トリオンエンジニアリング!!   作:うえうら

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最終話でございます。よろしくどうぞ。


11 蝶の盾・告白・トリオンエンジニアリング

 飛び交う無数の電子に導かれ、鋭角の金属片は互いに反発し結合し、弾かれるように引き寄せあい、やがて数十の剣を――否、剣と呼ぶにそれはあまりに直線的で無駄がなく、刺すための他一切を排した単子結合の杭を構成した。

 その指揮者と化した凪は敵意を瞳に湛えて空閑を睨みあげる。

「兄さんは蝶の盾をよく防御に使うんですけど、本当はこうやって使うべきですよね。さあ、ユーマ君、私と兄さんの未来のためにずたぼろにしてあげましょう」

「いい加減増援も来る。千佳を開放してさっさと消えろ」

「兄さん以外、どうなろうが知ったこっちゃありません――!」

 迷いは欠片もなかった。

 床を蹴ると同時に四本の杭を反発させて放つ。その着弾を確認するよりも早く身を屈め、磁力が生み出す斥力を借りて駆け出した。

 右手に握るは黒光りする先鋭の杭。

 空閑の強化印は弧月さえ折るほどの強度をその身にもたらすが、極限まで圧縮され先鋭化された杭なら穿てるはずだ。そうでもなければ、死角をついて強化のない部位を穿つのみ。

強化(ブースト)(ボルト)

 風を切る音に包まれながら空閑の声を聞く。

 空閑の手から放たれた弾丸が四本の光の筋を引き、直線的な軌道で凪へと迫った。

「クーちゃん!」

 凪は叫び、了解の合図を待たないまま弾丸との正対ベクトルを(はし)る。

 ――二つは躰で躱す!

 無謀だったが、それしかなかった。どんなに集中力を高めても、高速で迫る弾丸を見切れるのはようやく一発だ。蝶の盾(ランビリス)で三発以上を落とそうとすれば、座標系演算が間に合わず見失ってしまう。

 だから、一か八か、四発中二発は躰を捻って無理矢理躱し、正面から迫ってきた二発を杭の急降下で撃墜させる。

 案の定、弾丸の迎撃に使った二本の杭は六角柱に捕らわれてしまい、二度と浮かび上がろうとしない。

 消耗戦になれば不利だと自覚した。

 この接敵で決める。

強化(ブースト)(チェイン)

 中距離へ接近した凪へ、鎖の横薙ぎが振るわれる。この鎖をまともにうければ、全身が鉛弾に縛られることは必定。仮に(アンカー)が付与されていなくとも、躰のどこかを鎖に絡まれれば身動きがとれなくなる。

 でたらめな膂力から振り回された鎖は五本。跳びでもしない限り、五連鎖を触れずに躱す方法はない。そして跳びでもしたら今度こそ(ボルト)でハチの巣だ。突き付けられた絶望的な二択。

 ――だからこそ、無謀でも止める。

 右腕を振り下ろせば、呼応した十数本の杭が重力に落ちるよりも早く急降下。

 後方で金属同士の激しい衝突音。

 視界の端で火花の散乱。

 空気が震え。

 擦過音は途切れずに。

 鉄の弦を(ノコギリ)で引くような金属の悲鳴。

 黒い飛沫が流れ。

 舞い上がる鉄の香り。

 杭が鎖の輪を穿ったと五感が知らせる。

 しかし鎖は残った慣性でぐるりと回り凪を追従する。揺れる蛍光灯の紐に指をあてた時のように。

 それを風で感じた。

 雪面とほとんど水平の姿勢まで上半身を倒し、凪はさらに加速する。頭上を鎖が通り抜ける。

 ――これで距離は四足半!

 磁界が作る力場に乗ってその空白すら瞬く間に消し去った。

 沈み込んだ姿勢から凪は躰をくるりと捻り、串刺しにせんと右手に握った杭を空閑の横っ腹へ突き立てる。と同時に、左手を勢いよく振り下ろした。ハンドサインに同期した八本の杭が空閑を真上から急襲し、立体的な十字砲火が完成する。

 ――殺った!

 間違いない。

 右手で放った突きには肉を穿つ確かな感触がある。肉を抉る鈍い音もある。視界の端には漂う黒い霧。だから、凪はそのとき、これなら振り下ろした杭が空閑の脳天を串刺しにしたに違いないと確信した、が。

「無駄だ」

 その刹那、大砲で打ち抜かれたかの如く重たい一撃が凪の鳩尾を揺るがした。

 何故? と思う暇もない。空閑の回し蹴りで瞬間的に呼吸は止まり、目眩を覚え。目に散る火花がおさまるや目を見開く。

 吹雪の中の黒いシルエットは腕を一本失っていただけで、それ以外に目立った外傷はなかった。

 どうしてと? と驚愕の声を上げようとするも、縮こまった肺は声よりも空気を求めていた。結局、声が出たのは事態がどうしようもなく悪化してからだった。

 雪上に打ち捨てられた空閑の右腕からは轟轟と黒い霧が噴き上がり、突き刺さった杭であふれている。

 それを見て凪は直感した。雨のように降らせた杭を防ぐため、空閑は杭に貫かれた腕を自ら引き抜き、それを頭上で半円に薙いだのだ、と。

 敗因、あるいは失敗の原因を探すことほど戦場で無駄な時間の使い方はない。この一瞬の弛緩は凪にとって後悔するに値し、その間隙を見逃す空閑ではなかった。

 空閑の鋭い目は凪にではなく、倒れ伏した岬へと向けられる。

 射線だ。

 毒のように黒い瞳の狙いに気づくも、コンマ一秒ほど遅い。

 それでも、怖ろしい想像が現実にならないようにと叫んだ。

「やめてっ! 兄さんはもう戦えないのに」

「なんだ。始めからこうすればよかった」

 聞く耳を持ってなかった。

 空閑の手が光を帯び、直後、中空を線が走る。

 発射音は引き延ばされ――

 凪は叫び、走り、両腕を振り下ろす。急降下した杭が横一列に並び、岬を守る鉄柵を成す。

 空閑は動かない的に悠遊と撃ち続けた。機動力のある凪に命中させるのに比べたら、嘘のように簡単な(まと)に違いない。躱される心配がないのだ。今の凪になら、かけだしのC級隊員だって防御を強いることができる。

 金属の激しくぶつかり合う音が鼓膜を振るわせる中、凪はがむしゃらに柵を打ち立てた。右腕に力を込め、握った杭で弾丸を打ち返すも、その途端六角柱にとりつかれてしまい腕ごと雪に埋まってしまう。卑怯だ、鬼畜だ、卑劣だ、どうして動けない兄さんを! と言葉の限りののしってやりたかった。

 だが、それどころではない。兄のトリオン体が解けてしまったら、兄はそのままボーダーに捕らえられ、過去が消えて未来もなくなる。無くなるのだ。記憶の索引も書庫もきれいに消える。非常階段で囁き合った「月が綺麗」なんていう馬鹿げた言葉も、大勢の観衆の中無理矢理奪った唇も、兄の中からは消えてなくなるし、引いては自分の中からも消え失せるだろう。

 そんなことってない。

 脳が焼き切れたっていい。もっと早く! もっと早く動け! 杭の錬成を早く!

 頭が沸騰しそうだった。

 クスリで時間分解能を圧縮しているとはいえ、至近距離の銃弾を防ぐのは容易でない。

 脳が溶けてゆく。鉄の(やすり)でぎりぎりと削がれていく。そんな得体の知れぬ感覚に耐えながら杭を必死に振り下ろすのだが、時間とともに漂う金属片は目に見えて減っていった。

「凪……もういい。やめてほしい。このままじゃ僕のせいで凪が」

 久しぶりに泣きそうな兄の声を聞く。

 それは嗚咽にも似ていたように思う。

 兄の声音から滲み出ているのは悔しさ、不甲斐なさ、無力さ、その他諸々の人に見せたくない感情をない交ぜにしたものだ。

 妹を盾にして守られているという状況がどれだけ兄を辱めているのだろうか。想像するのも忍びなくて、凪まで涙があふれてしまいそうだった。

「どんなことしても一緒に帰るんです! もちろん私がひどい目にあっても」

 目元を拭うもトリオン体から涙は出ない。

「やめてよ、凪。これで凪まで捕まったら、それこそ自分が許せない」

「ええい黙ってください、兄さん! 私が許します」

 強気に振る舞うけれど、坂を転がり落ちるように悪化していく状況を抜け出す方法は見いだせない。

 空閑は撃つ。凪は金属杭を使い捨てにして防ぐ。

 防戦一方だった。

 六角柱に縛られた金属杭に分解・細分化・再構成のプロセスを施し、杭を再錬成してみたのだが、それでも時間稼ぎにしかならなかった。空閑の連続掃射で刻々と辺りは六角柱の山と化していく。

 無情な射撃が十数秒続いた頃、ついに凪が腕をどんなに振り上げても応えてくれる金属片は無くなった。

 当然、空閑には慈悲も容赦もない。ようやくかとでも言うように冷ややかな目をしていた。

 空閑の無造作に振り上げられた腕から放たれた弾丸は今までと比べてとびきり速く、咄嗟に兄を庇った凪の腕を肩から丸ごと消し飛ばし、焼けるような痛みを残していく。

 (アンカー)は付与されていない。殺すつもりで撃ってきている。

「凪、手を握って。最後だから」

 鉛弾に縛られた岬の腕はもはや指しか動いていない。凪も今や片腕だけの満身創痍。

 凪は兄の躰に自らを重ねるように身を屈め、残った腕で兄の手を握る。すると暖かい指に握り返された。しっかりと。

 兄さんと別れてキオンに帰るなんてできっこない。どんな責め苦を受けてもいいから兄さんと一緒にこちら側に残ろう。

 この手を放すことなど考えられなかった。

「ああ、なんだか懐かしいですね、手を握るの。兄さんの記憶があるうちはこれが最後かもしれませんけど」

「そうなるかもね、残念だけど」

「何だかもったいない気分ですね。どうせ覚えていられないんだったら、もっと大胆に告白すればよかったかもしれません」

「告白って、たとえばどんな。……ゲームのセーブデータを消したのは自分だって白状するの? ほら、凪が小学二年生の時、たしか春だったかな」

「にっ、兄さん根に持つタイプですね。小学生の頃の話じゃないですか。それに告白っていうのはそういうことじゃありません」

 拗ねるように、つい唇をとがらせてみた。

 その日もこんな風に唇をとがらせた気がする。

 兄が知らない女子と仲良くしていたことが子供心ながらに何だかとても許せなくて、気を引こうとしてつい消してしまったのだ。そのうえ、「私知りません。勝手に消えたんじゃないんでしょうか。兄さんの帰りが遅くて、カセットも寂しかったんだと思いますよ」とこの口が言ったのだ。当時の自分はどれだけ嘘が下手で、素直だったのかと呆れてしまう。

「――もっと告白っぽいことですよ。例えば……久しぶりに一緒に寝ましょう、なんてどうですか」

「本当に久しぶりだね。凪がホラーゲームで寝れなくなったとき以来」

 また懐かしいことを。

 でも、もう一歩踏み出してみたい。

「初めての意味でもいいんですよ、兄さん。兄さんに私の全てをあげますから、兄さんは誰のものにもなっちゃだめです。あ、それとですね、……トリオン体ならノーカウントらしいですよ」

 言い終わり際、なんとなく指を絡めてみた。

 とんでもないことを言った気がするけれど、どうせお互いの記憶が無くなるのだ。今まで言えなかったことをこの機会に伝えてしまおう。

 面と向き合っていたら恥ずかしさでとてもじゃないけれど、幸いなことに想い人はつっぷしていて、身動き一つできないときている。

 絶好の機会ではないか。

 だからこそ、伝えることができたのだろう。さあ早く返事をと、握った手に力を込めるのだが、自分の血流と鼓動が早まるばかりで何も返ってこない。

「私にだけ言わせるなんてずるくないですか、兄さん。無言の返答ってのはなしですからね。このままだとイエスと受け取ります」 

 返答を迫るや否やだった。

「ごめん」

「はあ!? どういうことですか、兄さん」

 きつく睨みあげてやりたい。ジトッと。

「そんなにエルフェールがいいんですか? 百歩譲ってクーちゃんなら祝福できないこともないですけど、もしあの王女だって言うのなら、私は私を殺して兄さんも死にます」

 日本語が少しおかしかったが些細な問題だ。

 だいだいにして、どうせ記憶がなくなるのなら、嘘でも喜ばせてくれればいいだろうに気がきかないったらない。

「違う。凪の記憶は絶対になくならいから、僕の言葉だけ凪が覚えていたら不公平でしょ」

「不公平って何ですか。答えない方がよっぽど不公平じゃないですか」

「クーちゃん。距離欠落空間(アンステッパブル)を強制起動。

 凪、()()()

()()って言っても、兄さんの残トリオン量0ですよ」

「緊急脱出分がある。凪だけはもう一度跳べるから、安心して」

「もう一度ってどういうことですか!? 兄さん」

「必ず追いつくから心配しないで置いて行って。あとね、これは忘れてほしいんだけど、一緒の気持ちでよかった」

 ――一緒の気持ちでよかった?

 穏やかな声音で告げられた言葉の意味を必死に考えていると、突然、視界いっぱいに空閑の背中が現れた。

 否、空閑が現れたんじゃない。自分達が跳んだのだ。

 現状を理解したその瞬間。

「修から聞いてるよ。背後へのテレポートが得意だって」

 台詞通り、読んでいたかのようなタイミングでバックブローが迫った。

 瞬間移動の待機時間はどんなに短くてもコンマ1秒はかかる。黒トリガーの空閑なら3体のモールモッドを片手で葬れる時間だ。

 至近距離において、先読みされた空閑の拳を躱すすべはない。

 流しっぱなしの髪が拳の風圧で後方へなびく。それすらも一瞬だった。

「兄妹仲良く消えろ」

 拳が頬を掠める刹那、凪は跳び、空閑の跳ねた声を聞く。

 刹那、伸ばした手に感触。

 伝達系神経物質吸着材(アゾーベント)は空閑の首筋へ。

 そのスイッチの切れた白髪の向こう。

 慣性は無くなっていない。

 振りぬかれた拳は速度を維持したまま兄へ迫る。

 自分の叫びが引き延ばされ、

 目が合った。

 兄は、ふっと息をつく。

 笑ったように、見えた。

 直後、巨大な槌で殴打されたかのように兄の躰は震え。

 顔の形が変わるほどの衝撃が笑顔だった顔を走り。

 破裂音。

 その残響。

 吹き出す黒い霧。

 散った雪の粉。

 木霊する絶叫。

 空閑の躰が倒れ伏した頃、凪は返り血を浴びたかのように、兄の残骸でその身を染めた。

「兄さんッ! どうしてッ」

 衝動のままに叫ぶのだが、合成音声の淡々とした声音が理性を要請してきた。

距離欠落空間(アンステッパブル)生成トリガー休眠状態(サスペンド)より復帰確認。37秒後に起動します』

「クーちゃん!」さらに凪は叫んだ。「止めて! 今すぐに!」

「駄目だ! 凪を連れて跳んで」生身に戻った岬が言い返す。「合理的に考えてよ、クーちゃん。どうせ僕はもう戻れない。凪が覚えていてくれたら僕は十分だから」

「……了解、ご主人。……必ず迎えに来るから。絶対だよ」

 この人工知能は何を言っているんだ。

 今おめおめと帰ったら、今の兄さんにはもう二度と会えないのだ。

「馬鹿言わないでください、クーちゃん。全員で一緒です」

「凪、ありがとう。さっきは恥ずかしくて言えなかったけど、やっぱり言うよ。……大好き」

 ちっとも嬉しくない。

『位置座標特定シークエンス終了。秒読み開始。10――9――8――』

「兄さん待って、いかないで、いきたくない。やだ、いやですよ、せっかく、言ってもらえたのに」

「凪、大丈夫」

 何で穏やかに笑ってるんだこの馬鹿兄さんは。自分だけ置いて行かれるっていうのに。

「兄さん、どうして」

「また一緒に遊ぼう。絶対に忘れない」

 涙で前が見えなかった。

 電子音性がカウントダウンを終えるころ、まるで世界と自分を隔てるように周囲は青い燐光に包まれる。

 連続にして滑らかな曲線と化した空間は任意の点によって分割され、電子音が終わりを告げた。

『2――1――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 未来を視るというのは必ずしも全ての未来を視ることを意味しないけれど、世界が釣り鐘型の分布に、あるいはべき乗則に支配されている以上、やはりこれは数億にも上るありふれた――それでいてちょっとずつ違う――未来の中のひとつなのだろう。多くの未来は(ふるい)にかけられ濾過されて、致命的な不良がある世界は取り除かれ、交差を超えたものは非因果領域へと捨てられてゆく。

 選別を経て、残ったのが今だ。

 風が吹けば桶屋が儲かって、ロンドンの蝶の羽ばたきがフロリダに台風を起こし、一億年前の雷のような音が人類生誕のきっかけを失わせる。カオスが生み出す微細な初期値は系を経るごとにネズミ算的に大きくなり、やがて全てを狂わせる。

 でも、そんな複雑系だからって総体としてみれば一年で生まれる人間の数はかなり正確に予測できるし、一日に売れるコーヒーの量もかなりの確度で知ることができる。

 結局、未来が見えるっていうのはそういうことだ。

 選りすぐられる複数の未来の中で、大まかなところが選別者の意に沿っていれば、細部はあまり関係ないのかもしれない。

 きっとそうだ。

 未来を視る人だって可能性世界の構成要素であり、影響しあう変数であり、刻々と移り変わる微細な初期値の変動要因であり、それ自体でもある。原理的には行動を起こすごとに視える未来は無数に枝分かれを始め、あるいは根っこを飲み込むだろう。細部にまでこだわっていたらそれこそ一日二十四時間活動できても時間と情報処理能力が足りやしない。

 ラプラスの目なんて古すぎるし、あったとしても人間の頭じゃすぐにオーバーフロー。そもそもミクロで起こる事象は原理的に知らない限り、存在すらもあやふやだ。

 彼の周りでは熱力学第二法則だってぐちゃぐちゃで、情報の起源問題は自分のしっぽに噛みつこうと躍起になっている。

 色々と考えてみたけど、未来を視るっていうのはきっと全員をフォローしたSNSから特定のメッセージを探す行為に似ているのだろう。あるいは無限に続く円周率に複数の変数を掛け合わせ、その解の中から特定の数字の連なり――例えば99999999(エンドレスナイン)――を探すようなものかもしれない。目を凝らしても見つからなかったら879999965くらいで妥協するというのは十分ありうる話だ。

 とりわけ今回は未来を視る人からは知ることのできない変数がいくつも紛れ込んでいる。それなら細部の交差が多少ゆるのも頷けるし、それとも直前になって未知の変数Lが致命的に系を揺るがしたのだと納得することもできる。

 たぶん、揺るがしたんだろう。

『待ってください! 私に冴えた方法があります』

 時間と空間の溶けあった青い特異点に足を踏み入れたエルフェールが声を張り上がたんだ。生身の人間を巻き込んで人間の粉末を作るわけにもいかないのだから、距離欠落空間(アンステッパブル)は安全装置が作動し急停止した。

 それは時空が閉じるコンマ一秒前だった。

 

 これも世界の総体にしてみれば些細な違いなんだろう。

 色々と考えてみたけれど結局大事なことはいつだって単純なんだ。僕にとっては僕の隣に凪がいることだけでよくて、それがたまたま未来に大きな影響を与えないだけ。

 つまり些細な差でしかないのだ。

 雪まみれの部屋の中、眼鏡君がランク戦に意気込んでいるのも些細な要素でしかないし、さっきやってきた出水と時枝が「ランク戦楽しみにしている」と言ったっきりすぐに会場へ走っていったのも微細な初期値でしかありえない。

「にしても、兄さんも無茶ですよね。当初はこの後、なり代わってランク戦をやるつもりだったのですから」

 黒い躰に白い髪の姿をした凪が些細なことを言った。

 いい加減些細と修飾するのはやめにしよう。僕だけのとても大事な事なのだから。

 それとも、やはり些細ではないかもしれない。ヒソヒソ声で呟いた凪の躰は空閑のそれとほとんど同じなのだから。

 ガロプラの造形変換トリガーとはいえ、戦闘の傷を再現することまではできない。眼鏡君の目を早々に奪っておいたのが奏功したのだろう。

「もう戦闘はこりごり」僕もヒソヒソと返事をした。「机に向かってキーボード叩いてる方が僕には向いていると思う。一年間分はぼっこぼっこにされた」

「にしてもひどいやられようでしたよ、兄さん。あまりに名状しがたくて神話生物かと思いました。六角柱の化け物でしたね」

「神話生物って……。エルフェールから本借りたでしょ。黒い表紙の」

 人的リソースよりも文化的リソースを狙って、キオン国王はトリオン兵を玄界に寄越しているのだから怖ろしい話だ。彼らの末路は商人になったり、技術者になったり、本を書いたりと様々らしい。

「兄さんは指輪を借りてるんですもんね、あの王女から。しかも左手の薬指に」

 凪がじとっと睨みあげてくる。瞳は空閑のそれなので真っ黒だった。

「そんなに嫌味っぽく言わないでよ。『さあどうしますか、死ぬか、婚約するか、二つに一つです。選んでくださいミサキッ!!』って言うんだから。凪も聞いてたでしょ」

 おまけに、『婚約を渋って岬が死ぬなら、私が黒トリガーになって岬と一つになります』ときたものだ。

 そんなことになろうものなら、何のために玄界に来たか分からない。

 だから僕は謹んでエルフェールの指輪型トリガーを左手の薬指で受け取るしかなかった、と思う。けれどもエルフェールが『いつでも式をあげられるようにと肌身離さず持っていました!! さあ、私にも早くはめてください!』と対になる指輪を持ち出してきたのは想定を軽く超えていた。ましてクラウダが牧師の資格を持っていたという顔に似合わない事実は悲劇的とさえ言ってよく、僕は誰とも知れない神への誓いを呆然と、あるいは一週回って笑ってしまうほど愉快な気持ちで聞いていたんだ。

 欺瞞装置としてエルフェールのトリオンを抑えていた指輪型トリガーは一定以上のトリオンがエルフェールの体内に蓄積されないように、それ自体の内にトリオンを溜め込み、溜まったトリオンは少しずつ気化させて排出していたらしい。溜まったトリオンでトリオンを吸収させる機構を動かしていたのだから奇妙な自家発電だと思う。

「なんにしても兄さんはこれで雁字搦めですよ。婚姻届けに、エンゲージリングに、略式とはいえ結婚式に、おまけに親公認ですからね。どうするんですか、兄さん」

「どうするって言われても、行動しやすい地位を得られたとプラスに取るのはなしかな」

 あきれたと言わんばかりに、凪は冷ややかに目を細める。それからなしでしょうと呟き、肺の底から深いため息。

「分かっていません。兄さんは全然分かっていませんよ、人間の関係の力学の恐ろしさを。それも王宮となればとびきりのはずです。コミュ障の兄さんがやっていけるわけがありません。

 それにですよ、色んなところを旅行して遊びまわるっていう約束がまだ果たされていません。

 エルフェールと一緒になるとしても、それを守ってからです。

 色んなところっていうのはそれこそ色んなところです。末永い時間でもきっと足りないでしょう」

 矢継早に凪は言葉を並べ立て、その度に僕は頷いた。

「そうだね。いくら時間があっても足りないくらいだけど、時間はあまり残されていない。ちょっと聞いててね、凪」

 

 右手で氷の衣(シルト)を起動。これはキオンで一度使ったことがあった。

 イメージが形となり、両刃の短刀を手に握る。つい癖で着てしまった白衣の袖を使って、ギラリと光る白刃をすぐさま覆い隠した。眼鏡君はびっしりと文字の書きこまれたファイルに目を落としている。

 僕は短刀の剣尖(きっさき)を眼鏡君の背中に触れるか触れないかギリギリのところに迫らせた。一センチの身じろぎで服は簡単に避けてしまうだろう。

 傍目にはだぼだぼでよれよれの白衣を着たおかっぱの少女が眼鏡君の背中に手を当てているようにしか見えないはずだ。

 そこまでしてから僕は口を開く。

 いつも眼鏡君を頭一つ分見下ろしているのに、今は頭二つ分見上げているので妙な気分だった。

「振り返らないで、修君」口から飛び出すトーンの高い声に違和感を覚えるのは仕方ない。「このトリガーに安全装置はついてない。生身だったら簡単に死ぬと思う」

「千佳? ――痛ッ」

 チクリとした程度だと思うけれど、たしかに肌を刺した感触があった。

 痛みで身を捩ったのか、眼鏡君の眼鏡が僅かにずれる。

 僕は刀身を少しだけ離した。

「声を出すな。表情を変えるな。一度しか言わないけれど、質問は受け付ける。まずは黙って聞いてほしい。

 眼鏡君、もう一度言うけど、声を出すな」

 刀身を押し当てた。肌を掠めているのだろう、見上げた眼鏡君の顔に脂汗が浮かぶ。

 眼鏡君の首が縦に振れたのを確認して、僕は続ける。

「このままだと千佳ちゃんは6年後に死ぬ。マザートリガーになって。

 だから、唐突だけど、アフトクラトルに行ってほしい。僕もそこに行く」

「待ってください。あなたはだ――痛ッッ」

 刃を横にして、スッと引いた。

「今は誰とは言わない。

 アフトクラトルに行きたいか、行きたくないか。イエス、ノーで答えて。イエスなら首を縦に、ノーなら千佳ちゃんにつづいて、空閑の命もない。これは排中律で、アフトクラトルに行くなら君と空閑は友達のままで、首輪付きの条件なら千佳ちゃんだって五体満足のままだ。

 そこでやってほしいことはヒュースの手伝いと、レプリカの捜索、以上、これだけ」

「……千佳は今どうなっているんですか。それとこれからどうなるんですか」

 脂汗を浮かべて眼鏡君は言う。

 彼につきつけた刃を包む白衣は少しだけ赤くなっていた。さらに赤くしてもよかったけれど、僕は刃を動かさずに眼鏡君の話を聞いていた。

「今は眠っている。彼女がマザートリガーになるのはこれから六年後の二十歳の誕生日。

 だから、僕はそれまでにマザートリガーっていう工学上稚拙な系を工学技術(エンジニアリング)で解決するつもり。なんせ、定期不定期を問わず土地が小さくなったり、太陽が昇らなくなったりするし、人柱は要求するのだからシステムとしては落第だと思う。誰でも安全安心確実にってのが工学技術の目標の一つだからね。それにはたぶん、色々な力を借りなくちゃいけない。レプリカ先生もその一人だし、たくさんの国の力が必要だと思う。

 ことは壮大で、トリオンそのものに対して工学的アプローチ(トリオンエンジニアリング)になるかもしれない。

 いずれにしても眼鏡君の前にある選択肢は二つだけ。

 三雲隊の全滅か。三雲隊の存続のためにアフトクラトルに行くか。

 さあ、どうするべきなんだ、答えろ三雲修」

 ゴクリと生唾を飲む音が聞こえた。

 さっきまで眼鏡君の首筋を覆っていた脂汗は不思議となくなっている。

「行きます」厳として修が言う。「アフトクラトルに」

「その心は」僕は訊く。

「僕がそうするべきと思っ――――」

「そちらの首尾はどうですか、ノルン?」

 空気を一切読まず、個人端末に向けて凪が言った。

『……ヒュースの同意を得た』

 どうやらスピーカーフォンになっているらしい。凪が端末に耳を当てていないのだから、そうなのだろう。

 聞き取りづらかったようで、眼鏡君は首を空閑の姿をした凪の方へ向ける。

 遅まきながらだが、ぼそぼそと喋るノルンを連絡役にするのは人選ミスだと思った。

『……状況は終了。ガロプラの脱出トリガーを用いて、これよりキオン=ガロプラ合同部隊は帰投する』

「分かりました、お疲れ様です。あとは私たちが帰るだけですね。さあ、買い込んだ食料で祝勝会といきましょう」

『ノルンッ! ちょっと貸してください!』

 跳ね馬を連想させる賑やかな声がスピーカーフォンから響いた。

『ミサキッ! そこにいるんですよね、聞こえていますか。帰ったら結婚式の二次会で、その後は初夜で――』

 ぶんと音がして、雪の飛沫が天井に届くほど高く舞い上がった。

 頬を赤く染めた凪はエルフェールの言葉を遮るために個人端末を雪へ投げつけていたのだ。通話を切ってからそうしなかったのは、個人端末の叩き付けられた音を聞かせてやりたかったのかもしれないと、僕は邪推してみる。

 ところで、ヒュースの同意を得られたとは言っていたが、合意が得られたかは本当のところ怪しい。

 距離欠落空間(アンステッパブル)でキオンの5名とガロプラの5名を一斉にヒュースの前にけしかけたのだ。新型トリガーのエリートと言えども、どうしようもなかっただろう。それにヒュースにしたってアフトクラトルに帰れるのなら本望に違いない。

 大体にして、僕とヒュースと眼鏡君の目的は――眼鏡君のそれは僕の無理矢理だけど――近いところにあるのだ。遠征艇に帰って事情を話せば、そう悪い表情はされないのではないだろうか。僕がヒュースの角を引っこ抜こうとした件を彼が見逃してくれるのなら、たぶんそうだ。

「八宮さんですか?」

 恐る恐る眼鏡君が言う。エルフェールが名前を口にしたのが余計だったのだが、どうせ遅かれ早かれ知られるのだから仕方がない。

「だったらどう?」

「動機は何ですか?」

「ヒュースと同じかな。死んでほしくない人がいるってだけ。もちろん千佳ちゃんにも死んでほしくない。でも、エルって子の方がリミットが近かったから。千佳ちゃんは成人まであと六年あるでしょ。それまでには必ず()()()()解決する。今は信じてほしいとしか言えない。詳しいことは空閑と千佳ちゃんの無事を確認してからの方がいいでしょ。そっちの方が信用してもらえそうだし」

「……分かりました。千佳の無事を早く確認させてください。話はそれから聞きます。あの、荷造りしてもいいですか」

 そう眼鏡君が言ってきたので、僕はこの部屋限定で二分だけ時間を与えた。

 栞さんが三雲隊の作戦室に来るまでに旅立たねばならない。眼鏡君は慌ただしくリュックに着替えや個人端末や充電器などを突っ込んでいく。それが終わってから、ノルンから借り受けた凍土の牙(グラシアス)を眼鏡君に渡し、トリオン体に換装してもらった。

 ここにきて反旗を翻されたらことだったけれど、そういうことはなかった。千佳ちゃんが狙われ続けることはマザートリガーに支配された系そのものを解決しない限り終わらないと考えているのかもしれない。

 眼鏡君と空閑がこれから僕にどう接してくるから分からないけれど、この六年間は賑やかになりそうだ。家族と友達がいっぺんに増えたような――ようなではなく、家族が増えたのは契約上事実なのだが――何だか不思議な気分で少しだけ暖かい。

「ねえ、ご主人。次はどこに行くの?」

 個人端末からクーちゃんの声。

「決まってるじゃん。まずはクーちゃんの躰を手に入れるために動くよ。今度はクーちゃんの番だからね」

「ご主人、いいんだよ僕のことなんて後回しにして。どうせ寿命なんてないも同然なんだし。僕はねこうやって話ができてるだけでいいの」

「だめだって、これは僕の我儘なんだけどね、クーちゃんとは一緒の時間を歩いていきたいから」

「ご主人……。ありがとね。それでさ、結局どこを目指すの? 」

「具体的にどこに行くかというね、まずはレプリカ先生を探そうと思っている。

 たぶんね、クーちゃんの躰にしろ、マザートリガーにしろ、エネルギーを生成する方法を考えなくちゃいけないんだ。レプリカ先生がどうやってエネルギー補給してたかよく分かっていないし、クーちゃんの躰にしたってエネルギーが必要になると思う。人工臓器にしろ、何らかの機関にしろ、トリオンを生み出す機構が必要になるはずなんだ。それを研究することはマザートリガーに変わる機構を作ることにつながると思うんだよね。

 あ、勘違いしないでね。あくまでクーちゃんの躰が最優先だから」

「ふふっ、ありがとねご主人。言質はとったからね、頭に電極が刺さっていることを忘れないように。僕は原理的にものを忘れたりしないけれど、人間は忘れちゃう生き物だから、その時は思い出させてあげる。ふふっ」

 合成音声の微笑みが前半と後半で全く別のものに聞こえてぞっとしない。

 sAIに冗談は通じないのだから。

 

 

 

「さあ、兄さん。帰りますよ」

 青い燐光が僕たちを包んだ。

 空間は任意の点によって分割され、停留可能な領域に見出される特異な関数によって繋ぎ合わされる。

 空間を刻んで、時間を繋ぎ、曲率が交わっていく。

「これからはきっと長いよ、凪。着いてきてくれる」

「何言ってるんですか兄さん。ついて行くんじゃありません。一緒に並んで行くんですよ」

 そうだったねと手を握ると指を絡めて握り返された。

「兄さん、未来は色々と大変でしょうけれど、末永く一緒に遊んで暮らしましょう」

「こちらこそよろしくね、凪」

 

 

 

 ――――――――――――――了




拙筆ながら最終話でございました。
ここまで読んでくださり、誠にありがとうございます。ワールドトリガーのssとしてはあまりに原作との絡みが少ない拙作でしたが、ここまで驚くことに四十八万字、読んでくださり感謝の極みでございます。

個人的には終わらせることが何より尊いと思っています。

回収しきれなかった伏線は多々あるような気がします。質問してくだされば、答えられるかもしれません。
お気に入りはとても嬉しいです。評価も嬉しいです。何より、感想やアドバイスがとも励みになりました。終わってしまったので、好き放題書いてくださって結構です。最後ですのでくれくれ厨になりましょう。批判をくださいませ。

活動報告に後書きを書きます。
せっかく終わったので、やりたいやりたいと今まで何度も言っていたキャラクタープロフィールもやります。世界観設定や書きたかったことなども書きます。どうやら書きたいことはまだまだ山ほどあるみたいです。

それと今更にして分かりました。もう皆さまはお気づきかもしれませんが、私は一人称が好きです。

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