それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。
───新約聖書 マルコ福音書 第一章 第12節
零を包んだ光はなかなか収まらなかった。
目を開けていなくてもわかる。体中を光が照らし出す感覚が消えないのだ。人は死ぬ瞬間、意識が引き伸ばされると聞いたことがあるが、もしやこれがそうなのだろうか、と零は他人事のように思っていた。
どうしてまだ考えることができるのだろう。まさか人間には死後の世界があるというのか。
無宗教の自分が行くところなどロクなところではないだろうと考えつつ、雪風も神を信じていないだろうから、きっと同じところに行けるのではないかと淡い期待も湧き上がっていた。雪風と共にあるなら無限の時間も怖くない。
光に照らされる以外の身体感覚はまるでない。雪風に乗っている感覚も重力も、息をしている感覚すらない。自分が上昇しているのか、落ちているのかすらわからない。
もしや永遠にこのままなのだろうか。いやな予感が頭をよぎる。雪風と一緒であれば問題はないが、しかしその存在を感じ取ることもできずに永遠の時を思考し続けるというのは拷問に等しい。
雪風は、どこだ。
身体が動く感覚すらないにもかかわらず、零は雪風の存在を感じ取るべく、もがくように手を伸ばそうとする。
永遠の時を思考し続けていなければならないのなら、せめて、雪風の操縦桿を握っていたい。彼女とのコミュニケーションができるできないに関係なく、その存在さえあれば自分は地獄だって生きていけるだろう。
体感にしてわずかな時間だったか、途方もない時間だったかもわからないが、零の右手から何かに触れる感覚が神経を通じて伝わった。操縦桿だろうかと思いそれを掴んで力を込めると、そうではないことがわかった。
──だれかの、手?──
暖かくて、優しい手。その手が零の掌を優しく包み込むように握り返してくる。悪い気は、しなかった。どこか懐かしいような。母でもない、友でもない、恋人でもない。しかし心地よい掌。
その手の感覚を認識してから間もなく、光に満ちた宇宙空間にでも放り出されたような感覚は唐突に途切れることになった。
身体に重力がかかっていく。あいまいにしか認識できなかった心臓の鼓動も、呼吸もはっきりと感じることができるようになっていく。これはまさか神様とやらの手を握ってしまったのではないだろうかと困惑を覚える零。
そして徐々に光が消えていくのがわかる。身体の感覚はもはや宙に浮くようなものではなく、硬い地面に背中を預けている状態のそれだ。自分は、どこかの地面に寝転がっているのだ。
天国か、地獄か。果たして自分はどこに来たのだろうかと疑問に思った零は、それまで閉じていた目を開けることにした。地獄だったとしても、怖くはない。天国なら、ラッキーではある。
うっすらと目を開けてまず飛び込んできたのは、青だった。一面の青。視界のすべてを覆い尽くす深い深い青色。零がそれを澄んだ青空であると理解するまで二秒ほどかかった。雲一つない晴天だ。もっと瞼を開けて視界を広げると視界の端にまばゆい光が現れ、網膜をわずかに焼いた。太陽だ。
地獄にこんな青空があるとは思えなかった。天国だろうか。
首をめぐらせて辺りを見回すと、土色の壁が辺り一帯を覆い尽くしていることに気付く。それだけでなくその壁からしたたかに煙のようなものが立ち上がっている。
上体を起こしてみる。五体満足であることが感覚からわかった。そして周囲の状況を確認する。
直径50メートルほど、深さ20メートルほど、月のクレーターのようにえぐられた地面。その底に、零はいた。まるで自分が空から隕石のように落ちてきたのではないかと思えるような光景だ。なぜ自分はこんなところにいるのだろう。
クレーターの壁のせいで周囲の景色はわからない。しかし、こんなクレーターは少なくとも天国にはなさそうだった。
「地獄、か?」
しばらくぶりに口を開いた気がした。水分は充分なはずなのに口の中がカラカラだった。
青く澄んだ空を二人の女性が駆け抜けていく。
二人の身体にはジェットエンジンやグライダーのような飛行機械は装備されていない。にもかかわらず時速数百キロという猛スピードで空中を飛んでいた。二人は通常の物理法則とは異なる理で自らの体重を支え、同時に飛翔するための推進力を作り出していた。
二人はこの世界において『魔導師』と呼ばれる存在であった。白い服を着ているのが高町なのは。黒い服を纏っているのがフェイト・テスタロッサ・ハラオウン。
大気中に含まれる魔力素という目に見えない特殊物質を体内に取り込み、魔力へと変換して魔法を行使する特殊技能。それがこの世界における魔法であった。
彼女らは20歳に満たないにも関わらず世界最高水準の実力を持つ魔導師であると同時に、その魔法によって世界を統治する時空管理局のエースでもあった。地球に存在する軍隊が一個大隊そろっていたとしても、彼女らであれば赤子の手をひねるがごとく制圧することが可能だった。
そんな圧倒的戦闘能力を秘めた二人が向かう先には天に向けて立ち上る黒煙の壁があった。数十キロメートルは離れているというのに目視が可能なほど巨大な煙の集合体だった。
「あれが、そうなんだね」
高町なのはの言葉にフェイトが頷く。「ものすごい範囲の樹が焼けてる。都市部で起こらなくて本当に良かった」
眼下に広がるのは鬱蒼とした森林。地平線まで続く温帯樹林の森だった。しかし、その先に見えるのは焼けただれた大地だった。
今から数十分前、時空のゆがみや局所的な高エネルギーによって引き起こされる次元災害『次元震』が管理局によって観測された。発生すると辺り一帯が消し飛ぶ災害だ。めったにないことではあるが、小規模なものは都市部で発生さえしなければ特に被害は出ないし、発生する前に兆候が表れるので避難する余裕もある。
今回観測された次元震も観測データとしてはごく小規模なもので、発生地点も都市部から遠く離れた森林地帯で被害は小さいものと判断された。
ところが衛星による観測では全く違うデータが得られた。
発生したと思われる地点から次元震のものとしてはあまりにも異質なエネルギーが観測されたのだ。
『強烈な閃光』
『直径数百メートルの超高温の火球』
『人の致死量をゆうに超える放射線』
『ガンマ線が爆発的に放射される電磁シャワー』
『巨大なキノコ雲』
これらは通常の次元震では起こりえない。
それらを引き起こす要因は、魔法が発展し、魔法を使わない兵器『質量兵器』の使用が禁じられた世界『ミッドチルダ』そして時空管理局が統轄する全ての管理世界においてはあまり知られていない現象。
だが、なのは達は知っていた。
それらの現象が発生する原因は一つしかない。管理外世界である『地球』出身の高町なのは、そして地球に長く滞在経験のあるフェイトだからこそ、その原因の恐ろしさを理解していた。
『核兵器』
原子爆弾や水素爆弾の名前で知られる、物体の持つ質量をエネルギーへ変換し、その莫大なエネルギーでもって周囲を破壊する科学兵器。魔法とは違い、生きとし生けるもの全てに死をもたらす力。
その威力は星ひとつ消滅させるほどの力を持った『ロストロギア(失われた遺物)』には遠く及ばないものの、複数の都市をまとめて消し飛ばすほどには破壊的で、地球で開発された質量兵器の中では群を抜いて破壊力の高い兵器だ。町からかなり離れた、人気のない森で爆発が起きたのは不幸中の幸いと言えよう。
だが、もし何らかの犯罪だとしたら自分たちが到着した時点で二回目の爆発がある可能性もある。
大気圏内の核爆発で生じる火球は想像を絶する高温高圧のプラズマ体で、その内部に入り込んだ物体は材質がなんであれ蒸発してしまう。いくら彼女らが管理局を代表するエースだとはいえ、至近距離の核爆発は防御のしようがない。
なのは達はその悪魔の力への恐怖を押し殺して、現場へと向かっていた。彼女たちは若くとも、命に係わる修羅場は何度も潜り抜けている一人前の戦士であった。
「酷い…」
現場に着いたなのはの第一声はそれだった。それ以外に形容のしようがない光景。焦げた臭いが鼻を刺激する。爆発観測時に確認されたキノコ雲は風に流されたのかもう見えない。澄み渡った青空が広がっているだけだ。
彼女らは辺りを見渡してその様を確認する。爆心地と思われる場所から外側に向かって、半径約4キロ範囲の樹木が同心円状になぎ倒されている。倒れた木のほとんどは炭化していた。円の中心部は赤茶け、焼けた大地。よほどの低高度か、それとも地表で核爆発が起きたのだろう。中心部にはクレーターと思わしきくぼみが見えた。
今なのはとフェイトがいるのは、なぎ倒された木々と、かろうじて耐えた木々との境界が描く円のふちの上空。
二人は目の前の景色を呆然と見ていた。普通、次元震ではこんなことは起きない。
核爆弾が次元震でどこからか転移してきて、炸裂したというのが最も高い可能性として考えられた。
「これは、想像以上だ」
「レイジングハート、放射線強度の測定をお願い」
<ラジャー>
高町なのはが手に持った機械的な杖に告げると、了解と返答が返ってきた。そして杖の先端に埋め込まれた大きな赤い宝石の表面がディスプレイのように発光し、いくつかの数値を表示する。
<現在の放射線強度は日常生活レベルです。健康に悪影響は及ぼしません>
「また大げさな。バリアジャケットがあるんだから平気だって」
フェイトはそう言うが、なのはは首を横に振って否定する。
「万が一、高強度の放射性物質がバリアジャケットについた状態で帰ったら大変だよ。街に放射線をばらまいちゃう」
「それはそうだけど、ジャケットには自浄作用もあるんだから。そんなに放射能が怖い?」
「怖い」
真顔で言うなのは。原子爆弾やら原子力発電所やらの知識をよく理解している日本人の彼女にとって、放射線は最大限の警戒をすべき対象だった。
日本で暮らしていたとはいえ、その期間が短いフェイトにとってはピンとこない。この世界ミッドチルダではそもそも放射線を発する物体自体が少ない。原子力発電所もない。核爆発の破壊力を知っていても、放射線まで怖いかどうかは別問題だった。彼女からすると高町なのはの反応は過剰に見える。
「さて、行こうか」
なのははフェイトを促す。できるだけ中心部まで近づいて事態を把握するのが二人の任務だった。卓越した戦闘能力を持つ二人だからこそ、もし不測の事態が起きてもどうにか生き延びる可能性が高いと、上層部も彼女らも思っていたからだ。核兵器をよく知らない他の局員に任せる方が危なっかしい。
これほどの爆発だ、どれ程の放射性物質が撒き散らされたことか。そう思いながら、二人は爆心地へとゆっくり飛翔する。放射能レベルが危険域に近づけばデバイスが警告してくれる。今回は、近づけるところまで近づいて調査するだけだ。詳しい調査は他の部隊がやってくれる。
飛翔する彼女らの下、黒く焼けただれた大地には生物の気配はない。核爆発は莫大な放射線と熱線と衝撃波を伴う。近くで食らえば大概の生物は死滅してしまう。
「核爆発ってだけあって、強烈だね」辺りを見回しながらフェイト。「観測値では50キロトン級って言われてたけど、街で起きなくてよかった」
「広島の倍なんて……。いったい何が原因なんだろう」
「どこかの核弾頭が転移してきたってのが一番ありそうなんだけど、そんな簡単に起爆するものかな」
「まさか攻撃? ──いや、だったら公共施設か市街地を狙うよね。わざわざ無人の森林地帯で炸裂させる意味なんてないし」
まるで地獄のごとき光景を眺めながら、なのはは、ふと気付いた。
「ねえ、レイジングハート。放射能は大丈夫なの?」
奇妙だった。ここまで爆心地に近づいたのに、二人のデバイスは何の警告もしない。第二次世界大戦末期、広島に原子爆弾が投下され炸裂した際には短期間とはいえ高い放射線と黒い雨が観測されたというのに。
<はい。放射能レベルは測定開始時から変化はありません。依然として放射能は日常生活レベルと同じです>
レイジングハート続いてが答える。二人は顔を見合せた。これほどの爆発の規模ならば、相当な残留放射能があるはずだ。
それが無い。
それでは、この惨事は核爆発によるものではないのか。放射能測定機能が正常に機能していないなら別だが。
しばらく困惑していた彼女らの視界の隅に、何か光るものが見えた。
「光?」
「行ってみよう」
二人は気を引きしめ、自分のデバイスに放射能測定を中断しないよう言い、光の見えた方、爆心地のクレーターへと急行した。
『雪風はどこだ』
クレーターの中でそう気付いた彼は、おもむろにパイロットスーツ内からナイフを二本取り出した。FAF工廠製の軽量で頑丈なそれは、不時着した際にフェアリィ星の原住動物から身を守り、最低限の身の安全を保障する武器であった。
彼はそれをクレーターの壁に、登山家が崖を登るときにピッケルを使用するのと同じように交互に突き刺し、腕の力だけで垂直に近い壁を登っていく。戦闘機乗りならではの体力と、精神力があってこその行動だった。
『雪風を探さなくては』
その心の底から沸き上がる衝動が、彼を突き動かしていた。それに、ここがどこなのかは知らないが、救助を待っていては餓死してしまう。どうにかして外へ出なければならなかった。
疲労が満ちる身体に鞭打ち、どうにかクレーターの縁に手をかける。そして腕の力だけで身体を外側に向けて押し上げる。途中で壁に突き刺したナイフに足をかけ、零の身体はようやく外の地面に投げ出された。
やった、と零は少しばかりの満足感を得た。ロッククライミングの経験など微塵もなかったが、案外何とかなるものだな、と思った。
荒い呼吸を整えて辺りの景色を見渡してみる。一面の焼野原だ。地面まで焼け、立っている樹はほとんどない。みなクレーターを中心に外へ向けて倒れている。炭化していることを除けばツングースカの大爆発に見えないこともなかった。
「核爆発、か?」
フリップナイトの自爆に巻き込まれたことを考えれば、そう思い浮かぶのは自然なことだった。だがナイトに搭載された弾頭は水素爆弾だから、ここで爆発が起きたとしたらもっと巨大なクレーターになっていなければならない。それに自分が生きていられるはずがない。
あるいは「通路」で核を炸裂させたことで妙な反応が起きたのかもしれない。しかし雪風が消え、自分だけ無傷で見知らぬ土地に放り出されるとはどんな反応なのだろうか。零には見当もつかない。コクピットから射出されたのか。
ここが文明のある土地だというのなら、少なくとも地球であるならば、数時間もすれば偵察に飛行機が飛んでくるだろう。地球には核爆発を監視するためのレーダーや大気圧変動を探知するシステムが構築されている。どこかで核爆発が起きれば必ず探知される。救助は心配ない。
それよりも重要なのは雪風だ。自分だけコクピットから射出されたのなら、雪風はどこかにいるはずだ。
探しに行かなければ。
零はその前に、クレーターの壁に突き刺さったままのサバイバルナイフを持っていこうとして、屈んでその縁に手をかける。
その瞬間、零の頭上を光線が通過する。真後ろからだった。しゃがんでいなかったら直撃していた。零は反射的に右へ転がった。
攻撃してきた敵は奇妙な機械のように見えた。青と水色のカプセル型。人間より大きい。そこから触手のようなコードが伸びている。数は一体。他に敵は見えない。相対距離はおよそ20m。
自律式の戦闘機械か、あるいは中に人間が乗っているのか。しかし装甲はそれほど分厚くなさそうだ。零は腰に下げた拳銃に手をかける。
グロック17。9mm拳銃。フェアリィ空軍の正式採用拳銃だ。弾数は17。予備弾倉は一つ。射程50m。
零は銃を抜いてすかさず3連射。うち2発が命中。火花を散らして装甲に凹みを作るが、それだけだった。少なくとも装甲車に匹敵するだけの頑丈さを備えているようだった。
「くそう」
これではだめだ。悪態をつくと零はクレーターの縁に沿う形となって逃げ始めた。クレーターに落ちてくれないか、あるいは向こう側に回れば攻撃されないかもと期待していたが、追ってきた。かなり速い。逃げながらも残りの弾を叩き込むが、当たってもひるむくらいで大して効かない。お返しとばかりにレーザーらしき光条が零の周囲を飛び交う。射撃精度が悪いのが幸いだった。あるいは当てる気がなく、威嚇射撃にすぎないのかもしれない。
直撃は避けたもののレーザーの一撃が零の足元を抉り、彼のバランスを崩させた。零は立て直そうとするが、そのかいもなく身体はクレーターの中へと倒れこむ。
ごろごろとすり鉢状のクレーター底へと転がり落ちる零。首を折らないよう頭をかばうが、それでも数十メートルの急斜面は彼の身体にダメージを与えていく。かなりの痛みだった。
ようやく落下が止まったころには、零の身体は痛みで思うように動かなくなっていた。拳銃はかろうじて握っていたが、弾倉を交換するだけの気力がない。頬の皮は擦り剥け、頭からは血が流れ始めていた。背中には激痛。気を失いそうになる。背骨か肺を傷めたかもしれない。
疲労と痛みで意識が遠のく、
そして自分を突き落としたロボットが、壁の上から自分めがけて飛び降りてくるのを零は視界に捉えた。
直撃コースだ。零は思った。
恐らく数秒後には、自分は落下してくるロボットに押し潰されるだろう。
こんなわけのわからない状況で死ぬなんて。零は呻くようにその自律兵器を睨み付ける。せめて、どうにかしてあの落下だけでも避けられないだろうか。腕に力を込める。
次の瞬間、零は見た。ロボットが桜色に光り輝くのを。零は両目を見開く。
突如、猛烈な熱波が押し寄せてきた。自爆攻撃か──いや、そうではなかった。
ロボットの上部が、消え失せる。零は確かに見た。その胴体を構成する機械が、バラバラに飛び散るのを。そして次の瞬間、無くなっているのを。奇妙な、眺めだった。まるで黒板の絵をふき取るように、ロボットの上半分が消える。そして下半分も同じように消える。
零には桜色の光がロボットを吹き飛ばしたかのように見えたが、痛みで首が回らず、徐々に意識が遠のいていき確認することもままならない。
だが、薄れゆく意識のなか、自分のそばに白い服の人間が舞い降りたことに、かろうじて零は気が付く。
白い服───天使か?
視界もぼやけてきた。くそう、なにも、見えない。いったい誰なんだ、おれの傍にいるのは。
「大丈夫ですか!?」
女の、声──
その思考を最後に、零の意識は闇に落ちた。
2016年7月28日本文を改訂