トリオンエンジニアリング!!   作:うえうら

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凝った戦闘描写です。申し訳ありません。藤間千歳先生大好きです。


09 真実のない嘘・氷の衣・人質交換

 テレポートを終えると、室内を満たすひりひりとした緊張感が肌を刺した。

 皆、手に武器を握り、鋭い眼目は最初の一足の飛び込みを測っている。

 三雲隊の作戦室入り口付近には、エルフェールを中心に方陣をしく≪キオン≫一行。白いドレスに身を包んだ王女を黒いコートに身を窶した(やつ)スノリアの自警団が取り巻いている様は、さながら無垢な姫君を守る側近の騎士にさえ見えた。

 部屋の中央には三雲隊。予定調和かつ突発的な襲撃者に対して各々リアクションを取っていた。千佳は怯えつつも狙撃銃を構え、修は混乱を切り捨てるようにレイガストを握りしめ、空閑は濡れ烏のように真っ黒な瞳で敵を睨み、その実力を見定める。

「げっ、間に合わなかった」

 瞬間移動後、躰の再構成が中途のまま、岬は心の底から呟いた。神に誓って、決して嘘ではない。

 空閑の副作用(サイドエフェクト)を考慮したものでもなかった。本当に対策したいのなら石のようにずっと黙っていたほうがよほど懸命である。だが、自分に対して嘘をついたわけでもないため、問題はなかった。エルフェールの抜刀を見届けると約束していたのだが、それに間に合わなかっただけだ。

「兄さんがもたもたしていたせいですよ」

 涼しげな表情で凪は口元を斜めに上げた。客観的な事実がどうあれ、彼女の中で遅れたのは兄のせいであり――沢村にデレデレしていた兄を責めていたために遅れたのかもしれないが――、兄に小言を言うことは彼女の常であり日常である。

 そもそも空閑の副作用が客観的な事実に対しての嘘に反応するものではないと岬も凪も判断していた。事実その通り、『おまえ、つまんないウソつくね』とは言われていない。(とい)がないのであれば、自分にさえ嘘をつかなければ問題はないと判断していた。

「八宮さん。間に合わなかったてどういうことですか」

 額に冷や汗を浮かべた修が訊いてきた。狼狽6割り、使命感4割りといった表情だ。

 これは質問であり、あるいは問であり、返答如何(いかん)によってはFBIもびっくりの副作用(嘘発見器)が作動するだろう。

 この段階で計画がばれることは迅に見通されることを意味しており、つまり今までに積み上げたものが即座に瓦解することを意味していた。

 心拍数三割増しの岬は千佳をちらっと見て、それから表情を引き締めた。

「千佳ちゃんが狙われてるってこと」

 岬は静かに答え、無表情のまま補足する。「加勢に来た」

 後方の岬と入り口付近の侵入者たちの位置関係を確認するためだろう、修は前後に視線を走らせ、それから困ったように眉根を寄せた。額に冷や汗を浮かべながら念を押すように空閑へ視線をくれる。

 用心深い奴だ。

 空閑へ振り返る修の視線は加勢に来た岬を疑う大変失礼なものであったが、岬は問いただすことをしなかった。

 むしろ未来視の副作用(サイドエフェクト)を要する迅に対して、アピールのチャンスでさえあった。タイムパラドックスなんて起こりうる筈もないのだが、おそらく過去の迅はこの瞬間の未来さえ見通していたのだろう。並行宇宙など冗談半分でSFの域を出ないファンタジーだと馬鹿にしていたが、ここで嘘を見破られる側に分岐したくもない。

 空閑が訝しむように岬を見据える。一瞬、あるいはそれよりも長く一秒弱の間、視線が真っすぐに交錯した。射貫いてくる嘘を見通す瞳は底が見えないほど深く、覗き込んだ井戸よりも黒い。

 凪よりも背丈のない少年に見つめられるだけで、岬は震え上がる思いだった。人と目を合わせることが得意でなく、就活の面接では何度も煮え湯を飲む羽目になった岬だ。逸らしたくて仕方のない視線を押さえつけようと精神力を総動員し、(ツラ)には動揺を出してないつもりだった。長机に座った複数の人事課に値踏みされた時も岬は今のような表情をしていただろうし、握った手の中は冷や汗でぐっしょりだっただろう。

 はたして岬の返答は嘘か真か。

 『(僕たちに)千佳ちゃんが狙われているってこと』

 『(千佳ちゃんを狙うエルフェール達の)加勢に来た』

 曖昧模糊とした虚言であり、空虚で実のない詭弁である。

 だが、本人にとって嘘ではない。

 加えて修の『間に合わなかったってどういうことですか?』という問に対して、真っすぐ正対していない返答である。さながら弊社への志望動機を尋ねられ、大学時代に取り組んだことを答えるようなものであり、こんな応答をしたら一発でお祈りを申しあげられる。かつての岬の得意技だ。

 そもそも『嘘』とはどのように定義されるものだろうか。日常生活において嘘をつくよりも、嘘をつかれたことのほうが圧倒的に多いだろうが、それは情報の非対称性と人間の認知構造に由来する。事情が変わって真が嘘になったり、無知蒙昧によって真を嘘と捉えたり、心理的防衛機構による思い込みが都合のよい嘘を作り出し、そもそも情報はアウトプットする機会よりもインプットする機会の方が圧倒的に多い。「嘘」とは多分に、「嘘をつく側(ライアー)」よりも「嘘をつかれる側(バイ・ライアー)」よって定義されるものだ。

 だが、空閑の副作用(嘘発見器)で定義される『嘘』がそれでは話にならない。この定義の『嘘』を見破るだけなら、それは普通の人間の無根拠な直感と歪んだ認知構造とさして変わりはしない。空閑にとっての『嘘』は相手の意図の内にある偽りのことだ。問に対して詐称のための意思が必要であり、法学の用語を用いるならば故意の欺罔行為が構成要件となる。また、錯誤により釣銭を多く持って返った買い物客を詐欺に問えないように、本人が信じている客観的な偽りにも空閑の副作用を反応しない。地球の動静を争うガリレオ=ガリレイにも大司教にも反応せず、ただガリレオが自ら築き上げた理論を身を焼かれる思いで捻じ曲げたときにだけ副作用(嘘発見器)の閾値を超える。『おまえ、つまんないウソつくね』

 だから修は『あいつらの仲間ですか?』もしくは『千佳をさらいにきたんですか? はいかいいえ(Yes or No)で答えてください』と訊くべきだったのかもしれない。無論、修にはそんな動機もなかっただろうし、人間の都合のよい認知機構と図ったかのようなタイミングが岬と凪を味方に思わせただろう。

 修を後悔をさせる(いとま)はなかった。

 ノルンの狙撃銃が予定調和に吹き上がり、収斂された光子の束と指向性を与えられた空気の振動が修の感覚器官に(そそ)がれる。トリオン体でなければ失明は免れないし、鼓膜は弾け、耳管にまで損傷を与えただろう。100万カンデラの光量と2000デシベルの音量が直接注がれるというのは、5つ連ねた太陽を裸眼で直視し、ジェットエンジンを耳の中で鳴らすようなものだ。それは一切の手加減なく目を灼き耳を焦がす。

 ノルンの指向性閃光発音弾(ディレクショナル・フラッシュバン)は非殺傷兵器とはいえ、五感不満続の盲聾者を生み出すには十分に過ぎた。護身用の武器として余りある兵器が売られているのだから、≪キオン≫の治安も推して知るべきであろう。

 指向性閃光発音弾(ディレクショナル・フラッシュバン)で視覚聴覚を失い、猛り狂う吹雪で触覚と平衡感覚を失った修の体感時間は、果たして如何ほどであっただろうか。

 入力される信号なんてありはしない。(おの)ずから(しか)ずば結びて果てるように出力などありはしない。

 彼が白に覆われた暗闇にいる間、ありとあらゆることが起こった。

 

 屋内多人数乱数戦闘において、数的不利な側が真っ先に行うべきことを空閑遊真は心得ていた。それは地形の破壊であり、戦場のリセットだ。三重強化(ブースト)された拳を床に打ち込むだけで、瓦礫の四散する縦長の部屋ができるだろう。そうなってしまえば小回りの利く空閑が有利なことは明らかだ。

 暗黒の海を渡り歩いた4年間の中で生命の危機に瀕したことは一度や二度ではない。地形破壊と(ソナー)を組み合わせて敵を撒いたこと、慌てふためいた敵の頸動脈を掻っ切ったことは片手の指では足りやしない。

 対人座標不特定状況に持ち込むことは経験に裏打ちされ、躰にすっかり染み付いた定跡だ。迷いなく拳を振り下ろせと直感は告げ、三重強化(ブースト)が拳に施されるも、しかし床は砕かれなかった。

 当時は守るべきモノなんてなかったのだ。でも今は決定的に違う。敵の狙いは九分九厘千佳だ。ボーダー入ってまだ間もなく、機動力のない彼女を瓦礫の中へ放り込めば、真っ先に捕獲されてしまうだろう。ラービットによるキューブ化よりも、捕虜のためのもっとポピュラーな方法を空閑はいくらでも知っていた。もし千佳がそうなってしまえば、相棒がどんなことをしでかすか分かったもんじゃない。独善的なそうするべきだ、という信念で命さえ投げ出し、ひと月ほど前には集中治療室の世話になった相棒なのだ。父を失い、24時間を共に過ごしてきたお目付け役を失い、更には相棒まで失うわけにいかなかった。

 空閑の頭は出入り口を塞ぐ黒づくめを完全に敵と認識し、起動された三重強化(ブート)は右足に施され、音を置き、一足で距離を消し去った。

 ――赫ッ!

 苛烈な剣気に肌を刺され、宙を疾る空閑は警戒のレベルを一段階引き上げる。

 幾重にも研ぎ澄まされ、針の穴を穿つかの殺気は黒づくめの中で最も小柄な少年から発せられたものだった。剣のことをこいつはこの場の誰よりも知っている。戦乱の絶えない紛争の地に長い間身を置くことで培われた直感が空閑にそう告げていた。

 軸足を開いて大きく股を開き、左手で鞘を深く押し当て右手で柄に指をかけたその様だけで、白刃を抜かずとも既に青竹が割れるように分断された哀れな獣を想起させられる。

 抜き打ちの構えが生む殺界(まあい)にひとたび立ち入れば、有り余る気迫と殺意が不意に拳銃を眉間に当てられた以上の恐怖で相手を竦ませるだろう。

 事実、既に鯉口(こいくち)から解き放たれていた清冽な一閃は空閑の鼻先を掠め、雪に満ちる空間を鋭利に切り取っていた。

((チェイン)がなかったら、やばかったな)

 間違いなく一刀両断されていただろう。

 踏み込みを決めた位置まで鈍色の鎖で引き戻りつつ、空閑は敵の武器の分析を試みた。お目付役を失ってしまった今、彼は注意力の全てを戦闘に注ぐことはできない。レプリカが今までどれだけ助けてくれたのかを思い知らされた。

 小柄の剣士、サエグサの直剣は型落ち(アンティーク)特別仕様(ワンオフ)だ。当時の最新型を手に遠征に出かけた父は帰ってこず、代わりに帰ってきたのは小さな小包で、中身は時代遅れとなった形見だけだった。

 それは有力七諸侯の一角、剣の一族九十九(ツクモ)本家に代々仕えてきた一流の鍛冶師(アーキテクト)によって鍛え上げら(コーディングされ)れた業物(トリガー)だ。供給するトリオンの最大出力、供給量の函数によって刀身は形を変え性質を一変させる奇妙な剣である。今、薪としてくべられたトリオンが形作る刀身は食品ラップのフィルムより桁外れに薄い、非日常的な物質で構成されていた。蜻蛉の羽根よりも軽く、つまんでみれば厚みも温度変化もまったく感じられず、指紋の隙間に染み込むかのように感じられるだろう。

 空閑は鼻先の切創に何の痛みもないことに目を見開き、指で鼻を抑えると幻のように傷が消えたことに驚愕する。

 今までに見たことのない剣だ。

(とんでもなく見えづらいけど、今ので刀身(リーチ)は把握した。刃の部分にだけ雪がないから位置も何となく分かる)

 発せられる剣気が雪を溶かしているかのように、小柄な少年の手元にだけ吹雪は姿を消していた。

 立方晶窒化炭素と非常に似た結晶構造を持つ薄羽の剣。そのモース硬度はダイヤモンドよりも硬く、靭性は玉鋼を幾度となく打ち据えた明治期の真打を上回る。猛り狂う吹雪の中で刃が構成する空っぽの空間が、一層の存在感を放っていた。

 鎖で引き戻る空閑は追いすがるように振りぬかれる二筋の煌きを認めると、(チェイン)強化(ブースト)を上乗せした。

 鎖の擦過音が躰に伝わり、ぐんと背中から引き戻され、着地と同時に雪を転がりつつも敵から目を逸らさない。

 交差するように伸ばされた二本の剣尖(きっさき)を、とっさに背面とびで躱す。すると、剣を持つ二人――さっきの小柄とやたらと目立つ金髪――が息を揃えてそれぞれの剣を異なる高さで横に薙いだ。

 くぐることも飛び越えることも不可能な剣線に対し、転がり退くことしかできず、飛び起き様に(ボルト)を四本ずつ、彼らの正中線に向けて放つ。

 一撃必殺の四撃を、彼らは二人とも迷わず手甲で庇って受け止める。金属の弾ける音と肉の抉れる音が響く最中(さなか)、半ば腕の千切れた一人の背を踏み台にして、斬馬刀かと見紛う大剣を振りかぶった少年が高く飛び上がり、全身の体重をかけて鉄を裂くような一撃を空閑に向けて振り下ろす。

 退くにも背後は壁で、止めることも不可能であれば。

 空閑は少年が落下する前に彼の下を潜り抜け、薄羽の剣の少年に止めを刺すべく(ボルト)を放つ。

 ()った。

 少年の手甲には六角柱の金属が埋め込まれ降り積もる雪に肘ごと埋まっている。先ほど放った四本の(ボルト)うち二本には(アンカー)を付与していた。成人男性一人分の質量を持つ過密な六角柱が片手を雪に溺れさせ、身動きも取れなければ、薄羽の剣を振るうことさえ叶わない。

 多人数乱数戦闘では死に行く相手が事切れるまで確認するなど無駄の極みだ。四方八方に敵がいるのであらば、着弾までの無為な時間はそれこそリスクであり、次の活路を見出すことに使ったほうが有意義なことを空閑は嫌というほど思い知らされてきた。

 小柄の剣士に吸い込まれる弾丸の軌道で彼の生に見切りをつけ、流水の如き滑らかさで踵を返す。

 次の標的と定めた金髪に(ボルト)の照準を定め、大剣独特の重心から繰り出される大振りな太刀筋を見極めていると、不意に聞き覚えのある金属音が耳を叩いた。

 空閑はそれを知っている。

 シールドが銃弾を弾く硬質で甲高い音だ。この場の誰が空閑の射撃を邪魔するというのだろうか、ボーダー製のトリガーで。

 振り返った空閑の瞳は湧き上がる憤怒と殺意に塗りたくられ、泥のように深く染まっていた。

 副作用(サイドエフェクト)が覚醒した当時、父の死の意味をまるで勘違いした奴らが吐き出す嘘や欺瞞や偽りで蔓延していた世界を思い出す。

 奥歯がぎりりと鳴った。

「八宮って言ったっけ。おまえ、ウソをつかないのが上手だね」

 副作用に依存しきった自らの浅慮を嘆く代わりに、七重の強化(ブースト)を展開。

 空閑の目は笑っていなかった。

「千佳が狙われてるってそういうことか。加勢ってのはこのシールドのことだな」

「ごめん、悪気はなかったし。これしか方法がなかったから」

 嘘じゃない。本心からこいつの口はそう言ってる。こいつは悪いと思いながらも千佳をぐったりと人形のように弛緩させ、その身に寄りかからせている。

 怨嗟の言葉を吐き捨てるよりも早く、七重の強化(ブースト)を脚力に注ぎ込み。

 空気が震え。

 次の刹那には、紫電が地を走るが如く駆け寄った空閑が八重に増幅された拳を抜き放った。

 

 千佳をトリオン体のまま昏倒させたそれは、トリオン体の人間を拉致する最もポピュラーな手段の一つだった。

 最初それは売れないジョークグッズの類だと一般大衆には受け入れられていた。贈り物としてなら是非貰ってみたいが、自分で買うなら賞与が出た直後でさえ御免被りたい品物である。

 キャッチセールスはこうだ。『この商品を使えばトリオン体のまま眠ることができます。不眠症の方は是非どうぞ。食費も減るし、着替えだって必要ない。何より、好きな時に好きなだけ時間を早めることができる』

 この手の胡散臭い誇大広告があてにならないことは玄界の常だが、≪キオン≫でも例外ではない。悪評はたちどころに口コミネットワークを介して王都中を駆け回った。

 食費節約のためにこの装置――外見は文庫本サイズの湿布に過ぎない――を買うのは馬鹿げている。何しろそんな薄い布を買わなければ、毎日レストランに行ったってお釣りで出店のスイーツが買えるのだから。

 後者の理由でもこの装置が求められることはなかった。コールドスリープなんてSFは極寒の≪キオン≫で流行らなかったし、未来に希望を持てるほど年中厳冬の≪キオン≫は裕福でない。眠る暇があるなら働くべきだし、コールドスリープしたければ雪山に籠るだけでよいのだ。悠久の時を経たのち、天変地異でも起こって雪がなくなれば未来を見ることができるかもしれない。

 金と時間に多少の余裕を持つ富裕層にさえ見向きもされなかった装置に目を付けたのは案の定軍部だった。人間よりも試験管やビーカーの色水に囲まれていることを好む、そんな偏屈を極めたような人種の集まり――技術部による改良が≪キオン≫に数限りない捕虜の山をもたらすことになる。

 軍部に買い占められた商品の取扱説明書にこうある。『使い方は簡単。タイマーで眠りたい時間を設定して、あとは首の裏に張り付けるだけ』

 技術部の研究者が嬉々として自ら被検体になると、彼の意識は瞬時に途切れ、やがてタイマーきっかりに覚醒した。非殺傷の捕縛兵器に成り得ると気づいた軍部は急ピッチでリバース・エンジニアリングを試みた。

 調べてみれば原理はいたって単純であり、日が昇る前にレポートは仮説から決定稿に段階を進む。

 大まかに言うことが許されるなら、トリオン体のトリオン伝達系及び体運動の指令系を構成する器官はたった二つでしかない。人体であれば脳に例えられるトリオン伝達脳と機械なら内燃機関と燃料のセットに例えられるトリオン供給器官だ。トリガー内部に格納されている生身の脳からの命令がトリオン伝達脳に届いてるのか、もしくはトリオン伝達脳が生身の脳をエミュレートしているのか、これら直接操作説と間接操作説に学説は二分されているところだが、トリオン伝達脳が人間でいう脳の役割を果たしていることについては意見の一致を得ている。つまりトリオン伝達脳から発せられる化学物質でトリオン体は動いており、非随意的な反射を含めなければ、トリオン体の運動の中枢は伝達脳にあるということだ。

 それ、伝達系神経物質吸着材(アゾーベント)は文字通り、トリオン伝達機関からトリオン供給機関への命令信号を吸着し、その一切を遮断する。後に残るのは自立することもできず、五感すらない木偶人形だ。

 伝達系神経物質吸着材(アゾーベント)は捕虜の量産に最適だった。トリオン体で捕らえてしまえば木偶(でく)人形に食費はかからず、奴隷船さながらすし詰め状態に押し込むだけでよい。歩かせることができないのが存外不便であったが、転がしても網で引きずってもトリオン体なので傷つかず、運搬にかかる手間はやはり減った。軍規の守れない粗忽ものに女性の捕虜を味見される心配もなく、黒トリガーに生まれ変わって牙を剥かれることもなくなり、捕虜あるいは奴隷販売のビジネスが確立されるまでそうは時間がかからなかった。

 ≪キオン≫に捕虜やその二世三世が多く、名前の付け方がバラバラで、髪や瞳の色が全く異なるのも伝達系神経物質吸着材(アゾーベント)(ゆえ)だった。

 

 首に黒い布を張られた千佳が岬の躰に寄りかかっていた。つぶらな瞳は焦点を結ばず、それどころか彼女の網膜は何も映していないだろう。しな垂れだ腕は目玉に雪が入り込もうとも、だらしなく開いた口に吹雪が舞い込もうともピクリとも動かない。

 まだ体温のほのかに残る、この小さくか弱い少女を木偶人形の姿に辱めるために、これまで岬は心血を注いできた。

 嘘を嘘で十重二十重に塗り固め、寄せられる信頼を維持したまま仇で返し、彼なら自分を守ってくれると(すが)りついた少女の意識をこの手で刈り取った。

 嘘ではない。

 サシャに軽機関銃を撃ってもらい、岬は庇うように千佳の前へ躍り出てシールドを張る。千佳と目を合わせコクリと頷きあい、シールドを多重展開。白刃――シルトで切りかかってくるエルフェールから弧月で千佳を庇う。刀を横に薙いで白刃を払いのけると、ギュッと白衣を握られ、感謝と信頼と僅かな恋慕の入り混じった瞳が向けられた。

 心が壊れるかと思った。

 さもなければ、既に壊れているのだろう。岬は微笑んで頷いた。

 戦場の刹那にこれだけのパフォーマンスをすれば、空閑からの信用を得ることは容易かった。防御と攻撃の役割分担をアイコンタクトで空閑と済ませ、千佳に襲い来る銃弾を弾き、背後から銃弾よりも残酷な武器を振りかざす。

 簡単な仕事だった。

 彼女の意識に一度(ひとたび)暗幕が下りれば、次に意識が覚醒しうるのはマザートリガーにされる直前だろう。養鶏舎の鶏肉(ブロイラー)さながらに彼女が日の目を見ることはもうない。口もきけず物も食べれずとあらば養鶏舎の鶏肉(畜生)以下の肉人形だ。その彼女の最後の行動は自身を殺した人の白衣を信頼を込めて握ることだった。

 気づけば、誰か一人のために誰か一人を亡き者にできる、そんな軽薄な人間に向けられるべき瞳で妹が岬を見た。

 気が狂うかと思った。

 一人を殺せばN人が救われる。経済学的サンクコストだ。結局、どちらかは死ぬのだから自分は悪くない。間接か直接かの問題であって、ロケット弾のグラスファイバを作るのか、実際にロケット弾を放つのか、そんな些細な違いに過ぎない。運が悪くて自分の役割がそちらになっただけだ。仕方がないで済まされる。ヒュースだって同じだ。これが近界(ネイバー・フッド)の倫理で、罪ではない。

 無意識のうちに噴出した言い訳が脳内でぐるぐると這い回った。

 それでも、寄りかかってくる肉人形から伝わる僅かな体温が岬を罪の意識から逃してはくれなかった。

 冷たい汗が腋を流れ、心臓は不整脈を起こしているかのように不定の拍動を刻む。

 数瞬、あるいは数秒遅れて、岬は距離欠落空間(アンステッパブル)の起動準備に取りかかった。戦利品を遠征艇に持ち帰らなければならない。心を殺しきれなかったために精神を自殺に追い込んだ岬を、今、かろうじて動かしているのは事前に定めた計画でしかない。機械やロボットのようにプログラムに則って動くだけの意思のない存在ならどれだけ楽だったろうか。

 手は震え、心は理性に反旗を翻し、距離欠落空間(アンステッパブル)の起動を取りやめようとしさえした。

 その代償行為だろう。

 あるいは人を殺した実感からの錯乱か。

 振るえる手をかざし、自ら吹き飛ばした人間性をかき集めるように、それが何の贖罪にもなりはしないにもかかわらず、岬はシールドを展開した。

 甲高い硬質の金属音が雪にも負けず室内に反響し、空閑からの(ボルト)に身を曝されていたサエグサは一瞬目を丸くして、直後に責めるような鋭い視線を岬に向けた。

 何故庇った。

 意思を秘めた目が語る。

 誰が散っていっても捨て置く手筈だった。

 空間と空間を繋ぎとめる距離欠落空間(アンステッパブル)にはそれなりの準備時間が必要となる。それまでに千佳を特異点から動かす訳にはいかなかった。サエグサはそれまでの囮となる覚悟を持っていたが、岬の言い訳じみた行動が彼の決意を踏みにじった。

 その代償として、黒トリガーの猛攻をこれから数秒間、一歩も動かずに耐えなければならない。

 白髪をなびかせて、ぐるりと空閑が振り返る。

「八宮って言ったっけ。おまえ、ウソをつかないのが上手だね」

 憤怒と絶望にどす黒く染まった瞳が岬の瞳を鷲頭掴みにした。

「千佳が狙われてるってそういうことか。加勢ってのはこのシールドのことだな」

 絶望を味わった者だけが発することのできる、先の見通せない暗闇を内に秘めた声音。

 岬は竦み上がるのを堪えるので精一杯だった。

「ごめん、悪気はなかったし。これしか方法がなかったから」

 岬の目が泳いでいなければ開き直りともとれる安易で軽薄な言葉だ。

 案の定、これが着火剤となった。

 爆発した殺意が空閑の白髪を逆立たせ、幾重にも施された強化(ブースト)が速度を与え、紫電の閃光と化した空閑が轟音と共に飛来する。

 ラービット主腕装甲を易々と砕く拳だ。シールドなんて障子紙も同然であり、エスクードが間に合う間合いでもない。

 駄目もとのシールドが粉々に粉砕されるまで刹那とかからなかった。

 硝子を無理矢理裂くようなシールドの破砕音を遅れて聞き、死を覚悟した直後、雪よりも白い正方形の壁が岬の前方を覆う。

「なんて顔してるんですかミサキッ!」

 白い壁がトランポリンみたいにしなり、岬の眼前寸前で食い止まったころ、

「ユーマ君と言いましたね。私が生きるために千佳ちゃんには死んでもらいます」

 芯の強い口調が空気を震わせた。

 エルフェールの両手は白い壁を布のように(ひるがえ)し、吹き付ける吹雪を一切寄せ付けずにたゆたうそれをケープみたいに肩回りから一周させる。

 彼女は指輪の輝く左手を顔の前にかざし、一切の躊躇を浮かべることなく、蒼穹を思わせる蒼い瞳で空閑を睨んだ。

「面白い黒トリガーをしてますね。私のために、あなたも眠ってもらいます。全力で行きますよ」

 氷の女王が人差し指の指輪を投げ捨てる。

雪の衣(シルト)の全開、見せてあげます」

 エルフェールが右手を閃かせれば、一枚の布だった雪の衣(シルト)は真っ白い剣に形を変え、白刃から透き通るような金属光沢が放たれた。直後、剣尖(きっさき)が氷の結晶と酷似した自己相似形(フラクタル)に複製され伸長し、鋭利な先端の全てが増殖を繰り返しながら空閑へ殺到する。

 剣の茨だった。

 一次元でも二次元でも三次元でもなく小数点以下の次元を持つ、無限遠に極大された氷の結晶(フラクタル)の茨。

 自己相似形(フラクタル)図形で有名なコッホ曲線は理論計算演算器(コンピュータ・シミュレーション)上その僅か1センチの中に無限遠の距離を持つのだが、理論計算演算器(コンピュータ・シミュレーション)の想定でしかない無限遠をエルフェールは手に握り、縦横無尽に振り回す。

 轟!

 と大気が震えた。

 複製された剣が空閑の右肩を抉るように裂き、割れ目から漏れ出した黒い霧が吹雪に泳ぐ。

 常人の30倍のトリオンを持つマザートリガー候補にしか許されない荒業だ。千佳を自分の代わりに人柱に祀り上げ、空閑を黙らすことができれば生が約束される。生きるために星の海を渡り、指輪(リミッター)を外したエルフェールは全力全開だった。

「ミサキはここまで私を連れてきてくれました。あなたがそんな顔をする必要はないんです」

 身の内で燃え盛るトリオンを大規模トリガーに捧げながら叫ぶ。

「あとは任せてください。自分の命は自分で勝ち取ります!」

 眼光は鋭く、雪の中を跳ねる栗色の髪は鮮やかで、物腰は流麗で淀みなく、常識踏破な言動は普段通り。

 地を踏みしめようとドレスに包まれた腰を低く落とし、無限発散を終え布状に回帰した雪の衣(シルト)を右手で敵に突き付ける。

 雪を踏み込む密度の高い音が合図だった。

 踵を軸とした躰が独楽のように滑らかに回り、白いドレスは虚空に弧を描き、無限遠の白刃による水平横薙ぎが空間を食らい尽くさんと空閑へ迫る。

 再び、地鳴りにも似た轟音が室内を満たす。

 空閑は腕を振るい拳で剣を折り、(シールド)で剣を捻じ曲げ、(チェイン)を張り巡らせ剣を弾き、強化(ブースト)された蹴りで薙ぎ払い、(ボルト)で消し飛ばす。茨に追い詰められれば部屋の四隅へ飛び、それでも追従してくるなら(エコー)で茨の隙間を突き進む。無傷とはいかず、肌が切れ、割れ目から漏出した黒い霧が白い雪の中を漂う。串刺しになるよりマシだった。それでも活路が見いだせなくれば、強化+射(ブースト+ボルト)で剣の海を吹き飛ばす。

 

 マザートリガー候補と大出力黒トリガーの激突は常人には手出し不可能の領域だった。

 岬はシールドを展開して戦利品と己が身を守ることで手一杯だったし、手練れの自警団も皆似たようなものだった。剣を盾にして身を屈めるのみ。

 氷の結晶を象った刀身が断続的に弾け飛ぶ。ガラスが割れるような音が四方八方から響く。

 欠片となった剣の結晶は吹雪に混じり、トリオンの供給が絶たれ、やがて形を保てなくなり泡のように消えていく。

 幾度も繰り返されたのち、不意に破片の四散する音が消えた瞬間――

 鈍い音が響いた。

 サンドバックを強く打ち付ける音が連想される最中(さなか)、エルフェールの躰が鳩尾(みぞおち)からくの字に折れ曲がり、宙へ吹き飛んだ。

 時間が止まったかのようだ。

 彼女の名前を呼ぶ自らの声がとてもスローモー聞こえる。

 岬の足元まで雪まみれになって転がり、呼吸が止まったかのようにエルフェールは短い呻きを断続的に上げる。

 岬は彼女の愛称を何度も叫びながら腰を落とし、背中に手を回して抱き起す。支えを失った操り人形のようにぐったりとしていた。手のひらから感じるドレスの繊維の湿り気と、不安になるほど熱を持った腹部からエルフェールのトリオン体が解けていると悟った。

(肋骨が折れている……。しかも意識がはっきりとしてない。怪我は大丈夫だろうか? どうやって遠征艇までエルフェールを連れて帰ればいい? トリオン体じゃないと距離欠落を渡れない。それよりも空閑の黒トリガーってこんなに強いのか。指輪を外したエルフェールが負けるだなんて)

 音を立てて計画が崩れていく。

 命の灯が消えていくみたいに腕の中のエルフェールが急速に冷えていく。

 カランと音がした。

 岬の計画が崩れる音ではない。

 カラン、カラン、と音が近づいてくる。

 剣の破片が空鳴りする音だとようやく気づき、エルフェールの華奢な肩に白衣をかけながら顔を上げた。

 どうして隣りで寝ている千佳にはそうしてやらないのか?

 空閑の冷え切った視線は言外にそう語っているようで、とても目なんか合わせられない。だからなのだろう、岬の視線は剣の破片が散在する下方向へ泳ぎ、剣を無数に突き立てられ剣山と化した空閑の右足に止まった。

「不思議そうな顔してるね、八宮さん。なんで足が千切れてないかだって。強化(ブースト)を抜いたらこんな足すぐに消し飛ぶ」

 右足を指して、無表情で言う。怒りはとっくに振り切れているのかもしれない。その証拠に声は勢いが弱くなりつつある吹雪よりも冷え切っていた。

「人質交換だ。千佳を返してもらう」

「誰を交換するつもりで?」

 こっちに人質はいないのだ。

「そこにいる女がこれからそうなる。別にオマエの妹でもいい」




読みにくい文章をどうもここまでありがとうございます。

クライマックス感あります。

文章のスタイルを大幅に変更してみました。
読みにくければ声をかけていただければ幸いです。速やかに取り計らいましょう。
感想というよりもアドバイスが欲しいらしいです。飛んで喜びます。

空閑のサイドエフェクト解釈に異論はあると思います。

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