今まさに斬りかかろうとする中、シグナムは一片の戸惑いを覚えた。
先ほどまで驚異的な反応速度で攻撃を回避してきた相手、深井零。
今自分が必殺の斬撃を叩き込む対象。
その彼が、何かを思い付いたかのように、口元に小さな笑みを浮かべたのだ。
注意して見なければ見逃してしまうほどわずかな微笑。ゾクリとするような。
彼の、雪風と同じになった感情の読み取れない空色の瞳がより不気味に見える。
シグナムは動揺した。
──まさかこちらの攻撃を見切ったというのか?
紫電一閃はまだ彼には見せていない。見切るなどあり得ない。絶対に。シグナムは震える心を落ち着かせる。
それに、この距離ならば瞬きするよりも早く斬りかかれる。見切ったとしても防御や回避のしようがないはずだ。
──大丈夫だ。この距離なら……やれる!──
そう思うが早いか、シグナムは猛然と突っ込んだ。同時に炎を纏ったレヴァンティンを振り上げる。
一瞬──コンマ数秒というわずかな時間で距離がつまる。
零は動かない。
──勝った!──
彼女は思った。もう彼は完全に間合いの中。避けられるはずがない。この至近距離では先のような弾幕防御もできないだろう。
「紫電一閃!」
掛け声と共に不可避の斬撃を袈裟懸けに叩き込む。
──そのはずだった。
手ごたえが、ない。
斬撃を食らったはずの零が、視界にいない。
『消えた?』
そう状況を認識するより早く、彼女は気を失っていた。
鈍い背中の痛みでシグナムは目を覚ました。
目を開ける。
視界には白い天井。メディカルルームか。
「気が付いた?」フェイトの声。心配そうにこちらを見ていた。
──確か自分は深井零と模擬戦をしていたはずだが──
未だ混乱している頭は状況を認識しきれていない。
「テスタロッサか……、いったい、何が……」フェイトに尋ね、ゆっくりと身体を起こす。そしてまだ覚醒状態でない頭をフル稼働させて考える。
──さっき私は……そうだ、斬りかかったとたん深井の姿が消えて……その後は?──
記憶がそこで途切れている。
──まさか私は模擬戦の最中に気絶してしまったのか? だから、ここに?──
「深井さんが勝ったんだよ、模擬戦。シグナムの後ろに一瞬で回りこんでタックル。その一撃でシグナムは気絶しちゃったの」とフェイト。
なるほど、この背中の痛みは奴の体当たりによるものか、と彼女の答えにシグナムは納得した。
はぁ、と小さくため息をつく。
「……大丈夫?」
「いや、平気さ……」シグナムは負けた悔しさよりも、零の戦術眼に関心があった。
──やはり奴はすごい。機械のように正確無比な判断力。相手のどんな隙をも見逃さない洞察力。深井零、彼は生粋の戦士だ──
剣を降り下ろした瞬間というのは騎士にとって最大の隙。
いかに反応速度が早くともその瞬間、騎士は完全に無防備となる。深井零はまさにその瞬間を狙ったのだ
──いや、もしかしたらレヴァンティンを降り下ろした時には、すでに彼はこちらの背後をとっていたのかも──
シグナムはその想像にゾクリと震える。だとしたら彼は、目の前にいるフェイト並みに速いのではないだろうか。
「なあ、テスタロッサ。あいつ、どうやって私の背後に?」
「私は見てなかったから分かんないけど……、相当な動きをしたみたい。シグナムにタックルした後、深井さん気絶してたんだって」
「気絶?」
「うん。シャマルが言うには『上半身の血が強烈な加速度でほとんど下半身に下がった』らしいよ。──だから脳に血が行かなくなって気絶したんだって」
どんな激烈な加速をすればそうなるのだ、とシグナムは驚き半分、あきれた。
──加速しすぎて気絶とは、あいつ妙なところでヌケてるな。……いや、経験値が不足しているのだから仕方ないか──
「深井は今大丈夫なのか?」
「今は部屋で休んでるけどね。あんなのは『良くあること』って言ってたよ」
「なんだそれは?」困惑の言葉を口にしてから、シグナムは思い出す。
──戦闘機乗りというのは、強烈なGと戦わなくてはいけないのだ──
以前テレビで、戦闘機のパイロットが機体を旋回させた時、苦しがっていたシーンを見たことがある。
確か戦闘機は急旋回すると、最大で9Gもの力がパイロットにかかるらしい。深井零の体重を60キロとするなら、9Gの時には540キロもの力が彼の身体にかかる。
相撲取り3、4人ののしかかりを受けるようなものだ。一般人なら簡単に気絶してしまうだろう。下手すると首の骨を折るかもしれない。そんな過酷な状態で戦うなど、拷問だ。よほどの精神力がなければ耐えられない。
深井零は、そんな戦場を駆け抜けてきたのだ。その点では自分たちよりも上かもしれない、とシグナムは思った。
──?──
シグナムはあることに気付いた。
「……シャマルはどうした?」
なぜ自分を看ているのがフェイトなのだ? ここの担当はシャマルだろうに。
「ああシャマルなら、今、雪風と一緒にお昼食べてるよ」とフェイト。
……何をやっているんだ、とシグナムは苛立った。自分の仕事を放り出して、あんな危険分子と戯れるなんて。『それでも風の癒し手か』とシャマルを叱責したい。
「まったく……何を考えてあんな奴と……」
「……あれ? シグナムもしかして……はやてから聞いてない?」
主が? とシグナム。
そういえば今朝、『シグナム、話があるんやけど』と主に呼び止められた気がするが、『深井との模擬戦があるので後ほど』と自分は言って立ち去ってしまったのだ。あまりにも彼と戦うのが楽しみで、そんなことすっかり忘れていた。後で主に謝っておこう。
「やっぱり聞いていないんだね……」
「だから何を」
少し強気に訊くと、フェイトは周囲をキョロキョロと見渡したあと、小声で言った。
「シャマルは雪風の監視係なんだよ。一応」
真っ白な世界の中に、鉄格子でできた薄暗い牢。
その前に自分は立っていた。他に誰もいない。たった独り。
ゆっくりと牢に近づく。中に誰かいる。女?
暗い牢の中でもわかる白い髪。美しい肌。白いワンピース。背中から生えた半透明の羽。妖精だ。座り込んで俯いている。
鉄格子に触れる。冷たい。静かに掴む。
「 」
優しく彼女の名を呼び、鉄格子に顔を寄せる。
反応が無い。もう一度、呼ぶ。
「 」
その呼びかけに、彼女はゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。白い髪が揺れる。
彼女は泣いていた。
静かに、止めどなく、彼女の瞳から涙がこぼれ落ちていく。悲しげな瞳が、自分を見つめる。
「 」
彼女はおれの名を呼ぶ。泣きながら、静かに、切なそうに、うらめしそうに。
さらに涙がこぼれ、彼女の美しい頬を雫が伝う。
その涙を拭ってやろうと、手を伸ばし、彼女に触れる──
零は目を覚ます。
ベッドの上。
薄暗い天井が視界に入る。
窓のカーテンは閉まっているが、夜ではない。
首を廻らし時計を見る。12時だ。昼の。
頭はまだクラクラする。二日酔いとはまた違う、脳の混乱。
──さっき見た夢。あれは何だったのだ──
彼は思考を切り替える。目が覚めても、夢の中に出てきた妖精のことが零の中に残留した。
──あの夢は以前にも見たことがある──
鉄格子の奥に囚われた妖精の夢。フェアリィでも度々見た夢だ。
夢の中で妖精は牢の中で横たわっていたり、飛び立ちたいのか羽を広げたりしていた。
しかし今回のように彼女が泣いていたことはかつてない。
──あんなに悲しい目をして、あんなに泣いて、おれに何かを呼びかけて──
絶望とか、何かを失ったときの悲しみの涙ではないように見えた。
絶望でもない。
悲しみでもない。
恐怖でもない。
痛みでもない。
──彼女は、何を、このおれに伝えようとしたんだ──
あまりにも、彼女の涙が印象的だった。
毛布を跳ねのけて起き上がる。もうふらつきは収まっていた。でも頭は泥のように重い。
──まあ一瞬とはいえ、Gロックが起きたのだから仕方ないか──
零は自嘲気味に思う。
Gロックはブラックアウトがさらに進行するとなる状態だ。
ブラックアウトは強烈なGにより、網膜や脳の血液が不足し、視界が真っ暗になる現象のこと。
さらにそれが進行し、脳の血が搾り取られると脳機能が著しく低下、意識が消失する。それがGロックだ。
無論、後者の方が相当にキツイ。長時間続けば死んでしまう。
恐らく、雪風が『you have control』と宣言した直後、すでに自分の意識は途絶えていたのだろう。あの表示を見た後の記憶が無い。
あまりのスピードに認識速度が追いついていなかったのかもれない。雪風は『おれの感覚では知覚できないほどの速度』をもってシグナムの背後に回り込み、そのままの勢いで体当たりを食らわせたのだ。いくらシグナムでも気絶しないはずがない。
──雪風に戦闘機動制御を渡すということは、かなりの危険を伴う。それが早めにわかって良かった──
その点では、今回の模擬戦は有意義なものだったな、と零は思う。別にシグナムに感謝しているわけではないが。
まあ、雪風の化け物じみた機動に振り回されるのは今に始まったことではないか、と思いながら零は自室から出て食堂に向かう。腹が減った。
──雪風は、もっと自由に、もっと速く飛びたいのかもしれないな──
零は歩きながら、思う。
彼女は音速の妖精だ。
自在に大空を舞い、全てを置き去りにする速さで駆け抜ける風の妖精。
かつて不死鳥の名を冠した炎の力で空を切り裂いていた彼女は、今のスピードに物足りなさと不安を感じているのかもしれない。『こんなのではジャムに勝てない』と。
雪風が望むのは、音の壁の向こう側。
大気を蹂躙する超音速の世界。
妖精達だけが、天駆ける機械の妖精達だけが、その壁を越えることを許される。妖精達の世界。妖精空間。
──音速は無理でも、せめて、プロペラ機には勝ちたい──
彼女にもプライドがあるはずだ。あんな非効率なやつらには負けたくない、と。
確か、プロペラ機の世界最速記録は時速850キロだ。
──せめて、そのくらいには速くなろう。雪風のために。おれ自身のために──
そう零は心に誓い、食堂へ向かう速度を上げた。
「ここね……」
六課の隊舎の前で、一人たたずむ女性。
端末に表示された地図と隊舎を見比べながら、納得いかない表情を浮かべている。
──まさか彼が、こんなところにいるとは──
自身の同僚だった『彼』の顔を思いうかべる。
あの彼が、こんな部隊で大人しくしているなんて有り得ない。少なくとも自分の知っている彼ならば。
彼の性格には何らかの変化が起きていると見て、まず間違いない。
──興味深いわね。なんとしてでも彼に会って、話を──
「あの~」
「?」呼ばれて、振り向く。メガネをかけた若い女性がそこにはいた。
「六課に何か用ですか?」
「……ええ、そうよ。会いたい人がいてね」
そう答えると相手の女性は人懐っこい笑みを浮かべ、「わかりました。私がご案内します」と言ってくれた。恐らく六課の人間だろう。
「私は六課のデバイスマイスター、シャリオ・フィニーノ 一等陸士です。シャーリーと呼んでください。
……お名前を訊いてもよろしいですか?」
この女性──シャリオはずいぶんフレンドリーな性格のようだ。いきなり愛称で呼べとは。
しかし名乗られたのだから、こちらも名乗るのが礼儀。
彼女はショートの金髪に良く似合う微笑みで、シャリオという女性に、名乗る。
「私はエディス。エディス・フォス大尉よ」