いつもいるわけではない。
けれど、その姿を見せたとき、前を走る■■の近くではなく。
後ろから追いかけるばかりの■■の側にいた。
ため息ひとつで壊れてしまいそうな、張り詰めた緊張感があった。
秒針の刻む音が室内を静寂とは無縁のものとしている。ただ時を刻んでいるだけだと言うのに、歯車が起こす音はやけに良く響き、広い空間の調和を乱している。耳障りなまでに聞こえる秒針音である。
手元にある書類をつぶさに読み取る。端から端まで、丁寧に丹念に。そして必要なものを選んでいく。発案を吟味し、他の家の報告を懸案する。当主としての勤めである。
質素ながらも確かな造りをした調度品が置かれた部屋だった。秋葉の自室である。秋葉は現在遠野グループを治める立場としての仕事に従事していた。
確かに秋葉は亡くなった父に代わり当主の座に座ったが、秋葉は未だ若輩者であり、その経験も少ない。幼少期から受けていた英才教育により、会社経営などの才を花開かせているが、しかし組織の長としては未熟者でしかない。財閥組織の当主とはそんな簡単に行えるものではないのだ。一つの決断が多くの人間、または会社の命運を分けるのだ。その立場は重い。
それでも秋葉が遠野家当主、ひいては遠野グループを纏め率いていけるのは、他の者の助けがあったからこそだ。かつて遠野に滞在していたものことごとくを追い出しはしたが、彼らが持つ影響力は計り知れない。そして彼らがトップである秋葉の判断の必要なものを吟味し選抜する事で、秋葉の負担を減らしている。その筆頭は久我峰である。彼らは遠野を凌ぐ資産力を保持しており、その立場も遠野では蔑ろには出来ない。久我峰当主は仕事が出来る男である。そして食えない男であった。秋葉はその腹の中が凝固するほどドロドロなものである事も理解していた。それでも久我峰を使っているのは、その腹黒さ、えげつなさも含め彼の辣腕を認めているからだった。無論それは決して好意的ではないが。
そして今、秋葉は取り寄せた報告書を手にしていた。
内容は久我峰傘下仇川について。
『久我峰傘下仇川トップ仇川辰無は書類を改竄し、私腹を肥やしたため処理した』
要約すると、このようなもの。
しかし、それは大いに疑問である。
「あの男が?」
仇川は近年久我峰に吸収される形で遠野グループへと参加した企業家だった。最終的に仇川の参加を許可したのは生前の父である。秋葉も仇川が参加する際顔見せで一度あっているが、静謐の中に確かな才気を見せる実直な男だった印象がある。それをまともに信用するのは些か行き過ぎやも知れぬが、しかし秋葉は己の感覚が誤った事がないのを知っていた。
話を聞く限りでは妻と幼い子供を至極大切にしていた。写真も見たことがある。ありふれた、それでいて微笑ましい家族の姿を覚えている。壮年の男と、少しばかり歳をめした女性。その間に挟まれた太陽のような笑みを零す少女。
そんな男が果たして私腹を肥やすために、己の欲を満たすために会社の金に手を出すのか。
それに。
「それだけで、あの久我峰が処理なんてするかしら」
引っ掛かりではなく、確かな疑惑。
久我峰は財閥を治める者として良くも悪くも大器である。資産を増やすため、会社を増やすためなら不正さえ許容する男だ。あれは恐らく秋葉よりも人間を分かっている。財閥当主ではあるが、政治家としてもやっていけるだろう。その男である。不正一つで果たしてそこまでの判断を下すのか。
そして処理の内容が最悪だった。
仇川は取り潰し、その財全ては久我峰が取り押さえ。仇川の人間は悉く裏で処理を行われたのこと。過激なまでの判断だ。容赦のなさは上に立つものとして必要不可欠なものであるが、一つの事象で全てが瓦解している。
「何か、そうする必要があったってこと?」
知らず呟く。
この書類は久我峰から直接取り寄せたものである。あの男は嘘は言わない。だが、何か隠している。それが何か分からない。
そもそも、この書類を取り寄せたのは理由がある。
以前、琥珀から報告があった、もしかしたらそうかもしれない事件。
それをどう取るかの判断のため、今回秋葉はこの書類を取り寄せた。
確かに、筋道は通っているようにも見える。
悪い事をしたので、処理をした。そんな事。単純明快な結末。
けれど、この中には幾つもの思惑がある。
それは秋葉自身同じだ。秋葉には秋葉の思惑がある。想いはある。懸念もある。けれど、それが形として成り立っていない。
そして書類を見た結果、判断は保留。もう少し調べる必要が在るだろう。
そもそも秋葉は、それを知ってどうするのか、未だ自身でも分かっていない。
「―――……」
テーブルの上には未だ多くの未読書類と、消化した書類が分けられて置かれている。そして今しがた読み終わった書類を置き、また一枚取ろうとして、その手は宙に浮いてそのまま引き返された。ちらりと柱時計を見る。長針も短針もさして進んでいない。
どうにも喉が渇いた。書類に伸ばしていた手を側に置かれたティーカップへ。すっかり冷めた紅茶は随分と味気なく、一息に飲み干し、カップソーサーへと置いた。
「秋葉様。琥珀です」
「入りなさい」
緊張を崩すように、部屋の外から柔らかなノック音。
室内に入ってきたのは、代えのティーポットを淹れた琥珀だった。
「そろそろ秋葉様が紅茶を全部飲んじゃったと思ったので持ってきたのですが、タイミングばっちりでしたね」
琥珀はにこやかに今しがた空となったティーカップに秋色めいた紅茶を注いでいく。温かな匂いが仄かに漂っていた。ティーカップを手に取ると指先にじんわりと熱が伝わってきた。
「ありがとう、琥珀」
「いえいえそれほどでも」
何気ない会話で場の空気が一変していく。それは琥珀のもつ柔らかさだった。琥珀の柔和は秋葉が放っていた緊張感を解きほぐしていくのだ。琥珀は今の遠野では一つの緩衝材としての役割を持っている。それは彼女の性質もあり、また秋葉や翡翠にはそのような役割を受け持つには些か不向きだった事もある。
こんな琥珀にいくつも助けられたと、秋葉は改めて思った。
それと同時に多大な申し訳なさも感じた。
「琥珀」
「はい、なんですか秋葉様?」
小首を傾げるように、ソファへと腰掛ける秋葉の横に立つ琥珀へと声をかける。
けれど、その瞳に秋葉は自分が何を言いたかったのか良く分からなかった。
「兄さんは、どうだった?」
だから兄の事を聞いた。秋葉の中の多大なる懸念事項だった。
「そうですねー。お加減はよろしいようでした。体調不良と食欲不振に関してですが、肉体的には問題ありません。ただ精神的にかなり参っていたみたいです」
「精神的……」
兄は体調が芳しくないらしく、食事も喉を通らず早々に自室へと戻っていった。秋葉としても心配だ。何せ兄の事である。兄は元から健康体ではない。些細な事で体調を崩す可能性があるのだ。久しぶりに遠野へと戻ってきた兄のため、気を使うのも妹としては当然だろう。
だが、その兄の体調が優れていない。しかもその理由は精神的なものだという。
「遠野での生活が負担になっているのかしら……」
まだ帰ってきて日もあまり経っていない。けれど今まで生活していた有間を離れ、格式を持つ遠野へと戻ってきた。有間での生活に慣れた兄には、遠野での生活に追いついていないのだろうか。秋葉として兄と再び共に暮らせるのは嬉しい。けれど、それは今までの兄の思いなどを無視して押し付けた結果だ。それが分かっていて、けれどなお秋葉は―――。
「それも確かにあるとは思います。けれど、今回は全く違うと思うんですよ」
「それは、どうして?」
「えーっと、これは言っていいのやら良くないのやら。私としても大変迷うのですが」
そうして琥珀は唇に指を当てて少し迷ったように、けれどそれを口にした。
「どうやら、志貴さん。――――あの方にお会いしたみたいです」
瞬間。
空気が凍えた。
「―――――――――――」
緩んだはずの空間内が固定化され、摩擦を起こす。
秋葉を中心に空間が捩れる。
僅かに、ほんの僅かに秋葉の髪が揺れる。
窓も閉ざされた室内に風は生じない。
しかし、秋葉は身じろぎもしていない。
空間が歪むだけ。
「っ――――――」
それでも秋葉は自身を鑑みるほどの理性を持っていた。
故にティーカップをそろりと両手で握りしめた。温かい。
ぎりぎりとティーカップに力が込められる。
「そう」
搾り出すように、秋葉の声が漏れた。
「……あの人が、兄さんと」
無理矢理自身を抑えこもうとする震えがあった。力みすぎて、自壊を促すような抑制だった。
ぱきり。
その音はやけによく聞こえた。
秋葉の握るカップに罅割れが走る音だった。
「秋葉様」
カップソーサーが割れんばかりの勢いで、カップが叩きつけられた。
突然立ち上がる秋葉に琥珀は瞠目する。
「琥珀。出るわよ」
「え?」
「あの人を見つけ出しに行くと言ったの。聞こえなかった琥珀?」
そのまま秋葉は歩を進めようとする。けれどそれは秋葉の手を握る琥珀の腕によって抑えられた。秋葉は自身を捕らえる琥珀を見る。あまりに冷たい瞳だった。
「何?」
凍える怒りが琥珀にも向けられようとする。視線一つで息の根を止めてしまいそうな、鋭い眼差しだった。けれど秋葉の冷たい視線を受けて、琥珀は不動だった。
「落ち着いてください秋葉様。今の秋葉様、秋葉様らしくありませんよ」
「何が言いたいの琥珀」
ぎりぎりと、硬い空気が捩れていく。全ての柔らかなものが硬質に変化していった。それはモノを無機質へと返還していくような工程で、滑らかさを失い冷たさが増していく。
「今闇雲に探しても、見つかるかどうかはわかりませんよ?それに、今は志貴さんの体調も良くないです。秋葉様のいない間にもしなにかあったら」
「翡翠がいるから問題ないわ」
「確かに翡翠ちゃんは頼りになりますけど、翡翠ちゃんの手には余る事態が起こったらどうするんです」
「―――――っ!じゃあどうすればいいのよ!!」
行方をなくした感情の捌け口が声となって放出される。琥珀が志貴の名を口にすることで秋葉の激情が力を失った。それを受け琥珀は秋葉を落ち着かせるように物腰柔らかに言う。
「様子を見て明日以降にしませんか?それだったら志貴さんの体調も良くなるでしょうし、それに一日で果たして見つかるかどうかも分かりませんしね」
「――――それを私が素直に聞くと思っているの?」
「はい。だって秋葉様、志貴さんのこととても大切にしていらっしゃいますから」
「……」
暫く、そのまま二人は見つめ続けた。秋葉はその瞳に凍えを孕ませて。琥珀はあいも変わらず笑みを張り付かせて。空気は固まっている。動いているのは、柱時計の秒針のみ。
「はあ……」毒気を抜かれたように、秋葉の吐息が零れた。「分かったわ」
「秋葉様」喜色を隠しもせずに、琥珀は秋葉の手を取り握った。
「そうね。確かに、私らしくない。ここは様子見。……琥珀には負けるわ」
自嘲するように秋葉は言う。
「けれど、琥珀が私を止めるなんてね。しかも兄さんの名前まで使って、随分と偉くなったのね琥珀?」
それは秋葉の負け惜しみだった。
「あはー。だって私は秋葉様のお世話をしているのですし、そりゃあ秋葉様に似ます」
琥珀はただ笑むだけだった。
そうして硬質ばった空気は少しだけ収まっていった。秋葉は浮き足立った己を見て急に恥ずかしくなり先ほどまで自分が座っていたソファへと気持ち急ぎ気味で座り込んだ。
そんな秋葉を琥珀はニヨニヨと見つめている。秋葉は琥珀にはあまり強く出られない。心情的に彼女に対しては強気のままの秋葉ではいられなくなるのだ。事情がある。申し訳ない気持ちはふんだんだ。しかしそれ以上に、秋葉は琥珀に頼っている事を自覚していた。
だからだろう。彼女に優しく見つめられるのは苦手だ。嫌いではないけれど、何となくこの柔らかな空気は離しがたいとは思うが。
「っこの前言っていた仇川のことなんだけれど」
だから先ほど読んだ書類を指し示した。曖昧な空白を埋めたため、咄嗟だった。急に思いついたような白々しさが鼻につき、どうにも赤面が抑えられない。
「あなたはどう思う。この件に関して」
しかし、琥珀は思いのほかにこの話に食いついたようだった。
「あーなるほど。私の意見でよければお話しますが、よろしいですか?」
「ええ」
「では、私はこの件は間違いないと言いましたよね。それは詳細を調べてみれば分かりますが、この件には必要なパーツが揃っているんです」
「パーツ?」
「はい。まず大量に人が死んでいる事。あれから分かったことですが死者の数は五十を下回りませんでした」
「……そんなにも」
五十以上の死者。
数字で考えれば楽でいい。けれど秋葉はこの件に関してはそうやって割り切る事は出来なかった。死んでいくものには愛する人がいた、大切なモノがあった、手放したくない思いがあった。彼らには、人生があったのだ。それが、死んでしまった。それを想うと、秋葉は胸の奥に重石を付けられたような鈍痛を感じた。
「けれど妙なんです。遺体があったのは数箇所なんですが、どうにもその殺害方法がばらばらなんです。まず最上階で見つかった遺体は一つで、エントランスに一つ。こちらの死因なんですが、最上階のほうは喉を食い千切られていて、もう一つのほうは首を断たれています。後は全部地下で発見されました。地下はもう酷いらしいです。バラバラ死体と言いますか、ぐちゃぐちゃ死体と言いますか。つまり惨殺です」
「……」
「地下で見つかったのはペースト状までに押しつぶされた死体でした。この両者の違いです。これは一つの手がかりでしょう」
「……なるほど。それは妙ね」
殺害手段の違う死体。そこからある程度の想像はつく。しかし、秋葉の記憶の中にいるあの人はそのような事あまり関係がないように思えてならない。
琥珀の言葉は更に続く。止まらず、淀みなく、空間を支配する。
「そしてもう一つなんですが、その最上階とエントランスで殺されたのが仇川トップの仇川辰無さん、そしてエントランスで見つかったのがその娘であるしほ子ちゃんだったそうです」
知っている人間の死ほど辛いものはない。それに幼い子供まで巻き込まれているのだから尚更だ。なまじ写真でその姿を見て、仇川辰無と言葉を交わしただけあり、その感慨は現実。
「つまり、二人は仇川の血です。おそらくその二人が殺されたのは。……それは、二人が魔のある人間だったから」
「……」
琥珀の雰囲気に飲み込まれる。
彼女は先ほどまでの彼女でありながら、その中身を少しずつ変質し始めたような。室内はいつの間にか先ほどと立場が逆転していた。秋葉が空気を生み出すのではなく、琥珀が気配を侵食していく。
「実は地下にも惨殺死体ではない死体がありましたが、その死体ですが仇川唯葉さん。辰無さんの妻です。こちらは完全に殺されてます。首を断たれ、心臓を潰され、頭部を潰されています。そして調べた結果唯葉さんは反転していた可能性があるんです」
琥珀は言う。
「この書類には久我峰さまが仇川の処理を決定したと書かれているように見えますが、遠くから見たらちょっと見方が変わります。久我峰さまが仇川をどうこうするのを決めたのです。だったらそれを実際に行ったのは誰かと言う事です」
はたと、秋葉は立ち返ってみた。そして無造作に置かれていた書類を掴み、食い入るように読み直す。確かに、久我峰がこの件の判断を行ったとは書かれている。しかし、それの実行者がまるで書かれていない。不自然なまでにそこは空白だった。
「そして、隠蔽工作が行われたと言ったのを覚えていますか?」
「……ええ」
「実は、退魔組織が動いたと言う報告がありまして、隠蔽工作は彼らが行ったものではないでしょうか」
「――――」
退魔組織。
それが動いていたと、琥珀は秋葉を見つめていた。
「琥珀は何故それを知っているのから?」
「はい。実は私もこの件に関しては少し違和感と言いますか、ちょっとした不自然さを感じていましたので、興味本位に調べてみたんです」
「それを報告しなかったのは?」
「ええと、それを報告するのも兼ねて今秋葉様に訪ねてきたのですよ」
「……なるほど」
秋葉は取り敢えずの納得を示したが、しかしそれは認めざるを得ないだけの事だった。秋葉が許容しようが拒絶しようが、その事実は確かにあるのだ。
「……だから、私はこの件。あの人が、七夜朔が関わっていると――――」
「――――琥珀」
室内に、秋葉の悲鳴にも似た声が響いた。
それは小さいながらも、確かに聞こえた。
頭を垂れるように、秋葉はソファに身を沈ませた。
先ほどの苛烈な怒りを思えば、その消沈する姿の何とか弱き事だろう。
「……その名前は、出さないで」
囁くような声音だった。消える前の掠れた音。悲嘆だった。
「――――失礼しました。申し訳ありません秋葉様」
深く腰を折り秋葉へと頭を下げる琥珀。秋葉はそれに応えず、ただ俯いていた。
そして沈黙が生まれた。
□□□
髪がたなびく。
風が少しあった。粘り気のある空気と相まって、ぬるい混濁に包み込まれる気分。鬱陶しく思い、舌打ち。
ストックが切れた。
与えられたモノがなくなったら補給しなければならない。それは世の中が回る真理だ。足りなくなったら足りさせる。その手段は人によるが、彼の場合はそこらの路地裏にでも孤立しているような自動販売機へと赴くことだった。
――――酷く喉が渇いている。
正直何故このような面倒な思いをしなければならないのか、わからない。
もっと貰っておけばよかったとか、何で自分が買いに行かなくてはならないのだとか、思わないこともない。けれど、頼れるものはいないし、欲しいと感じているのは自分だった。
夜の中、滑るように歩いていく。人気もいない街中を浸り浸りと。空気が泥のように粘り気を持ち、肺の中にへばりついて離れない。荒い息。酸素を求め喘ぐように息を吸い込む。
街は静かに沈んでいた。人の談笑も、呼吸も、温もりも嘘のように消えていた。それはきっとこの空気の粘着質に飲み込まれてしまったからに違いないと喉を鳴らした。
――――喉が渇いている。
そうしている内に、細い道の先、道路にぽつんと光を湛える自動販売機に辿り着いた。そこは寂れた狭いT字路のど真ん中だった。自動販売機以外の光源は、遥か高くに昇る不揃いの月。しかし、入り組んだその場所に月の光は届かない。
光のない場所だった。大通りを少し離れたその場所。あまり寝床からも離れていないし、いい感じ。次回からストックが切れたらここにこよう。
そして。
破壊音。
自動販売機の前面を力任せにひっぺはがした。拉げた金属板をおもむろに舗装された道路へと落とす。
横並びに陳列された缶を幾つか適当に見繕う。
全て缶コーヒーだった。
苛む喉の渇きを癒すため、プルタグを抉じ開け口内へと流し込む。苦い。カフェインの香ばしい匂いが鼻に抜けて、ただ不味い。
一本目を飲み干した。喉の渇きは消えない。
二本目を流し込んだ。喉の渇きは癒えない。
三本目を飲み終えた。喉の渇きは拭えない。
四本目を叩き込んだ。喉の渇きは萎えない。
口元から零れる茶色の液体が喉を通らずに体を濡らした。
しかし、そのような事気にする余裕がない。無視できない喉の渇き。喉元を焦がす欲求は荒立つ神経を更にささくれださせ、目に見えるものは苛立ちを覚える以外の意味を成さない。
故にわき目も振らず、がふりがふりとコーヒーを流していく。
五本目。
六本目。
七本目。
そして十を数える空き缶を握り潰したところで、手持ちの缶は無くなってしまった。捻くれた缶が手元から落ちる。
――――喉は、渇いたままだった。
「■■■■■■っ!!!!」
それは悲鳴だったのか、怒号だったのか。喉から迸る咆哮は体を張裂けんばかりに轟いた。けれど、そこは声が響くのみの場所であり、誰にも気づかれるはずがない。木霊する音は何処にも辿り着かない。誰にも辿り着かない。へばる風は声を届かせない。
――――喉の渇きが抑えられない。
何故ここまで喉が渇く。
ささくれ立つ神経に更なる苛立ちが募っていく。
何故自分はこんな思いをしなくてはならない。何故自分はこのような目にあわなくてはならない。何故だ、何故だ、何故だ。
繰り返される自身への問答は、すぐさま答えへと導かれる。それは直接的な、考えるまでもない事だった。
「あいつのせいだ」
呟いた瞬間、それは激情をもたらした。
「っクカ――――!」
引き攣る。表情は笑いだった。あまりに禍く邪悪と害意を孕んだ笑顔だった。吊り上げられた口角に歯肉が姿を見せる。力の限り食い縛られた歯の隙間から憎しみが漏れた。激情で体が破裂しそうだった。
「あいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがあいつがアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツアイツ、アイツッ、アイツッッ、アイツガァッ!!!!」
行き場を無くした暴力が自動販売機へと振りぬかれる。
無造作に、それでいてありったけの怒りを乗せた拳が金属と機械によって固められた塊に突き刺さる。常道なら拳が砕けるはずのものが、そのまま金属を引き千切り拳の形をした窪みが現われた。
呼吸がいつの間にか荒くなっていた。
木霊する憎悪。真実嘆きだった。誰もこの嘆きを聞くことはない。それがまた悲しくて、そしてそれ以上の憎しみを臓物の奥に滾らせた。
全ての原因はアレにあった。
そのせいで、自分はこのような目にあっている。こんな薄暗い夜に、汚い外に。
――――喉が、渇く。
憎悪が増せば増すほど、喉が枯渇していく。
無視できない喉の渇きが癒えない。
それをどうにかしたくて喉を掻き毟る。
がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがり。
喉が渇いているのに、掻いても無駄かもしれない。しかし、どうにもこの喉の渇きはナニカしなければ自分がどうにかなってしまいそうだった。
――――喉が、渇いた。
喉の渇きで意識が少し霞んでいる。
先ほどから無様な音を発する自動販売機の中に収まる缶へと手を伸ばす。駄目もとだった。しかし、手に取ろうとした缶コーヒーは逃げるように地面へと落ちていった。
「っちィ、っざけやがって!」
陽炎のように揺れている意識。
悪態を吐き、顔を歪ませ、道路へと落ちていった缶コーヒーを拾うため、体を少し屈ませ――――、
――――空気が悲鳴をあげた。
唸り声を上げる風斬り音。
空気を切り裂いて、突破して。
それは先ほどまで頭部のあった場所を通り過ぎ、髪を僅かに削り落とし、自動販売機へと。
轟音。
「―――!んな、に!?」
持っていかれた髪の毛が数本、驚愕する顔面へと散っていく。瞬間自動販売機へと突き刺さった、それを見た。
―――それは刀だった。
所謂、日本刀と呼ばれるものだった。
しかし、日本刀と思われるそれの全体像を見ることは叶わなかった。
鞘ごと自動販売機に刀は根元まで、鍔の手前、はばきまで突き刺さっていて、刀身の全容はこちらからでは見ることが出来なかったのだ。
何だ、これは。
―――よゥ、景気はドうだィ。
軋む、金属音。
それは鳴動する地響きのように、決して耳から離れぬ金切り音。
『ひひ、ひ……嗚呼、手前も不幸だッたなァ』
金属を擦り合わせたその軋む音が声だと言う事に暫しの時を有した。
何だ、これは。
聞き間違いとは、あまりに程遠い。
それを認めるではなく、ただその事実が突き刺さっていた。
「なんだ……てめえッ?」
意味が分からない。意味不明もいいところ。
何で、何で。
「剣が喋るとか、どういうことだよおいッ?」
理性が狂い始めたのか。朦朧の意識は事実を錯覚させているのか。
それは確かに、金属の塊に突き刺さる日本刀は確かに音声を発していた。
頭がおかしくなったのだろうか。
気付けば、空気が重い。
粘着質どころではない。
まるで、これは。
――――空気が
死んでいく――――。
温度を奪われているのではない。空気そのものが自身を消失させていく。それはまるで死んでいくかのように。空気は無となり始める。軽さを無くした空は重くなるだけ。
風は止まない。
それはまるで、羽をもがれた鳥のよう。
虚空から堕ち、地上へと叩きつけられるだけ。
『ここで死ンどきゃ楽だったウろにニよォ』
ヒヒ、と金属が嘲う。
先ほどまで自身が笑んだ邪悪と遜色のない悪意が、声音の中に潜んでいた。
やばい。なにかがやばい。
肉体が警告音を掻き鳴らしている。生命が悲鳴を上げようとしていた。
何かが、起こり始めている。
背骨に氷柱を生やしたような、凍える寒気が肌をなぞった。
全身の肉が粟立つような感覚。血が冷たくなっていった。
「――――――」
背後へと急転回。
自動販売機の光が届かぬ闇の向こう、細い道の先。
何かが、そこにはいる。説明できない、理解できない、想像できない。
気配がない。気配がないのに、そこに何かがいると分かったのは、ケタケタと笑う刀の存在もあるが、それ以上に空気の異質さは異常の登場によく似ていた。
それはまるで、自分のような。
触れられそうな闇の中に、何かがいる。
それを理解する瞬間を、肉体は待つことを選択しなかった。
「ふざけんじゃねえッッッ!!」
許せない。
このような状況に置かれた原因。何故ここまで震えなければならないのか。
理由は分かっている。闇の向こうに何かがいるのだ、ならばそいつは邪魔だと本能が告げた。
いい加減、喉の渇きも抑えられない。
抑圧された感情は余すことなく襲撃者へと向けられた。
故に、殺す。
「――――――ヒャッハアアアアアア!!」
獣じみた加速で闇に突っ込んでいく。必ず殺してやると誓いながら。
この憎しみを、この渇きを、この苛立ちを、この怒りをぶつけてやる。
脳内は相手をどう殺すか考える。
八つ裂きにして四肢をもぎ、そしてその首筋に口を――――。
未来を考えるだけで愉悦を感じる。
怒気と笑みを混じらせた顔つきのまま闇のなかへと入り込み。
「は?」
――――右手が、剥がされた。
まず理性が追いつけなかった。あまりの事に思考が止まってしまったのである。視線の先には今しがたもがれた右腕の跡。
掌はある。
しかし、そこに指がない。
五指が消失していた。骨と腱が顔を見せ、赤く、赤く、赤く、赤く。
思考停止は刹那。しかし、その刹那瞬き一つは襲撃者の好機でしかなく。
――――ぞわり、と。
背筋に虫が這い寄った。
「―――――――っ!!」
理性は肉体を動かす事を停止させた。ならば肉を動かすのは今や本能のみ。
かくして本能は見事にその命を生かすことに成功した。傾けられた肉体、その箇所を何かが通り過ぎた。
地面を踏みしめる。刹那肉体はこの場からの離脱を選択した。
迎撃は無理だ。相手がどのような存在なのかまるで不明。心情ではそれを否と叫ぶが、それは賢しい選択ではなかった。
闇を抜ける。
道路を叩きT字路を離れ、出来るだけ走る。
寝床には行かない。行けない。寝床を見つけられては困るのだ。
人の気配なく、また光のない街を錯綜する。
「なんだよ、あれはっ!?」
感情が爆発する。姿も見せぬ襲撃者。喋る刀。突然奪われた右手。
分からない。分からない。分からない。
理性はこの状況に追いついていかない。今、体を動かすのは何ものにも向けられた憎悪だった。
自分が何処を目指しているのか。
決まっている。
殺すための場所である。
走る。逃げているのではない。跳躍。夜を切り裂くように、体は空を駆けた。ふわりとした感触が体を包む。それは外側からではなく、内側から力の奔流だった。
夜の街を肉体は一直線に駆け巡る。地上を見下ろす建築物に挟まれるよう駆ける。少しでも速く。質量ある風を掻き切るそれは、間延びする影だった。それをどう見るか、肉体は夜を駆ける。人の姿がまるで見えないビルの合間を刻むように。
走った。
走った。
走った。
走った。
そして、――――閃光。
「っちぃ!!」
それは不可視の斬撃だった。夜の闇を切り裂く妖光は、左脇腹を浅く裂いた。
激痛。舌打ちを一つ、滑空するように地上を舐める。
一体どういう事か。迫るアレは地上だろうが、空中だろうが関係なく襲い掛かる。そもそもその正体は未だ見えていないのだ。恐るべき疾さで、制止することなく夜を支配するそれは最早ただの残像でしかなかった。
「くそがぁっっっっ!!」
最早、転がり落ちるように白色の布へと駆け込んだ。
滑り落ちた場所は建設途中である工場現場だった。ドアを閉めた先に展開するそこは剝き出しの鉄骨が奇妙なオブジェのように天へと伸びていた。外観を隠すように白いシーツが垂れ下がり、外からはこの中が見えることはない。限定的に天上が切り開かれており、ドアを閉めた今、そこからしか入る事は叶わない。空には輝く半分の月。そう夜であるのだ。自身の領域だ。
しかし―――。
荒い息。街中を駆けずり回って、わき目も振らず無様な逃走を経て、呼吸は抑えきれない。呼吸に鉄の味が混じりこんでいた。
天上から入り込む風は渦を巻き、外よりも少し強い。
組まれた鉄骨へ隠れるように着地する。そこは天上からは死角とされる場所だった。工場現場の端。上から見ると、鉄柱が邪魔して姿は発見されない。
忌々しげに、先ほど落とされた右手を再び見る。指がない。傷口はずたずただった。まともな傷ではない。まるで獣に無理矢理食い千切られたように削り落とされた。あれは、あの感触は何だったのか。
痛む。傷口がじくじくと疼く。ありえない。このような痛みを感じる意味が分からない。激烈な痛みではない。まるで、侵食されているかのように痛む。じゅくじゅくと傷は手首を痛めつける。左脇腹からの出血が止まらない。
「……何故だ」
何故こんな目にあっている。
―――意味がわからない。
奥歯をぎりりと噛み締める。
出血が止まらないという事態がありえない。
そのようなもの、自身にはまるで関係のないものであるはずなのに。
生命としての基本だ。そも、基礎が違うのだ。
―――意味がわからない。
「糞がぁぁあっ!!!!!!」
この理不尽に対する憎悪を吐き出すにはまだ早い。
目的を、目標にむけるため、今はまだ早い。
まだ、見つけてもいないのだ。
見つける。見つけだす。見つけて、見つける。
そのために―――。
「――――っ」
寒気にも似た気配が漂う。それは香りすら放ち、鼻腔をくすぐった。
死臭。
肉が腐り、血の溢れる匂い。それはそのまま死を形として視せるような気質を秘めていた。
影が落ちる。
場所は、開かれた天上。
それは、未だ満ちぬ月輪を貫くように夜を漂っていた。
亡霊。
一瞬、そう見えた。夜を舞う狩人の姿は追われる身となって始めてその目に映し出された。
藍色の残像が、そこにはいた。
「―――――――」
亡羊だった。曖昧な男だった。
佇む和装の男。長すぎる髪からその顔は見えない。はためく着物から、その左腕が存在せぬ事が証明されていた。しかし、それを補い余る男の気配。男からは何も発せられていない。存在を停止したように、男はいた。
ただ、その右手には異様が握られていた。
刀。形は日本刀である。生憎知識はからっきしだが、あれがまともなモノでは無い事は明らかだった。
鋼色の刀身。その刃は朽ちたように罅割れ刃毀れしていて、およそ殺傷力に富んだ造形を成立させていない。握られて入るが力は込められているようにないそれは、切っ先が垂れ下がっている。真剣そのものへの恐怖にも似た感慨は浮かばない。あれでは、まともに切れる筈がないのだ。
だが、それは、あまりに異様だった。
―――黒い、光。
それは蒸気だった。あまりに濃すぎる闇がその刀身から噴出し、男にすらまとわりついていた。轟く風に飛ばされぬ闇は、死臭そのものだった。全ての生命を死に到らせる、腐敗と血の混じる匂いだ。
そして。
―――死ネ。
声が、現われた。
死ネ。
それは空気を震わせる音ではなかった。あの金属音でもない。
現実には聞こえないような、幻。
死ネ。
闇から、それは聞こえてきた気がした。
死ネ。
頭の中に直接叩き込まれるような感覚。脳を蹂躙し、そのまま飛び出していきそうな声が、聞こえる、
死ネ。死ネ。死ネ。死ネ。
輪唱する声は、最早声とも聞こえぬ絶叫となって、襲い掛かる。
死ネ。死ネ。
死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ、死ネ、死ネっ、死ネエっ!!!!
取り囲む死へのコールが鼓膜を叩き、脳を犯し、内蔵を埋め尽くす。
憎悪が漂う。闇は憎悪だった。
理不尽。
何故、このような声を、憤りを、憎しみを身に受けなければならない。
我慢の限界だ。理性の限界だ。本能の限界だ。この身全体が吐き気すら催す衝動を溜め込んでいる。
そもそも、何故襲われなければならない。
突然襲い掛かってきた藍色。影からの急襲ではない。空を構成する酸素が襲い掛かってきたような感覚があった。気配すら漂わせず、音すら発せず、それは執拗に迫った。
何処から襲い掛かってくるのかも分からぬまま、無様に逃げた。夜の街を必死に駆けた。遮蔽物を飛び越え、障害物を掻い潜り、ここまでやってきた。逃げるしかなかった。
理不尽だ。
このイラつき。この恐怖をどうする。説明も出来ぬ不快感が飛び出して体が張裂けそうだ。腸が煮えくり返るとはこの事だろう。沸騰する憎悪は耐え難く。
――――殺してやる。
注がれる月の光を浴びながら、視線の先、その男は全ての闇を飲み込んだかのように禍く存在していた。いや、事実黒い。あれは闇だ。ただ佇んでいるだけだというのに、まとわりついた闇と相まって悪夢のよう。
――――殺してやる。
「―――――っ」
ぐりん、と男の顔がこちらに向けられた。ありえない。ここは死角のはず。姿は完全に隠していた。物音すら立てていない。なら何故こちらを覗く。
竦む。どういうわけだ。理解できない。
いや、もう既に何も不思議には思わない。ただただ不気味な藍色は、最早何でもありなような気がした。
ならば。
『よう、暫くだな』
神経を刺激する不快な金属音が周りを囲まれた工場現場に染みる。
最早姿の見えるアレ。もう逃がさない。必ず殺してやる。これ以上何も奪われはしない。憎悪のなかに決意を秘めた瞳を眦が裂けるまで開き、その挙動の一切を見逃さないと。
そのために、出でた。
例え刺し違えても、殺してやる。
互いの距離は二十メートルぐらいか。
通常ならば、そのような選択は却下だ。
だが、それを可能とする種が、ここにはある。
指を失った右手。
それを、下へと空に揮う。
肉を失い、骨を失い、皮を失った付け根。飛び出す深紅。血飛沫はやがて流れ、形となり、整われ、凝固を始める。それは血の鉤爪だった。本来の指よりも長く鋭角に伸びる深紅の刃。
『ひひ、おもしレえもん持ってんじゃねえかァ』
腰は深く落とされる。
硬いコンクリートの地面に足は推進力を溜め込んだ。
『追いかけっコは終いか?もう走ラなくていいってかァ?』
視線の先。
長い髪に覆われずにいるその口元が、もごもごと動く。その顔が動く事は意外だった。
だが、アレはなにを口にしている。
『ああ、そウだ。渡すもンがあったんだが、いキなりいなクなるからよォ。ひひ、渡す事が出来なかったァ』
最早聞こえる金属音とあの男は別の発信源だと分かっている。故にいま聞こえる音は刀であり、男は喋っていない。
口がもごもごとしていた。
あの中には、何がある?
気になりはするが、そんな事は関係ない。
今から襤褸切れにする奴の何を知っても、それはすぐさま消え去るだけの事。
そして、男の唇からそれは姿を現した。
『忘れモんだ』
ぬるり、と。
閉ざされた男の唇から、赤く染められた滑らかな肌色が零れた。唾液と赤に塗れたその柔らかさは、内臓とは違った張りを見せ、場違いな輝きを見せていた。
「―――おまえ―――――――――っっ!?」
指。
指が、口内から零れる。
ぼたぼたと、男の口から溢れて落ちる。
地面に落ちたそれは、死んだ芋虫にも見えて、現実感のなさと不気味さと気味悪さが際立つ。
男の口から零れる五指。
口元に人の部品を食むその姿。
あまりに異質なその姿。亡霊なんて、とんでもなかった。
アレはそれ以上の最悪。アレはそれ以外の災厄。
――――鬼。
「俺の、指をっ!」
その指には見覚えがあった。
意識しなくても、それを知っていた。生まれた時から、それを持っていた。
それは、それは。
「―――喰いやがったなああああああああ―――っっっ!!!!」
煮え立つ憎悪が遂に激昂へと変容する。
突き動かされるように、肉体は地面を踏み抜いた。
渦巻く風を突き抜けて、障壁にもならぬ空気を切る。切れた空間の裂け目から、肉体は跳ね上がる勢いのままに男へと射出された。
獣じみた加速。ただ真っ直ぐに激情のまま、感情のままに駆ける。動きは恐るべき程に疾い。ただの人間には出せぬ、ありえない加速。一息に男との距離をつめ、そのまま右腕を振るいて喉から股まで掻っ捌こうとして。
怪しく輝く妖光が、それを受け止めた。
「―――――――っくそが!!」
闇色の刀が血色の爪を弾き、追撃の爪はそのまま受け止められた。
間際に見える男の顔。額がくっついてしまいそうな程に距離は互いから失せた。憎しみをそのままに、激烈を瞳から滾らせ、殺意が視線となる。
その時、轟く風に男の髪が揺れた。
「おまえ、は――――っ」
長い黒髪から覗く男の相貌。
削げた頬に、人形めいた無表情、感情を宿さぬ鋭い眦。
そして、それを見て、僅かな驚愕に顔を歪めた。しかし、それにより圧迫せしめん力は更に増し、ぎりぎりと刀を押しのけようと重くなる。
ぎらついた笑みが張り付いた。それは狂気を孕んだ壮絶なる笑みだった。
――――虚空を思わす、教えられた通りの深き蒼。
そのまま覗いていれば吸い込まれてしまいそうな蒼色。
それが、そこにはあった。
「七夜あああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
禍き絶叫が憎悪と狂気を合わさり、違う何かすらも生み出して。
月さえ落とす程の咆哮が轟音を上げた。
分かりました。私には纏める力が備わっていない。