魔法少女リリカルなのは 妖精の舞う空   作:スカイリィ

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第二十七話 嫉妬

 

「ティアナさんの様子が、おかしい?」

「そうなんですよ。朝練の前に自分だけ早朝練習したり、訓練の時にも言うことを聞かなくなったり……。最近なんかスバルまで巻き込んできているし……」

 

 なのはは病院の診察室においてあるような丸い椅子に座りながら、エディスに語る。こここのところ自身が教導しているティアナの態度が変化してきていることに戸惑い、そのことをカウンセラーであるエディスに相談することにしたのだ。ティアナが今どういう考えを持っているのかを分析してもらうために。

 そもそもエディスが六課にいられるのは、皆の心をケアする心理カウンセラーとしての役割を与えられているからであり、こういう時こそ積極的に彼女の力を借りるべきだ。なのははそう思う。

 

「訓練の時に言うこと聞かないのは問題だけど、早朝練習は評価してもいいんじゃない?」

「それ自体は構わないのですが、訓練に支障が出るまでやるから困っているんです」

「疲労で、ってことかしら、それは」

「はい。おかげでうまくフォーメーションを組めなくなるありさまで」

 

 何回注意しても聞かないんですよ、とため息交じりになのは。

 

「ふうん……。なにかその理由に心当たりは?」

「無いからこうしてエディスさんに相談しているんですよ」

 

 そう静かに話すなのはを横目で見ながら、エディスはコーヒーをすすり、デスクの上に置かれたコンピュータにデータを打ち込んでいく。

 

「難しいわね、上官であるあなたが把握していないとなると。私にはもっと難しいわ」

「……すみません」

「いいわよ。私はカウンセラーとしては二流だけど、悩み事があるなら何でも相談してちょうだい」

 

 ピピピ、とテンポよくタイピングする音が部屋に響く。何のデータを打ち込んでいるんだろう、となのははその画面を覗き込むが、よく分からない。大量の数字と文字の羅列が流れているだけだ。

 

「これはね、ティアナさんの行動パターンや性格から彼女の思考をプロファクティングしようとしているのよ」なのはの疑問を感じ取ったのか、エディスが答える。「そうしてプロファクティングされた結果をもとに、対処法を練るの」

 

「プロファクティング? プロファイリングじゃなくて、ですか」

「そうよ。プロファイリングは世間的には一般的かもしれないけれど、心理学的にはそれほど価値がないの。プロファクティングはもっと学問的、とでもいうのかしら。心理負荷強度分析法から論理的に導き出された手段──とにかくより詳しく心の働きを調べることができるものなの」

 

 エディスは説明しながら流れるようにデータを打ち込んでいく。すでに彼女はミッドチルダの文字やコンピュータを理解しているのだろう。さすがに名門大学を卒業し、26という若さで地球防衛軍の大尉になれただけのことはある、となのはは思う。

 

「じゃあ、今はティアナのデータを打ち込んでいるんですね。その、プロファクティングをするために」

「ええ。ミッドチルダにも良いプロファクティングソフトがあるみたいだけど。私が使っていたのと同系統のものが無くて困っていたの。どのソフトも心理解析用エンジン部分のスペックは地球製を遥かにしのぐ性能を持っているのだけれど、PACコードに相当するものが無いから使えない。……仕方ないからいくつかの類似ソフトウェアを組み合わせてPACコード方式に対応した新しいプロファクティングソフトを作ってみたの」

 

「PAC、コード?」初めて聞く単語になのはは首をかしげる。それ以外のエディスの口から飛び出す単語はなのはの知らないものが多く、あまり理解できない。その道の業界用語なのだろう。

 

「その人物の性質を表すコードのことよ」エディスは説明する。「身体的情報から心理的傾向などを全部ひっくるめて数値化したもので、私が使っていたソフトはそれを読み込んでその人の心を分析していたわ。私がソフトを自作する時に苦労したのはそのPACコードを読み取る部分なのよね。いろんなソフトウェアのプログラムを流用しないとできなかった。……この世界にはPACコードに相当する概念が無いのかもしれないわね」

「フェアリィ空軍には、あったんですね」少し戸惑うなのは。妙な違和感。

「それどころか全地球規模で運用されていた標準コードよ。深井中尉が特殊戦に配属されたのも、FAF当局が中尉のPAXコード──PACの拡張版コードによる分類を行ったからなの。中尉だけじゃなくてFAF全体でPAXコードの運用が行われていたわ。このコードの人間ならここの部署がいいだろう、このコードの人間にはここの部署は合わないからあそこの部署がいいだろう、って感じにね」

 

「でもそれって、なんか嫌じゃないですか? 人間の個性を0と1だけで表すなんて」とっさになのははそう言った。人間の心を数値化するということに嫌悪感を覚えたからだ。「人間の心は、そんな簡単にデータ化できるものとは思えません」

 

<それは私に対する当てつけですか、マスター>それまで黙っていたレイジングハートが不機嫌そうに言う。<私はまさに0と1で成り立っているのですが>

「ご、ごめん、そういうつもりじゃなくて」慌ててフォローするなのは。まさかレイジングハートに突っ込まれるとは予想していなかった。

<いいえ、別に何とも思っていません>レイジングハートは機械的な音声を絶妙に調節し、拗ねたような声色で言った。<実際に私は自身を構成するプログラムを認識することができますから、自分がコードで構成されていることを理解しています。ですが人間だってA・C・G・Tの4塩基からなるDNAというコードを持っているじゃないですか。マスターの身体も私と同じでコードからなっているんです。お互い様ですよ>

「でも、それでその人の全部が決まるわけじゃないよ。機械的なコードで人間を表現するのは、どうかと思うよ」

 

「コードで人間を完全に表現できるというのは、現実的ではないわ」エディスはタイピングを止め、身体ごとなのはに向き直る。「こう考えればいい。レイジングハートの言った通り、人間はDNAという機械的なコードを持っているけれど、それを参照すればその人間の全てがわかるかといえば、違うのは明らかでしょう。例えば『甘いモノが好き』というコードを持つ人間がいた場合、その人は甘いモノを好んで食べることは決定できても、では具体的にどんな食べ物が好物なのかは決定できない。ケーキ、チョコレート、キャンディ、この世に甘い食べ物はいくらでもあるんだもの。有限なコードによってそれら全てを表現することはできない。PACコードは全てを表現しているわけではないし、DNAについても同じよ。どちらも実現可能な性質、可能性を記述したものに過ぎない」

「まあ、そうなんでしょうけど……」なのははウウム、と考え込む。「私が言いたいのはそういうことではなくて、その……なんて言えばいいんでしょうか。人間がそんな数字で決定されるようなことはあまり……」

 

「あなたが感じているのは、他者から自分という存在を操作されることに対する不快感よ」エディスはさらりと言ってのけた。「つまり、コードという数値を外部から操作されることによって簡単に自己が操られるのではないか、それは嫌だ、ということ。でも、PACコードだろうと管理局の認識番号であろうと、どんな数字であっても、それはあなた自身から生み出されたものであって、コードを変えることであなたに変化が起こるものではないのよ。PACコードを初めて知った人間に良くある勘違いね。コードが人間を操るのではないか、ということに関するあなたのそれは、まさしく錯誤よ」

<なるほど。ですが、人間がDNAというコードで構成されているというのは事実です>

「DNAは人間を構成しているコードの一部であって、それだけで成り立っているわけではない、ということならどうかしら?」

<しかし、私の内部コードは常に変化しています。マスターのビヘイビアを学習するのがインテリジェントデバイスですから。その学習データを自己のプログラムに反映させて、新たな自己プログラムを構築するのです。そして私は自己の内部コードが変化していくのを逐一意識することができます。自己のコードを人間が意識できないのは当然のことですが、人間も何かを学習したり体験したりした時には自己の内部コードを変化させるのではないのですか>

「それはレイジングハート、あなたが人間ではなく、純粋なコンピュータだからよ。あなたは確かに人間に匹敵する高度な意識作用を行うことができる。でもそれはあくまで人間と同じような思考回路を構築されているからであって、人間と同じ精神を持っているかなんて誰にもわからないわ。私の個人的な意見としては、あなたのようなインテリジェントデバイスは人間の意識形態を形だけ真似た知性を持っていて、知性体としての本質は人間とはかなり異なっているのではないかと思っている」

<……つまり何が言いたいのですか、ドクター・フォス>戸惑いつつも怪訝そうな態度で訊き返すレイジングハート。

「あなたはコードから成り立つ知性体だけれど、人間はコードによってのみ成り立つ知性体ではないということよ。だから、あなたにとっての常識を人間に当てはめるのは間違いだと私は思っている。そもそもAIと人間の意識作用が似ているかどうか、なんて考えるまでもないことだけどね」

<あなたの言うことは理解できましたが、人間にも精神を構築するそういった内部コードがあるとは考えられませんか?>

「思弁上は可能かもしれないけれど、もしそんなコードがあるとしたら恐ろしく莫大なコードが必要になるわ。一瞬一瞬の出来事を全てそのコードに反映させていたら、その一瞬分を書き換えるのに寿命が尽きてしまう。第一人間の精神はアナログ的存在よ。あなたたちコンピュータはデジタル的存在。デジタルをどんなに増やしたってアナログにはならないことぐらい、あなたも分かっているのではなくて?」

<あなたはDNAコードと人間の内部コードを混同しているように思えます。それに、私の知性がデジタル的というのは認めますが、人間の知性がアナログ的存在というのは詭弁です。本来知性というのは極論してしまえばYESとNOという二つのパターンで構成された一種の──>

 

「あのう」なのはが苦笑いしながら会話を中断する。心理学を通り越して哲学の話題に移りそうだから、ここらへんで止めておかないと、と思ってのことだった。「話についていけないんですけれど・・・。エディスさん、そろそろプロファクティングをしてくれませんか? そんなに時間があるわけでもないので。デスクワークも残っているし」

「……わかったわ。この討論の続きはまた今度にしましょう。精神についての話をAIとするなんて初めてだから、つい張り切っちゃったわ」

<先ほどの会話は記録しておきます。時間があったらもう一度話し合ってみましょうか、ドクター・フォス>

「ええ、ぜひ。なのはさん、今度暇な時で良いからレイジングハートを貸してくださる?」

「はあ、……別に構いませんが」

<こういった哲学問題は奥が深いですからね。何時間話していても飽きません>

「あなたとは気が合いそうね。デバイスでなければ一緒にワイン飲みながら話し合えたでしょうに」

<同感です>

 

 エディスが意気揚々とレイジングハートと話しているのを見て、なのはは内心ため息をつく。なんだか長年の付き合いであったはずのレイジングハートが自分の知らないところへ行ってしまうような気がして、少し怖かった。そしてレイジングハートと意気投合するエディスも。

 

 

 なのはにとって、哲学というのは馴染みのない分野だった。哲学と言えばソクラテスだとか、アリストテレスだとか、そんな有名どころの人物名しか知らない。そもそも管理局の実戦部隊でも教導部隊でも哲学はあまり重要視されていないから、覚える必要もない。遠い世界の学問だった。無限書庫で司書長をしているユーノ・スクライアならよく理解しているかもしれないが。

 哲学とは簡単に言えば『自分とは何か』を考える学問だ。なのははそう認識してきた。

 なのはは『自分とは何か』と問われたとしても、ただ1つしか答えられない。

 

『私は私だ。高町なのはという人間だ』

 

 これ以外に何があるというのだろう。それ以上の答えがあるとでもいうのだろうか。これよりも優れた答えがあったとしても、きっとそれは自分には理解できないものなのだ。

 

 

 少しうつむいて黙っているなのはをよそに、エディスは着々とデータを打ち込んでいく。

 二十秒ほど経った時、エディスの指が止まった。

 

「とりあえず基礎データ入力は完了したわ。ここからが本番よ。具体的にどうすればティアナさんの行動を変えられるのか、いくつか試さなくてはいけないの」

「具体的に、っていうと?」

「じゃあ適当に入力してみましょうか。それじゃあ……『訓練内容を変更せず、現状を維持した場合はどのような行動をとりえるか』」

 

 エディスが素早くタイピングしてデータを入力。エンターキーを押した瞬間に、画面の一部を猛スピードで文字の羅列が走る。すさまじい情報処理が一瞬で行われているのが目に見えてわかった。

 

「今まさにティアナさんの思考をシミュレートして、その行動を予測しているところよ。・・・もう出たみたいね。『現在と同じく教官の指示に反抗し続ける』と」

「そんなの、シミュレートするまでもないんじゃないですか? 私にだってわかりますよ、そのくらい」

「それもそうね。じゃあ少し変えて……『指示に従わなかった場合に際し、何らかの罰を与えた場合はどのような行動をとりえるか』」

「罰、って言っても色々あると思いますけど……」

「それなら軽度の罰と中度、重度の罰で同時シミュレートしてみましょう」

 

 なのはの指摘に沿ってエディスは素早く端末を操作し、新たに二つの入力画面を引き出して同じようにシミュレートを開始した。

 

「出たわ……。あらあら、軽度の罰の場合には『その罰を無視』。中度は『さらに反抗行動をとる』。重度では『反抗し、さらに現場での命令無視をとりうる』と出たわ。よっぽど頑固なのね」

「……じゃあ、どうしたらいいのですか?」

「そこまで具体的なアドバイスは出ないのよ。こう干渉したらどう動くか、ということしか教えてくれないの。……でも、どうしたらいいのかはだいたい予想できるけどね」

 

 それを聞いたなのはは怒るような口調でエディスに詰め寄った。「だったら最初からそれを──」

「焦らないの。物事には順序というものがあるのよ」

「……で、エディスさんが予想した方法は何ですか?」

「私ならこうするわ。『第三者が彼女に対し訓練内容の意味を説明し、それが実戦に際しどう役立つのかを示す。そしてティアナ・ランスターが機動六課の中でどういった立場にあるのかを理解させる』」

 

 そう言い終わる前に、エディスの指はデータの入力を終えている。シミュレートが開始され、これまでとは比較にならないほど大量のデータが画面を流れ始める。

 

「基本的にね、対人関係に困った時なんかには第三者に相談したり、介入してもらったりするとうまくいくものなのよ」データの奔流を満足そうに眺めながらエディス。「当事者たちだけで問題解決を図ろうとすると、決まって失敗するものなのよ。余計にこじれてしまうの。国家間の紛争だってそうでしょう? 第三国に和平の仲介をしてもらうとスムーズに事が運ぶようになる」

 

「……?」

「つまり、あなたがティアナさんに訓練内容の意義についてどれだけ熱心に説明しようとしても、ティアナさんは絶対に納得しないから、第三者が代わりに説明してあげるのよ。客観的な立場からの助言なら彼女も理解してくれるはずよ」

「ちょっと待ってください。……なんで訓練内容の意義を説明する必要があるんですか? それとティアナの行動は関係ないでしょう」

 

「あら、自覚していなかったのね」エディスは先ほどのように身体ごとなのはに向き直る。「あなたの教導を見ているとわかるんだけど、あなた、基礎的な練習を何回も繰り返しさせているでしょう? そこがティアナさんにとっては苦痛なのよ、きっと。彼女はもっと応用的な訓練をしたいように見えるわ」

「でも、それは必要なことです。今の教導は今のティアナに合った方式でやっているんですよ。一足飛びにレベルを上げたとしても、実戦で失敗したら目も当てられません」

「基礎をおろそかにしていたら何をやっても失敗する、というのはどんな分野においても共通することよ。確かにそれは正しい。医者だって解剖実習を何度も経験して人体の構造を把握しなければ患者の身体にメスの一本も入れられない。どんな天才であっても、その基礎を脳髄の奥底まで染みつけなければ何もできやしないのよ。天才だからといって基礎をおろそかにするようでは馬鹿もいいところだわ」肩をすくめるエディス。「それに比べて、あなたの教導方式は模範的で、素人の私が見ても優れていることがわかるわ。今は基礎を徹底的に叩き込んでいる時期なんでしょう? 新人達の実力、潜在能力を引き出すためにあなたがどれだけ彼らを観察しているのかもわかる。あなたは良い教官よ。でも、実際問題ティアナさんはあなたの訓練内容に納得していないのよ。それじゃああなたがどれだけ叱っても納得するはずないわ」

「……」

「叱ってだめなら理解させてやればいい。でも理解させようとしても、あなたが説明したところでティアナさんにとってはあなたが自身の行動を正当化しているようにしか見えない。ならば別の人間が説明してやれば良い、ということよ」

「そういうことなら……なんで最初からそう言ってくれなかったんですか? PACコードを使う必要もないじゃないですか」

「それはさっき言った理由と同じことよ。確かに一言で済むことだけれど、あなたはそれでは納得しない可能性があった。だから中立の立場である機械にあなたを説得してもらう必要があったのよ。私の意見と機械で出た結果が一致すれば、あなただって納得してくれるはずでしょう?」

 

「……」釈然としない様子のなのは。確かに彼女が今の意見をただ言ったところで自分は半信半疑の状態だったろう。だから彼女はPACコードによる自説の証明を持ってきたのだ。それを意識するとなぜだか彼女の手の上で踊らされているような気がして、なのはは少し不機嫌になった。

 

<なるほど、非常に論理的で効果的な考えですね>再びレイジングハートが言う。

「ほら、レイジングハートはわかってくれているみたいよ」にやり、とエディスは自信たっぷりの笑みを浮かべた。

「むう。でも、まだ結果は出ていませんよ。勝ち誇った顔するならそのコンピュータが結論を出してからにしてください」

「あら、じゃあ私の言ったことが間違っていたら今日のあなたの書類仕事を手伝ってあげるわ。そのかわりにもし私が正しかったらレイジングハートを今日一日貸してもらうわよ」

「……わかりました。レイジングハートもそれでいい?」

<Sure>いつもより快活に答えるレイジングハート。よっぽど彼女と哲学議論をしたいらしい。なのはは長年の相棒に裏切られたような気持ちになり、思わずため息をつく。

 

「さて、そろそろ結果が……え?」

 

 結果を見ようとディスプレイを覗き込んだエディスが固まる。微妙に表情が引きつっているように見えるのは気のせいだろうか。

 

「?」

「どういうことかしら……。まさかどこかでエラーが……」

 

 焦り気味にプロファクティングソフトをチェックするエディス。コンピュータ内の自己検査プログラムを使用してエラー検索。自己検査プログラムはソフトの隅々までを一瞬でチェックしたのち、ディスプレイに『該当無し』というメッセージを表示する。

 

「エラー無し……どういうこと?」

「エディスさんのアレが、間違っていたんですか?」

「ええ『対象は一定の理解を示すと推定されるが、基本的な行動は変化せず』ですって。・・・一定の理解を示す、ってことは、訓練に対して納得はしているのよね。他に問題行動の原因があるのかしら」うむむ、と顎に手を添えて考え込むエディス。

 

<おかしいですね。ドクター・フォスの理論は論理的に見ても正しいものでした。私の論理回路がそう判断しています。この結果が導き出された原因はもっと他にあるというのが妥当でしょう>

「とりあえず、エディスさんの考えは間違っていた、ということでいいんですね?」満足したとも残念だともとれない声色でなのはが訊く。

「……そうみたいね」負けたわよ、とエディスは諦めたようにため息をついた。

「では約束通り、デスクワーク手伝ってもらいますよ」

「しかたないわね。とっとと書類を片付けて、もう一度プロファクティングしてみましょう」

 

 

 

 

 

 

「で、今ようやくその書類仕事が終わったわけだな?」零はベッドの縁にそっと腰を下ろしながら言う。

「ええ……まさかあんな量だとは思っていなかったわ。今日は特別多かったらしくて」はあ、と深いため息をつき、一人用のソファに深く座り込むエディス。その右手には空のワイングラス、左手にはボルドー形のワインボトルが握られている。

 

「……そしてそれを愚痴るためにおれの部屋に来たわけだな。ついでに酒も飲むつもりか」

「なにか文句ある?」

「いいや」小さく苦笑する零。「ここのところアルコールを控えていたから、正直なところ酔いたい気分だ。一緒に飲む相手がきみというのは微妙だが」

「悪かったわね、私で」

「ああ、実に悪い」

 

 零がからかうように言うと、エディスはフンと鼻を鳴らしてグラス二つをテーブルの上に置き、コルク抜きを白衣の胸ポケットから取り出した。

 

「開けてくれる?」

「……そのくらい自分で開けろ」

 

 エディスはムッとしながらも、黙ってコルク抜きに付いたナイフで瓶の口を覆うフォイルキャップを切って、コルクを固定していた針金を取り去る。そして今度はスクリュー部分をコルクに力任せでねじ込み、ハンドルの反対部分についている金具を瓶の縁にかけ、それを支点として梃の原理でコルクを引き抜く。キュポン、と良い音を立ててコルクは外れた。

 

「面倒なのよね、これ」ふう、と息を吐きながら二つのグラスにワインを注ぐエディス。透明なグラスの中で血のように赤いワインが揺れる。「スクリューキャップの方が楽なのに」

「どこで買ってきたんだ? そんなもの」

「今日ユーノさんが送ってきてくれたのよ」

「……ユーノ・スクライアか? アグスタの時に会った」

「ええ、『ぜひお二人で飲んでください』ですって。ご丁寧にコルク抜きも一緒にね」

「この世界でもコルクの抜き方は同じなんだな。相変わらず非効率的だ」

「そうね」コルクを瓶の口に戻しながら小さく言うエディス。「それよりも聞いてくれない? なのはさんったらデスクワークを三分の一も私に押し付けたのよ? 賭けだとはいえひどいと思わない?」

「……結局愚痴を言いに来ただけか、きみは」エディスに聞こえない程度の音量で、ぼそりと呟く零。

「なんか言った?」

「いや、別に」

「で、どう思うのよ、あなたは」

 

「……三分の一でよかったじゃないか」天井を見上げながら言う零。「三分の二は彼女がやってくれたんだ。彼女は新人達の教導も任されているんだ。かなりハードな仕事だよ。おれが彼女の立場だったら全部の書類をきみに押し付けているな」

「なんであなたが彼女の仕事の苦労を知っているのよ」

「それはおれが彼女の教導にしょっちゅう付き合わされているからだ。新人達との模擬戦だってそうだ。あれはかなりハードだよ。四人を相手に戦いながら教えるなんておれには無理だし、やりたくもない」フフン、と鼻で笑う零。「だが、高町なのはも意外と策士だな」

「そりゃまあ、彼女の階級は一尉ですもの。馬鹿ではないことは確かね」

「彼女の頭の良さは認めるが、階級と頭の良さは比例しないぜ。旧日本軍なんかは上ほど馬鹿だった」

「ジーク(ゼロ戦)のパイロットは凄腕ぞろいだったらしいのにね。指揮官のせいで負けた典型よ。なのはさんとは大違い」

「……物量でどっちにしろ負けていたよ、日本は」

 

 零は肩をすくめる。ついでに同じベッドのとなりに座る雪風の頭を少し撫でてやる。雪風はさっきシャマルからもらったチョコレートを黙々とかじり続けている。

 室温でほどよく柔らかくなった市販の板チョコは雪風にかじられ、徐々にその大きさを小さくしていく。チョコレートをくるむ銀紙がカサカサと音を立てた。

 

「世界で唯一アメリカ本土を爆撃した国が良く言うわよ。私の地元なんか日本軍の空襲に対する恐怖でパニックが起きたことがあるんだから」

「ロサンゼルスの戦いか。少佐から聞いたことはある。誤情報なのに対空砲まで撃ったやつだ。・・・そうか、きみの地元はカリフォルニアだったか」

「そうよ。このワインと同じ」

「このワイン?」

 

 零はエディスの言葉を受けて目を見張った。よく見ればテーブルの上に置かれたワインのラベルはミッドチルダの文字で書かれてはいない。良く知っている、英語だ。

 

「カリフォルニア産、ナパバレーの赤ワインよ。私と同じ西海岸の日差しを浴びて育ったブドウで作られている」エディスは遠いところを見るような目で言った。遠い故郷を懐かしんでいる目だ。

「俺たちの地球ではない方のカリフォルニアだな」

「ええ、でも味は同じよ。なつかしい故郷の味だわ」

「なるほど、だからユーノが送ってきたわけか。・・・おれが飲んでいいのか?」

「ええ、でも飲みすぎないようにね。私だって飲みたいんだもの」

「一杯だけにしておくさ。──雪風、間違っても飲むなよ?」

 

 零が注意すると雪風はチョコレートをかじるのを止め、小さくうなずく。市販の板チョコをかじる彼女は警戒心のかけらもない、ただの一人の少女でしかなかった。

 彼女の口元に少しチョコレートが付いているのを見て零は微笑み、もう一度その頭を撫でてやる。それを合図にしたように再びかじり始める雪風。どことなく木の実をかじるリスに似ている。かじるペースはゆっくりだが、もう三分の一以上が彼女の胃の中に収まりつつあった。

 

「チョコレートが好きなのね、雪風」

「チョコ以外にもケーキやキャンディをよく口にしている。甘いもの全般が好きらしい」

「カロリー高いものは基本旨いのよ。普通の人間はそう感じる仕組みになっている」

「雪風もそうなんだろうな。──このワインも高カロリーか?」

「飲んでみれば分かるわ」

 

 ぐい、とワインが注がれたグラスを突きだすエディス。零はこぼさないようにそれを受け取る。口元に近づけると久々のアルコールの香りが嗅覚を刺激した。

 グラスを傾けて一口飲む。鼻へ鮮やかな香りが突き抜け、ほどよい酸味と渋味が舌を刺激し、ブドウらしい甘味がそれを安らかなものにする。うまい。

 

「……いいワインだな」

「そうでしょう? 私のふるさとの味よ」エディスも一口含む。故郷を懐かしむような顔付きでゆっくりと味わっていた。「大学にいた頃よく飲んでいたわ……。これを雪風に味わってもらえないのは残念ね」

「おれとしては黒ビールの方が好きだがな」零はブッカー少佐と共に飲んだビールの味を思い出す。日本から遠く離れたイギリスの味を懐かしむのは何とも不思議な気分だった。

「それもいいわね。今度はギネスを取り寄せてもらおうかしら。フィッシュ&チップスもつけて」

「通販か、あいつは」

「通販ではないわ。こっちは代金を払う必要がないんだもの」

「きみはひどい女だな」零は珍しくユーノに同情した。あいつは結婚しても尻にしかれるタイプだな、と。

「そうかしら、男は女に貢ぐためだけに存在しているのよ? ブランドもののバッグも財産も優秀な遺伝子も貢いでくれて、初めて男はこの世に存在するだけの価値を得るの。このくらい当たり前でしょう?」

「ますますもってひどいな」口元に笑みを浮かべながらもう一口飲む零。今度は香りも充分に堪能してから飲む。

 

 零はその二口目を喉の奥に流し込んでから、雪風がじっとこちらを見ていることに気づいてドキリとする。すでにチョコレートを全部食べ終わり、その手にはチョコレートを包んでいた銀紙がクシャクシャになって握られていた。

 

「……飲みたいのか? さっきダメだと言っただろう。これはブドウジュースじゃないんだ」言い聞かせるように零は言う。彼女の幼い身体はワイン一杯に含まれるアルコールでも危険にさらされるだろう。

「……」それでもじっと零のグラスを見つめ続ける雪風。ねだるような視線にほんの少し気持ちが緩む。

「じゃあちょっぴり舐めてみる? 指につけて」エディスの提案にコクンとうなずく雪風。

 

 零が雪風の背丈に合わせてワイングラスの位置を下げてやると、雪風は恐る恐るその中に人差し指の先を入れた。新雪のように真っ白な指先が深紅に染まっていく。

 雪風は爪の根本辺りまでワインに沈めてから引き抜き、そして何の臆面もなくペロリとそれを舐めとった。

 

 一拍置いて、雪風の顔がわずかに歪む。口に合わなかったらしい。表情に不快感を示した彼女は珍しかった。やはり彼女の舌はアルコールの独特な刺激とワインの酸味を受け付けないようだ。甘いものを好んで食べるところといい、味覚はかなり子供っぽいように見える。

 

「まだ早かったみたいね」雪風の表情変化を見てクスクスと笑うエディス。「貴腐ワインだったら違ったかもしれないけれど」

「これで分かっただろう。これはお前が飲むものじゃない。いいな?」

 

 そう言いながら頭を撫でてやると、雪風は今度こそ素直にうなずいた。

 

 

 

 

 

「ティアナさんの件に関して、あなたはどう思う?」零がグラスの中身を飲み干したところで、エディスが世間話でもするかのように聞いてきた。

 

「……なぜおれに訊く」

ため息をつきながらボトルを傾け自分のグラスに二杯目のワインを注ぐエディス。「そう言うと思った」

「おれに訊くのは無駄なことさ。きみだってわかっているだろう」

「でしょうね。あなたは人を見ないもの。……いえ、人を人として見ていないんだわ」

「……」

「まあ、プロファクティングがうまくいかなかった理由は、あれからなんとなくわかってきたのよ。大きく二つの理由が考えられるわ。第一に、ティアナさんの身の上の問題」

「へえ」

「……はやてさんに聞いた話だとね、彼女には親御さんがいないのよ。小さい頃に二人とも事故死している。以前はたった一人のお兄さんと二人で暮らしていたらしいんだけど」

 

 それまで反応しなかった零の眉がピクリと動いた。「『以前』は? 今は、どうなんだ?」

 

「亡くなったのよ。正確には殺された」エディスがグラスを傾けながら言う。「お兄さんも管理局員だったの。なかなかのエリートよ。でも、任務中に追いかけていた犯人に殺された」

「……殉職か。残された妹はみなしごになったわけだ」なにかを思うような声色で零が言う。

 

「ええ。それだけで充分に深い傷跡が心に刻まれたのでしょうけど、問題はその後に起きたの」

「……」

「彼の上官か同僚が、彼の死に涙するどころか馬鹿にしたらしいのよ。情けないやつだ、とか、死んででも任務を遂行すべきだったのに、とか、それはもうひどく」

 

 エディスの言葉を聞いて、零はしばらく考え込むように黙ってから言った。「……そいつの方こそ馬鹿だな。FAFじゃそんなことを言うやつはいない。そうやって他人の死を批判するやつから死んでいく。そんな馬鹿がいるのはロクな部隊ではないだろう。本当に訓練された隊員なら仲間の死を嘆いたりもしないはずだ。そいつらは、エリートでもなんでもない」

「……確かに、FAFではそれが常識よね。他人の死について考えていたら戦闘能力が低下する。とやかく言う暇があったら次の対処法を考えていた方がいい。もし他人の死に方にケチをつけるような人間がいるのならば、次に戦死するのはその人間。──30年間の泥沼戦争で培われた真理ね」

 

「……で、それを聞いた彼女はどう思ったんだ?」エディスと同じようにグラスを彼女の方へ軽くつき出して訊く零。

「彼女はそれを聞いて、見返してやろうとしたらしいの。まあこれは本人に訊いてみなければわからないことだけれど。自分も管理局員になって、エリートになって、兄の名誉を回復しようとしたのよ。それからいろいろあって、この六課に配属された」

「妹も妹だな。自分が偉くなったところで兄の名誉が挽回されるわけでもないのに」

「よくあることよ。よほどお兄さんのことが好きだったのね。お兄さんの活躍を自分のことのように誇らしく思っていたのよ、きっと。心から尊敬する人間のことを己のことのように感じるのは普遍的な心理よ。共感能力というやつね。あなただって雪風を褒められれば嬉しいでしょう?」

 

 エディスは彼の隣にちょこんと座っている雪風を見ながら、再びグラスを傾け、流れ込むワインで喉を潤す。チョコレートも食べ終わってしまい手持ちぶさたであるはずなのに微動だにしないあたり、普通の人間との違いを感じる。

 

「別にどうとも思わない。雪風が他人からどう思われようが、それは雪風自身に干渉するものではない」

「……雪風の名誉が損なわれても、あなたはそれを許すというの?」

 

 エディスは零の目を見ずに雪風の目を見つめながら言う。フォス大尉のことだから、誰かが雪風に対する悪口を言った場合、即座に反論するつもりなのだろう、と零は彼女の心理を推察している。この自分でこうなのだから彼ならばなおのことだ。雪風を馬鹿にするような人間がいたら最悪殴っているかもしれない、などといった目でこちらを見ているに違いない。だがあいにくとそれは間違いだ。

 

「許すとかそういう次元の問題ではない。雪風がどれだけ優秀なのか、おれには分かる。ただそれだけで充分だ。雪風の強さを理解できずに馬鹿にするようなやつは戦場でも生き残れないよ。『雪風を馬鹿にするやつ』イコール『馬鹿』なんだ」

 

 零は雪風の頭を静かに撫でてやる。

 キョトンとした表情のまま零の顔を見上げる雪風。恐らく零の行動の意図がつかめていないのだろう。だが、しばらくすると無表情のまま零に身体を密着させて体重を預け、まるで甘えているような安らかな態度を見せた。傍からでは父とその娘の団欒にしか見えない。

 

「さすがはブーメラン戦士ね。論理の次元が違うわ。つまりあなたの考えでは、自分を馬鹿にする人間も、すなわち見る目のない馬鹿ということになるのかしら」

「そういうことだ。他人の評価なんて、どうでもいい。そんなことを気にするのは自分に自信のない人間だけだ。気にするだけ無駄さ。こちらに干渉してこないかぎり、放っておくのが一番だ。おれは子供の頃からそうしてきた」

 

「ティアナさんもそう考えられたら良かったのに……まあ無理でしょうね。あなたたちブーメラン戦士のいかれた思考なんて、ノーマルな人間には到底マネできないわ」

「馬鹿にしているのか?」

「怒った?」おどけたような表情を見せるエディス。

「まさか」零はエディスの目を見て言う。「戦場で味方が無駄話をしていたり、明らかな戦闘放棄をしている場合ならおれだって怒るだろう。だがそれはおれ自身の生存に関わることだからだ。戦場で無駄なことをするやつは死ぬ。そしてその巻き添えを食うのは決まって味方なんだ。おれはそんな死に方はしたくない。だから、怒る」

「つまり、あなたに対してどれだけ罵倒しようと無駄なのね。あなたに直接干渉しない限り」

「そういうことだ。というより、戦士というのは本来そうあるべきなんだ」

「あなたはそうかもしれないけれど、ティアナさんは違う。それはあなたの価値観よ」

「おれは自分の思ったことを言っただけだ」

「……ともかく、ティアナさんはひたすらそうやって頑張ってきたの。そのかいあってか陸士訓練校をトップで卒業しているわ。でも、ここにきてなぜか言うことを聞かなくなってきた」

 

 なんでだと思う? とエディスはグラスを零に向けて傾ける。少しばかり挑発的な目。

 それを受けて零は雪風を撫でる手を止め、静かにエディスと視線を合わせる。

 

 

「……嫉妬しているんじゃないのか? 他のやつらに」

 

「え?」意外な零の発言に、エディスはあっけにとられた表情で彼を凝視する。

 

「模擬戦でティアナ・ランスターと戦った時から思っているんだが、あいつはかなりプライドが高いというか。──そうだな、プライドが高いゆえに焦っているんだ。周囲の人間が優秀で自分が劣っているのではと錯覚しているんだ。劣等感というやつだな。それが戦闘スタイルからにじみ出ている」

「彼女は優秀よ」

「それはおれもわかっているさ。あの時だって少し気を抜いていたら背後からの奇襲で一本取られていたかもしれない。作戦立案能力と判断能力は天才的だ。射撃もかなり正確だ。──だが経験が足りていない。まだまだ16歳の小娘にすぎない。兄の名誉を回復させることだけに目が行っていて、自分の実力を判断しきれていないのさ。だから、がむしゃらにトレーニングをするし、上官の命令にも従わない。焦っているからさ」

 

 あっさりとそう言う彼の姿をぽかんと口を開けたまま見つめるエディス。

 彼が言い終わってから数秒後、彼女は戸惑った表情で口を開く。

 

「……あなた、彼女に気があるの?」

 

「はあ?」今度は零がエディスを凝視する番だった。手に持ったグラスのワインがこぼれそうになる。

 

「だって、あなたはいやしくもブーメラン戦士よ? 他人に対してこれっぽっちも興味を持たない、冷徹で、冷酷で、無感情な戦闘マシンのはずでしょう。そんな人間モドキがどうしてティアナさんの心情をそこまで想像できるの? あなたは彼女を特別視しているのかしら」

「そんなわけないだろう」テーブルの上にグラスを置きながら零は言う。「おれは六課の人間なんかどうでもいいと思っている。彼女についても、同じだ。ティアナ・ランスターが落ちぶれようが成り上がろうがおれの知ったことではない。──だが、分かるのさ。戦っていると相手の動きや攻撃のタイミング、攻撃そのものから相手の考えが何となく伝わってくる。ジャムの戦闘機と空戦しているときもそうだった。『お前を殺してやる』という意思がミサイルから、機銃弾から、機体の挙動から痛いくらいに伝わってきたよ。それと同じで、彼女の攻撃を防いでいる時にも彼女の心が伝わってくるんだ。だから、おれは彼女が焦っているとわかった」

 

 零がこともなげに自説を述べるのを聞いて、一拍遅れてからエディスはため息をついた。

 

「……あなたは本当に戦士として産まれてきたような人間ね。生き残るために、敵の攻撃から敵の心情を読み取るなんて。それはまさしくコミュニケーションよ。あなたは殺し合いを通じて相手の心を知ることができるわけね」

「そんなに難しいことではない。チェスでも似たようなことは体験できる。どう駒を動かしてくるかで相手の心情を読み取るだろう? それと同じさ」

「あなたは他人の心情を読み取ることはできなくとも、戦士や敵の心理を読み取ることができるということね。これは、興味深いことだわ。──ティアナさんの心を何となくでもつかめているのなら、なにか彼女に対するアドバイスはできない?」首をかしげながら尋ねるエディス。

「それをブーメラン戦士に言うか?」あきれ果てた、と言いたげな零。

「それは充分すぎるくらいわかっているけれど、このままじゃティアナさんとなのはさんの仲がどんどん悪くなってしまうわ。六課の空気が悪くなる。任務にも支障が出るかもしれない」

「知ったことじゃない。よほどひどい暴力沙汰になって、こちらにまでとばっちりが来るようにでもならない限りおれは関わるつもりはないぜ。それに、第三者から客観的な助言をもらったところで彼女が素直になる、というきみの予想は外れたんだ。おれがやっても無駄さ。そういうことはきみの役目だろう」

「あなただからこそできることなのよ」

「どうして?」

「これはあくまで予想だけれど、彼女はたぶん、あなたに嫉妬している」

「おれに?」

 

 ええそうよ。そう静かにうなずきながらエディスは零のグラスにもう一杯のワインを注ぐ。

 飲むのは一杯だけと言ったつもりなのだがな──それを言おうか言うまいか一瞬迷って、結局アルコールの欲に負ける零。

 

「あなたがさっき言った『ティアナさんが焦っている』という推察は恐らく正解よ。私が言おうとしていた二つ目の理由がそれ。まさか中尉がそのことに気づいているとは思わなかったわ」

 

 意外ね、と零を小馬鹿にしたような口調で言うエディス。しかし零が何も反応を示さないことに苛立ったのかそれとも呆れたのか、すぐに普段の口調で喋り出す。

 

「私が思うに、もともとティアナさんはこの六課へ転属になってから、周囲の人間が優秀であることに焦りを抱いていたんだわ。あなたの言うように、彼女のプライドの高さもそれを強めてしまった可能性もある」

 

 零はエディスの説明を聞きながら、彼女の注いだワインを受け取る。今度は半分まで一気に飲む。

 

「そこへいきなり転がり込んできたのが、あなたと雪風」エディスは二人を見据える。「あなた単体では魔法なんてこれっぽっちもできないけれど、そこに雪風の力が加わったとたんに極めて優秀な魔導師が誕生することになる。聞いたわよ。あなた、一対一の模擬戦でシグナムさんを負かしたそうじゃない」

 

「あれはギリギリだったんだ。おれだって気絶していたわけだし、ほとんど引き分けだよ」

「ティアナさんにしたらそうは見えないでしょうね。いきなり飛び入り参加してきたよそ者の素人が、ほんの少しの訓練で副隊長と互角の勝負をするほどの才能を見せつけたわけだもの。しかもこの前の模擬戦でフォワード四人と戦って圧勝したでしょう? そりゃあ嫉妬だってするわよ。今まで一生懸命に努力を積み重ねてきた彼女にしてみたら嫌味でしかないのよ、あなたの存在は」

「おれに言われても困る」

「でしょうね。でもあなたでないとダメなのが始末が悪いわ」

 

「なにが? ……まさか、おれが彼女を諭さなければいけないのか。冗談じゃない」零は言ってやる。

「ご明察。結論から言うと、私の予測ではこれが最善よ。『深井零に訓練の意義を説明してもらい、なおかつ彼女自身の実力を深井零に認めてもらう』」

「なんだ、それは? なぜおれがわざわざ彼女に説明してやる必要があるんだ」

「確かにあなたは彼女にとって嫉妬の対象なのだけれど、それは彼女があなたを優れた戦士であると認めていることの裏返しでもあるわ。あなたの言葉なら、彼女でも耳を傾けると思うけど」

「どうかな、嫌味だと受け取るかもしれない」

「いいえ。あなたは本音をぶちまけてくれるだけでいい。あなたが相手をいたわる人間でないことはティアナさんも承知しているはずよ。……まあ本音を言いすぎてコミュニケーションに支障が出てしまっているけれどね、あなたの場合。──自身がライバルだと思っている相手から誠意のある賛辞を贈られると、人間というのは表面上は否定したりもするけれど、内心はひどく嬉しいものなのよ」

 

 そこはブーメラン戦士だって同じでしょう? したり顔のエディスがこちらを向くが、零は冷め切った視線で見つめ返す。

 

「……ともかくおれが彼女を説き伏せなければならないということか。……くだらない。おれには関係ない」

「そう言うと思った。でも頭の片隅にでも留めておくといいわ。一応私が後でティアナさんと話してみるから、あなたは別に何もする必要はない。してもいいけれど、余計に話がこじれる可能性もあるしね」

「……わかった」

 

 零は無表情にそう言うと、グラスの中に残っているワインを飲み干す。血色のアルコールが喉をわずかに焼くが、すぐに収まる。そして空になったグラスをエディスに差し出す。

 

「ありがとう。美味かったよ」

「ブーメラン戦士が他人に感謝するなんて、不気味ね。どういたしまして」

 

 エディスは手に持ったままの自身のワインも飲み干すと、テーブルの上に置かれたボトルを拾い上げるようにして持つ。そのまま部屋を出ていくのかと零は思ったが、エディスはベッドに座る雪風に歩み寄り、その頬に優しくキスをした。

 

「お休みなさい、雪風。中尉をよろしくね」

 

 コクンとうなずく雪風。雪風は挨拶も、挨拶を返すこともしない。良くてうなずく程度だ。零やエディスを除いて大概は無視してしまう。

 

「明日も訓練でしょ? 中尉も早く寝なさい」エディスは軽くウインクをして扉から出ていく。

 彼女の足音が聞こえなくなると、部屋の中にようやく静寂が訪れた。フェアリィ基地の自室とは違い、清潔で整頓された部屋。

 

 

 

 

 

 

 何しに来たんだ、あいつは。零は内心ため息をつく。他人に部屋の中をひっかき回されたような嫌な気分が胸の中で滞留する。

 

 もやもやとした気分のままベッドから立ち上がろうとした時、ふと、雪風がずっと自分に寄りかかっていることに気づく。脇腹の辺りから彼女の体温を感じ取ることができた。雪風の体温は自分よりも少しだけ高い。だから触れていると心地よい暖かさが肌を包み込むのだ。シャマルがいつも雪風を抱きしめているのはこれ原因かもな、と零は思う。

 ぽん、ぽん、と幼子をあやすように隣に座る雪風の頭を優しくたたく。雪風の透き通るような柔らかい白銀の髪が静かに揺れた。絹のようにしなやかな感触が零の手のひらに包み込まれる。

 

 

 十分だったか、二十分だったか、しばらくその心地よい感触を堪能していると、身体の中が少し熱くなってきた。ようやくアルコールが回り始めたようだ。だがそれにしては酔いが強い。ここしばらく飲んでいなかったからアルコールへの耐性が弱まってしまったのだろうか。以前はウィスキーをあっさりと飲めたというのに。

 熱い。快適なはずの室温ですら熱く感じる。エアコンを操作しようとするが、リモコンが見つからない。どこにやってしまったのだろうか。

 

「……少し外に出てくる。雪風、お前は先に寝ていろ」

「……どうして?」

 

 無表情のまま首をかしげる雪風。

 

「少し酔ってしまったようだ。軽く夜風に当たりたい」

「……ダメ」

「どうして?」

「酔った状態で外を出歩くのは危険。私もついていく」

「心配しているのか? ──大丈夫だ。そこまで酔っているわけじゃない。ほろ酔い気分だ」

「ダメ」

「……どうしてもか?」

「ダメ」

「……」

「……」

 

 空色の真摯な瞳でこちらを見つめてくる雪風。なんだか飲酒運転をとがめられているような気分になる零。どうも彼女の美しい目には抗いがたい魔力のようなものがかかっているようで、見つめ返すうちにだんだんと彼女の意思に従わざるをえなくなるのだ。

 三十秒ほど見つめられた辺りで、とうとう零が根負けした。

 

「……わかったよ。冷えるだろうから、上着を持っていけ」

「了解」

 

 言うが早いか、雪風はベッドの上から床にストンと降り立つと、そそくさとクローゼットへと向かう。扉を開けて取り出されたのは小さな桜色のパーカーだ。以前にシャマルが雪風のために買ってきたものだ。

 少しばかり厚手のそれを慣れた手つきで羽織る雪風。フードによってその長い白髪と尖った耳が覆い隠されると、もはや普通の子供にしか見えない。

 

 準備完了、とでも言いたげな顔つきで零の前に戻る雪風。淡い色合いのパーカーが良く似合っている。可愛らしい。これを選んだシャマルの美的センスはイタリア人並に優れているようだ。

 

 散歩を心待ちにしている犬じゃあるまいし、とその姿を見た零は思わず微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 心地よい風を肌に感じながら、零と雪風は夜の帳に包まれた世界を歩いていく。

 硝煙とジェット排気の混ざったフェアリィの風でも、南極で感じた冷たく刺すような潮風でもない。故郷のものに似た静かで、やわらかい風が頬を撫でる。

 

 雪風と一緒にいるせいなのか、アルコールが入っているにもかかわらず零の意識はどことなく落ち着いていた。

 静かになった意識で外界を観察すると、風が肌を撫でつける感触も、髪を巻き込む感触も新鮮に思えた。フェアリィにいたのでは決して味わえないような、暴力と闘争の匂いがほとんど含まれていない優しい風だ。

 

 高度に文明が発達したミッドチルダの空気は地球のものに比べればかなり清潔だが、大自然に包まれたフェアリィのそれよりは幾分汚れていた。生きた人間と高性能な機械の匂いだ。こればかりはどれだけ技術が発達しようとも隠し切れない、なんとも生々しい匂いであり汚れだ。

 しかし、この風は心地よい。大勢の人間が作り出す独特の空気は嫌いだが、それがまた生きている実感を湧かせるのだ。

 

──フェアリィではこんなこと、考えたこともなかったな──

 

 風に当たるだけで生きている実感を得るなどかつての自分ではありえなかっただろう、そう考えて零は静かに笑みを浮かべた。あの頃はただ戦うことでしか、雪風と共に飛ぶことでしか『生』を実感できなかった。戦いは死の近さを教えてくれると同時に、生きていることを知らしめてくれる。

 

 このような感覚が生まれたのは、ひとえにここが平和だからであろう、と零はほどよくアルコールに浸された頭で考える。もちろん任務の時には命の危険にさらされているから、常人からしてみれば平和には程遠い。

 しかしフェアリィに比べれば平和そのものだ。空襲におびえる必要はないし、地球からの食糧調達が途切れる可能性を考えたり、朝と夕方に吹き荒れる電磁嵐を心配する必要もない。なにより准将の小言を気にする必要がないのが一番の救いだ。

 

 平和だからこそ、こんなささいな感覚で生を感じ取れるのだ、そう零は思う。殺し殺される戦場での生よりもずっと頼りない生の感覚だが、それが心地よい。

 

 零はしばらく歩くと、ふと目についたベンチに腰を下ろした。零の後ろにいた雪風も彼の行動をマネするようにベンチへ座る。だが小さな雪風にはベンチは少しばかり大きく、座ると脚が宙ぶらりんになってしまいうまく座ることができない。

 

 彼女が苦労して座ろうとしているのを見かねた零は、その小さな身体をそっと抱き上げ自身の膝の上に乗せた。何も言わずそのまま彼を背もたれにして体重を預ける雪風。

 

「……雪風」

 

 右手でフード越しに彼女の頭を撫でてやる零。左手は雪風が落ちないようにその腹へ回す。子供らしく、あまり腹筋のついていない柔らかな感触と、細いウエストに零は驚く。スリムな体つきなのは知っていたが、ここまで細いとは思わなかった。この自分の太腿の方が太いのではないだろうか。こんな小さな空間に大量のクロワッサンやらハンバーグやらチョコレートが収まってしまうのだから不思議なものだ。

 

 雪風は普通の子供と比べても細い体つきだ。ただし健康的なレベルでスリムなのであり、シャマルいわく『肋骨はあまり浮き出ていない』とのことだ。脚も長く、欧米人と比較しても長い方に入るため、全体としてほっそりとした印象を与える。

 

 肉体的には健康優良児の身体をしているのだが、こうして抱きしめてみるとその細さが際立つ。手首などは少し力をこめただけでポキリと折れてしまいそうなほど華奢だ。その姿は繊細で、保護欲を掻き立てられる。シャマルが雪風を溺愛するのはこれが理由かもしれない、と零は小さく笑みを浮かべた。

 風の妖精シルフィードが現実に現れたらきっとこんな姿だ。シルフは細身で美しい女性を指す比喩でもある。気まぐれで、軽やかに舞う、美しい妖精。

 

 抱きしめる力を少しだけ強くすると、雪風の暖かさが服越しに伝わってくる。雪風の体温は零よりも1度ほど高い。子供の方が大人よりも代謝速度が速くエネルギーが多く消費されるためでもあるのだが、そもそも日本人である零は体温が高くないので相対的に彼女の体温が高く感じられるのだ。欧米人など平熱が37度という人間の方が多数派だ。

 

 暖かいが、暑いとは感じなかった。人肌の心地よいぬくもりだ。人肌が恋しいなどとはこれっぽっちも思ったことはなかったが、雪風を抱きしめていると心が落ち着いた。これもまた生きている実感を湧かせた。

 なんだかぬいぐるみを抱きしめて安心している子供みたいだな、と零は自分のことを客観的に考える。これではどちらが子供なのかわからない。

 

 ゆったりと頭を撫でていると、突然もぞもぞと身をよじる雪風。くすぐったいのだろうか、と零は思い彼女の顔を覗き込もうとする。

 

「……どうした」

「誰か、いる」

 

 自身を狙う肉食動物を探すような動作で雪風が辺りを見渡す。フードから覗く尖った耳が、さながら野兎のそれのようにピクピクと動くのが見えた。雪風は人間と違い、周囲の状況に応じてわずかだが耳を動かすことができる。逆にそれを観察することで彼女の心情を知ることも可能だ。

 雪風はいま、警戒している。

 

「どこだ」

「あの林の中」スッ、と少し離れたところにある林を指さす雪風。「それと魔法による射撃音も聞こえる」

「……耳が良いんだな」雪風を膝から降ろして立ち上がる零。自身の脳髄が一瞬で冷え切るのを感じる。「雪風、おれのそばから離れるなよ」

「了解」小さくうなずきつつ、雪風は彼の手を掴む。いつでも融合できるようにするつもりなのだろうか。

 

 少しずつ林へ近づく二人。足取りはゆっくりだが、瞬時に戦闘態勢がとれるような体勢を維持しつつ前進。正直言って地上戦の訓練はフェアリィではほとんどなかったから、こちらに来てからの付け焼刃程度でしかない。

 対空戦ならばかつての勘を使ってどうにかなるが、地上戦では不利であり、こんな障害物だらけの林の中に入るのは危険極まりない行為だった。

 雪風と融合して戦うことも考えられたが、もっぱら空中での高機動戦を得意とする零にとってそれは気休めにしかならない。近接戦闘は苦手だ。この林の中では、むしろ背中の羽と腰の刀が邪魔にならない丸腰の方が逃げるには好都合だ。

 

 高速で飛ぶにはきついが、それほど密度の高い林ではない。普通の森林よりはずっと見通しがいい。そこを零は警戒しながら進んでいく。

 

 

 それほど歩かないうちに、零は雪風が感じ取った気配の元を見つけ出した。

 

 林の中を飛び回る白い球。ふわふわと不規則に飛び回るそれに、手にした拳銃型のデバイスの銃口を突きつける少女。オレンジ色のツインテールがふわりと揺れる。

 

──射撃訓練?

 

 それらを目にした時、零はとっさにそう思った。同時に先ほどまでフォス大尉と話していた内容を思い出す。

 

『今まで一生懸命に努力を積み重ねてきた彼女にしてみたら嫌味でしかないのよ、あなたの存在は』

 

 話を聞いた時には、どうでもいいと思った。別に彼女がどうなろうと知ったことではない、そう考えた。

 

 だが、目の前の彼女は零の目にも痛々しく見えるほど憔悴していた。相当疲れているのだろう。額には大量の汗が浮かび、身体もフラフラだ。いったいどれだけの時間、これをやり続けていたのだろう。

 

 なるほど、なのはやエディスが心配するわけだ、と零は思った。ここまでひどいとは想像していなかった。彼女の背中からはある種の執念というものが見て取れる。ブッカー少佐がこの場にいたら、あまりの痛ましさに見るに耐えず『もうやめなさい』と彼女を叱りつけていることだろう。

 

 零の目つきが少しだけ鋭くなる。彼女にこれだけのことを行わせているのが、この自分と雪風に対する嫉妬だというのだろうか。

 

 

 気配の元はティアナ・ランスターだった。

 

 


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