魔法少女リリカルなのは 妖精の舞う空   作:スカイリィ

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第零話 戦闘妖精 <改訂版>

 

 

 厚く暗い雲に覆われた空。

 

 上下から挟み込むように広がったその闇の中を、巨大な蛾にも似た影を落としながら空中空母バンシーが行く。

 

『各機退避! 退避しろ!』

『緊急退避!』

『霧の中は、全部ジャムだ!』

『計器が! 方位が確認できない!』

『指示をくれ、バンシー!』

 

「新手のジャムだ!」そのバンシーの艦橋で戦況をうかがっていたオペレーターが叫ぶ。「前衛の部隊を、至急避難させろ!」

「そ、それじゃあ……」艦橋前面にパノラマ画面で映し出される光景を、信じられないといった顔で見つめる指揮官。「あれが全部……」

 

 

 ジャム。そのファーストコンタクトから人類が30年間絶えず戦ってきた未知の敵。南極から地球へ侵攻を仕掛けて、今は人類の反撃によって『通路』の向こうに存在したフェアリィ星に押し込められた侵略者。その正体はおろか侵攻の目的さえもわからない。地球防衛軍たるフェアリィ空軍の宿敵。

 

 そのジャムの戦闘機群が、バンシーと追随するフェアリィ空軍戦闘機達の行方に立ちふさがっている。

 ただの大軍ではない。あまりにも数が多すぎてまるで黒い霧のように蠢いているのだ。ミサイルを撃ってくるわけではないが、フェアリィの戦闘機がその霧の中に入ってしまうと無数の体当たりによって掻き消えるように潰されてしまう。死の霧。

 

 フェアリィ空軍の指揮官が驚いたのはそれだけではなかった。黒い霧が全部ジャム機であるだけ、ただそれだけならまだ希望はあった。

 

 フェアリィ星と地球を繋ぐ超空間通路。成層圏まで達する巨大なキノコ雲の形をしたそれを目指して自分達は航行してきたはずで、つい先ほどまでバンシー率いるフェアリィ空軍空中艦隊の目の前にあった。視界を覆い尽くさんがばかりに。

 それが、こつ然と消えた。残り数十キロというところでだ。代わりに空の上下が薄暗い雲に覆い尽くされ、通路があったところには直径3、4キロはあろうかという巨大な白い球体が浮かんでいた。バンシーとその随伴機達は厚い雲の間にできたクリアな層を飛んでいる。雲海の切れ目は見えない。

 

 艦橋のパノラマディスプレイの敵味方識別画面越しにその白い球体を見ると、白いはずの球体が見事な赤の球として映しだされている。

 これはディスプレイやレーダー類の故障などではない、とすぐさま指揮官は悟った。あの赤はENEMY、すなわち敵であることを示すグリッドなのだ。それがあの白い塊にびっしり表示されているということは……。

 

──あれが、全部、ジャム──

 

 おぞましい数のジャム戦闘機が飛翔することなく互いにスクラムを組み、あの球体を形作っている。フェアリィ空軍が地球に帰れないように。恐らく地球への通路はあの白い球体の中か、その向こう側だ。その白い球体はまるでこちらを見つめる巨大な眼球のようにも見えた。ジャムの、目。

 

 もはや数えることすらできない。何千、何万、黒い霧の中のものも含めれば何億という数のジャム機が自分達の進路を塞いでいる。しかもそれら全部がこちらを攻撃しようと狙っているのだ。その事実を理解した瞬間に指揮官は戦慄を覚え、その脳内は真っ白になった。これでは嬲り殺しだ。

 

『バンシー! 無人機の様子がおかしい!』

 

 突如、近くを飛翔中の部隊から通信が入る。だがすぐにその通信は雑音と共に途絶えてしまった。それを聞いた指揮官はとっさに味方が映るレーダーディスプレイを見やる。画面に表示されたグリッド数の減少から次々と味方の機が墜とされていくのがわかった。

 

 味方の機は確かに墜ちている。だが、敵の攻撃で撃墜されたわけではない。ディスプレイには味方の機から発射されたミサイルと機銃弾が同じ味方機を叩き落している様子が映し出されていた。

 

──これは、同士討ち?

 

 見れば、味方を撃ち落としている機の表示には『無人』と添えてある。無人機が無人機を墜とし、有人機までも墜としている。無人機による無差別攻撃。それが一斉に起こっている。故障などではないことは明白だった。無人機が、狂った。ジャムのせいで。

 

「ナイト各機、射出しますか?」縋るような目でオペレーターの一人が訊いてくる。

「無理だ。この状況では……!」

 

 フリップナイト。巨大な通路を破壊するためにフェアリィ空軍が用意した最終兵器。三機の無人機に強力な核弾頭を搭載し、フェアリィ空軍が地球側へ退避した直後に起爆、通路を跡形もなく破壊する。地球へジャムを引きつれていかないための措置だ。三機とも最新式のレーザー機関砲を備え、単機での戦闘能力は極めて高い。

 

 現在三機のナイトはキャリア1と呼称される無人輸送機に搭載されている。通路に辿りつくまでに撃墜されることを防ぐために、その周辺は強力な対空機関砲を装備したガンシップによって守られている。旗艦たるバンシーのすぐ近くだ。

 

 もしこの状況下で射出しようものならジャムによって狂わされるか、すぐに撃墜される。そのどちらも最悪のシナリオだ。レーザー機関砲を装備した無人機相手に有人機が勝てるわけがないし、勝ったとしても内蔵された核弾頭が起爆する。爆発すればジャムも壊滅的損害を被るはずだが、こちらの戦闘機部隊も壊滅するしバンシーも危ない。横幅1400メートルを誇る超巨大航空機といえども核の至近爆発には耐えられない。

 

 絶対に、だめだ。指揮官はそう判断した。このバンシーには何万ものフェアリィ空軍将兵達が搭乗している。地球の運命がかかっているとはいえ、彼らを道連れになどできない。

 

 

『バンシー! キャリア1が被弾した!』

 

 ガンシップから寄せられた恐るべき報告を聞いて、艦橋にいた人間全員が硬直する。キャリア1が、やられた?

 

「キャリア1、ダウン!」オペレーターが告げる。キャリア1は普通の輸送機だ。当たり所が悪ければ即座に撃墜される。「フリップナイトシステムを緊急停止!」

 

「ナイトが自爆したら、こっちも吹っ飛ぶぞ!」指揮官は叫んだ。システムが停止した以上、ナイトが起動することはありえない。しかしこの状況下において、それがどれだけ信頼できることだろうか。

 

 万が一ジャムがナイトの起爆信号を探り当てたら? ナイトの人工知能がジャムに乗っ取られたら?

 

「なっ……!」オペレーターが驚きの声を上げる。「ナイトがキャリア1から離脱した。各機、アンコントロール!」

「弾頭、起爆タイマー作動!」

 

 レーダーディスプレイ上で、破壊されたキャリア1から三つのアイコンが現れる。そのアイコンはキャリア1を尻目に前方へ進み始めていた。フリップナイトが、飛行している。勝手に。

 

 なんということだ。指揮官は絶望の表情を浮かべた。恐れていたことが、現実になった。

 

 ナイトのAIも搭載された核弾頭も、ジャムの手に渡った。自分達は、負けた。

 終わりだ。もう、何もかも。自分達はここで死に、地球はジャムの手に落ちる。地球側の軍事力でジャムに立ち向かえるわけがない。人類はジャムに負ける。唯一の救いは家族と友人がジャムに殺されていくのをこの目で見ることがない、ということだ。

 

 

「ナイトは自律飛行か?」司令官のライトゥーム中将が一人のオペレーターに訊いた。エジプト出身ゆえの浅黒い肌に一筋の汗が光る。自律であるならばまだ手はある。この場で墜落させてしまえばいい。指揮官も中将の思惑を理解する。

 

「いえ、それが……緊急停止コマンドを、受け付けません!」

 

 やはり、だめか。その場にいる全員が落胆するのを感じた。自律飛行でなく緊急停止の信号さえも受け付けないときたら、もうジャムに乗っ取られたと考えるしかない。指揮官は頭に乗せた帽子を胸に持って行き、悔しげな表情を浮かべた。終わりだ。

 

「おい! 防護ゲートのロックを開けるな! 戦闘中だぞ!」ふと、左端のオペレーターの怒声が聞こえる。なんだというんだ、こんな時に。これから皆死ぬって時に。無粋な奴だ、と指揮官はそちらに目を向けた。

 

「違います! システムが勝手に……!」

 

「外部からのコントロールです!」先ほどライトゥームの質問を受けたオペレーターが叫んだ。ライトゥームと指揮官は慄然としながら、ゆっくりとそちらを向く。「フリップナイト、外部コントロールで飛行中!」

 

「外部!?」ライトゥームが戸惑いの声を上げる。

 

 どういうことだ。指揮官も同じように戸惑った。ジャムがナイトを乗っ取ったのだとしたら、そんな几帳面に外部からのコントロールであることを知らせるものだろうか。

 なにか、おかしい。単純にジャムに乗っ取られたわけではない。だとしたら、誰が──

 

「フライトデッキだ!」再びのオペレーター。皆が彼に視線を向けるのを、指揮官は感じ取った。

 

「デッキの艦載機が、中からゲートを開けています!」

 

 

 指揮官は思い出した。艦内にまだ一機、出撃していない戦闘可能な機があることを。しかしその機は重要なジャムの情報を持っているとかで、出撃許可が下りなかったのだ。戦術戦闘航空軍団、第五飛行隊。通称『特殊戦』に所属する、その一機。それがゲートを内側からこじ開けて外に出ようとしている。戦場へ。戦うために。

 

 助かるかもしれない、ではなく、勝てるかもしれない、と指揮官は思った。結果としては同じだろうが、『あれ』がもたらすものは救助や救命などではない。ただ『勝利』のみだ。なぜかそう考えていた。あの機ならば、あの機さえいれば、この状況を打開することができる。

 

 ジグソーパズルの最後のピースが噛み合うように唐突に理解した。

 これは、希望だ。フェアリィ空軍だけでなく、人類を救うための、たった一つの希望。パンドラの箱に残ったただ一つの聖なる存在。最強の剣にして、人類最高の翼。

 

 指揮官は身を乗り出してパノラマディスプレイを見つめた。確かにいた。一機の戦闘機が発艦しようと翼を広げている。その場にいる全員がリアルタイムで映されるフライトデッキの映像をその目に焼き付けていた。

 

──我々にはまだ希望が残っている。人類の希望。あれが、そうだ──

 

 

 B-3。パーソナルネーム、雪風。

 

 あれこそが、希望だ。人類の。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 巨大な防護ゲートに閉ざされたフライトデッキは想像以上に暗かった。

 

 徐々に防護ゲートが開いていくと、外から差し込む光が彼の目に差し込む。なんと美しい光景だろう。闇を切り裂く光が、自分と雪風を照らし出している。まるで祝福の光だ。神など信じたことはないが、この光は神が自分達へエールを送っているのではないか、と思えた。

 

「行こう。雪風」

 

 まばゆいその光に目を細めながら顔を上げ、告げる。黒い機体の中、ひときわ目立つ機首に描かれた白いパーソナルマークが光を反射してほのかに輝いた。漢字で『雪風』と描かれたその筆跡はとても美しかった。

 

 雪風、それが今、彼の乗っている戦闘機の名前だった。

 

 雪風は彼を見つめるコクピットカメラをわずかに動かした。無機質な機械の音だったが、彼にはそれが雪風の応答にも聞こえた。さあ戦おう、私の準備は万全だ、と。雪風は戦いたくて仕方ないのだと彼は思った。実際雪風がどう考えているのかは全くわからないが、それでも彼にとっては雪風の反応が心強いものに感じられた。

 

 防護ゲートが雪風の通れる幅まで開くと、雪風はフライトデッキと自機を繋ぐアームのロックを強制解除。搭載された双発のエンジンを吹かし、緩やかに飛翔を始める。

 

 フェアリィ空軍、戦術戦闘航空軍団、特殊戦第五飛行隊、三番機。パーソナルネーム『雪風』。そのパイロット、深井零中尉。

 

 彼はもうすぐ自身に訪れる『死』という運命を知りながらも、その心を平静に保っていた。

 

 

 

 

 

 33年前、南極に突如出現した異星体『ジャム』。その謎に満ちた異星体と地球人類の戦争は泥沼状態に陥っていた。人類側はジャムを通路の向こう『フェアリィ星』と名付けられた惑星に押し込めることに成功したものの、人類が新兵器を持ち出せばジャムは数週間という短期間でその技術を模倣し、ジャムの裏をかく戦術を実行すれば今度は人類側が裏をかかれる、といった具合に完全なイタチごっこの様相を呈していた。人類側は30年の間に次々と新兵器を開発していったが、それと同じ数だけジャムも新兵器を繰り出してきた。

 

 もう30年も地球はジャムと戦っていたのだ。30年も。

 ジャムのいない世界など深井零には想像できない。零が生まれた時、この戦争はもう始まっていたのだ。物心ついたころに見たテレビには『驚異の映像』と銘打たれた、黒いジャム戦闘機とドッグファイトを繰り広げるフェアリィ空軍戦闘機の雄姿が映し出されていたのを覚えている。あの頃フェアリィ空軍の主力戦闘機だった機体は今やほとんど旧式で、現在では対地攻撃機として利用されている。それほど長い期間の戦争だった。

 ジャムの侵略から地球を守るための地球防衛軍が存在していて、いつもこの世界のどこかで誰かが地球のために戦って死んでいく。それが当たり前の時代に育った零は、この戦争が今まさに終わる、ということに実感がわかなかった。

 

 

『ジャムの猛反撃によるフェアリィ空軍の全面撤退』

 

 戦争がこんな形で終わるとは誰も予想していなかった。それまでほぼ拮抗状態を保っていた戦況が一変してしまうなど、とは。ジャムの猛反撃を事前に予測できたことでフェアリィ空軍──通称FAFの大部分の陣営を空中空母バンシーに乗せて逃げ出すことができたものの、実質的にFAFはその機能を失った。ジャムから地球を守る盾の役割を。

 それは地球人類にとっては恐怖すべきことであろう。ジャムという敵をくい止めていた楯が無くなるのだから。

 

 だが、零にとって地球は命をかけて守るべき対象ではなかった。 零にとって、生命をかける対象は一つしかない。

 

 彼が今乗っている愛機『雪風』。それ以外、彼には何もなかった。

 

 信じるものも、愛するものも、雪風以外なかった。

 

 

 

 

 

 漆黒の空を雪風が翔る。その航跡には超高温のジェット排気が残り、機体の通った空間を白く照らしていた。さらに後方から雪風のコントロールによって三機のフリップナイトが追随する。雪風に搭載されたFAF工廠製のエンジンは地球のそれとは比べものにならない高性能だ。フリップナイトは雪風とほぼ同型の機体ゆえ、エンジンもほぼ同じものを積んでおり、雪風のそれと同じ炎を吐き出していた。

 高温で青白く光るアフターバーナーの炎が四つ、すさまじい速度で暗闇を切り裂いていく。前方ではFAF機が無数のジャム戦闘機と交戦し、炎と共に墜ちていくのが見える。炎が一つ現れるたびに、この世から一つ命が消える、無慈悲な戦場。今から、あそこへ突入する。

 

 突如、警告音が雪風のコクピット内に響き渡る。零はとっさに操縦桿に力を込め、ペダルを踏み込んでいた。雪風は左に向けてバレルロール。機体の背面には急激な圧力低下によって生じたヴェイパーが濃い雲のように立ち込める。強烈なGが体内の血液を押し下げ、零は小さく呻いた。

 機体のすぐ右を巨大な黒い雲が通り過ぎるのが見えた。無数のジャム戦闘機だ。通常のものと違って数十センチ程度しかない大きさだが、数にものを言わせて体当たりですりつぶしてくる。それが雪風を、狙っている。レーダーディスプレイを見やるとさらに後方からいくつもの群体が突っ込んでくるのがわかった。かなり速い。

 

 零は機体を滑らせ、鮮やかにそれらを躱す。急激な機動によって翼面の気圧が低下し、機体の背面に白いヴェイパーが出現するほどの動きを零は楽々とこなしていく。だが、最後のジャム群が猛烈な速度で接近。巨大な蛇の口のように先端部を開き、雪風を飲み込もうとしてきた。避けられない。零はとっさに武装選択スイッチを押して、得物を切り替える。

 黒いジャム群は雪風を包み込むように通り過ぎ、撃破すべく押しつぶしにかかった。猛烈な勢いで蟲にも似たジャム戦闘機群が上下左右の全方位から接近する。このままでは、喰われる。

 そうはさせるか。零は兵装トリガーを押した。

 

 FIRE。雪風の下面に装備された、可動式レーザー機関砲から放たれる大出力レーザーが前方に向けて照射。同時に雪風の中枢コンピュータが独自の判断で固定装備のバルカン砲を連射する。一秒間に百発もの砲弾が打ち出され、その反作用によって機体がわずかに振動するのを零は感じた。

 進路を塞いでいた前方のジャム群がレーザーの急激な加熱と機関砲弾の雨を受けて、まとめて炎に包まれる。その爆炎は周辺のジャム機を巻き込み、群体全てを粉々に打ち砕いていく。零はスロットルを押し上げ、加速。炎の中を突っ切り、ジャム群の口から脱出。機体から放たれる衝撃波で残りのジャムも散り散りになっていくのがわかった。爆発によってバランスを崩す機体を何とか持ち直す。

 

「全ミサイル、リリース。ナウ」

 

 さらに前方に、大きなジャムの群体が姿を現す。明らかにこちらの進路を塞ごうとしている。零は道をこじ開けるべく再び武装を切り替え、搭載された全てのミサイルを発射した。雪風もそれに反対しなかった。

 

 八発のミサイルは白煙を引きながら、進路の邪魔になりそうな群体にかたっぱしから突入していく。先端に搭載された強力な炸薬がオレンジ色の閃光を煌めかせ、無数のジャムを炎で滅していく。最後の締めにレーザーを一発お見舞いすると、空中に炎の回廊が出来上がった。飛翔によって発生する超音速衝撃波で燃え上がる炎を吹き飛ばしながら、雪風はその回廊を駆け抜けた。

 遅れてフリップナイトの三機が追随し、ミサイルを切らした雪風を護衛するようにレーザー機関砲を周辺の群体に照射。薄紫色のレーザーが空中に線を描くたび、次々とジャム機は撃破され、雪風の進路には無数の爆炎が上がっていく。

 

 その炎に照らされて、雪風の機首に描かれた白いパーソナルマークがキラリと輝く。零にはその輝きが雪風の絶対的な力を象徴しているもののように見えて、頼もしく思えた。

 

 絶対に、負けない、雪風はそう言っているのだ。

 

 

 

 雪風は黒光りするその美しい機体の中、高度な中枢コンピュータに独自の意識を宿していた。人間や人工知能とも異質な、ヒト的ではない知性を。

 

 対ジャム戦の実行。その至上命令を存在意義の核とし、零の優秀な戦闘勘を学習した雪風の中枢コンピュータは、わずか数年の間に自律行動さえも可能なほどの成長を遂げた。搭載時とは全くの別物へと進化したそれの思考アーキティクチャは人間からすればあまりにも特異であり、推し量るのはパイロットの零であっても難しかった。零自身、雪風が自律した意思を持っていることを知ったのはごく最近のことだ。

 

 当然ながら零以外の人間で雪風が意思を持って行動していることに気づいたものは少なかった。高度なコンピュータが意思を持っているようにふるまうのはテクノロジーが発展したこの時代では珍しくもない。雪風が独立した自我を持っているように見えるのは、人間が持つ共感能力によるものであって、雪風の自我は人間の錯覚である。そう解釈されることもあった。

 

 しかし、そういった人間達も少しずつ気が付いていった。雪風は人間の予想を超える行動をたびたびとることによって、まるで自らの自我を周囲に知らしめるかのようにふるまった。恐らく雪風自身にはそういった意図など無かったのだろうが、ジャムとの苛烈な戦いの中で次第にその驚異的な能力は知られていった。

 

 やがて雪風は単なる戦闘機から一個の独立した知性体として認識されるようになった。戦うために存在する知性体。戦闘知性体・雪風。

 

 雪風が関心を持っているのは『ジャムと戦うこと』そして『ジャムに負けないこと』だった。それは製造時に組み込まれた本能とも言えた。それこそが雪風の存在意義であり、存在そのものなのである。雪風はそれ以外のことを思考しない。生きるために戦うのではなく、戦うために生きるという壮絶な在り方だった。

 

 ジャムに負けないために雪風が選んだ道は意外なものだった。それは『零と共に戦う』こと。あまりに強大で、あまりに異質なジャムに対抗するためには、機械だけでは、人間だけでは不利だ。そう雪風は判断したのだ。零も、そして特殊戦もその答えに同意し、雪風を含め機械知性達と共に生き残りのために戦う道を選んだ。機械と人間による共同戦線。実際、それは対ジャム戦において非常に有効だった。

 そして、今、彼らがやっていることもまた、ジャムに負けないための行動だった。

 

 フェアリィ空軍を地球へと退避させ、通路を破壊する。そうすればジャムをフェアリィ星に閉じ込めることができる。地球への侵攻を食い止めることもできるだろう。ジャムの目論みは完全に潰える。

 しかしこのままナイトを誘導し続ければ、確実に自分達もその自爆に巻き込まれる。起爆タイマーを作動させたのは雪風だ。その結末も承知しているはずだろう。たとえ生き残っても、ジャムと一緒にフェアリィ星に閉じ込められてしまう。形を変えた自爆行為だ。

 

 だが雪風は、それを自ら行うことを選んだ。

 

 零も、それを自ら行うことを選んだ。

 

『ジャムに負けないために』

 

 

 

 

 

 ジャムの電子戦機が全て破壊されたことを雪風がその画面に表示する。きっと高度な電子戦闘技術を持つ特殊戦の戦隊機が撃墜したのだろう。雪風の姉妹機達だ。

 それと同時に雪風がこの宙域に存在するFAF機全ての火器管制システムへ割り込みをかけるのをディスプレイで確認する零。敵の電子戦機がいたのではこのような無茶な割り込みはできなかっただろう。これは、雪風から全FAF機への援護要請だ。

 

 その直後、背後に控えていた戦闘機部隊から、一斉に白い白煙がまっすぐに前方へと延びていくのを零は無感情な瞳で眺めた。雪風を援護するために放たれた数百発ものミサイル。白い燃焼煙によって空中に描かれた無数の航跡と、ロケットモーターの強い光がまるで流星雨のようにまっすぐ伸びていく。

 

 それらが雪風の進行方向上に鎮座する白いジャムの塊へと殺到。雪風がコントロールすることで放たれたミサイル群だが、零にはそれが機械知性達の、自分達を最高の状態で送り出そうとする精一杯の援護のように感じられた。さあ行け、道は開かれた、と。

 

 ジャム機の球体に吸い込まれたミサイルは、爆炎と共に球体を構成するジャム機をまとめて粉砕する。ジャム機のスクラムが崩れ始めた。白い球体の中はもう隙間だらけだ。戦闘機を飛ばすには十分な空間。

 

 零は最も爆炎が強く上がっている一角へ機体を誘導し、そこへ飛び込んだ。炎は雪風と、それに続くナイトの超音速衝撃波によって吹き飛ばされ、銀色に光るジャム機の大群が姿を現す。すさまじい数だ。どこを向いてもジャム機。ジャムによって形作られたトンネルだ。しかも前方からスクラムを崩したジャム機が向かってくる。

 

 対向してくるジャム機を巧みに避ける零。避けきれそうもないものはレーザーで撃ち墜とす。紫色の閃光とオレンジ色の炎が煌めき、雪風を照らす。横幅20メートルはあろうかという航空機が体当たりを仕掛けてきているのだ。普通の人間だったらここまで鮮やかに避けることはできない。零はとびきりのエースパイロットだった。

 

 だがエースといえども限界はある。一機のジャム機に機体が掠り右の先尾翼がちぎれ飛ぶ。被弾。さらにその衝撃でその他の駆動系にもダメージが入る。すかさず雪風が各機器を調べ上げ、ダメージコントロールを行う。はやく通り過ぎてくれと零は心の中で祈った。白の奔流の中を駆け抜ける黒い雪風は少しずつ、しかし確実に傷ついていった。

 

 彼の祈りに答えるかのように、分厚いジャムの層の終わりが見えた。黒い空間。ジャムの大群を避けるために散開していたフリップナイト達が再び雪風へ集まり出すのを零は感じ取った。見えなくても、わかる。

 

 突破。撃破したジャム機の白い破片が砕けたガラスのように落ちていくのが見えた。直後、背後でジャムの白い塊が一気に崩壊を始める。ジャムが失敗したと悟ったのだ。これでバンシーの進路は確保された。

 

 後ろを向くと、塊の中から無数のジャム戦闘機が追いすがってくるのが見えた。零は振り切るべく操縦桿を動かして、上に存在する分厚い雲へ突入する。全てのジャムが、雪風を追っている。逆に言えば全てのジャムがFAFへの攻撃を止めたということだ。これでバンシーは地球にたどり着ける。

 

 勝った、と零は思った。きっと雪風もそう考えたに違いない。そして雲の中からもう一度出る。少しでも追撃してくるジャムをまくつもりだったのだが、大して変わらなかった。分厚い雲をつき破ってすさまじい数のジャム機が雪風に追いすがってくる。フリップナイトは女王を守る騎士のように雪風の周りをらせん状に進んでいる。

 

 見えた。雲と雲の間に存在する、薄く光る空間が。零は左手でヘルメットバイザを軽く押し上げてその空間を肉眼で確認する。宇宙の暗闇に光る星雲のようにも感じられた。きっとあれが超空間通路の核となる部分なのだろう。普段は濃い霧で隠していたのだ。

 

 もうフリップナイトの起爆までそれほど時間はない。あそこまで、行けば、勝ちだ。FAFの計算が正しければ、核爆発であの空間は消し飛び、通路は二度とその姿を現すことはない。

 

 そして自分は死ぬ。ナイトの核爆発に巻き込まれて。

 

 ふと、零は不思議な気持ちになった。なぜ自分は、この命を捨てようとしているのだろう。今まで他人のために戦ったことなどないし、死んでまで勝利をもぎ取ろうと思ったことなどない。それなのに、今まさに自爆行為ともとれる行動をしている。

 

──これから死ぬというのに、おれは、雪風は、何の恐怖も抱いていない──

 

 それも不思議に思えた。人間というのは自分で死を確定すると、恐怖を感じないものなのだろうか、と。

 考えるまでも無かった。二つともすぐに答えが出た。簡単なことだ。雪風が、いるからだ。雪風がいる限り、自分は負けない。負けたくない。負けないのだから、怖くないのは当然だ。

 

 それにこれは雪風の自爆行為などではない。ジャムに対する戦術戦闘行為だ。雪風にすれば、ジャムの企てを阻止したということで、負けではないのだ。それはこの自分にとってもそうだ。負けではない。

 

 自分にも、雪風にも、ジャムにも、負けたくない。だから、こうして戦っている。単純明快だ。負けたくないから、戦う。人の戦闘欲求とはそういうものだ。

 

 

 

『零!』

 

 バンシーからの通信回線から聞き慣れた声がコクピット内に響き渡り、零は酸素マスクに隠された口元がわずかに緩むのを感じた。ああ、来てくれたのか。友よ。最後に聞く通信がお前で良かった。

 

『いいな、零。必ず……』その声は悔しげに、しかし、勇気を奮い立たせるような口調で叫んでいた。『必ず、帰ってくるんだ!』

 

 ジェイムズ・ブッカー少佐。それが声の主だった。零の上官にして、唯一無二の親友。そして、雪風の名付け親。

 機首に描かれた漢字のパーソナルマークを書いたのは彼だ。生粋のイギリス人であるにもかかわらず無類の日本通で、日本人である零以上に日本のことを良く知っていた。

 

 とても人間臭くて、暖かくて、優しい心を持った男。零とは正反対の性格を持ちながらも、なぜか気が合った。一緒に酒を飲み、一緒に仕事をし、一緒に愚痴をこぼし合い、一緒に雪風に乗った。何をするにしてもいつも一緒だった。孤独な人生を送ってきた零にとって初めての、心から信頼できる親友だった。

 

 そんな親友との別れは零自身、寂しいと思った。自分は今から死地へ向かおうとしていて、彼は安全なバンシーの艦橋にいる。自分の行先はあの世。彼の行先は地球。もう二度と、会えない。

 思わずジャック、と通信機に彼のニックネームを叫びそうになるのをぐっとこらえる。ダメだ。そんなことをしたらあの涙もろい親友は泣いてしまうかもしれない。大の男が涙を流すなんて、気味が悪い。今頃バンシーの艦橋でもう泣いているのかもしれないが。あいつには泣いてほしくない。

 

 通信機はそれ以上の音を拾ってはこなかったが、零には少佐の悲痛な心の叫びが聞こえているような気がした。

 

──友よ、俺はお前を失いたくない。

 

 だから、今度も、帰ってきてくれ──

 

 間違いなく彼はそう思っているだろう。そう言いたいのだろう。それが、分かる。親友だから。

 でも彼はそれを言えなかった。代わりに、必ず帰ってこい、という命令をこの自分に託したのだ。いつも出撃を見送る際に下してくれた、あの命令を。

 

 無論、そんな命令が実行できないことはお互い理解している。それでも彼が最後の言葉にその命令を選んでくれたことは、嬉しかった。

 

 

「……悪いな、ジャック」

 

 もう二度と繋がらない通信に、聞こえないくらいの声で呟くように返答した。

 

 さよなら、友よ。

 

 

 

 

 親友への言葉を頭の中で何度も何度も反芻していると、いつの間にか薄く光る空間は目の前に迫っていた。

 

 もうすぐフリップナイトの自爆時刻だ。零はディスプレイに表示された弾頭の起爆タイマーを見て思う。作動してから約1000秒は爆発までの時間があったはずだが、もう残りわずかだ。長いようで短い最後のフライトだった。雪風との。

 

 思えば長く乗ってきた。雪風には何度も振り回され、ひどいときは命を落としかけたこともあった。しかし今はそんな記憶も愛おしく感じられた。これは、走馬灯の予兆だろうか。

 

 まあいいさ。零は小さく笑みを浮かべた。雪風と一緒の最後なら、お互いにいい死に様だ。

 

 他人がこれをどう思おうと、そんなのは知ったことではないと零は思った。

 

 

 

 ナイト自爆までの残り時間を表示していたメインディスプレイが、全てクリアされる。

 

 雪風はそこにメッセージを表示した。ただ一言。

 

<THANKS>

 

 

 直後、ナイトが起爆。ほんのわずかな瞬間に原子の炎が揺らめき、強烈な閃光が己と雪風を照らすのを零は感じた。

 

 雪風のメッセージは強力な外光のために薄れ、零には見えなかった。

 

 

 

 

 

 全ての感覚が遠退いていく。四肢の感覚も、視覚も。全てが夢のように消えていく。

 

 痛みは無い。こんなものなんだな、と零はまったく平静に思った。死の瞬間というのは。

 

 零と雪風を、まばゆい光が包み込んだ。

 

 

 




<追記>
 2013年7月20日0:00 第零話の大部分を改訂
 文字数は2500から1万2000へと増加

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