつもの調子に戻ったのよ」フォス大尉が四人に聞こえないよう小声で零にささやいた。「ティアナさんは前なんか早朝自主練で疲れ切っていて、とてもじゃないけどあんなふうに騒げなかったのよ。しかもいつも悩んでいるような顔だったし、他の皆もそれを見て弾むような会話をしていなかったわ」

「……」

「あなたのおかげで、ティアナさんの悩みは消えたし、フォワードの皆も元気になって、なのはさん達の悩みの種も消えた。これの代償はあなたの二日酔いと、昨晩の記憶と、ワイン一本だけよ。しかもその代償は全部タダ。コストパフォーマンス最高じゃない」

「……」いつにも増して深いため息を吐く零。もはやどれから突っ込むべきか、彼の二日酔いの脳みそでは判別できなかった。

 

「フォス大尉」それまで何もしゃべらなかった雪風が、瑠璃色の鮮やかな瞳をエディスに向けながら肉を催促する。今の彼女は食事モードに入っているらしく、零が落ち込んでいることには全くの無関心だった。一対の細長い耳がピクピクと動き、フォス大尉の食べている肉に強い関心を持っていることを示していた。つまり早く食わせろ、ということだ。

 

「中尉、とりあえず朝食をもらってきたら? このままじゃあ私のビフテキがなくなっちゃうわ」

「……そうするよ」零は重い腰を上げ、雪風の手を握ってフラフラと歩き始める。

 

 その間、雪風の視線はライオンが獲物の草食動物を見つめるがごとく、エディスのビフテキから全くそれることが無かった。

 

 

 

 

「おっはよ~、零兄。……どうしたの、その顔」

 

 雪風と共に朝食をトレイに乗せて席に行こうとすると、ちょうどフォワードメンバーの座っている席を通りかかった。いつものように朝の挨拶をしてくるスバルだが、零の顔が二日酔いで覇気をなくしていることに気づいて心配そうな表情を浮かべた。

 

「……なんでもない」

「なんでもないってことはないでしょう」と同じく心配そうにエリオ。

「ねぇ、雪ちゃん。深井さんどうして具合悪そうなの?」キャロが雪風に訊く。

 

 キョトンとした顔の後、一拍置いて雪風は答えた。ただ一言。「二日酔い」

 

「……零兄、あんまり飲みすぎちゃダメだよ。ユッキーだっているのに」

「……うるさい」軽く舌打ちしてから零はスバルを一瞬だけ睨んだ。

「深井さんもお酒飲むんですね」意外そうにキャロが言った。

「じゃあ、昨日の記憶が飛んじゃってるとか?」と冗談交じりにスバル。

「まあ、な」

「え……?」

 

 その肯定を少しばかり驚愕の眼差しで見つめるティアナ。パスタを巻き取るフォークを動かしていた手が止まる。「覚えて……いないんですか?」

「ああ」ぶっきらぼうに言う零。「それがどうかしたか? お前には関係のないことだ」

「……いいえ」

 零は彼女がこちらから目線を逸らすものと考えていたが、予想に反してティアナは零をまっすぐに見つめてきた。心地よいとも不快ともとれない微妙な空気が二人の間を漂う。

 

 一秒か、二秒だったか、しばらくそうしていると、不意にティアナが微笑んだ。普段の彼女からは想像もできないような、優しくて、感謝の念を含んだ柔らかな笑み。それが零をまっすぐにとらえていた。

 

 気まずくなって、零はそそくさとその場を後にした。自分は、あんな少女から優しい笑顔を受け取るような人間ではない。機械のように冷徹で、氷のように冷酷なブーメラン戦士、それが自分だ。他人に感謝されるなんて、絶対に、ありえない。こんなことを考えてしまうこと自体が、自分にとっては異常なのだ。それを意識して零はギリリと歯を噛みしめた。くそう、ブーメラン戦士が、情けない。

 

 あんな小娘の笑顔一つで動揺するなんて、自分はもはや純粋なブーメラン戦士から遠ざかっているのかもしれない、と零は考え、では何に近づいているのだ、と己に疑問を投げかけた。

 

 特殊戦から機動六課に、近づいている。それしかない。だがそれは零にとって耐えがたい事実だった。馬鹿馬鹿しい。こんなやつらにおれが近づいている、だって? 冗談じゃない。

 

 おれは特殊戦第五戦隊三番機、雪風のパイロット、深井零中尉だ。それ以外のなにものでもないし、なにものにもならない。そのはずなのだ。なのに、どうして。

 

 

 零は自身の足元を歩く雪風へすがるような視線を向けた。

 

 

 雪風は何も言わなかった。

 

 

 

 

 


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