七つ夜に朔は来る【未改訂ver】   作:六六

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 ―――世界に希望がある限り、人の絶望は決して無くならない。 


第十四話 悪い夢

 恋というものは、些か厄介なものである。

 

 単なる思慕の感情であると言うのに、その人命、あるいは人生を大いに狂わせる事もあれば、はたまた一途な想いが時たま運命を変えることすらもあるのだから一笑だには出来ぬ摩訶不思議である。

 

 感情とは力の初動だ。力なき行動は失速するに及ばず、その道理を失墜させて堕落させてしまう。感情なき行動は茨の道を踏みしめるどころではなく、棘の茨に抱きしめられる末路が落ちだ。

 

 だが、恋はそれと一線を引く。恋はするべきだ、恋は何よりも素晴らしい。恋は甘く苦いもの。その生を潤沢に富ませ、更には幸福までも訪れるかもしれない、と声高々に恋は良いものと謳う者は歴史上にも多くいた。それほどまでに恋は人を捉えて惑わす。故に人は誰かに恋をする。

 

 しかし、本当に恋は良いものかと言えば、その答えは千差万別であろう。

 

 恋は一種の麻薬である。それも依存性の高いものだ。思考は淡い色に染まり、その行動もまた然り。歴史を紐解けば、恋によって生まれた悲劇があった。恋によって育まれた惨劇があった。狂おしいまでの愛に呑まれ、そして裏切りの道を走る者。恋のために戦争を起こし、天下万民悉く滅ぼした王。叶わぬ恋慕に涙を流し自ら毒薬を飲んだ憐れな女。彼らの理由はただ一つ。恋とは何よりも尊いものであるからだ。

 

 故に恋は悲しみの源泉である。事実、恋に芽生えた者の不幸な最後は涙に濡れた別れを経験するだろう。そして枕を濡らして叶わぬ恋に理不尽を抱き眠りにつくのだ。それを悪いという者はきっといない。何故なら恋とはそういうもの。幸と不幸が背中合わせに在る、真に不可解な感情である。

 

 だから恋の結果を知る者は誰一人としていない。筋道が通っていても、その結末には大どんでん返しはよくある事。例えその果てが例え悲劇で救いようのない末路だったとしても、恋とは良いものなのである。

 

 その日、三咲町のとある高等学校では朝っぱらからちょっとした騒ぎが起こっていた。

 

 二年生であるあの朴念仁と呼ばれる遠野志貴と、奥ゆかしき事この上ない弓塚さつきが共に登校してきたのである。公然の秘密としてさつきのアプローチがいつ大成するのか、はたまた志貴がいつさつきのアプローチに気付くのかとかねがね話のネタにされていたのは言うに及ばないが、この現場を目撃した生徒達は颯爽と高校へと向かい、この事実を言いふらしたのである。

 

 以前から弓塚さつきを応援している者は黄色い歓声を挙げ、遠野志貴の鈍感さに賭けていた男共は草葉の陰で男泣き。上を下をの大騒ぎに千切られた賭けの食券枚数知れず。今正に校内は大狂乱の乱痴気騒ぎが勃発し、終いには乾有彦を筆頭に男連合が莫迦騒ぎを始め、それにシエル率いる花の乙女愚連隊が待ったをかけて男女を分ける抗争が始まってしまった。

 

 果たしてこの騒動に終わりは来るのか……!!

 

 ――――とはいかず、本日は少々騒がしいながらに実に平和な朝を迎えたのであった。

 

 □□□

 

 弓塚さつきにとって遠野志貴との距離は埋める事が難しい。いっそ困難と言ってもいいだろう。遠野志貴自身がどう思っているかわからないが(さつきとしても気になるところではある)さつきは成る丈志貴と仲良くなりたいと思っている。それは遠野志貴が気になる存在であり、そしてそれ以上にさつきが遠野志貴を一人の異性として意識しているからだ。しかし幾ら 遠野志貴との距離を縮めようと自ら奮い立っても、いざその時になると物怖じしやすい性格故にその切っ掛けを自ら潰してしまう事などもざらで、さつき本人としても実に歯痒いのが今までの現状であった。

 

 彼女は比較的強引に事を起こす人間ではない。活発的というよりも引っ込み思案という言葉がしっくり来る性質である。それは交友関係においても通じ、しかしその性格の良さから面倒見の良い人間だと周りからは思われている。頼まれたら断る事が出来ないし、困っている人を見かけると放ってはおけなくなる。本当はそんなことないとさつき自身否定しているが、性格が性格だけに流されてしまうのである。

 

 ただ彼女はそこで終わるのではなく、諦めの悪い質でもあった。

 

 我慢強いと言えば些か誇張に過ぎ。

 頑固と言えば本人としても非常に困る。

 

 頑固と言う言葉は少々印象が悪いように思えるのだ。響きも濁音ばかりでちょっと厳つい。でも諦めないという言葉は実にしっくり来る。健気な感じもするし、誠実な気もする。ニュアンスの柔らかさが際立っているのではないだろうか。別に本人がそう思わなくても事実はそうなのであるが、それは本人もわからぬ事ではある。

 

 だから彼女は諦めないと言う意志を胸に遠野志貴への距離をつめようと日々努力をしてきたのである。

 

 それがいつ実るとも知れぬ最後の無花果の花だとしても、彼女は止まらなかった。

 

 それを苦しいと思うこともあった。好意を募らせれば募らせるほど遠野志貴との間に見出される距離は遠ざかっていく気がして、隔たりは一向に取り除かれてはくれないのだ。それを思うと苦しくてたまらなくなり、夜中には胸を締め付けられるような切なさに襲われて眠れなくなる事もあった。

 

 しかし、なんで好きになったのだろうとは一切思わなかった。さつきは遠野志貴を好きになったことに全く後悔しなかったのである。

 

 後悔とはつまり否定だ。それまでの気持ち、それまでの時間、それまでに積み重ねてきた彼の残像を全てかなぐり捨てる行為である。だから彼女は後悔しなかった。そもそも後悔を覚えることなんてないのだ。だって遠野志貴が好きなのは誰に強制されたわけでもない、彼女自身から生まれた彼女の感情なのだ。だから彼女は誰よりも幸せものであった。それを大切にして何が悪い。文句あんのかこら。

 

 それに遠野志貴を好きになってから人生がちょっと変わったような気もする。あの冬の奇跡から、彼女はいつだってその甘い痛みを噛み締めてきたのであった。

 

 そして切実の日々を越え、今さつきの気持ちがひとつの結実を迎えていた。

 

「弓塚さん?」

「え?」

 

 すぐ側から声が聞こえた。変声期を越えた男性特有の少し低い声は彼のものだと思うだけで特別なように聞こえる。それが具体的にはどのような事かは上手く説明できないが、彼の言葉は他の人よりも良く聞こえるのだ。妙に心地よく響く適度な低音はさつきの好きな彼の声で、耳元で聞こえるから少しくすぐったい。

 

 しかし、今はそんな彼の声に浸っては不味い。彼はちょっと困った顔つきでさつきの顔を覗いてきている。気付けば、近い。こんなに志貴が側にいるなんて今まであっただろうか。その距離にさつきは自分の顔が熱を帯びるのを感じた。

 

「あ、あああの、えっと……どうしたの、遠野くん?」

「いや、弓塚さんが何か黙ってたからさ、話しかけてもぼうっとしてるし、ちょっと気になって」

「そうなの? ごめんね、遠野くん」

 

 折角声をかけてくれたのにそれを聞き逃すなんて、さつき無念。申し訳ない気持ちと、惜しい事をしたという気持ちでさつきの胸中は一杯になってくる。しゅん、としてしまうのも致し方のないことだろう。しかしそんなさつきでさえ志貴は苦笑して許してくれるのだ。

 

「謝るほどのことでもないからいいよ」

「……でも」

「いいって、いいって。……あー、それよりもどうしたんだ?ぼうっとして」

 

 気をきかせてくれたのだろう、話を元に戻してくれた。そんな気を使ってくれてありがたいと思うが、気を使わせた事に申し訳のなさを感じた。ただ、それもきっと志貴は気にする事はないと笑ってやり過ごしてくれるだろう。そんな彼の人柄の良さは心地よいものがあった。

 

「ううん、なんでもない」

 

 そう、なんでもないのだ。なんでもないのである。さつきが今しがた考えていた事を遠野志貴本人に堂々と言えるはずがないのだ。状況的にではなく、さつきの精神的な理由で。でも、ちらりと志貴を見る。そこには子犬を思わすような、それでいて何処か同年代の青年とは違う雰囲気を持つ人が側にいる。だからさつきは実感する。今日はなんて素晴らしい朝なのだろうかと。

 

 学校への道なりはなだらかに続いていく。公園を通り過ぎ、街路の通りを志貴とさつきは連れたって歩き、すれ違う車の排気ガスを嗅ぎながらどうでもいいような話を交わしていた。

 

 昨日はどうしていたかを初め、今朝のニュースや占いの結果、はたまた学校での共通の話題。宿題の確認や有彦の悪口。ちょっとした気になることとか有彦の悪口とか、有彦の悪口とか。あんまりに志貴が悪口を言うので、ちょっと窘めたりもしたが。そして。

 

「え?弓塚さん中学の時同じクラスにいたのっ?」

「……そうだよ、やっぱり気付いてなかった」

 

 実はさつきと志貴は出身中学が同じで、しかも同じクラスになったこともある。それをさつきは内心嬉しく思っていたが、肝心の相手が気付いていなかったらどうしようもない。ちょっと落ち込む。

 

「ぐ……ごめん」

「……いいよ、あの頃は遠野くんとあんまり話すこと出来なかったし。……でも、これからは――――」

 

 頑張るから。口元を転がるその言葉はきっと小さすぎて志貴には伝わらない。でも、こんな決意を想い人に聞かせるのは恥ずかしいから、聞いて欲しくもない。でも、聞いて欲しいなんて気持ちもある。それがたまらなく切ない。 

 

 歩道橋を越え、もう少し歩けば学校が見えてくる。いつもの見慣れている道だ。そしてそこらには登校途中の生徒の姿もちらほらと見えた。出勤途中のサラリーマンがいれば、本当に綺麗な金髪の女性もちらりと見えた。

 

 何気ない、いつもの登校である。

 

「……」

 

 ちょっと気になって後ろを振り向けば、あの金髪の女性の後ろ姿が遠くなっていく。あんなに綺麗な人がいるんだなあ、とさつきはしんみり思った。後姿まで美人なんて、外国人女性はずるい。

 

「ま、いいか」

「?」

 

 予感があったわけではない。あの場所で待っていれば確かに遠野志貴は現れる事は分かりきった事実。遠野志貴が引っ越して帰り道が重なったのならば、少なくともあの道で会う確立は高かった。でも、以前までのさつきならばあそこで遠野志貴が来ることを待つなんてありえなかっただろう。約束にもならぬ約束を突きつけてさつきが舞い上がっていたとするならば、それは否定の仕様がない。しかし、二人はこうして今一緒に歩いている。

 

 それは否応無く、さつきの心理状態に影を指した事態にあるのかも知れない。

 

 さつきの記憶に刻まれた恐ろしい光景。片手に生首を持った男が、志貴とさつきに襲い掛かってくるのだ。まるで悪夢のような現実で、現実味のない瞬間であった。

 

 しかし、あれは紛れもなく起こった現実。恐ろしくてたまらない刹那がさつきを締め上げた。恐怖に囚われさつきは体が動かなくなり、呼吸すらも出来ない緊張状態に陥った。

 

 あの時、さつきは確かにナニカの終わりを見た。それが果たして自身の生命活動なのか、それとも友人や家族、あるいは学校の人と会うことなのか。もしかしたら、遠野志貴と一緒に歩くことが二度とない未来なのかもしれない。

 

 でも、さつきは今もこうして学校への道のりを歩き、隣には信じられないことに遠野志貴がいる。そしてお喋りをしながら登校している。

 

 こんな未来、夢にまで見た奇跡の一瞬をさつきは味わっている。

 その原因はわかっている。

 

 遠野志貴が、さつきを守ってくれたのだ。襲い掛かる藍色に対し、遠野志貴はさつきを背に立ちふさがり守ってくれたのだ。あの時は互いに一杯一杯でどうすればいいのかもわからなかったけれど、でも、あの時二人は一緒にいた。

 

「……あ、そういえば」

「ん?どうしたの弓塚さん」

 

 さつきは思い出した。すっかり忘れていた。

 自分は守られたきりで、碌に感謝の言葉ひとつ返していないことを。

 

「あのね、遠野くん――――、私あの時」

「……何、弓塚さん?」

 

 だからお礼を言おうとした。守ってくれたのだから、御礼をする事は当然だと思う。でも〝あの時〟というフレーズに、遠野志貴はどこか影をさしたようにその顔を強ばらせた。

 

「あの、ね。その、私、あの時の事を遠野くんに――――」

「いいんだ、弓塚さん」

 

 お礼がしたい。後もう少しで言えそうな言葉を遮り遠野志貴はかぶりを振って言う。

 

「あの時の事は、忘れよう。……忘れたほうが良い」

「でも」

「あんな事、思い出しちゃいけない。思い出せばきっと、弓塚さんの傷になるから、駄目だよ。……だから、忘れたほうがいいんだ」

「……でもっ」

 真摯に、どこか訴えるように志貴は言う。でも、それではさつきのこの気持ちはどうなるのだ。感謝の言葉も、謝罪の言葉も受け入れてくれない。こんな寂しい気持ちをさつきは知らなかった。

 

 それに、アレを忘れてしまえば、今はどうなる。

 こうやって二人で歩くのはさつきの心理状態が未だ不安定な事もある。不安だから誰かと一緒にいたい。それは悪い事だろうか。そして、それが切っ掛けで今こうして歩いているのだ。アレを忘れるとは、今をなかったことに等しいのではないかとさつきは思う。だから、寂しくて堪らなくなる。

 

「遠野くん、私――――」

「やっと着いたね」

 

 気付けば、もう学校に二人はたどり着いていた。校門を抜ければ他の生徒の話し声と、早朝練習を行っている生徒達の勇みよい掛け声が聞こえる。つまり二人で歩く時間はもう終わり。

 

「……遠野くん」

「ほら、そろそろ予鈴が鳴るよ。俺は何より、有彦よりも遅いのが我慢ならないんだ」

 

 最近あいつ早いからなあ、と何処か白々しく言いながら志貴は歩いていく。もうあの話題に触れたくないのだろう。確かに、あれは嫌な事だ。気分も優れないし、どうにも落ち着かない。そのお陰で学校も昨日は休みを取った。

 

 でも、忘れてはいけない。遠野志貴は心配してくれている。それはとても嬉しい。でも、アレを忘れる事はさつきにとって良くないことなのだ。今を否定しないために。錯覚でないならば、遠野志貴との距離が近づいた事に。

 

 絶対にお礼を言おう。そんな事をさつきは思った。さっちんは諦めないのである。

 

 そして。

 

「遠野くん!」先行していく志貴に声をかける。「今日放課後空いてるっ?」

 

 さつきは勇気を出す事を決心した。

 

「えっと、多分空いてるけど……」

 

 訝しげに志貴は振り返りさつきと対面する。正面に見える志貴の顔つきは幼さを残しながらも安らかな印象で、さつきはそれも好きだった。

 

「じゃあ、絶対空けててね!約束だよ!」

 

 それが何を意味しているのかを充分理解し、さつきは約束を紡ぐ。

 

 きっとその顔はいつもよりずっと赤い。

 

 □□□

 

 喧騒と静寂が入り混じる。でも、決して無音ではない。それを心地よいと感じながら改めて志貴は自分が学校にいるのだと自身のイスに腰掛け、ぼんやりと授業を聞いていた。

 

 一定のリズムで黒板を叩くチョークの音や、内容に対する説明を口にする教師の溌剌とした立ち姿。そして視界にはそれをそれぞれに受ける生徒の姿もある。その中にいる中の一人は早々に寝入ってしまっている。授業開始と同時に机に突っ伏したその魂胆に呆れながらも、それが有彦らしいと内心苦笑した。

 

 そしてもう一箇所の机ではさつきが真剣な表情で授業を聞きながら、しきりにノートへとシャーペンを走らせている。恐らく授業内容を書き写しているのだろうが、さつき一人ではなく殆どの生徒が行っている事なのだから珍しい事ではない。しかし、さつきほどの熱心さでノートを取っている生徒も珍しい。そして視線に気付いたのか、ふとさつきは志貴の方に顔を向け、始め驚いた表情を見せながらも微笑みを浮かべて小さく手を振った。それにこちらも手を振り替えして、再びぼんやりと授業を聞き流していく。

 

 何も変わらない。

 

 実に平凡でありふれた光景の中に自分はいる。皆それぞれに時間を過ごしながらも授業をこなしていく。そんな時間がもう昼休みに差し掛かろうとしていた。

 

 今朝は大変だった。昨日学校を休み、一日ぶりに登校してみると教室は随分と懐かしいような気がした。そしてそれはあの密度の濃い夜のせいに違いないと、志貴は嫌な記憶を思い出したことを後悔しながら自分の机に座ると同時に、有彦がニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべながら近づき、さつきと登校してきたことに茶々を入れ、更には昨日二人とも学校を休んでいた事からどこまで進んだのだと実に訳のわからないことをほざくものだから、意趣返しにとチョークスリパーをお見舞いしてやった。そしてふと気付けばさつきも友達にからかわれていて顔を真っ赤にしていた。そこでふとさつきと目が合えば、彼女は慌ててしまいそれすらも友人にからかわれたのであった。

 

 そして志貴はそんなアワアワとしているさつきの姿を不思議に思いながら、どこか可愛いと自然に思っていた。

 

 何も変わらない。

 

 追求と悪ふざけの応酬をやり過ごして、今日の授業は始まった。昨日休んだ事で授業の内容は少々取っ付き難いような気もするが、大体は理解できるしこのような事態にも慣れている。元から体調は芳しくないのだから、倒れて授業を受けることが出来なかったことなどざらで、特に珍しくもない事ではあった。そもそも熱心に授業を受けるほど勉学を好んでいるわけでも無し、そこらにいる生徒達と同じように興味も無く授業を消化していく。まるでいつも通りだ。

 

 だから、何も変わらない。

 

 感慨も深く、志貴は今教室にいる。実に変容もなき時間である。これが良いと、以前ならば考えもしなかった事を思う。いや、きっと内心そう思っていたのだ。でも、それを意識して思うことは今までに無かったのではないだろうか。あったとしても、ほんの僅かな時間で、気付けば何処かへと消えてしまうような感慨だ。それは軽く、質量すらないような埃の塊に過ぎなかった。散り逝く花びらのような儚さも無い、乾いた埃だ。

 

 改めて思うのだ。こんな時間、こんな日々を決して悪くはないと。寧ろ良いと――――。

 

 ――――手前は、戻れない。

 

 折角教室にいるのに、あの声が聞こえる。

 

 騒がしい。喧しい。

 

 軋む金属音が脳裏を侵して止まない。

 

 歪な月に照らされ、闇を纏う藍色の亡霊と、朽ち果てた刃を研ぎ澄ます悪意の刀剣。

 

 どれだけ時間が経とうとも、あの夜の出来事は志貴の中から消え去らないのである。腐敗の臭いが立ち込める夜を越え、清廉たる朝を迎えて日向の匂いがする昼に差し掛かろうとも。ギリギリ、ギリギリと捻りこむようにあの金属音は鼓膜を震わせる。

 

 ――――俺達と同じだ。

 

 五月蝿い、黙れ。お前の声なんて聞きたくないんだ。

 

 自分はここにいる。自分はここにいる。こんな何気ない場所で、いつものように過ごしている。それで良い。それが良い。これ以上や、これ以外なんて、きっと望むべくも無い。

 

 それでも聞こえる。聞こえる。あの苛立たしいまでに嗄れた不快な声が。

 

 ――――同じ地獄の底をのた打ち回る腐った亡者よ。

 

 ベキっ!!

 

「……遠野?どうした」

 

 教師の声に意識が戻る。

 

 気付けば、掌が硬直していた。そして、力の限りに握りしめられた掌の中にあるシャーペンが無残にも拉げていた。幾つかの小さな欠片を零して、最早真っ二つな姿であった。

 

 皆の視線を感じて少々気まずいが、そうも言っていられない。中には胡乱な有彦の視線や、さつきの心配そうな表情が視界の端にあった。

 

「いえ、……大丈夫です」

 

 そう言いながら残骸を掻き集めた。もうこれは使い物にならないだろう。いつか補充をしなければならない。無理をして使うつもりも無い。

 

「そうか、気分が良くなかったら言えよな。どうもしないけど」

 

 それは教師としてどうなんだろうか、と口にする事も無く志貴は苦笑気味に誤魔化すのであった。

 

 そして時刻は四時限目を終えて、昼休みになろうとしていた。

 

 □□□ 

 

 昼食はあまり食欲が沸かなかった。元から食が太い訳でもないが、最近特に胃袋が縮小しているように思える。それでも何か食べてしまおうと食堂で合流したシエルにカレーうどんをお勧めされた。病み上がりの志貴を考慮して消化の良い麺類を選択したのだろう、うどん用に辛味を抑え、まろみを増したカレーの仄かなエスニックな香りが何とも言えない。どろりとしたカレーは実に胃への負担が大きい。少々辛い昼食となったが勧めた人物が側にいる手前、そんな事はおくびにも言えぬ志貴であった。

 

「んーーっ、今日もなかなか美味しいです。このスパイスがまたたまりません!遠野くんはどうです?」

「そうですね、まあ、美味いと思いますよ」

 

 目前でシエルは志貴が食しているのと同じカレーうどんを美味しそうに食べている。しかしなんだろうか、至福の表情とはきっとこんな表情に違いない。感情は瞳から始まるが、シエルのそれは顔を構成する細胞の一つ一つから幸せオーラを発射しているようだった。

 しかし、以前もカレーを食べていた気もするが、カレーが好きなのだろうか。もしかして毎日食べているのかもしれない。そう思い、苦笑してまさかと今しがた去来した考えを否定した。毎日カレーなんてインド人じゃあるまいに。

 

「ですよね!やっぱりカレーはうどんにしても美味しいものです」

「ハハ、確かに、そうですね」

 

 しかし、本当に美味そうに食べるものだ、と志貴はぼんやりとした頭で思った。

 

「そんなにすか?俺もカレーうどんにすりゃよかったかなー」

「お前は取り合えずその口の周りについてる米をなんとかしろ」

 

 有彦はシエルの隣に座り、牛丼をかき込んでいる。その食べっぷりは実に豪快で潔いが食い意地の張っているようにすら見える。丼はこれぐらいがちょうど良いのだろうか。

 

 でも。

 

「あれ、そう言えば弓塚さんは」

 

 このテーブル席には志貴と有彦、更にはシエルしかいない。最近共にいることが多かったさつきの姿は見えない。しかし有彦は大げさな身振りで肩を竦めた。

 

「ああ、あいつは何か作戦会議だそうだ。他のやつらと喰ってんじゃね?」

「作戦会議って?」

「……さあな、ま、後の楽しみってことだろ。もしかしたら今日かもしれんが」

「?」

「……弓塚さんも、これでは浮かばれませんね」

 

 二人してやれやれとでも言いそうである。しかし志貴にはサッパリ分からないことであるので邪険に扱われたかと睨むつける事しか出来ない。そんな志貴を見て有彦は何を思ったかその顔を厭らしくニタニタと歪ませて、舐めるような視線を寄越すのであった。

 

「しっかし、遠野。お前、アレだろ?」

「……何がだよ」

「家で寝ゲロぶちまけたんだろ?」

「――――っぶ!!」

 

 いきなり事実を言われ、志貴は先ほどまで飲み込んでいる途中だったうどんを思わず吐きそうになった。もし吐いていたら仇名は食堂のゲロリッティになっていただろう。

 

「お、お前なんで知ってるんだよっ!」

「おお、そりゃお前。お前んちに電話したからに決まってんだろうが」

「……は?」

 

 何でそんな事を有彦が。そんな疑問を解決したのは有彦の横で苦笑いをしていたシエルだった。

 

「昨日遠野くんがお休みと聞いたので、私たちも心配したんです。だから失礼ながら遠野くんの家にお電話をかけたのですよ」

「そしたら良い感じの女の人が出て、遠野が寝ゲロしたって言ってたんだよ。しかし、遠野あの人誰だ?何かすげえ美人な予感がするぜ」

「……琥珀さん。あの人ってば――――」

 

 その時を思い出したのだろう、有彦は何やら不気味な笑みを浮かべて志貴に迫ってくる。しかし志貴にはわざわざ寝ゲロをばらす人間はただひとりしか思いつかなかった。そしてそれは正解なのだ。ある意味琥珀に対する信頼なのだろうか。

 

「でも、遠野くん。本当に大丈夫なんですか?無理は体によくありませんよ?」

 

 カレーうどんを食べ終わり、シエルは心配そうな表情を湛えて志貴を覘く。

 

「ええ、もう平気です。実は昨日一日中寝てたんで、もうすっかり」

「なんだ、俺らが真面目に授業受けてる間にお前は惰眠を貪ってたのか」

「……少なくとも、お前は授業受けてないだろ」

 

 今しがたまで殆ど寝ていた有彦が言えることではない。

 

「それにしても一体どうしたんでしょうね、前々から調子は良くなかったんですか?」

「……」

 

 ――――脳裏を去来する、化け物。蒼い瞳、片腕の和装。

 

 吐き気を催す金属の悲鳴に、腐った風。歪んだ月。

 

「……元から、あんまり体が強い方じゃなくて、多分家にもまだ慣れてないから、貧血とかも祟って。……思い当たる事は多いですけど、正確な理由までは……」

 

 記憶を払拭する。思い出しても意味が無い。忘れてしまえばいい。

 

「ま、その全部が合わさって、て事かもしれねえしな」

 

 そこまで気にするようでもなく、有彦は軽く言う。志貴としてもそれぐらいのニュアンスで充分で、これ以上あの出来事を引き摺りたくもない。だからこの話題はもうお終いだ。

 

『―――巷を騒がす吸血鬼事件の続報です。また新たな犠牲者が出たようです。今日未明、○○から人が倒れていると通報があり、警察が駆けつけたところ女性が首もとから血を流しており、病院に搬送されましたが既に死亡しておりました。調査によると―――』

 

 そして耳に入るのは点けっ放しのテレビのアナウンス。その内容に顔を顰めながら、そして連鎖するように思い出される気持ちの悪い夜の終わりを拭うように、残ったうどんを啜る。すると勢い良く啜られたうどんの音にテレビの音は聞こえなくなって、気にもしなくなるだろう。

 

 しかし、そんな志貴をシエルは含んだような表情で見続けていたのである。

 

 □□□

 

 時間を無為に消化する。時は金なりと時間は実に貴重な財産であり、時間はどんな生命であろうとも平等に与えられている。それを無駄に生きるのだから何とも贅沢な事ではないだろうか。無論やらなければいけないことは多々とある。しかし、そこに必死な感情は入り込まない。それはそこまで力を入れるような事ではないという楽観もあるだろうが、それ以上に必死になる必要が無いのである。

 

 決してルーチンワークでこなしている訳ではないが、必死とは今後の展開に関わる事である。人生や運命、大げさに言えば生死が関わるような事である。ならば学校で必死になるといえば、期末テストや進路関係だろうか。実は進学校であるこの高校では大学受験に向けて動いている生徒も中にはいる。ならば期末テストなんかも死活問題、なるほど必死になる事も頷ける。まだ十台の半ばを越えたばかりの子供が自分の将来に向けて動いているという事実には頭も上がらぬ思いだ。そう思うが、そんな早くから自分の人生を決めていいのだろうかと思わなくも無いのである。それは人それぞれだろうが、志貴はなんとなしにそう思うのだ。別に将来を憂う事も、はたまた何も考えていないわけでもないが、今を大切に安穏と生きている志貴にとっては、未来を選択するとはどうにも考えにくい事であった。

 

「夕方、か」

 

 時は放課後である。授業を終えてクラスメートは各々に消えていった。気付けば有彦やさつきもいない。誰もいない教室はどこか物悲しく広がっている。誰も座っていないイスや、整然と並立された机。少々白っぽくある黒板。人が今までいたからなのか、温もりを失った教室はさながら秋に見つかる蝉の抜け殻のようだった。

 

 今朝さつきは放課後の時間を空けといて欲しいと言っていた。約束だと、志貴もまたそれを了承していた。その用件が果たして何なのか、それは志貴にはまるで分からない。クラスでも人気の高いさつきに放課後を空けといてほしいと言われ、それは邪推しても仕方の無いことなのかも知れないが、志貴はそれはないだろうと打ち消す。

 

 でも。

 

「弓塚さん……」

 

 何かを思い描こうとする己に志貴は戸惑いを覚えていた。そんなありえない事を考えて一体どうしたというのだろう。しかし約束を交わした本人が何時の間にか消えているのである。それすらもすかされた様な気がして、残念だと思っている。不思議だ、不思議だ。きっとそう思っているのは志貴の心理状態が落ち込んでいるからに違いなかった。

 

 教室には斜陽が雪崩れていた。眩しいくらいに赤い夕暮れはいっそ血のようですらある。鮮烈に赤い太陽の光はそうとしか例えようがないくらいに輝いていて、これから夜が訪れるとは到底思えない程だった。

 

「……でも」

 

 夜は必ず訪れる。志貴が夜を越え朝を迎えたように、昼を過ぎれば夜が静かに舞い降りる。夜は苦手だ。以前までそうは思っていなかったが、最近夜には良くないことが起こる。

 

「馬鹿馬鹿しいな」

 

 気にしすぎだ。気にしすぎるから嫌な事が起こるのだ。きっと、そうに決まっている。

 

「さっさと帰るか」

 

 嫌なことからは避けるに限る。さつきとの約束は結局どうなったのかは分からないが、もう帰ったほうが良いのではないだろうか。夜なんてどこにいたって迎えるものであるが、しかし家で迎える夜と、その他で迎える夜には明確な差がある。確かな光源があり、家族がいるのはありがたい事なのである。

 

 しかし、教室を出た志貴に声をかけるものが現われた。

 

「遠野くん」

「……シエル先輩?どうしたんです、なんか用事でもありました?」

 

 青みがかった黒髪に眼鏡をかけた三年生。シエルだった。しかし志貴としては少々不思議であった。シエルは三年である。その教室は階層が異なり、二年生を締めるこの階層にいるのは少々不自然であるとすら言えた。

 

「いえ、特に用事はなかったんですけど、まだ学生さんがいないか見回りをしてたんです」

「へー、シエル先輩って何か役員なんですか?」

「そうではないんですけど、遅い時間まで学校に残っていると褒められたことではありません。最近は物騒ですから。だから遠野くんもそろそろ帰ったほうが良いですよ」

 

 随分と殊勝な事であると素直に感心した。でも、それを改めていわれるのは少々気後れするのだが。

 

「とは言え」

 

 シエルは少々茶目っ気を滲ませていた。

 

「実は私は部活があるのでまだ学校にいるのですけどね」

 

 それは、本末転倒ではないだろうか。しかし。

 

「ん?先輩って部活に入ってたんですか?」

「ええ、そうです。なんなら見学に来ますか?」

 何とはなしにシエルは尋ねてくるが、その瞳には邪気も感じられない。ならば本当に善意で誘ってくれているということだろうか。

 正直に言ってしまえば帰ることも出来るだろう。誘ってもらった手前断ることは確かに気が引ける。更にシエルは先輩なのだ。先輩の誘いを断るのはどうかとすら思える。と、脳内は目まぐるしく展開し、そしてちらりと時計を見た。まだ、時間としては早い。

「じゃあ、ちょっとだけ」

「はい、しっかりもてなしますから」

 □□□

「茶道部なんて、この学校にあったんですね」

「ええ、……とは言っても部員は私一人だけなんですけど」

 

 まず職員室から鍵を借り受けて茶道室へとたどり着いた。しかし離れが建てられて本格的の行う茶道の部屋という感じではなく、小さな部屋の置くに畳が敷かれた如何にも高校らしい茶道室であった。

 

 靴を脱ぎ、とりあえず正座をしてみるが足を崩しても構わないとシエルは楽しそうに言うので、志貴は言葉に甘えて胡坐をかく事にした。志貴がそうしている合間にシエルは準備を始めており、シャコシャコと抹茶をたてている。しかし礼節や作法など細かい部分までは把握していない志貴は、色々とシエルに教えてもらい抹茶を飲む。

 

「どうです?感想は」

「感想ですか……」

 

 とりあえず湯飲みを傾けながら辺りを見渡す。抹茶の苦味と香り高い風味が良い塩梅で、シエルの腕が窺い知れる。それに合わせ本格的ではないとは言え茶道の設備をある程度揃え様としている。更にここは校舎の隅にひっそりと作られているからなのか喧騒も遠く、生徒達も次第に帰宅しているからか静寂な雰囲気を醸し出している。

 

「うん、いいところだと、思います。お茶もおいしいですし」

「そうですかっ!?よかったあ、他に部員の方がいないからそういう事を聞ける人もいなくて」

「顧問はいないんですか?」

「んーいるような、いないようなってところです」

「……どういうことですか、それ」

 

 明瞭な返答の無いシエルの応えに志貴としては首を傾げざるを得ない。元からどこの部活に所属もしていなかった志貴の言える事ではないのかも知れないが、顧問がいない部活と言うのも珍しい。

 

「ま、それはさて置きです。今はお茶を楽しんで下さい、おかわりもありますので」

「はあ」志貴は曖昧に頷いた。「分かりました」

 

 確かに茶は美味だった。抹茶は確か有間の家で呑んだ事があるが、それも数えるほど。確かおばさんがたててくれて、一緒に飲んでいた都古は苦いと言いながらチビチビと飲んでいた気がする。味はそこまで覚えていないが、それでもこの抹茶はその中で一番美味しいのではないだろうか。茶に精通もしていない志貴が言ったところでそんな事は意味もないのかもしれないだろうが。

 

「そんなこと無いですよ。こうやって誰かに飲んでもらって、感想を聞かせてもらう事が重要なんです。それに、そんなに肩筋張らなくても平気ですよ。お茶は楽しむものなんですから」

 

 茶道に限らず、昇華された文化とは一般的には堅苦しいものと認識されがちだが、その本質とは瞬間を楽しむためのものとして民衆に親しまれてきたものである。つまり大元を鑑みれば、文化とは娯楽なのだ。それは茶も同じ。ならばそこまで気にする事もなく気軽に楽しんだほうが良い、とシエルは言う。

 

「……そう言ってくれるとありがたいです」

 

 志貴の言葉を聞き入れ、シエルは朗らかに笑った。

 

 その上品とも言えるような顔つきでちょっと幼く笑う表情は、年上の女性でありながら親しみを感じられた。特に部活や委員会にも参加していない志貴にとっては縦の関係と言うものは構築する機会もない事であり、中高と考えれば実に稀有な事である。故に志貴としては慣れない年上の先輩を相手にするというのは肩肘が張ると言うか身構えざるを得ない事であった。

 

 そして、こうしてシエルと二人っきりの状況になるというのは珍しいことでないだろうかと志貴は気付く。いつもならばここに有彦やさつきがいたはずだが、志貴の記憶を漁ってもシエルとしかいないというのは始めてな事であった。

 

「そうそう、そう言えばなんですが。遠野くんに聞きたいことがありまして」

 

 抹茶は飲み干したのか、ことりと傍らに空となった器をおもむろに置いて、シエルは志貴を見つめた。其処に気負いは無く、実に何気ないような雰囲気でシエルは言う。

 

「遠野くん、昨日は学校をお休みしたんでしたよね?」

「ええ、まあ」

 

 それは昼に話した。だったら、とシエルは前置きし。

 

「原因は何だったんです?」

 

 それは。

 

「詳しくは……俺にも良くわかりません」

 

 言える筈が無い。正確には言っても意味が無いのだ。何故なら到底信じられる話ではないのである。夢に始まり、歪な月の吊るされた夜の虐殺を。だから誤魔化すしかない。

 

「本当に?」

「……」

 

 しかし、そこでシエルはずいっと身を寄せて志貴の瞳を覗き見た。窓から灯される茜色の光がシエルを包み、その表情を打ち消していく。深遠から覘くその瞳は静寂な夜に広がる湖面を思わす。魚も鳥も眠りにつき、水面も動かぬ湖は生命の気配を感じさせない。深く底を見せないその色は怪しく揺らめいて、志貴を捕らえ吸い込んでいく。

 

「……実は、思い当たる事はあるんです」

 

 気付けばその口は、舌は動いていた。舌先は滑らかに言葉を紡いでいく。

 まるで、導かれているかのように。

 

「俺、変な奴に会ったんです。……凄く不気味で、薄気味悪い奴なんですけど、そいつが現われてから変な夢を良く見るようになって……俺はそいつに殺されるんです。反撃はするんですけど、でも殺されるんです。……そのお陰で、あんまり体も良くないっていうか」

 

 一度口を開いてしまえば、もう止まらなかった。不安、憤り、不快感が理不尽を抱いて噴出していく。何故夢で殺されたのか。そして気味の悪い夢を見なければならないのか。夢とはストレスを発散させるために脳が睡眠時に構築する幻の類である。しかし、一連の夢を見始めて志貴の精神は確実に衰弱していた。

 

 シエルは真摯な表情で志貴の話を聞いている。そこに疑念はなく、また不信を抱いているようにも見えない。こんな莫迦らしい話を聞いてもらいながらも、志貴はどこか誰かに聞いてもらいたかったのだろう、と自身に当たりをつけた。

 

「それで、俺そいつとまた会ってしまって」

「……学校を休んだのに、ですか?」

「はい。……我ながら莫迦な事をしたって思ってます。でも、あの時どうしても夢をなんとかしたくて……夢に出た場所に行って。そしたら、そいつと……。……ねえ、先輩。なんで俺は、あんな夢を見なければいけないんでしょうか」

 

 それは何処か懇願の響きに似ていた。せめて理由が欲しかった。理由がわかっていたならば、その理由を見つけて叩き潰す事もできただろう。志貴はもうあの夢に囚われたくないだけだった。夢見悪く、負担になるだけの夢など誰が好んで見るだろう。

 

 それとも、夢の起源たるあの藍色を憎めばよかったのだろうか。不気味に佇み、閃光の如くに闇を散らす〝朔〟を。金属が切れるを走らせるような声音で嘲るあの骨喰を。

 

 確かに理不尽や恐怖は感じる。少なくとも志貴がこのように憔悴する要因の一端はあの存在にあったに違いない。でも、それを憎むのはどうにも実感が遠い。直接的に危害を加えられていないからだろうか。しかし、志貴は一度襲われ、一度見捨てられた。それを考えれば怒りを感じても良い筈なのに――――。

 

「夢とは」

 

 シエルは宥めるように言った。

 

「ひとつの暗示です」

「暗示?」

 

 不可解な言葉に疑問を抱く。

 

「人の夢にはその日の出来事を一度頭の中で整理する機能があります。赤ちゃんは夢を見ることで記憶を整頓するんですけど、その他にも夢には機能があります。遠野くん、予知夢はご存知ですか?」

「……夢で先の事を知る、ってやつですか」

 

 夢は記憶の整理以外に、未来を予想する事も出来る。それが予知夢と呼ばれる夢だ。

 

「はい、遠野くんは物知りですね。人の体は眠っていても活動をしているものですが、脳もそれは同じです。確かにお休みはしてますけど、止まってはいません。それはそうですよね、脳が止まったら〝普通〟は死んでしまう。でも脳は眠りながら動いているんです。それは記憶整合のためだったり、体の調子を整えるためだったり。その能力の中の一つに未来への予想もあります。だから予知夢は脳の働きによるもの、なんですけど時たまに予想という言葉では説明のつかない未来への展開を見せることがあります。それが暗示です」

「……」

「暗示は未来だけではなく、もっと具体的なモノを見通します。一番に上げられるのは危険回避肉体が危機を予見して、それを夢として見せるんです」

 

 人は科学的に言われるのは先祖は猿だったらしく、暗示とはその名残である。本能は夢という機能を働かせて直感的に危険を予測させるのだ。この説明のつかない予測を人は本能と呼び、また第六感と呼んだ。

 

「だから気になるとは言え、それに近づく事はあまり良い事ではありません。そういうのは無視するのが一番です」

「……」

「近づいては、いけないんです」

 

 強く、シエルは言った。確かに気になったとは言え、その原因を探ろうと外出したのは間違いであった。虎穴にいらずんば虎子を得ずとは、得るものがあると確定している時点での話しである。志貴は何も得なかった。何かを得ることも出来ず、あやふやな勘を頼りに危険予測もせずに、誘われるままにあの場所へとたどり着いた。痛感の極みである。

 

 故にシエルの言葉は最もな事だった。折角夢で危険を知らせたというのに自らそれに接近するなど命知らずを通り越した愚者である。

 

「どうですか?少しは、楽になりましたか?」

「……はい。――――話を聞いてくれてありがとう、先輩。ちょっと楽になった気がします」

「それはよかったです。後輩の悩みを聞くのも先輩としての勤めですしね」

 

 だからよかった、とシエルは笑んだ。

 

 しかし、志貴は話を聞いてくれるだけ嬉しかった。受け入れたいと願っていたわけではないが、それでも誰かに話してみるとそれだけで心が軽くなるような気がしたのである。そして思うのである。きっと幽霊を見たと言っても誰にも信じてくれなかったさつきも同じ気持ちだったのだろう、と。

 

 そして志貴の脳裏にはさつきの姿が映し出されて、そこで思い切り良く約束と言う言葉を発するのだった。

 

「でも、遠野くん。なんでこんな時間まで学校に?」

 

 そういえば、とシエルは聞く。

 

「……実は弓塚さんと放課後に会う約束をしていたんですけど、どうやらすっぽかされたみたいで」

 

 頬をかきながら志貴は苦笑した。

 

 振り返ればわかるが、期待するだけ阿呆を見た結果という事なのだろう。そして何を期待していたのかすら未だ志貴は分かっていなかったのだから、ただの笑い話である。

 

 しかし、シエルは笑うでも無く溜め息を漏らすのだった。

「はあ……。遠野くん、弓塚さんは別に約束を破るつもりはありません」

「……なんでシエル先輩がそんな事分かるんです?」

「さあ、なんででしょうね。ただ女の子には色々と準備が必要なんですよ、遠野くんも其処の所わかっていなきゃ駄目ですよ」

「……そうですか」

 

 なんで行き成り説教を受けなければならないのだろう。

 

 しかし、シエルの言ではさつきは未だ約束を守るつもりらしい。何故シエルが知っているのかは不明だが、もしかしたら有彦とさつきが早々にいなくなった事と何か関係が在るのかもしれない。

それが分かっただけでも。

 

「遠野くん、嬉しそうですね」

「え?」

 

 指摘され頬に触れる。指先には、僅かに緩んだ口元の感触があった。確かに、志貴は滲むように嬉しさを噛み締めている。ただ、それを自覚していなかった。

 

 でも何に対する嬉しみなのだろうかと、内心首を傾げた。

 

「本当に、弓塚さんが苦労するのもわかりますね。……彼女にも問題はあるのでしょうけど、鈍いと言うか初心と言いますか、二人共。――――本当に分かってるんですか遠野くん?こういうのは切っ掛けが大事なんですから、それに気付いてあげなければあまりに可哀想過ぎます。男の子だから何て言い訳は許されませんっ」

「は、はあ……」

「少々説教じみちゃいましたね……そろそろ時間も頃合でしょう。有彦くんも何とかしたと思いますし」

「……有彦?」

「あ、遠野くんは知らなくてもいいことですよ」

 

 シエルの視線が窓へと移り、つられる様に志貴は顔を窓へと向ける。

 

 光は未だ明るいが、その空は落ち着きを取り戻したように眩しさは無くなっていた。その茜色は遠くから夜の気配を見せているが、それでも充分に明るい夕暮れであった。

 

「ああ、そうだ。遠野くん、悩める男の子に私から一つプレゼントです」

 

 シエルは唐突に、今しがた思いついたように掌を反対の拳でポンと叩き、その懐から一つ、小さな何かを手渡してきた。それは。

 

「指輪、ですか」

 

 それは古ぼけた指輪だった。金属で作られた指輪で、使い込まれていたのかその表面は削れており、色合いもくすんでいる。良く言えば年代ものに見える装飾品である。

 

「はい。元は私のなんですけど、何とこれを身につけているだけで邪かつ悪いものを追い払う効果が!!」

「……はあ、ありがとうございます」

 

 実に胡散臭かった。一体どういうつもりなのかわからない。しかし、恐らく好意であろうシエルの贈り物を先ほど相談を受けた手前、突っ撥ねる事など志貴に出来ない事だった。

 

「そろそろ弓塚さんが待ってます。彼女の気持ちにしっかり受け止めて下さいね」

「弓塚さんの気持ちって?」

「それは自分で考えましょう。幾らお節介でも、それは私の言う事ではないので」

 

 シエルはニパニパと笑いながら、退出させようと志貴を促す。志貴はシエルが何を言いたいのかよく分からずに、そのまま疑問を抱きながら廊下へと出て行った。

 

 廊下の窓から見える柔らかな茜色の空には次第に夜の色が染み渡っていく。

 

 それは温かさを飲み込んでいくような藍色の空で、まるでナニカの始まりと終わりを告げているかのようだった。

 

 □□□

 

「ハ――――、ハ――――、ハ――――」

 

 彼は夜が好きだった。真っ黒な夜が好きだった。だから夕方が嫌いだった。

 

 狭間の時間とも言うべきその半端な時間はじわじわとまどろむ様な遅さで変化していく。しかも茜色が消えても完全な黒になるのは更に時間が掛かるのである。早く消えてしまえばいい、と幾度願っただろう。そしてその度に願いは叶わず彼は歯噛みした。何故夕暮れはあんなにも目障りなのだと、その消滅を願った。

 

 だが、それと同時に彼は知っていた。

 

 夜の来訪を心待ちにする故に睨み続けた赤き夕暮れ。

 

 地平の彼方へと沈んでいく瞬間に、まるで迸る炎のように輝くその斜陽。

 

 嗚呼、なんて夕陽とは綺麗なのだろう、と。

 

「ハ――――、ハ――――、ハ、ハ――――」

 

 あれはいつの頃だったか、もう覚えていない。彼の記憶は瓦解しており、幽閉される以前の記憶だけが幾つも浮かんでは消えていく。

 

 記憶は彼の最後の財産だった。何もかもを失い、奪われた彼にとって脳の中にある美しき思い出だけが彼を癒し、慰め、そして苛立たせる。

 

 だからしがみついていた。時を経る事で次第に薄れていく思い出を無くしたくなくて、彼は必死に記憶を日々思い出していた。変化無く、暗い地面の底にあったその座敷牢では彼を世話する人間が一人しか訪れず、それ以外に人はいない。

 

 そんな牢に永い間閉じ込められたモノに何が起こるか。

 

 それは精神の死滅であった。

 

 まるで変わりの無い薄暗がりの牢獄。湿気によってこびり付いた黴の臭い。光の差さない密室。そして彼以外に誰もいない、その孤独。

 

 彼の精神は死に掛けていた。

 

 いや、もしかしたら彼は既に死んでいるのかもしれない。

 

 だから、彼が外にいて、夕闇を越える夜のために待っているこの時間は、彼が死んで見ている末期の夢なのかもしれない。

 

 そう思えるほど彼が牢獄に閉じ込められていた時間は、あまりに長かった。

 

 永く、彼を腐らせ、苦しめた。

 

「ハ、ハハ――――、ハ―――。……くひっ、かあ」

 

 頭上を覆う葉の天蓋から差し込む夕陽の光が忌々しく、舌打ちをした。だが、それは光だけではなく、彼の腹をさらしのように巻いた包帯の脇腹から滲む血のせいもあった。

 

 幾程経っても出血が止まらない。裂かれたとは言え、彼の特性を考えるのならば、あまりにおかしな事。既に治って瘡蓋が出来ていても良いだろう。

 

 だが、現に脇腹は完治するどころか、今もなお出血している。

 

 だから、血が足りない。

 

 運搬する心臓を失い、それは更に顕著だった。

 

「はは、は……俺はこの様、か。俺は、こんな様だったか」

 

 低く、自嘲しながらその傷跡を抑えた。僅かに伝わるその湿り気は彼の命を消費している事を明らかにさせている。熱を持っているわけでもないのに熱いと感じるのは、果たして傷が回復しようとしているからなのか、それとも。

 

 そして。

 

「っく――――!」

 

 ぐらりと意識が揺れて、頭痛が始まる。内側から張裂けそうな頭の痛みはまるで衰えを知らず、彼を苛んで止まなかった。

 

「畜生……耐える、そう耐えるんだ」

 

 己へと言い聞かせながら、彼は夕暮れが治まるその時を待ち侘びていた。しかし、それでも無くならない痛みは、彼の精神を衰えさせ、それを彼は耐えていた。

 

「あと、少し。……あと、少しなんだよ。だから……まだ――――」

 

 七夜の首を取るその瞬間。その命を潰すその瞬間までは耐えなければならない。

 

 必ずや、七夜朔を殺す。

 

 そのためには心臓が必要だった。心臓がなければ出血により彼の肉体が持たない。

 

 それが彼の敗北条件だった。そして勝利条件は七夜朔を殺し、秋葉を守ること。その為ならば、如何様な手段でも進んで使おう。彼にとってそれ以外は瑣末でしか無く、価値も無い。ならば躊躇う必要などどこにある。

 

 そのために心臓を調達する。それこそが、彼の――――。

 

「嗚――――呼」

 

 僅かに、人の気配を感じた。それこそ彼の待ち侘びた犠牲者であった。痛む肉体を押さえ込んで、耳を澄まし気配を研げば人数は二人だと分かった。もう力も朽ち果てようとしていた筋肉を無理に動かして、彼は死角である草葉の陰から、その二人を見た。

 

「―――――――――」

「―――――――――」

 

 何かを話している。それが何なのかは分からないが、そもそんなものに興味は無い。

 

 何故なら彼らは人が言うところの憐れな犠牲者で、そして憐れな犠牲者以上の価値など存在しなかった。

 

 そして彼は朧気ながらにどちらが良いかを吟味した。

 

 一人は男。眼鏡をかけている以外に特徴は見えない。

 

 一人は女。ツーサイドに栗色の髪を纏めている。

 

 考える事、数瞬。次の瞬きの内には既に決めていた。

 

「―――――っくか――ッ!!」

 

 震え始めた体を引き絞り、息を潜める事も無く彼は襲い掛かる。筋肉は嬉しいことに彼の命令を受け入れてくれた。軋む関節と圧縮された筋肉。脇腹の鋭い痛みに顔を引き攣らせ、その表情は悪鬼の如くに歪んでいた。

 

 狙いは一人。

 

 古来から、狩りの得物は弱いものを選ぶことが常道なのである。

 

「弓塚さん―――――――――――――――っ!!!!?」

 

 最中、男の悲鳴が夕闇の公園を劈いた。

 

 そして、彼の視界一杯に見える女。

 

 その向こうにある目障りな夕陽は、憎らしいほどに綺麗だった。

 


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