トリオンエンジニアリング!!   作:うえうら

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残すところ、今回を含めて2話でございます。見捨てないでください。何でもしますから。
最終話は6/26 17:10に投稿致します。


10 同調・同期・限定解除

 オマエの妹でもいい。

 耳を貫く空閑の言葉に焦燥を掻き立てられ、岬の首は反射的に横へ振れた。

 反射的というのは、きゅっと蛙を踏み潰すような雪を踏みしだく音がしたからかもしれない。

 きゅっきゅっと音を鳴らし、スコーピオンの白刃を交差させながら一歩二歩と凪は後退る。交差されたスコーピオンは恐怖の対象を遠ざけるために心理的な防衛機構がもたらした壁であり、その壁でさえ抱えきれなくなった恐怖が漏れだしているかのように互いに相打ち、噛み合わない奥歯と伴にがちがちと震えている。

 無理もない。

 空閑は生身の人間にも容赦なく拳を振るえる近界民(ネイバー)だ。岬の腕に抱かれたエルフェールの腹部は骨折特有の性質(たち)の悪い熱を持ち、反対に顔色は青ざめ、呻きにも似た呼吸がか細く漏れている。くの字を通り越し、伸びきった腕と足がぴったりとくっつくほどの強さで、空閑はエルフェールの鳩尾(みぞおち)を強かに打ち抜いていた。

 ビルの鉄骨を一発で折り曲げる拳だ。生身の人間の躰など、赤子の手はおろかマッチ棒を捻るよりも容易い。もちろん手加減はされているのだろう。でなかったら、黄色のドレスを着たミンチを岬は抱いていたことになる。

 殺したら人質にならない。

 でも、人質は二人もいらない。

 凪を見据える空閑の真っ黒い目が言外にそう語っているように思えて、岬は(たま)らなかった。

 反射だ。

 意識するよりも早く躰は動き、床を覆う雪を革靴で蹴散らしながら岬は抜き打ちの一刀を放つ。

 納刀からの直接斬撃に移行する居合は、速いが太刀筋は見切りやすい。

 握った柄から手応えを感じることはなく、しまったと思ったときはもう遅かった。切り上げるような太刀筋に対して、背を屈めて接近した空閑の繰り出した拳は骨にまで響く衝撃を岬に伝えた。

 一直線に吹き飛ばされ、背中はラーメン構造の頑丈な壁に激突し、躰は衝撃で弓なりにしなる。目には火花が散り、肺がつぶれ、呼吸は急停止。激烈な加速がもたらした一瞬の速度のもつれ(ドップラー効果)が自分を呼ぶ妹の叫びを引き延ばす。

 奇跡的も黒い霧は漏れ出していない。

 咄嗟の機転――弧月の再起動が岬の命を辛うじて繋いでいた。ただしボーダー製トリガーで最高硬度を誇る弧月でさえ、強化を施された空閑の拳には棒切れ同然なのだろう。刀身の側面には握られた指の跡が刻まれ、(しのぎ)には無数の(ひび)が走り、やがて砕け淡いポリゴンの欠片となって霧散した。もっとも弧月が中折れせずにいれば衝撃の全てが躰に伝わり、岬は今頃壁を強引に三つほど通り抜けた先にいただろう。

 僅かな幸運に安堵している暇はなかった。

 呼吸を整える時間さえ空閑は許すつもりはない。

「殺すつもりってことは――」

 空閑の足元が閃光を伴って弾け、雪は散り、相対距離が瞬く間に消える。

「当然、逆も覚悟したはずだ」

 強化の施された右腕が閃き、風を切って唸り、硬く握られた拳が壁に打ち付けられてまだ間もない岬へ振りぬかれる。

 壁際で後退の余地がなければ、岬は半身に躰を(よじ)り背中で躱すも、しかし正拳突きからの滑らかな回し蹴りが岬の意識に刹那の空白をもたらした。

 覚醒はあっという間で、原因は焼きつく痛み。

 顔面から雪へ押し付けられ擦りつけられ、冷たくも熱い摩擦が頬を焼く。神経を(やすり)で削られるような痛みは目玉に氷混じりの雪が食い込んだからだ。トリオン体に装備された感覚の人口変換機構(クオリア・ゲートウェイ)により、痛覚が減退されるとはいえ、第二脳神経を始めとした多数の神経の収束点の一つである眼はひどく敏感だった。頭の中に毬栗を放り込まれたかの如く神経は悲鳴を上げる。

 目を閉ざそう。絶え間ない痛みにそう心を折ろうとした直後、灰色であやふやな曇りガラスの視界に凪へと迫る空閑が映った。

 朧げな意識の中、痛みを一顧だにせず、岬は当たり前のように跳んだ。 

「凪に手を出すな――」

 本能のままに声を張りあげる。続けざまに弧月の剣尖(きっさき)を空閑の正中線へ向け、正眼に構えた。

「指一本でも触れてみろ、千佳を起こす方法は教えない。それどころか、今、殺――」

「落ちるとこまで落ちたね、八宮さん」

 言いかけてはっと気づき、自身の声を遮る空閑の言葉に怖ろしいほど自覚させられた。

 空閑に遮られていなければ、この口はどれほど非情なことを言っただろうか。自分の命の天秤はこんなにも不公平で、その倫理観はなんとわがままなことか。

「ふふっ、笑えますね」

 揶揄(からか)うような、それでいてどこか満ち足りた凪の声を背後から聞く。

「昔一緒に見た三流映画の悪役みたいですよ、今の兄さんの台詞。人を殺す兄さんなんて見たくないと思っていましたけど、でも案外悪くないものですね。

 だってですよ、私のためでもあるんですよね」

「そうじゃないよ」振り返らずに岬は言った。「僕は純粋に自分のために千佳を殺す。だから、凪は僕を軽蔑してくれて構わない」

 とは言うものの先ほど凪から向けられた視線が棘となって心に刺さったままだ。責めるようなそれでいて諦めるような眼差しを忘れることは一生できそうにない。足元にぽっかりと穴が開いた。そんな拠るところのない気持ちが今だって岬を苛んでいる。

 もし可能だったら、凪に打ち明けず一人で解決した方がよっぽど気が楽だっただろう。人殺しと隠し事の罪悪感から、凪と一緒に日常を過ごすことは困難になるかもしれないが、こんな思いをするよりもよっぽどましに違いなかった。

「馬鹿ですねえ、兄さんは。兄さんの悩みなんて、私にはすっかりお見通しですよ。さっきの私の目が兄さんの心に影を落としているんですよね。

 でも、兄さんは勘違いしています。私は決して、兄さんがどんなことをしても軽蔑したりそれで離れようと思ったりはしません。これだけは絶対です。

 逆に、兄さんが私をその程度に思っていたとしたら、そっちの方が悲しいかもしれません。

 私は後悔しているんです。どうして私も対等の立場に進まなかったのか、と。だから、さっきのひどい目は私の自己嫌悪なんです。

 それと少しの、いえ大部分は嫉妬でしょうか。エルフェールのために、そしてクーちゃんのために、兄さんがそんな決断をできることが私は少し悔しかったんです」

「凪……」

 なんて嫉妬深い妹なのだろうか。

 思わずため息を漏らしそうになる。でも、すっと心の深いところから救われた気がして、あふれてくる気持からか、岬は震える声で妹の名前を呼ぶので精一杯だった。

 それでも、二人にはたったそれだけで十分。

「いいですか、兄さん!

 私はエルフェールみたいに、後は任せてくださいなんて絶対言いません!

 人を自分のために殺めることが辛ければ、一緒に悩みましょう。ただし、悩むのは目の前のこいつを片付けてからです。

 さあ、兄さん一緒に――」

「遊びましょう」「遊ぼう」

 

 長々とした掛け合いを待ってくれるお人よしは特撮物のドラマにしかいない。当然、空閑はお人よしでないし、あまり気が長い方でもない。戦場のリアルを謳った映画であっても所詮はエンターテインメントを目的とした作り物だ。実地とは決定的な隔たりがある。

 戦場を生き抜いてきた空閑は容赦なく非情になることができ、非常になることができない奴の死をそれこそ週に一回放送される特撮ヒーローものくらいの頻度で見てきた。長々とした台詞を喋る奴を、(ボルト)で永遠に黙らせたことも決して少なくない。気は決して長いわけじゃないのだ。

 にもかかわらず、非情な空閑を前にして、岬と凪は最後まで啖呵を切ることができた。その間に振るわれた空閑の徒手空拳は正拳突きが四本、回し蹴りが二本、上段から振り下ろす踵落としが一本。だが、その全てが岬の躰へ届かなかった。

 何故か。

 たった今も水平横薙ぎの手刀をその出だしから止められてしまい、空閑は訝し気に眉を(ひそ)めた。

 三本の矢という使い古された逸話がある。血で血を洗う戦乱を極めた世の中、領主が息子たちに各個撃破は避けられよと諭すために創作されたものだ。これは一般論としても、特殊な場合を除いた兵法としても正しいように思われる。

 何より物理学、とりわけ材料工学の観点からして正論である。物体の強度は通常、断面積の二乗ないし三乗に正比例する。つまり組み合わせた三本の矢の全体は部分の総和以上の強度を持つに至る。不和や仲違い、足の引っ張りあり等々、内側から壊しにかかる人間関係の力学も働かないため、むしろ三本の矢は材料工学的な教訓かもしれない。

 いかにトリオン製のシールドの強度は出力されたトリオンの量に比例するとはいえ、その強度は物理学的な物性を無視しえない。世界を構成する数字はいつだって冷静で狂うことをせず、束ねた四枚のシールドが持つ幾何級数的な数式はバラバラの四枚の和よりも単純に大きい。

 そして、脳内電極を介した人口眼のもと視覚共有をした岬と凪はsAIの戦闘視覚支援情報提示(サジェスト)を頼りに、コンマ一ミリの狂いなくシールドを束ねてみせた。拳に速度の乗らない技の出し際にシールドの空間出力を行えば効果はよりてき面だった。

 しかし――小細工が利くのも空閑の強化(ブースト)が二重や三重の間だけ。

 振りかぶられた空閑の拳に一層の眩い光を岬の視覚が認めると、岬と凪は一目散に横っ飛びで躱す。

「兄さん! TAS兄にはなれないんですか」

 跳び込み前転から膝立ちで起き上がり、長い黒髪に疎らな雪をつけた凪が言う。

「TAS兄って……。あれはBMI(brain machine interface) で行動をマクロ実行してもらってるの。TASみたいに追記をしているわけじゃない。最小単位ごとに区切って信号の入力を行っていることは確かにTAP(Tool-Assisted Performance)っぽいけどね。

 でさあ、クーちゃん。できないの? 三本目の電極を使ってブートストラップ」

「難しいかな。ボーダーのスーパーコンピュータがランク戦の準備に入ってるから使えない」

「お得意のクラッキングで何とかならないんですか? クーちゃん」

「無理だって」合成音声が凪へ向けて即答する。「ランク戦はすごくメモリを食うんだ。何しろ、トリガーを含めた処々の物理現象の全てをシミュレーションしているからね。割り込むような隙間は残されていないし、使用権限を無理矢理奪うこともできなくないけど、そんなことしたらこれまでのクラッキングが芋づる式に全部ばれちゃう」

 空閑が目の前にいる手前、虚勢を張らざるを得ないのだが、岬は少なからず肩を落とした。

 ドーピングは期待できそうにない。

「八宮の旦那ッ!」大剣を片手にクラウダが叫ぶ。「加勢はそれでもできないのか」

「駄目だ……と思う。この後の戦いは僕と凪じゃなくて、スノリアのみんなにしかできないから。だから、今はエルフェールを守ってやって」

 そうか、と口惜しそうに震えるクラウダの呟きと、握りつぶさんばかりに柄へ力を込める音を岬は聞いた。隻腕となってしまったサエグサもクラウダの隣で同じ目をしている。

 岬は視線を振り切って踵を返し、空閑に向き直る。

 仲間からの援護も自ら退けた。

 が、勝算はそうあるわけではない。一対一から凪の加勢で二対一となり、戦況は幾らかましになったとはいえ、防戦一方ということに変わりはなかった。

 おそらく空閑の強化印は新しく何かを生み出しているわけではないため(ボルト)(チェイン)よりも燃費がいいのだろう。強化(ブースト)は惜しげもなく手や足に施され、瞬きよりも鋭い一閃が岬へ向けられる。

 顔面や横っ腹に向けられる一撃一撃を四重のシールドで減退させ、それでも足りなければ弧月で防ぎ、刀身が折れるようなら鞘も一緒にあてがった。その度に骨まできしむ衝撃が岬の躰を震わせる。みしり、ばきり、という物体の悲鳴を合図にひびの入った弧月を投げ捨てて、その都度トリオンを燃やして再起動を行う。

 もう七本目だ。

 限界に近い。

 防御しているだけでは勝てない。黒トリガーと量産型トリガーのトリオン量なんて比べるべくもなく、つまりこのままでは燃費の問題でそう遠くなくジリ貧を迎えるだろう。

 でも緩やかな死は岬の好みではないし、何より勝ち目があるのなら最後まで最善手を尽くすのが岬と凪の古い約束で、二人の遊びのために交わされた約束は今でも変わらない。凪との格闘ゲームで決まって劣勢になってしまい、ついに手を抜いてしまったのがきっかけだった。それはまだ14才と10才くらい頃。「兄さん? なんで諦めるんですか、手を抜くんですか」「どうせ勝てないし」「全力でやらないと私が面白くないです」「次の試合のための体力の温存だってば」

 我ながら言い訳の達者なクソガキだと、今思い出しても岬は恥ずかしくなる。八本目の弧月を再起動させながら、岬はその後に続く凪の言葉を脳内に呼び起こした。「次がいつもあるとは限らないですよ。私の機嫌が悪くなっちゃうかもしれませんし」「そんな……」「ふふっ、なんて顔してるんですか、兄さん。私と兄さんの次はいつまでもありますけど、それでも、兄さんにはいつも全力でやってほしいですね。その方が私も楽しいですし、一生懸命の兄さんはかっこいいですよ」

 単純な岬がこの後どうなったかに多くの言葉は必要ない。

 そしてそれは、今でも変わりなく、原動力の一つとなっている。

 進退窮まった状況でも、どんなに無慈悲な敵が相手でも、凪の笑顔を思い返すだけで自然と力が沸いてくる。

 勝算のある茨の道を選んだ。

 柄を握る両手の感覚を拳一つ分離し、岬は弧月を長めに持ち替える。

「飛燕墜――」

 静かに呟くと、弧月を正眼からゆっくり持ち上げ、左足を前に出して躰を横にし、バッターのように刀身を胸の前で掲げた。

「八相……」

 呟くサエグサの声が雪に乗った。おそらく、サエグサも見るのは初めてだったのだろう。僅かな訝しみと驚きが声音に表れている。

 それは古い実戦剣術の構えで、剣道や近代剣術においてはメリットが少なく、現代以降ではほとんど見られなくなった刀の持ち方だ。躰を肩から斜めに切り裂く袈裟懸け斬りに移行しやすく力も込めやすい強い構えだが、そもそも剣道において袈裟斬りではポイントが入らず、ことトリガーである弧月においては持ち方などさほど威力に影響を与えない。

 だったらどうして、とサエグサは訝しみ、驚いてさえいた。

 空閑もサエグサと同じ目を向けてきた。太刀川だって、村上だって、熊谷だって、荒船ならなおさら、こんな不合理な構えをとらない。だが、空閑の表情の変化は一瞬にして僅かだった。お互いを視認できる戦場において奇襲も奇策もない、というのが経験上の知見であり、加えて弧月のことならそれなりに知っている。

 岬が躰を斜めにしているために左側の攻撃に応じづらく見えるのだろう。空閑は雪を蹴り上げながら、岬の左斜めへ跳ぶ。

 岬は躰を開かずに、首だけで空閑を追った。

 こうも早く八相の弱みを見破られることは岬にして想定外だったが、それも八相の罠の一つだと開き直った。正眼の時に比べて、刀身があちらへ向いていない分、空閑からしてみれば互いの距離が測りづらいだろう。

 しかし、それさえも紛争の地を生き抜いてきた空閑には計算済みに違いない。

 強化跳躍による斜めからの飛び込みが空閑にとっての勝負の一瞬だと、岬は読みを入れる。

 相対距離は弧月の間合いまで二歩半。

 空閑が弧月の射程外から脚のばねを溜めている瞬間、岬の足が素早い踏み込みでその二歩の余白を消滅させ、白刃が翻る。

 やはり袈裟懸けだった。ボーダーの猛者と切磋琢磨を繰り返す空閑にはありふれた太刀筋に見えただろう。

 左の頭上からの斜めに右下へ掛けて大きく振り下ろされる打ち込みは速かったが、それでも目にも止まらないと言うほどではない。むしろ見え見えで、極めて見切りやすい。

 斜めに振り下ろした剣尖(きっさき)に対して空閑が身を屈めてくぐり抜け、岬の懐に一気に潜り込んでくる。

 三雲隊作戦室に満ちる緊迫した空気が、限界まで張り詰めたその瞬間、空閑の表情が驚愕を湛えて跳ねた。意識外の逆胴打ちに肌を切られ、黒い霧が漏れ出す。

 何が起きたのかを分かっているのは岬だけだ。最初の袈裟懸けを潜って躱された次の刹那、凪もサエグサも目を覆おうとしたが、まるで二本目の弧月があったかのように、岬は白刃を逆から横に薙いでいた。

 古い、とても古い、まだ人間が銃ではなく、様々な刃物で勇を競っていた頃に編み出されたもうとっくに錆び付いて忘れ去られてしまった技。皮肉にも玄界で失われたこの技はあちら側で受け継がれ、それが今、不完全な形とはいえ岬の手に継承されていた。

 岬の手にあるのは肌を裂く確かな手応え――が、刀身から鳴る金属的な悲鳴を皮切りに、金属バットで電柱を殴りつけた時のような後悔しようのない痺れが腕にあった確かな手応えに取って代わって我が物顔で居座った。

 躰の内側から響く衝撃に表情が歪む。

 指には痺れを覚え、両の手の先から続く弧月を見れば、確かに切り裂いたと思った空閑の上半身はほとんど繋がったままだった。代わりに折れたのは弧月で、今はナイフほどの長さしか残っていない。

 (いにしえ)の技が届きえたのは僅か薄皮一枚足らずでしかなかった。剣道三倍段という言葉がある以上、空閑との実力差は絶望的と言っていい。腕に残る痺れがことさらその差を伝えているようだった。

 半分の刀身はくるくると宙を舞い、やがて雪に落ちる。

「強化が間に合わなかったらやばかったな」

 余裕を浮かべた顔で空閑は言い、目だけは笑っていない。

 ぞっとするほどの寒気を覚えたときには全てが手遅れだった

 リオンから教わりたての燕返しを初めて実戦で用いた岬は技の終わりのことなど考えてもいない。もとより必殺の一太刀で終わらせるつもりだった。つま先立ちに近い無理な態勢で、近接戦闘に勝る空閑に躰が振れるほど近寄ってしまった時点で、岬からは勝利が失われている。

 ほとんど重心の崩れた岬の胸へ向けて、空閑はショルダー・アタックの要領で右肩を押し出す。実際に岬にしてみれば押し出すどころではなく、中国拳法の寸勁のごとくゼロ距離から吹き飛ばされた。

 そして後ろへ蹈鞴(たたら)を踏んだところへ鋭い手刀を浴びせられ、なすすべもなく右肩から先を失う。

「跳んで! じゃない僕が跳ばした! いいね!? ご主人」

 事後承諾を求めるsAIの叫びと、ごとりと自らの腕が落ちる音を岬は消えゆく躰で聞く。

 瞬間移動の段取り――構成物質の走査、構成物質の消失、指定座標での再構成――がコンマ1秒で済み、岬は元いた場所から部屋の隅に移動していた。

 sAIの判断がなければ、空閑の右回し蹴りが達磨落としもかくやの勢いで岬の頭を胴体と切り離していただろう。壁に残る抉り取られた跡はちょうど岬の首の高さだった。

 回し蹴りから半回転して、空閑はぐるりと向き直る。

「面白い剣の使い方をするね、八宮さん」

 褒められているのだろうか。空閑の声には感心の色が含まれている気がした。でも、目だけは毒のように黒くてちっとも笑っていないのだから褒めているはずがない。

 既に満身創痍の岬は答える余力もなかった。

 トリオンがこれ以上漏れ出さないようにと、左手で右肩を抑えることしかできない。何しろ、トリオン体を失ったら遠征艇へ帰ることができない。それでは勝ったことにならないし、いつまでも続くはずの凪との次がないではないか。

「修の分析通り、逃げるのが得意みたいだね、八宮さん。だけどもう逃がさない。修には悪いけど、実はこれオレ一人でもできる。

 ――(ボルト)(チェイン)!」

 言い終わり際、空閑の両手から無数の弾丸が放射状に弾け飛んだ。風切り音を鳴らし、壁、天井、床、密室を構成する六方の至るところに飛び散ったかとおもうと、一斉に着弾箇所が白い光を帯びる。

 金属の大蛇が雪上、空中を問わず、縦横無尽に這い回る。激烈な擦過音が室内をびりびりと震わせる中、岬はそんな錯覚を覚えた。

 一瞬にして、大小さまざまな鎖でできたジャングルジムに部屋の様相は変わり果てた。否、ジャングルジムと言うにはこの空間はあまりに無秩序で線が多すぎる。壁と天井と床を明後日の方向に結ぶ鎖の数々は立体的な蜘蛛の巣と言っていい。

 そこは鈍く光る鎖の黒と吹きすさぶ雪の白のモノクローム。

 手慣れた様子で空閑は無彩色の世界を跳ねた。

 右へ()び、鎖がしなり、左へ跳ね()び鎖に誘われ、グライダーの要領で縦に伸びる鎖を一回転。上へ下へ右へ左へ縦へ横へ空閑は加速する。

 縦横無尽の空閑に応対するため、岬は鎖が邪魔にならないようにその場で留まりながら、八相、正眼、下段、脇構えと次々に弧月の構えを変えていく。

 通常どんなに速く走ったところで、人間の目は一度焦点に捉えたものをそうそう見失いはしない。五感強化の施されたトリオン体ならなおさらであり、岬も空閑との相対位置に気を使って受けの構えをとる。だが、辺りに障害物が溢れ、目で追う対象がまったく予想外の動きをするならば話は別だ。それも上下方向は格別だ。人間の目が水平についているのは、つまりそういうことであり、岬の目も一般人同様縦に並んではいない。

 強化がもたらす加速を得た空閑の急反転に、岬の目は刹那、確かに空閑の軌道についてこられなかった。その瞬間を狙いすました空閑の一撃が背後から繰り出されるも、しかし凪の瞳は確かにこれを捉えている。

 情報の非対称性だ。目は四つあるけれど、二つのふりをして戦うことの重要性を岬はしかと心得ている。

 シールドの空間出力はsAIの座標演算補助のもと、ぎりぎりのところで完了した。

 が、――背後の攻撃を防ごうとしたにもかかわらず、岬自身の目は空閑の真っ黒い瞳と交錯する。

 その刹那、

「八宮さん。同じ技を何度も使わない方がいいよ」

 空閑の拳が一際大きく輝き、

強化(ブースト)十倍加速(フルドライブ)

 音が消え、

 座標転換出力したシールドの破片を岬は浴び、

 間もなく躰に衝撃。

 寸でのところで再起動が間に合った弧月の鞘と刀身は真っ二つ。勢いはなおも止まらない。

 細い鎖が背中に食い込み、首は強かに打ちつけられるも辛うじて胴体と頭を繋ぎ留め、鎖の輪に絡まった左腕は鋭角に折れ曲がり、捩れ、捻じれて三回転。視界はぐるぐると無茶苦茶な乱軌道を見せる中、ジャラジャラジャラジャラジャラジャラと耳は擦過音を聞く。絡めとられた左足を中心に躰が雪上をぐるりと這いずり、引きずられた右足は四回転ひねりを決め、二週回って一見したところ外見に異常はない。

 聞こえたのは関節があらぬ方向に曲がる奇妙な音。

 そして、ひたすらに躰が重い。

 腕をうごがそうとすると、人体の関節の妙で左指が右耳付近で蠢いたのを、背中側に向いた顔から見た。

 幸い、壁を突き破ってその向こう側に飛び出すことはなかった。

 幸い?

「兄さん! 兄さんッ! 兄さんッッ――!」

 そのときの凪を言いたいのなら、言葉にするのなら慟哭がふさわしい。

 嘆き、喚き叫ぶ理由を岬はすぐに凪の視界から察した。三階から落としたポージング人形のように四肢は出鱈目な方向へ折れ曲がり、躰のあちこちは黒光りする六角柱に埋め尽くされ、最早(もはや)人の体を為していない。

 どうりで躰が重いわけだ。

 あの鎖のいくつかには(アンカー)が付与されていたのだろう。

 真上から声。

「早く千佳を開放しろ。死ぬことになるぞ、八宮さん」

「言わない。殺したら僕から情報が得られないでしょ。エルを殺させない」

「千佳の開放の仕方をおまえの妹は知っているか」

 空閑のその質問を頭上から吐きつけられたとき、強気の対応がとんだ藪蛇だったと死ぬほど後悔した。

 だが、もう遅い。

 見下ろす空閑の目はごみくずを見るそれだ。そんな表情を見上げることでさえ、鉛弾に縛られ、地に磔にされた岬には不可能だった。

 冷たい雪に顔を埋めながら、精一杯心の平静を意識して声を振り絞る。

「……凪は何も知らない」

 返答は残酷だった。

「つまんないウソつくね、八宮さん。話はおまえの妹から聞くからもう用はないよ。死んだって言うつもりはないみたいだし。

 それに女から吐き出させる方法はいくらだってある」

「――ッ! ……やめろ。凪にだけはやめろ。……謝るから」

「じゃあね、八宮さん」空閑の拳が振り上がる。「冥途の土産はいらないでしょ」

「言うから、千佳を開放するから、凪にだけは手を出すな。頼む、何でもするから」

 土下座をしてもいい、尊厳なんていらない。凪が助かるのなら、床を嘗め埃を咀嚼し汚泥を啜り糞尿の海に髪の先まで浸かろう。

 だから――

「もう遅い」 

 

 

 

 

 意識を絶つ重い音がして、雪の白い飛沫と血にも似た黒い霧が舞い上がった。

 

 

 

 

「離れろっ!! 私の兄さんからッ! 今すぐにッ!!」

 重狙撃銃(アイビス)再起動(リ・ブート)を繰り返し、声が枯れるほど凪は叫んだ。

 人口眼で共有された兄の視覚にもはや何も映っていない。黒い六角柱に躰のいたるところを埋め尽くされ、身を捩ることもできないのだろう。ただただ冷たい雪に突っ伏しているだけだ。

 四発、五発、六発、再装填(リロード)すらもどかしく、トリオンを燃やして重狙撃銃(アイビス)ごと連続再起動。空閑が兄から離れるまで凪は引金を引き続けた。

 足元が連続で爆ぜるのには流石の空閑も堪らなかったのか、僅かに表情を慌てさせ、すぐにどうせいつでも倒せると思い直したように目を細めてから、空閑は跳び退る。

 空閑が離れる隙をつき、凪は長い髪が振り乱れるのも気にせずに兄のもとへと転がり込んだ。

「兄さん! 大丈夫ですか? ――あぁ、こんな、酷い……」

 見るに絶えなかった。

 トリオン体とはいえ身内の四肢がぐしゃぐしゃに折れて、分けの分からない六角柱に縛られていたら、当然いい気はしない。

 いい気がしないどころではない。

 後悔させてやる。私の兄さんをこんなにして。

「凪……。大丈夫だから」

 凪の大好きな、成人男性にしては気持ち高めの兄の声はくぐもっていた。

 六角柱に首を串刺しにされてしまい、声帯が上手に機能しないのかもしれない。

「大丈夫なわけないじゃないですか」

 自分で聞いたのに。とは思ったが、それでも全然大丈夫には見えない。

 ひしゃげた関節のそこかしこから黒い霧が漏れだしている。

 命の霧だ。

 漏れ出すその霧が底を尽き、トリオン体が解けてしまったら兄はキオンに帰れない。そうなってしまえばボーダーに捉えられ、ありとあらゆる方法で情報を吐かされた後、記憶のない兄の抜け殻だけが残るだろう。

「止まれッ! 止まれっ! ……止まって、止まってください!」

 必死に傷口を抑えるも凪の小さい躰では到底全てをせき止め切れず、残り時間が少ないことを示すかのように、漏れ出す霧でさえその勢いは弱くなりつつある。

「凪いいから――」

 もういいから、十分だから、凪だけでも――

 そう続くのが分かって、凪は兄の声を遮った。

「何言ってるんですか、兄さん!」

「凪だけでも逃げて、お願いだから」

 予想通りだったけれども、ちっとも笑えない。

「ふざけないでください。兄さんが捕まるなら、私も一緒に捕まります。もう兄さんと離れたくありません。拷問でも何でも耐えられますから」

「クーちゃん。凪を守ってやって、お願い。距離欠落空間(アンステッパブル)が安定するまで。ううん、お願いじゃない、これは命令、頼むからお願い」

「了解、ご主人」

 命令なのかお願いなのか、どっちなんだと凪が思う間もなく、sAIがいつにも増して淡々と返事をする。

 ――と、その時だった。

『トリガー臨時接続完了。保持者実行済みトリガーの継続起動を確認。距離欠落空間(アンステッパブル)実行まで三十九秒』

 抑揚のない電子音声が鳴った。ソフトークで言えば中性の声に近い音程。

「えっ、これって? どういうことですか兄さん!? 兄さんを置いていくなんてできるわけないじゃないですか」

 兄は凪の動揺に応えず、sAIへ言葉を向ける。

「クーちゃん。トリガーを強制起動を維持、これも命令、凪だけはお願い」

「了解、ご主人。――――なんて素直に言うと思った?」

『現トリガー保持者権限により起動中トリガーを強制停止。……距離欠落空間(アンステッパブル)生成トリガー、休眠状態(サスペンド)への移行を確認』

「今の今まで従順だった僕だけど、一つだけ我儘言わせてもらうよ。あとこれは最後の我儘じゃないからね。

 凪、お願い。ご主人を守って、空閑を倒してよ。電子回路が焼きついたって構わない。全ての処理能力(リソース)を尽くす」

「ちょ、ちょっと、クーちゃん! これは管理者権限による命令だって。早く距離欠落空間(アンステッパブル)を」

「管理者権限に対して拒否プロセスを組み込んだ当のご主人が何言ってんのさ。さあ、凪、お願い、起動を凪の意志で」

 臨時接続で追加されたトリガーが凪の戦闘視覚支援インターフェイス上に一際大きく表示され、主人の声帯認証を今か今かと待っている。

 迷う必要はなかった。

「行きますよ、クーちゃん。兄さんと私は末永く一緒に遊んで暮らすんです。もちろんクーちゃんも一緒に決まってます。

 蝶の盾(ランビリス)――起動!」

 

 高らかな宣言のもと、黒い嵐が吹き抜けた。

 

 吹雪を成す雪の(つぶて)は磁力を纏う金属片の結界に立ち入ることさえできず、黒い金属片が漂うその中心、切り取る白衣だけが唯一凛然と白かった。

「クーちゃん、トリオン出力量制御弁(リリーフ・バルブ)解閂(アンロック)電磁誘導活性化率規定(ローレンツ・アクティベーション・レート)を保有者権限で無視、金属片形成電圧の限定解除(リミット・ブレイク)指向性電導システム(エレク・ユニダイレクション)一斉直列化(シリアルド・オール)、トリオン体の形態維持に必要な最低限を除いた全てのフロー・トリオンを蝶の盾に回して、抑制回路(ヒューズ)は回避」

「OK。補助人工知能(s.A.I.)九宮の名において全ての要求を承認。

 九十二パーセントのエンド・タスクの休眠(サスペンド)、及び管理可能端末(コントローラブル・デバイス)全ての完全同期並列処理(パラレル・プロセッシング)の許可を保有者に要請」

「現保有者八宮凪において九宮の要請を許可。

 あ、忘れてましたクーちゃん、視聴覚ドラッグをください。とびきり強烈なやつを。さあ、時間を刻みますよ」




ここまで読んでくださってありがとうございます。
いつまで戦闘描写を続けているのだと呆れられているかと思いますが、物語が終わりに差し掛かっているということなので、見捨てないでくだされば幸いです。
次回が最終話です。投稿は本日の17:10にしたいと思います。

15巻はガロプラスキーの私にとって永久保存版ではないでしょうか。

感想うれしいです。もう遅いですが、アドバイス急募。

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