トリオンエンジニアリング!!   作:うえうら

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長くなってしまいました。温かいお飲み物と一緒にどうぞ。


第五章 それぞれの想いと旅立ち
23 蝶の楯β版


ここは白い壁がよく見えていた八宮隊の隊室。凪の私物――勉強道具、携帯ゲーム機、据え置きゲーム機、ぬいぐるみ、洗面道具に、私服やパジャマ等々――がどんどん増えてきて、ここは段々と凪の私室へと姿を変えつつある。“家にいても、あまり兄さんと会えないので、しばらくここに住んでみることにしました”、とは凪が炊飯器と卓上コンロを棚に乗せながら言った言葉である。

 実際、格ゲー50本勝負やオムライスRTA対決、レトロゲームRTA、1時間耐久テトリス等、2人で遊ぶ時間は確実に増えて、彼女は満足しているようだ。僕もここ1週間は昔を思い出したように楽しんでいる。

 そんな凪は、白いカーテンで仕切りを作ったパーソナルスペースで、数学の勉強中らしい。カリカリとシャープペンシルを走らせる音。パラパラと参考書をめくる音。それに混ざって凪の声がした。

「“概念の集合の方が対象の集合よりも濃度が大きい”ってちょっと実感に反しますね……」

 とぼやきながらも、『無限の無限系列』への扉を開こうとしている真っ最中だ。

 僕はというと、大規模侵攻以来続けてきた蝶の楯(ランビリンス)の解析・再構成を行っている。前途多難であったこの作業もいよいよ大詰めを迎えようとしているのだが、作業の遅々とした進行具合は遅々としている。無意識のうちに、僕は愚痴っていた。

「いや、互換性無さすぎでしょ…。再現しても、人間には動かせない気がするし……」

「兄さん、静かにしてください。今、証明のいいところなんですから」

 薄手のカーテンの向こうから、ぴしゃりと凪の声がした。布に隔てられているのだが、高解像度音声のようによく耳に届く。

「あ、ごめんね、凪。勉強中だったよね、ちょっとラウンジの方でやってくる」

「い、いえ、そこまでじゃないんです。もう少しで、ひと段落つきますから、そしたら遅めの夕ご飯でも一緒に食べましょう」

 うわずった凪の声が僕を引き留めてくれた。

 僕は静かにやります、と謝罪の意を込めて返事をし、再びキーボードを叩く。……叩くのだが、その手が止まる。

「ご、ご主人、また何かあったの」

 セミロングに切りそろえられた薄緑の髪をかき上げて、クーちゃんが僕の耳のすぐ側で囁いた。

「蝶の楯にインターフェース的な機能が無いかもしれない。たぶん、十中八九で角が脳とトリガーの仲立ちをしてたんだと思う」

「…………え、それは……。ご主人、今まで頑張って来たのに……」

 しばしの沈黙の後に、声のトーンを下げてクーちゃんが言った。

 頑張ってきたというより、苦労してきたというのが本当の話で、アフトクラトルのトリガーはとにかくこちらのものと互換性が無かった。まず、蝶の楯の諸々のデータをPCに出力するのに苦労させられた。あの手この手を尽くした挙句、結局、栞さんの手を借りることになった。お礼は甘いものがいいと、メガネをきらりと光らせてねだってきたので、近いうちに借りを返すことになりそうだ。

 栞さんの助けがあっても、チーフの雷蔵さんが行っている、角の解析なくしてはこれ以上進捗しないかもしれない。

「あれだったら、ヒュースからぶっこぬいてもいいんだけどね」

「え、ご主人、それはグロイって。だって、あれって、脳と直接つながっているんでしょ」

「まあ、それは冗談として…。脳と直接つながっているからこそ、あの無数の金属片を直観的に操作することができるんだと思うよ。まさに、生体コンピュータによるインターフェースだよね」

 インターフェース、換言するならゲームのコントローラ。それが無い状態で蝶の楯を動かそうと思ったら、それこそ金属片の1つ1つに細かく命令を送る必要がある。位置情報を測位して、電磁気力を制御して、周囲との相互作用を考慮しながら磁極を操る。それを並列的に間断なく行うってことだ。そんな大規模構造問題は普通の人間にできっこない。

 …………。

 普通の人間には……だ。

「ご主人、どうしたの。ぽかんと口を開けちゃってさ」

「――――クーちゃん。蝶の楯使ってみる?」

 僕はキャスター付きの椅子をくるりと回して、クーちゃんの方へ向き直る。

「いいの? ご主人、僕が蝶の楯を使っても。僕も一緒に戦ってみたいと思っていたんだ」

 クーちゃんの表情はパッと花が咲いたように明るくなった。

「ありがとう、クーちゃん。じゃあ、蝶の楯β版とそのウィザードを送るね」

「へへ、楽しみだね、ご主人」

「兄さーん、夕ご飯どうしますか。レトルトにします? それとも何かやって負けた方に作らせますか」

 クーちゃんと僕の共有ストレージにファイルごとコピペをしていると、白いカーテンから顔を覗かせた凪が訊いてきた。凪の手には、対角線論法による証明が書かれたノートが握られている。行間7mmのノートの下段には“任意の集合は、そのべき集合の方が濃度が大きい”と書き記されていた。科学とは異なり、永遠に反証されえない真理を紡ぎ出した凪の姿はどこか誇らしげである。

「模擬戦10本勝負で負けた方がそれなりに豪華なものを作るっていうのはどう」

「受けて立ちますよ、兄さん。ただし、TAS 兄とトリオンスフィアの複製は禁止ですからね。今までの経験から言わせてもらいますが、兄さんは実利が絡むと、途端にチートもハメ技も容赦なく使ってきますからね。…あ、2本目の電極も禁止です」

 凪はしれっと条件を追加してきたが、僕は不敵に笑ってみせて、いいだろうと返した。

 

 

模擬戦ブースからはあまり活気が感じられなかった。現在時刻は2月11日、20:00ちょっと過ぎ。平日の遅い時間ということもあって、大学生ボーダーと本部の夜勤隊員がぽつぽつといるくらいである。大型スクリーンには互いに切り結び合う、太刀川さんと夜勤仲間の弧月使い24歳が映っている。同僚達の中で一目置かれている彼は、なかなか善戦しているようでスコアは5-2だった。

 夜勤勢の奮闘に健闘を称えたいとも思ったが、何分お腹が減っていたので素知らぬ顔でブースに入る。

「クーちゃん、できそう?」

「うん、なんとかなりそうかな、ご主人。単純なものを階層構造にして抽象化させるのは、思考機械の得意分野だしね。直観に頼っていたヒュース以上に、使いこなしてみせるよ」

「あれだね、クーちゃん。感覚による理解は、感覚による欺きってやつ」

「デカルトだね、ご主人。演算処理(コンピューテ―ション)の真髄を凪に見せてやろう」

 クーちゃんが頼もしくも、勢いよく答えたので、その流れに任せて転送を開始する。

 

 

躰の再構成によるラグで、視界が一時的に暗転した。コンマ1秒後、僅かな光が目に届く。淡いガス灯の光と、雲間に隠れがちな月明かりが僕を迎えてくれた。市街地Bで時間帯は夜。何か特別な理由がない限り、凪は夜の時間帯を選ぶことが多い。純白の白衣が闇夜に映えるので、その選択にセンスを感じるが、今回に限っては悪手だ。

 心の中で、蝶の楯 と発し、周囲に黒い金属片を展開する。

「ご主人、蝶の楯の起動を確認。これより、その全動作をこちらで請け負う」

「クーちゃん、光学迷彩」

「了解、ご主人」

 クーちゃんの声を合図に、辺りを漂っていた鋭角の金属片は統制のとれた動きを始める。鈍黒い金属片が並進対称性を持つ形で敷き詰められ、1枚の布となり、それが闇のように深い黒衣を形成した。

 光学迷彩と一口にいってもその種類は多種多様である。蝶の楯のそれは電磁波吸収型と呼ばれる類のものだ。その原理は可視光を含む光を吸収し、光の反射を抑えるというごくシンプルなもの。単純なこの迷彩でできることは、“光の屈折を抑える≒ただ黒くなるだけ”なので真昼間に使うことはできない。だが、光学情報の全てを飲み込むこの迷彩は、光学的な意味合いでは暗黒物質と等価である。故に、夜の帳が降り切ったこの空間では非常に有効な欺瞞方法に成り得る。ガス灯の明かりが射さない室内に逃げ込んでしまえば、まさに不可視そのものだ。

「クーちゃん、凪の試し打ちと同時に電磁加速砲で」

「了解、ご主人」

 こそこそと作戦を立てながら、半地下になっている商業用ビルの駐車場で待ち伏せを謀る。等間隔に配置された直方体の柱が無機質な印象を与える場所だ。ひんやりとしたコンクリの柱を背もたれにして、身を隠すこと10数秒。

 案の定、PDW(個人防衛火器) 型の銃を片手に凪が表れた。ミニマップに表示されるマーカーを頼りにやって来たようだ。

 その身に纏う雪のように白い白衣は、乏しい月明かりにもかかわらず、闇夜を切り取って克明に浮かび上がる。白衣の白と夜の黒が刻む陰影の美しさに、思わずごくりと息を飲んだ。

 凪の手に握られた銃身は見えない敵を探ろうとして、左右に彷徨っている。

 それに対して、電磁加速砲を模る(かたど)1対のレールは真っ直ぐ凪に向けられている。

 数秒経過したが、依然として、凪の銃口は大体の位置を捉えるにとどまっていた。

 今すぐにでもトリガを引くぞと、クーちゃんが構えているまさにその時。

 照準を左右に惑わせていたPDWが、忽然とその姿を狙撃銃に変える。

 ――――と同時に、闇夜を引き裂く閃光。銃口からの眩いマズルフラッシュ。

「クーちゃん!!」

 咄嗟に片手でシールドを形成。それに同調して叫んだ。

 パキンと、ガラス質のものが砕ける音。銃弾が容易くシールドを貫通。

 間をおかずに、ガギンと金属と金属が強く相打つ音。衝撃に鼓膜が震えた。

「熱観測されているよ、ご主人!」

「分かっている、クーちゃん。失念してた」

 正に間一髪。一弾指の間に組成された金属楯が銃弾を防いでいた。

 即座にイーグレットからPDWに持ち替えた凪は、その銃口から無数の弾丸を放つ。けたたましい発砲音が半地下の駐車場に幾重も反響した。

 絶え間ないマズルフラッシュの逆行が燦々と凪を照らす。

 銃弾と金属楯が衝突。鋭い金属音が響く。その音は連続性を持ち、留め処なく鼓膜を揺らす。

 僕の眼前に組成された金属製のコウモリ傘が、引きも切らず襲いかかる銃弾の(ことごと)くを弾く。

 正六角形状のコウモリ傘の組成に連動して、数十の金属製の小さな楯がその周囲に展開される。銃弾がコウモリ傘に当たって跳ね返り、さらに小さな金属楯から跳弾する。

 跳弾。跳弾。そして、仕上げとばかりに浅い角度で反射。

 鏡のように磨かれた金属片の楯が、凪の放った銃弾をそのまま彼女へ返した。

「兄さん!? それやっぱり、アフトクラトルのっ!?」

 180度ベクトルが変更された銃弾に、たまらず大きく跳び退った凪は声を荒げて言う。

 僕はだったらどうしたと言わんばかりに、グラスホッパーで一足飛びに距離を詰める。一度踏んでしまえば用済みなので、跳躍と同時に、弧月の出力を開始。

「クーちゃん、電磁加速」僕は標的を見据えて言い放つ。

「了解、ご主人」淡々とクーちゃんが返す。

 鞘から抜き放たれた白刃が黒刀へと変貌を遂げる。鋭利な金属片を白く輝く刀身に纏わせたのだ。

 グラスホッパーによる慣性と磁極による斥力での加速。瞬刻のうちに弧月の間合いで接敵。周囲に浮かぶ金属片が発する斥力を利用し、黒刀で横ざまに薙ぎ払う。

 電磁気力に支配された刃は止まることを知らない。自分が刀を振るわせているのか、刀に自分が動かされているのか判別つかないほどの速度。

 ぱきり、ぱきりと薄い金属から悲鳴が上がる。一対のスコーピオンが刀身の中ほどで断ち切られた。

 スコーピオンを紙切れの如く裁断した黒刀に、速度の減退など皆無に等しい。

 刹那を刻む一閃。

 腰から切り離された凪の上半身が、宙へ跳ね上げられる。

 視線が交錯。チートは禁止だって言ったじゃないですか、と目線で訴えてきた。ばつが悪くなり首を横に振って視線を外す。

 時間にして1秒強。緊急脱出の跡だけがそこに残った。

 

 

「兄さん、チートは禁止だって言いま―――」

 ぶつり、と通信を遮断した。ブースへ戻ってくるなり、ヘッドセットから文句が聞こえてきたが、凪に言われた条件は守っているはずなので、シャットアウトしておいた。蝶の楯を使うなとは言われていないからね、と心の中で言い訳をする。

「ご主人、蝶の楯ってすごいね。ご主人と一緒に戦っているのが実感できるよ」

「そうだね、クーちゃん。イーグレットを防ぐなんて僕じゃできなかったからね。ありがとね」

「へへ、どういたしまして、ご主人。次の戦いで、凪はきっとメテオラを使ってくるから気を付けてね」

 白い歯を見せてにこりと笑うクーちゃんが自然と目の前に浮かび上がった。もしクーちゃんに躰ができたら、3人で一緒に戦うことができるのかなと明るい未来を想像してみた。

「気を付けておくよ、クーちゃん。あ、それとさ、開発室のコンピュータを並列化して、まるごと構成要素(ビルディング・ブロック)に加えても大丈夫だよ」

「了解、ご主人。電磁浮遊する金属片の制御には、まさに大規模演算処理が必要だもんね」

 これでさっきよりしっかりサポートできるよ、と得意げに言ったクーちゃんの言葉を胸にとめて、転送をすべくタッチパネルを押す。

 

 

迎えてくれたのはガス灯の淡い光。家屋のガラス窓がおぼろげにその光を反射している。ミニマップを確認すると凪との距離は100程だった。示し合わせたように、先ほどの半地下の駐車場で接敵。トリオンの消費がばかにならないので、間合いに入る寸前で蝶の楯の展開を開始する。

 意外なことに、凪はメテオラを使ってこなかった。彼女の両の手には、白い光を放つスコーピオンが握られている。剣尖(きっさき)は真っ直ぐに僕の方へ。ダダッと地に足を踏みしめて、一直線にこちらへと疾走。その白刃は鋭敏に振るわれ、巧みに翻り、夜の闇に幾本もの白い残影を刻む。

 そうであったとしても、凪の剣筋は普段よりも鈍かった。その理由など説明しようもないが、その剣を躱しながら、何か言いようのない違和感を覚えた。

 凪から続けざまに繰り出される斬撃は確かに速い。が、クーちゃんが操る3本の金属触手と僕の黒刀がその一切を寄せ付けなかった。完全に不意を突かれる形で放たれた足ブレードも、クーちゃんの鋭利な金属触手がそれを弾き返す。凪の重心が予期せぬ形でぶれる。

 隙を逃さずに、電磁誘導で加速した弧月を振う。スコーピオンごと凪の両手を肘から斬り飛ばした。間髪入れずに、磁力で先鋭に圧縮された金属触手が凪を襲う。

 闇夜に溶ける長い黒髪が宙を舞った。金属触手に刎ねられたのは凪の首だった。

 苦痛に歪められた凪の顔が、悲しげなものに変わる。

 その瞳と視線が交錯した。凪の表情に耐えられずに、僕は顔をそむける。

 視界の端で、首のない凪の躰が空へと緊急脱出した。

 言い知れぬ違和感に取りつかれた僕だけが残された。

 

そんな違和感もブースに転送されてから、

「やったね、ご主人」

 とクーちゃんの調子のいい声を聞くと、簡単に上書きされてしまった。結局、違和感の正体は掴めないままだ。凪の物悲しげな表情が脳裏にちらつくのと並行して、3戦目が始まる。

 凪の振うスコーピオンは単に速いだけだった。以前僕に見せた、羽のような身の軽さをその剣は宿していなかった。凪の表情からは、何より彼女に握られたその剣からは、迷いや焦り、戸惑いといった感情が滲み出ていた。

 僕が凪の平衡を崩して、クーちゃんが金属触手を振り回す。こうやって勝利を収めたが、僕の心の中にもやもやと燻る違和感は消えてはくれなかった。

 4戦目と5戦目も、凪は焦りや戸惑いや悲しみといった感情を必死に押し隠すようにして、スコーピオンを振っていた。3戦目と同じ手法で僕とクーちゃんは勝利を収める。違和感は膨れ上がるばかりで、チクリと胸が痛んだ。

 コンタクトレンズの端に、新着メールが1件と表示された。凪からのメールだ。無線を切っていたので、これを寄越したのだろう。違和感の正体に気づけないままメールを開くのが躊躇われたので、確認しないまま6戦目へ臨んだ。

 

6戦目も同じようにして勝利した。クーちゃんが喜んでいたので、僕も笑顔をつくってみせた。7戦目でようやく違和感の正体に気づいた。

 7戦目の決まり手は、クーちゃんの電磁加速砲だった。胸に風穴を空けられて、凪が倒れた。

 その姿が、模擬戦でどこぞの他人に、凪がやられたときの姿と重なった。他人に凪が傷つけられたのだ、その当時は正直言って全然いい気がしなかった。あまり冷静でいられなかった。

 最近だと、出水さんに凪が挑んだ時がそうだ。トリオン体だからといって慣れるなんてことは無かった。変化弾に凪がハチの巣にされて黙っていられる訳がないのだ。その後すぐに出水さんを模擬戦に誘って、トリオンスフィアの無限複製で跡形もなく消し去ってやった。それでも、わだかまっていた気持ちは完全にはなくならず、胸の内に居座ったままだったことを覚えている。

 クーちゃんが放った電磁加速砲に、その時と同種の感情を覚える自分がいた。自分が弧月を振って凪の首を斬り飛ばしても何も感じない、むしろ喜びを覚えるくらいなのに、他人がそれをするのはどうしようもなく嫌なのだ。

 凪がプリン頭に向けて言った言葉が脳裏をよぎる。これは鮮明に思い出すことができた。

『兄さんを撃ったことはいただけません。……兄さんを撃っていいのは私だけですから』

 僕もこれと似たような感情をずっと抱えてきたのかもしれない。2日前に凪がこれを言葉にして、今ようやく理解させられたのだ。

 

つい先日行った、凪との模擬戦を思い出す。あの時も、市街地Bで時間帯は夜だった。お互い夢中になって50本もしのぎを削り合った。目的を忘れるほどに、2人での遊びに没頭していた。そう言えば、僕が初めてトリガーを握ったときも、凪と50本勝負していた。

 “我を通したければ遊びで勝てばいい、幼いころに結ばれた2人だけの盟約に僕達は忠実に準じる”、今の僕はこれに忠実であれたかと、振り返ってみる。

 ふうと、自然と息が漏れた。拳を作って、額を叩く。何が、“条件は守っている”だ、自分に呆れてしまう。

「ご主人? 」

 ヘッドセットから、きょとんとクーちゃんの声がした。一緒に戦える喜びに舞い上がたままのクーちゃんは、凪の心の機微に気付いていないのかもしれない。

 むしろ、小さいころからずっと遊んできた僕だからこそ気づく、ほんの些細な変化にも思えてきた。

 僕は8戦目の開始を告げるタッチパネルに触れなかった。

 少し前に届いたメールをゆっくりと開く。

 

『兄さん、トリオンスフィアの複製は使ってもいいですから、蝶の楯だけは使わないでください。お願いします。というか、伝えたいことができたので、これを見たら私のいる場所へ来てください。……あと、何で無線を切るんですか。とにかく、早く来てほしいです』

 

文面を確認するなり、すぐに僕はブースを出た。感情に突き動かされるままに、足を走らせる。ヘッドセットからクーちゃんの慌て声が聞こえたが、それは耳に入ってそのまま抜けていった。

 いつかを思いすようにして、凪に電話を入れる。八宮隊を結成してからはもっぱら無線通信だったので、電話をかけるなんて、あの時以来だった。

 最初のコールが途切れる前に凪が出た。

「凪、言いたいことがあるから、そこで待ってて」

 以前と同じように、すぐに通話を取り止めた。

 ブースが集まっている会場の広さは、たかだか体育館2個分ほどだが、不思議と息が上がった。勢いよく扉を開けて踏み込む。

「凪、ものすごく、待たせた。一緒に遊ぼう」

 台詞はあのときのままだ。凪の手を取ろうと、右手を伸ばす。

「はい、兄さん、ものすごく待ちました。一緒に遊びましょう、……と言いたいところですが、まずは話を聞いてください」

 そう言って、凪は右手を差し出してくる。

 その手は僕の手を握り返すことなく、僕のヘッドセットを掴んだ。

「へ!? 凪――――」

 ヘッドセットから動揺に包まれた声がしたが、それは次第に遠ざかって、すぐに聞こえなくなった。

「兄さん、とりあえず、ついて来てください」

 自分のヘッドセットと僕のヘッドセットを手に持った凪は足早にブース内から抜け出した。

 廊下には黒い革靴と黒いローファーが、カツカツと床を叩く音だけが響く。お互いに言葉を発さなかったが、この沈黙には安心感があった。

 

 

ここならカメラはありませんね、と口にした凪は、2つのヘッドセットを無造作に床に置く。そして、ぎぎいと音を鳴らして、扉を押し開けた。ひりりと冷たい空気が廊下に入ってくる。その向こうへ、2人で足を踏み出す。

 凪に連れて来られた場所は、簡素な造りの非常階段だった。

 時刻は21:00少し前。大気はまるで凪いだ湖面のようで、少しも風はなかった。

 かつて空を彩っていた曖昧な茜色は、すっかりと夜の黒に覆い隠されている。

 足元の階段さえも墨をぶちまけたように、その色に染め上げられていた。

 2人の白衣の白だけが混ざらずに、世界から決然と決別していた。

 




ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
感想とても嬉しいです。読み返すほどに嬉しいです。アドバイスも嬉しいです。酷評も嬉しいです。感想書いてくれてありがとうございます。
疑問、矛盾点、要望などなどがあれば、全て答えます。
岬君が言ってるあの時ってのは、5話のことだと思います。
※以下はチラシの裏

「えっ!? 兄さんも、オムライスRTAやるんですか」

「凪のそれは、オムライスRTAと呼べる代物じゃないでしょ。レンジで簡単オムライスは明らかにレギュレーション違反だって」

「まあ、それは、私も認めるところですけど……。ちなみに、目標タイムはどうなんですか」

「とりあえずは、1分かな。準備があるから、10分くらい待ってて」

「これやってていつも思うんですけど、10分あればそれなりに美味しく作れるんですよね」

「凪……、それは言わないお約束だから」

「へ!? 兄さん、ホワイトボードに何書いてるんですか。オムライスの定義って、どういうことですか」

「終着点を先に決めることと、先行研究を整理することは大事だからね。仕掛け人さん(2015) によると、オムライスの定義は"1種類以上の野菜とご飯とケチャップを炒めたものに、焼けた卵とケチャップをかけたもの"であるから、そのためのチャートを書いてみたんだ」

「ちなみに、このチャートの売りはどんなところですか」

「まあ、それは見てなって。じゃあ、スタート」

「やっぱり、レンジでご飯とカットベーコンを温めておくのは基本ですよね。……って、兄さん、玉ねぎじゃなくてキャベツを使うんですか」

「そっちの方が、火を通しやすいからね。あとは、卵を早く焼くために、可能な限り薄く延ばすのがポイントかな」

「まあ、ケチャップとキャベツの相性は良さそうですけど……」

「はい、完成。タイムはどう」

「58,63秒ですよ、兄さん。私には一歩及びませんでしたね」

「これは惜しかったのかな。まあ、記録は追々超えるとして、味はどんな感じ」

「うーん、そうですね。キャベツのシャキシャキ感が新しいですね。これはこれで、悪くないような気もします」

「なるほどね。じゃあ、僕も一口。……………。うん、ケチャップで炒めたご飯に、卵焼きが一緒になってる味かな」

「に、にに、兄さん。な、何で私が食べている所に、スプーンを入れるんですか」

「あ、そうか、少し失念してた。いや、だってさ、反対側から食べると見た目が悪くなるでしょ。両側から削った鉛筆みたいにさ」

「い、言われてみればそんな気も……。いや、それは通りませんよ、兄さん」

「だ、大丈夫だから。まだ一口しか食べてないから、僕が食べたのはあれだったけど、凪がこれから食べる分には、関節なんちゃらでも何でもないから」

「ま、まあ、確かに、そうですけど。――――でも、不公平なのでもう一口食べ下さい、兄さん。あれでしたら、もう少し、恥ずかしい方法もありますけど、どうします」

「わ、分かった、分かりました。だ、だから、スプーンをこちらに向けるのはやめてください」


※以下は無い方が良いと判断した文章です。  物語に関係ない、変にエンジニアっぽさを出そうとしたよくない文章です。
 やっとのことで、蝶の楯のソースコードを解析用のソフトウェアにかけてみると、向こうのプログラミング言語がこちらのものと別の体系で作られていることに驚かされた。構文規則(シンタックス)は当然のように異なっており、プログラミング言語のわりに語彙(基本的な記号) がやたらと多かった。普通は多くても100前後なのに、少なくとも200はあった 。サブルーチンもどこに整理されているのか見当がつかず、やたらと時間だけがかかった。
 さらには、C言語かよと悲しみのあまりに叫んでしまうこともあった。C言語では、アルファベッド同士のかけ算ができるが、アルファベッドの2進数(バイナリ)表現はマシンのCPUごとに異なるので、同じアルファベッド同士のかけ算でも、それが実行されるマシンのCPUが異なれば、結果も異なってしまう。つまり、その特定のCPUでしか正常に作動しないプログラムを組むことになってしまうのだ。蝶の楯のコードは初心者かよって突っ込みたくなるほどに、C言語の初歩的な誤りと全く同じ理屈で正常に動作しなかった。とにかく、アフトクラトルの技術はこちらの世界のものと互換性が無かった。
 まあ、プログラムも元をたどってみれば、ブール代数で作られた論理回路なので、時間をかけさえすれば解析できた。チューリングの万能機械(ユニバーサルマシン)でよく引き合いに出される、「すべてのコンピュータは、何ができるか、そして、何ができないのか基本的には等価である」この言葉をつとに実感した。というのも、コンピュータをコンピュータにせしめているのは、電子工学でなく、コンピュータの原理そのものなのだから、それも頷ける話である。棒と糸だけでも、コンピュータは作ることができ、それは本質的にテクノロジを超越した代物なのだ。
 などと感心していても、現状は変わらない。チーフの雷蔵さんが行っている“角”の解析が進行しない限り、これ以上の進捗は望むべくもない。


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