零とエディスが朝食を終えてすぐ、雪風とシャマルが起きてきた。
エディスは2人に軽く挨拶してから食堂を後にしたが、零はその場に残った。今日は特にやることもないし、せっかくだから雪風のそばに居ようと思ったのだ。
戦闘訓練しようにも雪風無しではまともに魔法が使えないので、筋トレぐらいしかやることがなかったりする。
どちらにせよ雪風が朝食を終えるまで待たなければならない。大量のクロワッサンを黙々と食べ続ける彼女の左隣で、零はコーヒーをちびちびと飲むことにした。
焼き立ての香ばしいクロワッサンを小さな口で咀嚼する雪風は、小動物が木の実を夢中でかじっているように見える。まるでリスだ。小さく、愛らしく、警戒心の強いところも良く似ている。
雪風の右に座るシャマルも同じようにクロワッサンを食べているが、彼女の場合は食べることよりも雪風を見つめることの方が重要なようだ。ちょくちょく雪風を見ては恍惚とするような表情を見せている。
よほど可愛いのだろう、『今すぐ抱きしめたいオーラ』が嫌というほど伝わってくる。
どこかで、『親は自分の子供が食事しているのを見ているのが好き』というのを聞いたことがある。自分の子供がおいしそうに食べているのを見るだけで、自分も満足感を得るのだという。
少し理屈をこねてみれば、それは自分の遺伝子を残すための本能的作用だ、という論理的説明が出てくる。自分よりも我が子の食事を優先することで子を生存させ、未来に命をつなぐ、という本能だ。
基本的に子が親の庇護を必要としている期間は成熟している親の方が栄養的に優位であり、成長と新陳代謝によるエネルギー消費が激しい子は栄養的に劣位なのだ。
親はしばらく絶食しても何とかなるが、子はそうもいかない。親よりも簡単に衰弱してしまう。
だから子の食事を優先させ、なんとしてでも生存させる。実に理にかなった行動だ。
逆に、一切の理屈を排除して考えてみると──ただ単に子供が一生懸命に食べている姿が可愛らしいのだろう。
普通のまともな親なら、子のちょっとした行動さえ愛おしく感じるだろうから。
そしてシャマルのこの表情は後者によるものだ。零はコーヒーをすすりながら思う。
このミッドチルダのコーヒーは実にうまかった。フェアリィのコーヒーはコーヒーと思いたくないほど不味かったから、感覚が麻痺しているのかもしれない。
「中尉」
しばらくぼんやりしていると、くいくい、と上着の袖が引っ張られる感覚とともに雪風の声がした。見れば雪風が1つのクロワッサンをこちらに差し出している。
「……おれに?」
とまどう零の質問に雪風はコクンとうなずく。
「これだけの個数は処理しきれないと判断した。中尉の協力が必要」
「……ようは『そろそろ食べきれなくなってきたから少し食べろ』ということだな?」
「その認識で問題ない」
「……」
「……」
「……わかった。承諾する」
わずかな沈黙の後、零は雪風の小さな手からクロワッサンを受け取った。少し顔を近づけるだけで焼き立てのパンが放つ良い香りが鼻腔をくすぐる。
ブッカー少佐あたりが喜びそうなくらいに良い焼き加減だ。普段から無感動な零がそう思うほど美味しそうなクロワッサンだった。
なるほど、雪風が好んで食べるわけだ。零はしばしその良い香りを堪能してから、端を少しちぎって口に運んだ。
うまい。素材が良いのだろか。フェアリィの小麦は全て地球からの輸入だったからどうしても古くなってしまうことが多かったし、予算の関係で安いモノを買っていた。ようは不味かったのだ。
それに比べ、このミッドチルダの小麦は質が良い。それに技術が発達している分、パンを焼くかまどもフェアリィのそれより高性能なのだろう。フェアリィではそんなところに予算を回す余裕などなかった。
──食べ物はこっちの方が良いな──
そんなことを考えながら零は二口目を口に運ぼうと、クロワッサンをちぎる手に力を込める。
まさにその時だった
「ユッキーおっはよー!!!」
元気の良い少女の声とともに、後頭部に強い衝撃を受けたのは。
「スバル、なにやってんのよ!」
「え? なにって、ユッキーに朝の挨拶を──」
「そうじゃなくて……あんたねぇ」
まったく予期していなかった痛みに、零は頭を抱えてテーブルに突っ伏した。わずかな混乱。後ろでかわされている会話など耳に入らない。衝撃を受けた時、一瞬意識が飛びかけた。かなり痛い。
「深井さん大丈夫ですか!?」赤髪の少年──エリオがもだえ苦しむ零をいたわって声をかけてきた。
「……大丈夫に見えるか、これが」
「医務室に行った方が……」
「そこまでじゃない。とりあえず、なにが起きた。説明しろ」
ジンジンと頭に響く痛みに耐えながらエリオに尋ねる。あの衝撃は金属バットで殴られたくらいのモノだった。
万が一、急性硬膜外血腫だとかそれに類する症状が出たとしても心配はない──少々大げさだが。
この六課には優秀な医者が2人もいるのだ。しかもそのうちの1人はすぐそばにいる。
「えっと、スバルさんが雪風さんに抱きつこうとダッシュして、抱きつくときに広げた腕が深井さんの後頭部を直撃したんです。すごいスピードで」
「……簡潔かつ明快な報告に感謝する」
「あ、はい」
少女に殴られた程度でこの痛みとは。零は驚く。恐らく肘か手首の辺りがクリーンヒットしたのだろう。助走をつけての殴打と大して変わらない。
スバルは普段から活発だから、身体能力も高い。よって威力も高い。
「シャマル先生、深井さん、雪ちゃん、おはようございます」隣から聞こえたキャロの声が場の空気を一瞬だけ切り取る。
エリオから聞いた状況を考慮すればなかなか衝撃的な出来事が起きたはずなのだが、それでも動じていないというのはスゴイ。色々な意味で。
「ん~。ユッキーは相変わらずもふもふだね」
「雪風が嫌がってるわよ、スバル」
ようやく痛みが薄れ、背後の会話にも意識を向けられるようになった。
まさか朝っぱらから後頭部を殴られるとは思ってもいなかった、と零は痛む頭をさすりながら思う。
背後に目を向けてみればスバルが雪風を抱きかかえており、いつもシャマルがしているように頬ずりしている。
当の雪風は彼女の拘束から逃れようともがいているが、体格差も体力の差もあるためそれは叶わない。
結果的に零を殴った、というのも雪風が抵抗する理由の一つなのかもしれなかった。
フェアリィであれば殴られた場合、上官だろうが部下だろうが殴り返すことが黙認されていた。男女の区別も年齢の区別もない。地上にいる間は基本的に平等、という不文律があったのだ。フェアリィの掟に従えば、零はスバルを殴っても良いことになる──決して『良い』わけではないが、認められる。文句をつけることも無い。
だが零はそれをしなかった。女相手、というのもあったが、彼女が年端もいかない少女であることが問題だったのだ。フェアリィに子供はいない。
合法的な女性兵士というのは世界各地に存在している。特殊戦にもパイロットとしてグレイ中尉、ガラント中尉、コヴァレフスカシヤ中尉がいたし、そもそもクーリィ准将が女将軍だ。彼女たちは男と同じく戦士だ。敵を殺し、敵に殺される立場にいる。
女であっても武力を持つ以上は戦士としての覚悟──『殺される覚悟』を持っているとみなす。相手が女性であっても、敵ならば、必要があれば、傷つけるし、殺す。それが軍隊というものだ。
零もその概念は理解しているし、納得もしている。
反対に、合法的な子供の兵士は地球にもフェアリィにも存在しない。いたとしてもそれは国際法を無視した非合法的少年兵だ。
少年兵が禁止されているのは人道的にも倫理的にも大きな問題があり、武力を持たせるには責任能力が無いからである。 戦場という殺し殺される環境が、子供の精神発達に致命的な悪影響を与える、というのも大きいだろう。大人でさえ精神を病む場所なのだから。
だがこのミッドチルダ──主に時空管理局が支配する世界ではそれが無い。魔法という非殺傷的な武力が存在しているためである。
眼球など、よほど当たり所が悪くない限り非殺傷設定の魔法では人を傷つけることはできない。逆に言えば、武力の全てをそれで統一してしまえば味方も敵も傷つかない。非常にクリーンな力になる。
しかし魔法には通常の武力と違って適正というものがあり、そのため管理局は慢性的な人材不足に陥った。
ゆえに人材を補充するため管理局は年端もいかない子供まで入局させることを認めている。なにせ味方も敵も傷つくことはまれなのだから。
最初にこのことを聞いたとき、零は猛烈な反発を覚えた。自分でも驚くほどの憤慨だった。
子供を大人と一緒に戦わせるなど認められない、いったいこの世界の倫理観はどうなっているのだ、と。
声には出さなかったが、心の中から湧き上がってくる怒りは管理局に対する不信感を強めるには充分だった。
自分は国際法など屁とも思っていないし、法律や倫理など戦場では不必要だと思ってもいる。攻撃してくるモノは全て敵だ。
──だが、もしその敵が幼い子供だったら? 自分はその子を殺せるのだろうか。
零はスバルを見つめ、思う。たぶん、殺せない。もしくは躊躇するだろう。
今この場でスバルを殴れないのも同じようなものだ。子供は、傷つけたくない。傷つかせる立場に置きたくない。
「深井さん?」不審に思ったのかエリオが心配そうにこちらを見つめてくる。「大丈夫ですか。やっぱり診てもらった方が……。シャマル先生もそこにいますし」
「大丈夫だ。問題ない」
ぶっきらぼうにそう言うと、零は食べかけのクロワッサンを雪風の使っている皿に戻して立ち上がる。
「ぼ、暴力はいけないと思います」ゆっくりとした彼の動きから殺気らしきものを感じとったのか、慌てふためくエリオ。「スバルさんも悪気があったわけじゃないですし……」
「……何の話だ」
そのままスバルにツカツカと歩み寄り、抱きかかえられた雪風を強引に引きはがす零。その彼にしがみついてくる雪風。
「あ、ちょっと、深井さん」
「雪風はまだ食事中だ。邪魔をするな」
「もふもふするぐらい良いじゃないですか」
「拒否する」
「ちょっとだけですから」
「ダメだ」
雪風を奪い返そうとするスバルを適当にあしらいながら、零はしがみつく雪風をそっと椅子に座らせる。雪風は席につくと、再びリスのようにクロワッサンを食べ始めた。それを見て微笑む零。
「ああ、ユッキー……」心底残念そうに肩を落とすスバル。
「スバル、さっきあんたの腕が深井さんの頭にぶつかったの気づかなかった?」
「ほえ?」
スバルの呆けたような表情を見て、はああ、とティアナは深いため息をついた。
「雪風に抱きつこうとした時に思いっきり腕広げたでしょ? それがクリーンヒットしたのよ」
「うそ!?」
「ホントのことよ。……やっぱり気づいていなかったのね」あきれた顔でティアナ。「それで謝りもしないんだもの、見てるこっちがヒヤヒヤするわ」
「それで深井さん怒ってるんだ……」
「さ、わかったならとっとと謝りなさい。こういうのは何事も早い方が良いわ」
「うう。……深井さん、ごめんなさい」
しょんぼりした顔でスバルが頭を下げる。だが零は見向きもしない。スバルは慌てた。どうも彼は相当頭にきているらしい。
「深井さん本当にごめんなさい! 後で何かおごりますから許してください!」
スバルにとって、零はホテル・アグスタで自分達を助けてくれた恩人であり、頼れる大人とも言える位置づけにあった。『他人はどうでもいい』『雪風を傷つけるモノは殺す』とか言っていても、いざとなったら助けてくれる。隊長陣に匹敵するだけの力量も持っているし、空戦技量はそれ以上だった。最近身につけた新技『CDS』はガジェットを一瞬で殲滅できる。まさしく一騎当千の実力者。味方に付けばこれほど頼もしいものはない。
だが日常生活においてはいわゆる『怒らせると怖い人』としてスバルは零を見ていた。何を考えているかわからないし、いつも冷たくて怖い目をしている。フォス大尉や雪風と会話している時など、今まで聞いたこともないような言葉で話しているから余計に不気味だ。彼の身長が180近いこともあって、常にこちらを見下ろす形になることも恐怖を倍増させた。
乱暴者でないことは明らかだったが、何やら近寄りがたいオーラをまとっている。できることなら彼の怒りは買いたくなかった。食べ物をおごって許してもらう、というのはいささか安っぽい手段ではあったが、今のスバルにはそれ以外考えつかなかった。
「……いらない」
「じゃあ、どうしたら許してくれますか」
捨てられた子犬のような表情でスバルが零に詰め寄ると、彼は少し考えるように目を閉じた。
「……雪風に食後のアイスをおごってやれ」
「へ? 深井さんにじゃなくて?」
「そうだ。それで今回のことは無しにする」
「……」
「不服か?」
「いえ、その……」
スバルは予想外の返答に戸惑い、零の隣にいるエリオと顔を見合わせた。彼はこんなことを言う人間だっただろうか。もっと冷たくて、機械みたいな人だと思っていたのに。
「雪風ちゃんはね、ストロベリーが好きなのよ」横からシャマルが口をはさむ。「後は、チョコアイスも好きね。とにかく甘いのが好きみたいよ」
「はあ」興味なさそうに背後のティアナ。
「……ユッキー」スバルは雪風の顔をのぞきこむと、恐る恐る尋ねる。「ストロベリーアイスで良い?」
彼女には目もくれず、雪風はクロワッサンを黙々と食べ続ける。
しかし、スバルには雪風がクロワッサンを食べながら小さくコクンとうなずくのがわかった。
反則的に可愛いらしい仕草、まるで小動物のようだ。思いっきり抱きしめたい、そしてもふもふしたい、という思考がスバルの脳内を駆け巡る。
「ユッキーは良いみたいです」とスバル。
「なら、いい」零はそう言うと飲みかけのコーヒーをグイッと飲み干す。「それでもう帳消しだ。以後、問題にすることはない」
ポカンとして零の背中を見つめるスバル。何を考えているのかわからない、ということは変わらないが、彼はそんなに悪い人ではないらしい。
零は飲み干したコーヒーを注ぎに席を立つと、そのままコーヒーメーカーの所までさっさと行ってしまった。
彼が席を立つときに雪風の頭をそっと撫でて行ったことをスバルは見逃さない。
その光景を見てスバルは実感する。深井零は自分達と同じく、暖かい心を持った人間なのだ。ただその暖かい気持ちを固い氷の殻で包み込み、めったなことでは外に出そうとしない、それだけ。
いったいどういう経緯で彼がこんな性格になったのかは知らないが、良い人なのは確かだ。きっと過去にいろいろあったのだろう。
──本当は優しい人なんだ──
コーヒーを注いで戻ってきた零を見てスバルは思う。実は優しい人、という考えをもって改めて彼を見ると雰囲気が違って見える。
怖くなんてない、きっと仲良くできる。
「深井さん」席についた零にスバルは話しかける。後ろでティアナが『早く朝食とらないと』と言っているが、少しだけ待ってもらう。「ちょっとお願いがあるんですけど」
「……なんだ」まだ何かあるのか、とぶっきらぼうに零。
そんな彼に、スバルは満面の笑みで告げる。
「深井さんのこと、『零兄(れいにい)』って呼んでもいいですか?」
「……却下」
「……ケチ」
「……なんとでも言え」
こうしてスバルの試みは見事に玉砕したのであった。
なお、この10分後、かき氷やアイスを一気に食べた時に現れる、あのキーンとした頭痛に悩まされている雪風がいたという。
そんなころ、零より一足早く朝食を終えたエディスはシャリオと共に隊長室を訪れていた。数日前の任務、ホテル・アグスタでの戦闘についての報告である。
今回の任務において戦闘に参加した面々から『今回のガジェットは何かおかしい』という意見が出たので、はやてがシャリオにガジェットの残骸を調査するよう頼んだのである。
シャリオはデバイスの調整や製作を行っているため、手先が器用でプログラミング技術も高い。こういった調査にはうってつけの人材だった。
ちなみになぜエディスまで駆り出されたのかというと、少し前、六課の協力者となるための手続きをしていた際『私、特殊戦に来る前はシステム軍団にいたのよね』と、うっかり口を滑らせてしまったことが原因である。
フェアリィ空軍は役割に応じていくつかの軍団に区分けされている。特殊戦が所属する実戦部隊の戦術空軍団、パイロットの育成を行う教育軍団、気象観測するための気象軍団などがそれにあたる。その中の一つ、システム軍団は主に技術開発──新型機や新兵器の開発などを行っていた。エディスはそこでテストパイロット達の心理カウンセリングをしていたのだ。
しかし彼女は医者である。別にシステム軍団にいるからといって特別手先が器用だとか、プログラミングができる、などといったことは無い。いちおうフライトオフィサの資格は持っているし、心理分析ツールを扱えるだけの技量を持っているものの、一般的なレベルと大して変わらなかったりする。
さらに調子に乗って、フライトオフィサの資格とセスナの免許を持っていることまで伝えてしまった。2つとも物理と機械に強くなければとることのできない資格だ。
『技術開発する部署にいた』『フライトオフィサの資格有』『セスナの免許有』
はやてはエディスの持つこれらの要素を鑑みて、『エディス・フォスは機械に強い』という図式をおのれの中に刻み込んでしまったのだ。
はやてにとっては技術屋を獲得する絶好のチャンスであり、エディスに逃れるすべはなかった。
こうした背景により、半ば強制的に解析班に回されてしまったのである。
だが、この判断が思わぬ成果をあげることになった。
回収したガジェットの残骸から『あるモノ』が発見されたのである。
「生体組織? ガジェットの中に?」
「そうよ。その他の部位と密接に融合していたわ」
狐につままれたような表情のはやて。その彼女へ冷静な声で報告するエディス。
「回収されたガジェットの一割にも満たないけれど、内部に有機的な生体組織を有している個体がいたのよ。たぶんそれが今回の『手強い個体』なんじゃないかしら」
「う~ん……。生体組織、なぁ。いったい何のためなんやろ」はやては顎に手を当てて思案する。「その生体組織、どないな感じやった?」
確かに、今回のガジェットには手強い個体がいた、とシグナムなどから報告を受けている。中にはこちらの攻撃を読んでくるような個体までいたそうだ。普通のガジェットはそこまで高度な戦術を行えない。何らかの改造点があるはずだった。
「強いて言えば人間の脳髄に似ていたわ。構造もそうだけど細胞形態が脳細胞にそっくりだったわ」
「の、脳!? 人間のなんか、それ!?」
はやては驚きのあまり顔面蒼白になる。なんということだ、まさかスカリエッティは生きた人間から脳だけ取り出してガジェットに取り付けたのか。
確かにそれなら今回の事例は説明が付く。人間が判断してガジェットを操っていたのだとすれば、シグナムの太刀筋を避けることも可能だろう。
しかし、もしそうだとすると自分達が狩った何体かは……。考えたくもないイメージがはやての頭を巡る。
「大丈夫です。あくまで『人間の脳に似た何か』にすぎません。一部の構造が違っていましたし、細胞内の遺伝子も人間とはかけ離れたシロモノでした」はやての心境を察してか、シャリオが説明を付け加える。
「そ、そうなんか」安心して、ふぅ、と深く息をはきだすはやて。「脳みそモドキ、っちゅうわけやな?」
「そういうこと。──で、そのモドキを調べて分かったんだけど、どうもガジェットの中枢コンピュータをサポートする役目を持っていたらしいのよね」
「コンピュータのサポート?」と首をかしげるはやて。
「はい。一種の支援システムです」エディスの説明をシャリオが受け継ぐ。「この生体組織はガジェットの中枢コンピュータの他にも、レーダーシステム、火器管制システムなどと接続されていました。恐らく中枢コンピュータの処理と記録を手助けし、演算処理を高速化していたものと思われます」
「脳みそがコンピュータの代わり……? そないなことできるんか?」
「不可能ではないわ。人間の脳髄はスーパーコンピュータを凌ぐ演算機能を持っているの。メモリはほとんど無尽蔵にあるし、同時に複数の計算を行える。どれだけ酷使しても電気は食わないし熱も出さない。必要なのは酸素とブドウ糖だけ。スカリエッティほどの科学者ならそんなくらいわけないんじゃない?」
「フムフム」はやてはエディスの説明にうなずく。改めて考えると確かに人間の脳は凄い。
例えば歩くという動作だけでも『足と腕の動作制御』『姿勢制御』『視覚情報の処理』『加速度の情報処理』などといった多数の情報をいっぺんに処理しているのだ。加えて、内臓系の制御と全感覚器官から得られる情報の処理までこなしているのだから恐ろしい。これに心の働きまで含めると、その処理は膨大なものになる。
そもそもこうして論理的な思考ができること自体が脳の高度な情報処理によるものだ、とはやては実感する。脳はこれを酸素とブドウ糖だけをエネルギー源に行っているのだからさらに凄い。
「そして中枢コンピュータやその他のシステムに不具合が生じた場合、生体組織部分がそのシステムの役割を肩代わりしていたらしいのよ。戦闘で多少の機器が壊れてもその処理は脳髄モドキに回されることで全体としては正常な状態を維持していたの」
「……せやから妙にしぶとかったんやな」
シグナムの証言によれば、中には真っ二つに切られてもまだ攻撃してくる個体までいたということだ。中枢コンピュータを損傷してもその処理を脳モドキが肩代わりすることによって機能を保っていられたのだろう。このやり方なら脳モドキさえ損傷しない限り常に高い処理能力を得られることになる。
情報処理の高速化に加えてメモリの増設とダメージコントロールの強化。ただ1つの部品を付加しただけでこれほどの戦力強化につながるというのは恐ろしい。しかもそのシステムを動作するのに電力は必要ない。酸素とブドウ糖を溶かし込んだ液体を与えるだけだ。
「スカリエッティ……なんちゅうもんを作りおったんや」
「確かにこれは脅威です。もしこの生体組織が大量生産されて全てのガジェットに搭載されたら、並の魔導師では太刀打ちできなくなります」
あのシグナムの太刀筋をかわすようなガジェットが大量に……考えるだけでぞっとする。
「弱点は、あるんか?」
「ないわけじゃない」はやての不安そうな呟きに対し、エディス。「CDSよ。あれなら一発でつぶせるわ」
コンピュータ破壊システム、通称CDS。この前の任務で深井零と雪風が披露した新技だ。強力な電磁波で対象となるコンピュータの電子回路を破壊し、コンピュータだけを無力化する。精密照準に時間がかかることを除けば非常に効果的な攻撃方法だ。
「せやけど、CDSは生体組織には効かないんとちゃう?」
「どんなに生体組織を利用したところで、結局は機械と組織を回路で繋げなければ何もできないわ。今回破壊された脳モドキ付きのガジェットも、CDSで発生した高電圧が回路を通じて生体組織に流れ込んだの。だから脳モドキは全部グチャグチャの焼肉にされていたわ」
あの感じだとウェルダンってところかしらね、とご丁寧に焼き加減まで説明するエディス。うへぇ、とその生々しい表現に辟易するはやてとシャリオ。
「CDS以外には?」
「無いわ。──でもそんなに心配する必要はないと思う。通常の攻撃は今まで通り有効だし、今回使われた脳モドキは恐らく試作タイプよ。大量生産するにしても、もっと扱いやすい脳モドキを使用すると思う。人間サイズの脳髄だなんて製造的にもエネルギー消費の観点から見てもコストパフォーマンス最悪よ。私なら犬くらいの脳髄を使うわ。最大でも猿サイズね」
「ちゅうことは……、もし大量生産しよったら一体一体の能力は下がる、と」
「たぶんね。でもガジェット全体の能力は向上すると思う」
厄介やなぁ、と大きなため息をつくはやて。
人間の脳に似ている、ということは、モドキをピンポイントで攻撃する手段を見つけたとしても、それは人間の脳にも害が及ぶ可能性があるのだ。例えば脳モドキに対して効果のある特殊な電磁波があったとしても、近くに人間がいたら使えなくなってしまうし、それは殺戮兵器として機能してしまう。
「やっぱりCDSしかないんですかねぇ。でもそれ以外に決定的な攻撃方法が無いっていうのも心細いです」とシャリオ。
「もう少し調べて対抗策を練ってみるわ。もしかしたらCDS以外の弱点が見つかるかもしれない」
「頼むわ、エディスさん。──それにしても、気持ち悪うなかったんか? その脳モドキ調べんの。モドキとは言うても脳みたいなモンなんやろ?」
はやてはそう言うと苦笑いする。医者であるエディスにとってこの質問は愚問だろう。
「全然平気だったわよ。素手で解剖もできるわ」
「やっぱりなぁ」
「でもまさか本当に素手でやるとは思いませんでしたよ」シャリオが苦笑する。「私がガジェットの分解をしようと工具の準備している時、エディスさんたらいきなりガジェットの中に手を突っ込んだんですよ、素手で」
「いいじゃないの。なんかの仕掛けがあったとしても全部CDSで焼かれているんだもの。危険はないわ」
「でも普通、わけのわからない機械を分解するとき素手でやりますか? 手袋ぐらいするでしょう」
「……まさか脳モドキも素手で触りおったんか?」はやてが顔を引きつらせながら訊く。
「モドキはさすがに感染症の危険があったから手袋使ったけどね。でも特に病原体は見当たらなかったし、今なら素手でいじくれるわよ」
エディスがさわやかな笑顔を見せているのに対して、はやてとシャリオはうげぇ、と気持ち悪そうな表情を見せていた。
「あら、2人とも内臓の話は苦手なのね」
「得意な人はそうそういませんよ。医者と医学オタク以外は」とシャリオ。
「後で個人的に解剖学の講習でもしましょうか? まず簡単なカエルの解剖から」
「いやいやいやいや。エディスさん、それは勘弁」とはやて。
「たかが解剖で吐き気をもよおすなんて、弱いわねぇ。一番スゴイのはアレよ。眼球を解剖した後にオリーブオイルをかけたミニトマトを食べることよ。オイルがほどよくからみついたミニトマトを噛みつぶした時の、あのプチッとした感触が眼球を噛み潰したみたいで、中から出てくるドロリとしたオイル混じりの汁も──」
「いやぁああああ!」
「勘弁! エディスさん勘弁したって!」
はやてとシャリオは青ざめた顔でエディスを制止する。これ以上この話題を続けるのは危険だ。相手は内臓をいじくった後でも平気でレアのステーキを食べるような玄人なのだ。最悪こちらが吐く。
「んもう。これから面白くなるところなのに」
「面白くなくていいです!」
「エロい話は大歓迎やけどな、グロイ話はイヤやで!」
「あら、猥談ならもっとできるわよ。私医者だもの。生殖器の話なら一通りできるわ」
「そういう問題じゃないです!」
「はいはい、わかったわよ」そう言ってペロリと小さく舌を出すエディス。
やはりこの人はこちらの反応で遊んでいたのだ。食えない人だ、とシャリオは思う。
リインフォースがこの場に居なくてよかった。今頃彼女はフェイト達のところでデスクワークに励んでいるはずだ。精神年齢の幼い彼女にとって、このタイプの話はトラウマになりかねない。
「ま、ええわ。猥談は後でじっくり聞かせてもらうとして──ところで、深井さんはどこに?」
「中尉ならまだ食堂にいたはずよ。……何かあったの?」
「ん~、深井さんに管理局の制服着てもらおうと思っとるんやけどな、制服のサイズを測りたいんや」
「制服? どうして?」
「いつまでも私服でおるわけにもいかんやろ? 現場へ出た時に一般人と間違われるかもしれんからなぁ。いちいち説明するのも面倒やから、いっそのこと制服着とってくれた方が楽なんよ」
フムン、とエディスは納得する。雪風と融合した状態のバリアジャケット姿ならともかく、確かにあのスカジャン姿で現場に出てこられても他の部隊からは一般人にしか見えないだろう。最悪現場から締め出される可能性もある。形だけでも制服を着ていた方が良いということか。
「なるほどね、後で言っておくわ」
「この際FAFの制服はどうですか?」シャリオが訊く。「それを着ちゃえばとりあえず一般人には間違われないと思いますけど」
「FAFにも制服はあるけど、式典以外ではほとんど着てなかったわ。特に前線の実戦部隊はね。FAF軍人10万人分の制服作ることにお金かけるより、戦闘機と機械にお金かけていたから。基本的に皆スーツ姿か私服よ。中尉なんて毎日あんな感じのスカジャンだったわ」
「ほ~、制服着とらんかったのか」とはやて。「FAFってホンマに機能重視一点張りなんやなぁ」
まあ確かに、制服作るのに資金使っていたから予算不足でジャムに負けました、などという事態になるよりははるかにマシだろう。
「人類の命運がかかっていたものね。見た目なんて二の次よ。私なんて制服持ってなかったわ」
「つまりエディスさんは毎日その格好だった、と」シャリオがエディスの服装を上から下までまんべんなく見つめる。「おへそ出してるし、スリット凄く深いし、胸もきわどいし……過激すぎませんかね。管理局ならともかく、FAFって男性が多そうなのに……」
「これぐらい普通でしょ?」
「……とりあえずFAFが服装に関して寛容であるというのはわかりました」シャリオが呆れたように言う。「でも確かに、そろそろ制服とかちゃんとした服装でないと問題が起きそうですからね」
「ともかく頼むわ。深井さんのと一緒に雪ちゃんとエディスさんのも手配しとくさかい」
「わかったわ」
そう言いつつ、エディスは零と雪風が管理局の制服を着ている姿を想像し、あまり似合いそうに無いわね、と誰にも聞こえない小さな声でつぶやいた。
あの2人に制服は似合わない。何となくだが、制服というものは着る人間を縛り付けるような印象を抱かせる。
あの2人はそういった拘束を嫌うだろう。2人とも一匹狼のようなものなのだから。管理局という名の鎖につながれるのは嫌に違いない。
たぶん、彼らと同じで自分も制服は似合わないだろう。
そう思ったエディスは、己が着ている白衣を見つめる。この白衣は制服ではないが、ある意味で医者という存在に己を縛り付ける拘束具のようなものだ。そして、自分が医者であることの証明でもある。
この白衣は今も自分が医者であることを証明し続けているような気がする。
自分は確かに医者だ。カリフォルニア大学で航空精神医学をマスターしたエディス・フォスだ。それ以外の何者でもない。
そう自分に言い聞かせていても、ときどき不安になる。
自分はいったい何なのだ、と。
この異世界ミッドチルダで自分が何者なのかを証明してくれるものは存在しない。ここでの自分は異邦人に過ぎない。家族も、親友もいない。ただ一人いるだけ。
まるで何も無い宇宙空間に一人放り出されたような感覚だ。エディスは身震いする。
キリスト教徒である自分にとって『自分は何なのか』という問いは本来無用だ。全ての人は神の子なのだから。人間の根本的なアイデンティティはまずそこにあるはずだ。
だが、このミッドチルダではそうも言ってられない。この世界にキリスト教はないのだ。当然のことだがキリスト教の教会はない。神父様に悩みを打ち明けることもできない。
今ならキリスト教を信じ続けてきた人々の気持ちが分かる。イスラム教も同じようなものだし、仏教にいたっては『全ての存在・事象には意味がある』という考え方だ。
昔から人間は、自分の存在意義を問うことが怖かったのだ。自信が世界にとって意味の無いものとして扱われることが、どうしようもなく恐ろしかったに違いない。
足場になるモノが無い、自分が何なのかを確実に証明できない。自分の存在を肯定してくれる存在がいない。ただそれだけなのに、怖くてたまらない。
自分が何なのか、胸を張って主張することができないだけなのに、世界から存在を疑われているような気分になる。
零をカウンセリングする際に挑発的な言動をしてからかったり、さっきみたいに六課の人間に心理的イタズラをしてみたり。今までしたことのない現在の自分の行動は、そんな恐怖の裏返しなのかもしれない。大げさだが、そうしなければ怖くて泣き出してしまいそうだった。
しかし、だ。
少なくともこの白衣だけは──フェアリィ星からずっと身につけているこの白衣だけは、自分が何なのかを証明し、肯定してくれているように思える。
お前は医者だ、と。
白衣を着る仕事など世の中にごまんとあるが、自分が医者である証は今やこれしかない。頼りないが、自分がすがれるのはこの薄っぺらい布切れ一枚なのだ。
この世界に来てから深井中尉が常に雪風のそばにいるのも似たようなものだろう。
彼の場合、すがる存在は雪風ということになる。雪風が彼の存在を確からしいものにしているのだ。もしかしたら雪風にとっての彼もそうなのかもしれない。
それと、同じだ。自分は白衣を着て、医者として、心理学者として戦い抜く。それだけだ。自分が医者であるということ以外何もない。己のアイデンティティを確立してくれる存在は己で見つけ出すしかない。特殊戦の一員ならなおさらだ。
もし、管理局の制服を着ることになったとしても、元の世界に帰れなくて管理局に入局することになったとしても、自分はこれを脱がない。制服の上からでも白衣を着てやろう。
管理局ごときに自分が持てるただ1つの『医者』というアイデンティティを塗りつぶさせやしない。逆に上書きしてやるのだ。
エディスは白衣のすそを掴み、強く握る。静かに。