クアッドコプターにはエルロンもラダーもない。
ただ、一度だけでも空戦シーンを書いてみたかった。
ご主人が狂っていく様子を、自分の目でまざまざと見せつけられた。自分の目というのは、ご主人のコンタクトレンズに映る視界のことだ。それに加えて、ドローンに装着されているカメラのレンズが僕の目になっている。だが、ドローンの方でご主人の姿を確認することは
単純作業は恐ろしい速度で、ご主人の精神を
現在、四日目。震える手。ぶれる目の焦点。
凪は王都に来てくれるだろうけど、それを待っていたらご主人は廃人になってしまう。
僕はご主人の元へたどり着こうとドローンを飛ばしたが、2機は撃墜されてしまった。残すは2機。エルフェールに頼んで、ドローンの上部にトリガーを
一方、エルフェールは刺客に狙われてしまい、今は大事をとって自室に籠っている。ボディーガードがつきっきりでいるそうだが、彼女はそれに不満をもらしているらしい。城内を飛行しているうちに、色々な噂話が集音マイクに飛び込んでくるのだ。
ご主人が捕えられている地下牢への道は一つしかない。そこは打ちぱなっしの鉄の扉で、頑丈に閉ざされている。その扉が開く機会は新たに人が収容される時と、日に1度の食事が大鍋で運び込まれる時のみ。
鉄の扉の前では、常時、2人の衛兵が目を光らせている。
その2人はもちろんトリオン体換装者。
僕のドローンは2度もこいつらに叩き落された。
今度は2機同時に突撃させる。これが名実ともに
一つ深呼吸。
無駄なタスクの一切を排除。
空間制御系、座標制御系のチェック。オールグリーン。
ドローンをスイッチオン。パラパラとローターの回転音。
機体は水平に安定。ローターの音は子気味良く一定のリズムを刻む。2機を
天井を這うように直進。吊るされているランプを、右へ左へ避ける。ロールがくるくると心地よい。2機の相対距離はきっかり1m。衝突したり、ローターの作る気流に飲み込まれたりしたら、目も当てられない。
右に3回、左に2回、直角に曲がる。
見えた、あの鉄扉だ。
定刻通り、大鍋が運ばれて来る。一機を可変ピッチでホバリング。そして、待機。
あとは、侵入するだけ。
メータをチェック。もう一機で突撃。
回転翼のピッチを最大限。
機体をやや前傾に。トルクを制御。
限界速度に到達。
守衛の2人がこちらに気づいた。直剣と楯を構えている。
あの楯に叩き落されたんだ。楯の振りざまに起こる乱気流が厄介。
エンジンが唸る。
機体をナイフエッジ。
それから、半ロール。
右へターン。
エルロンを引いて、サイドスリップ。
剣筋が見えた。全然遅い。理想は2人の同士討ち。
右へバンクして、旋回。
機体が軋んだ。
一瞬のスナップロールで向きが変わる。
楯の突撃が眼前に!
スロットルを下げて、ストールターン。
降下で速度を乗せる。
インサイドループ。直剣をくるりと回った。
もう一度ナイフエッジ。2人の視線を惹きつける。
今だ!
右に旋回して、直剣の軌跡を確認。
背面に入れてダイブ。
咄嗟に反転して、逆へターン。
続いて、エレベータをダウン。
再び、逆へエルロン。
角速度を変えて、急ブレーキ。
木の葉のようにスナップ。
楯が真横に振られた。フラップを下げて、機体を上昇。
乱気流に飲み込まれて、きりもみ旋回。
視界がぐるぐると回る。
制御系の変化が目まぐるしい。
高度が下がる。
一瞬だけフラップを使う。
エンジンは唸る。
こんなに回ったことは今までなかったのかもしれない。
背面が直剣とすれ違う。
エレベータを引いて、
ハーフ・アップ。
最後のダンスだ。見せてやろう、インメルマン・ターンを。
舵を切って、ピッチアップ。
180度ループ。
続いて、ロールで逆転。機体が振動する。
機速が足りない。
大気の流れを引っ提げて、楯が迫る。
気流に飲まれ、舵がきかない。
ジャイロスコープがレッド
そのまま、ストール。
プロペラ後流を当てて、僅かに反転上昇。ちくしょう、本当に僅かだ。
――――プツン、と視界が真っ暗になった。
遅れて、部品が弾ける音。ガラス片が砕けるみたいに、ばらばらと細かい音が残響する。
この一機は最後まで十全に仕事をこなしてくれた。
電子回路で意思を交わし合った盟友に冥福を。
もう一機は気づかれずに侵入成功。ご主人が見た記憶を頼りに、ご主人が待つ独房の前へ到着。突入手段を考えるべく、ホバリングで待機。
「……クーちゃん、待ったはダメだって言ったでしょ。……凪、キラーは反則だってば」
ご主人の声が扉越しに聞こえる。抑揚と調子と声量が不安定。聞く者の不安を掻き立てる声音。幻覚あるいは妄想がご主人を取り巻いているのだ。もっとも、そうすることがご主人の精神を安定させる唯一の手段だったかもしれない。
機載カメラを向けるも扉に阻まれてご主人の姿は見えなかった。
その中のご主人はというと、手を動かし一心不乱に〇を書き込んでいる。そんな空恐ろしい光景が視覚共有されたコンタクトレンズに映っていた。ご主人の目の焦点は定まっておらず、小刻みに微動を繰り返す。ドラッグ患者みたいに、その○はぐにゃぐにゃと
焦燥感が募り、僕はもう居ても立ってもいられなくなった。ローターの出力を最大限。ポストみたいな造りになっている食事の運搬口へ、なりふり構わずに突入。
ガシャガシャとローターが
一瞬、カメラに砂嵐が走った。
ローターを再稼働。
――ダメだ、3枚やられている。
アセンブリで命令を直接入力。ローターをもう1枚止めて、計4枚に。これで揚力が安定するかもしれない。動けと念じながら、コマンド入力。弱々しい羽音だが、回転翼はなんとか風を切った。ふらふらと蛇行しながらご主人が待つ机の上へ飛行する。
「ご主人! 大丈夫!? ごめんね、来るのが遅くなって」僕はドローンに搭載されている指向性マイクで声を出した。
「いや、クーちゃん7六飛車は明らかに悪手でしょ。……凪、やめて、アイテムボックスの前にバナナの皮を投げるのは卑怯だって」
「ご、ご主人!? 」
「え、嘘だあ、それは詰めろじゃないって、クーちゃん。……絶対、このアイテムボックス偏ってるって、バナナしかでないもん」
「ねえ、ご主人? ご主人!? 」
「え、飛車から切るの、クーちゃん、これ本当に詰むの? ……凪、絶対乱数調整しているでしょ、何で凪ばっかスター出るの? 」
「え、嘘でしょ、ご主人。僕だよ、目を覚ましてよ。ねえ、ご主人、ご主人!! 」
「うわ、本当に詰んだ……、クーちゃん、終盤強過ぎだって。…………え、これアイテムだったでしょ、凪。へ? 偽アイテムボックスを紛れさせるのは、ずるだって決めたじゃん」
口を半開きしたご主人は幻覚と
こんな姿を見てしまい、こっちの精神が狂ってしまうかと思った。ご主人の目は毒よりも黒く、闇より深い
ご主人の不安定な声は聞くに堪えず、耳を塞いでしまいたくなった。
軍人ですら1日と持たずに発狂するこの拷問を、ご主人は4日間延々と繰り返していたのだ。無理もないのかもしれない。
「ねえ、ご主人、勝手にAR(拡張現実) するからね。――――いいよ、返事は聞いてないから」
ご主人は僕と凪の幻覚と遊ぶのに夢中らしかった。もちろん、返事は無かった。妄想上の僕はご主人の玉を詰ませたらしい。もう、ご主人の精神はとっくに詰んでいるかもしれないのに。
切り揃えられた薄緑のセミロング、白シャツ、それを留める黒いラインが刻まれたサスペンダ、いつも通りの恰好で僕はご主人のコンタクトレンズ上にARされた。
ご主人の視界に手をかざしてみる。――ダメだ、無反応。
思い切って抱きついてみる。――やっぱり、無反応。
触ることはできないけど、ご主人の手を取ってみる。――くそ、無反応だ。何も返してくれない。僕は、ご主人に触れることすらできないんだ。
ということはある意味において、僕という存在は認識上のものでしかない。ご主人にとっては、幻覚上の僕も、電子回路上の僕も大差がないのではないか。
これに気づくと、途端に虚無感に襲われた。それほどにこの気づき、発覚は強烈だった。所詮、――僕は電子回路上の情報の集合体でしかない。夢だと気づいたら夢が醒めてしまうように、自分が計算だと気づいた途端、意識をたらしめている膨大な計算が崩壊して、自分が消滅してしまうような気がした。
為す術が無くなった僕は、うわ言を呟き続けるご主人の隣で体育座りをした。ご主人の精神は刻一刻と削られているのに、なんて悠長な奴なんだ。
あれから、2時間ほど経過した。ご主人は涎を垂らしながら、うわ言を垂れ流している。食事が運ばれてくることはなかった。ご主人は看守からも見放されたのかしれない。
「ご主人、もう頑張らなくていいんだよ……」
鬱病かもしれないので、僕はそう声をかけてみた。でも、ご主人は向こうの世界で僕と凪と遊んでいるらしく、微塵も反応を示さなかった。
「ご主人、ご主人がどうなってもずっと一緒だからね」
歯の浮くような恥ずかしい台詞を言ってみたのだが、それでもご主人は聞く耳を持たない。
「ご主人、凪の身が危ないよ、助けて! 」
これでご主人の目が覚めてしまったら、それはそれで空しくなるのだが、その心配は全くの杞憂だった。エルフェールの名前も使ってやってみたが、当然駄目だった。
「兄さん、目を覚ましてください! 」
精一杯、凪の声真似をしてみたが、これでもご主人は
「ご主人、前にも言ったことがあると思うけどね、……大好きだよ、岬」
実に久しぶりにご主人の名前を呼んだ。だが、結果は変わらなかった。
何の反応も示さないご主人の姿を見て、はあとため息をつく。まさに、その時だった。
ご主人の隣に24時間いる僕じゃなかったら見逃してたね、そんな台詞が脳裏(演算子の集合) に
「ねえ、ご主人! いつまでそっちで遊んでいるの!? 早く戻って来てよ、ねえ、岬!! 」
僕はARされた僕を動かして、ご主人の瞳を見据える。
じっと見つめること数秒。ご主人は一度瞬きをした。それを皮切りに、何度も目を
次に、ごしごしと目こすって、最後に僕の頬を触れた。
「ク、クーちゃん? 」抑揚の安定しない声をご主人は発した。
「そ、そうだよ、ご主人、僕だよ」
「え、嘘でしょ、どうせ幻覚でしょ」
「僕だって、ご主人。ほら、ご主人がデザインしてくれたサスペンダだよ」
「本当に、クーちゃんなの。幻覚じゃないって、証明できる? 」
「はあ? 疑り深すぎでしょ、ご主人。うーんと、ご主人の隠しフォルダに入っている物を列挙できるけど、どうする? 」
「いや、僕もその内容は知っているから、それを並べても幻覚じゃないって証明にはならないでしょ、クーちゃん。だから、わざわざ、言わないでいいよ」
相変わらず半分以上レイプ目だけど、どこか理屈っぽいご主人が戻ってきた。
「え、それって、ご主人が知らないご主人に関する情報を示せってことでしょ。それも、この場で確かめられる」
「うーん、まあ、そうなるかな、クーちゃん」
「なるほどね」僕は頷いた。そして、ぐいとご主人の目を覗き込む。「僕は、ご主人のことが大好きだよ、ねえ、岬は僕のことどう思っているの? …………どう、ご主人? ご主人の作る幻覚ならご主人を困らせることは言いっこないでしょ」
自画自賛になるけど、かなり論理的な解法だ。これを突きつけられたご主人は、ぱちくりと瞬きをした。
「一応、背理法ってやつなのかな。うん、僕の知っているクーちゃんだ。いや、知っているクーちゃんだと、幻覚と曖昧になってしまうかもしれない」
そう答えて、ご主人は一度頭を振った。意識にかかる
「まあとにかく、クーちゃんは一つ勘違いしているよ。それを訊いても僕は全然困らないからね。僕もクーちゃんのことが大好きだよ」
「ご主人……」僕は息をのんだ。
「助けに来てくれてありがとね、クーちゃん」ご主人の瞳が僕の目をはっきりと捉えた。「僕、本当に死ぬかと思ってた。えっと、現金な返事でごめん。いつも一緒だったから、気づけなかったみたい、クーちゃんの事ばっかり頭に浮かんでたんだ……」
ご主人は助かった安堵か、正気に戻れた喜びか分からないけれど、目に涙を浮かべていた。
そして、鼻水をすすりながら泣いた。涙と鼻水と唾で、普段の背格好の良い爽やかな姿からは全く想像できないというか、
「ご、ご主人、百年の恋も冷めるような顔になっているよ。元々ラリッていて、酷い顔になっていたんだから。ていうか、看守にばれちゃうって! 」
「ひ、ひどいよ、クーちゃん。自分から言ってくれたのに、そんなこと言うなんて」
「ご主人、積もる話はあとで聞くから、今はとりあえず、脱獄しよう。ドローンにトリガー括り付けてあるから、これ使って」
「あ、ありがとう、クーちゃん。○を書いてあげるね」
「ご主人、戻ってるって! 」
僕が声を怒らせて突っ込むと、ご主人はすぐにトリオン体へ換装した。もちろん、服装から髪型、表情までの全てが一新された。
「クーちゃん、CADで作成した、見取り図を頂戴」
「了解、ご主人」僕はいつも通り返事をして、ご主人の人工視覚へ3D投影図をロードする。
「よし、座標指定完了。跳ぶよ、クーちゃん」
「やっぱり、テレポータは反則的だよね、ご主人」
時間にして僅か10秒。2度の瞬間移動を終えて、初日にエルフェールから案内された部屋へ戻って来ることができた。
「ご主人、お疲れ様。本当に大丈夫? 辛かったら言ってね」
「いや、もうだめ、一生分の〇を書いたし、背中と肩は傷だらけだし、体重は減ったし、手は震えるし、頭の中は靄がかかったみたいにあやふや」
「一応、客観的に自己を分析できているようだね。でさ、これからどうするの、ご主人」
「休養したい……。療養したい……。でも、その前に無罪を証明してくる」
そう力なく返事をしたご主人はノートPCを手に取って、城の見取り図をARした。瞬間、再び
それから、ご主人は≪キオン≫の国王へ自身の隠しフォルダを見せた。一般的に肌色成分が多いって言われているシロモノをだ。
「国王陛下、これが何よりの証拠です」
「ご主人、今度は不敬罪食らっちゃうって」僕はこそこそと耳打ちを入れた。
「いや、大丈夫だって、クーちゃん。国王も男なんだから」ご主人もこそこそと声を出す。
「は、八宮君! これは重要な証拠だ! その、提出してもらってもいいかね」
国王の喉から、ごくりと生唾を飲み込む音が聞えた。若干鼻息が荒い。
ご主人は無言で頷いてから、カタカタとキーボードを叩いた。通信規格をそろえるために、一度デコードしているらしい。こういうことを僕にやらせないところが、一応紳士な所なのかもしれない。いや、本当に、そうだろうか?
「国王陛下。どうぞ、お受け取りください」ご主人は大規模情報記憶装置を国王に
「八宮君、これは大事に預からせてもらう! ……すまなかった、君にはとんだ無礼を働いてしまった」
「ええ、その通りです。これは国際問題です」
「ご主人、強気に出過ぎじゃない!? 」
「いや、だってさ、クーちゃん、強気に出られるだけの貸しは十分にあるんだよ。――――国王陛下、厚かましい話ですが、これから一切、僕と僕の妹に手出しをしないでください」
「八宮君には、二度エルエルを救ってもらって、その上、今回の冤罪の件もある。ただ、冤罪を認めてしまうのはどうにも、体面が悪い。一つ頼まれてくれるか。それが、君の要求を飲むことにもつながる」
ご主人は首を縦に振って、続きを促した。国王はどうかこのとおりと、90度お辞儀をしてから話し出す。エルフェールの間違った玄界理解の原因は、どうやらこの父君にありそうだ。
「幸い君が捕まったという情報はまだ大きく広がってはいない。1ヵ月の間だけでいい、エルエルの身辺警護をやってもらえないだろうか。玄界の方がそういった大役をこなせば、移民や捕虜の2世への風当たりも無くなるはずなんだ、どうか、頼む! 」
「1ヵ月ではなく20日。残りはクーちゃんと凪と観光をする。それと、≪キオン≫のトリガー技術に関する情報が欲しい。こちらも差し出せる情報の全てを公開する。これで手を打ってくれませんか、国王陛下」
「そこまでとなると、私の一存では決められん。ただ、前向きに検討する。……するが、とりあえず、エルエルを護ってやってくれないか? 人道に反することはしたくないが、八宮君の妹の所在は把握している。これがどういうことか、
国王は低いトーンで要求を告げた。
ご主人はごくりと固唾をのむ。
僕は国家権力を親バカに持たせてはいけないと呆れた。
「ねえ、ご主人、どうするの? 」
「うーん、凪がここにいないことが一番問題なんだよね。――――国王陛下、その要求をのみましょう。ただし、3週間だけです。それまで、エルの身辺警護でも、SPでもしましょう」
「ありがとう、岬君! これで、君を牢から出す言い分もできる上がる。我ながら名案だ! では、明日から頼むぞ、岬君。お義父さんと呼んでもくれてもいいからな!! 」
親バカ国王は喜色を浮かべた。このまま快哉を叫びそうである。
ご主人は礼をしてから、テレポートで消えた。再び、ご主人と僕が踊り合った部屋へ戻る。
僕は今なら国王を暗殺できたのではと、黒いことを考えていた。
「あーあ、エルフェールがついてくるのか」
「そんなに落ち込まないでよ、クーちゃん」
「何、ご主人はやっぱり胸があった方がいいの? 」
「はあ? 今はそんなこと関係ないでしょ」
「あんまりデレデレしていると、頭にぶっ刺さっている電極使って、お仕置きするからね、ご主人」
「クーちゃん、声が笑ってないんだけど……。〇を書く、〇を書く」
「ご主人! 戻っているって。ご主人が生身に戻ったときが若干心配だよ……」
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あと、1月はとてもつもなく、忙しいです。
今年一年ありがとうございました。
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