平穏しか知らない者には争乱の予感など感じ取れないものだと言ったのは誰であろうか。無知だから、経験がないから、予知するのはおろか、実際に何かしらが起きたとしてもその状況を受け入れられない者もいるだろう。
しかし雪広あやかは少なくとも平穏な生活を過ごしながらもその機微を僅かとはいえ感じ取れるほど聡明であり、無意識とはいえ京都ボランティアという無茶な提案に賛同して、そして決行に移したのは、言い様のない『何か』から逃れるために行ったのは一つの事実である。そうでなければ幾らネギの願いだからとはいえ、二つ返事で賛同することはなかっただろう。
「何か、ありましたの?」
だからこそ、唐突に彼女を含めた学生の寝泊りするホテルに訪れたネギ達に疑問を問いかけながらも、彼女の言葉には確信めいたものが滲んでいた。早朝のホテルロビーは人が少ないものの、穏やかではない内容に思わず声を荒げてしまうのも無理はないだろう。
とはいえ、声を荒げて疑問を投げかけながらも、自分でも何を馬鹿なと思わず苦笑してしまいそうになる。だがあやかは挨拶もせずに不躾な質問をした自分の言葉に真剣な表情で応じるネギ、明日菜、刹那を見て表情を引き締めた。
「いえ、挨拶も無しに失礼しました……ですがネギ先生、いらっしゃるのなら昨夜事前に連絡の一つでもいただけましたら迎えに行きましたものを」
時間は未だ早朝で朝日が出てきたばかりである。先程、いきなりネギからの連絡を受けて起きたばかりであるあやかの目は重たく、そのことを遠回しに少々無礼だと告げているのだが、ネギはあえて「すみません、ですが急用でしたので」と彼女の優しい指摘を無視して自身の要件を手短に告げることにした。
「委員長、今日の予定は?」
「え? え、えぇっと……確か班ごとに決められた場所のお手伝いに――」
「出来ればホテルから今日一日でないようにしていただけませんか?」
あやかが言葉を言い終わる前にネギが言葉を被せてきた。流石のあやかも僅かだが表情に嫌悪が滲むが、ネギはおろか後ろで話を聞いている明日菜と刹那も表情は真剣そのものだ。
冗談を、と一蹴出来る雰囲気ではないことを察するには十分すぎる。何より駅で偶然合流した刹那の鬼気迫った表情を知っているため、決して軽い話ではないのだとあやかは小さく息を飲んだ。
「それが駄目なら、せめて今日一日ホテル周辺から出ないようにしてください」
「理由を聞いても?」
「……お願いします」
ネギは理由を告げることなくただ静かに頭を下げた。
自分にも語れない何か。だが教師とはいえ未だ自分よりも小さな子どもでしかない彼が背負っているものは何なのか。
そんなことに思案を巡らせていると、ネギの後ろで待機していた刹那が頭を下げるネギの横に立つと、同じくあやかへと頭を下げてきた。
「私からもお願いします。もしかしたら杞憂かもしれません。何事もなく平穏無事に終わるならば、その後の責は私が何としても払拭します。ですから何も言わずにネギ先生の言葉に従ってほしいのです」
「……同じく。頼むわ。……ううん。お願いします」
「明日菜さんまで……」
続くように頭を下げた三人はそのまま頭を上げることなくあやかへと懇願するばかりだ。突然の出来事にすっかり眠気も覚めてしまったあやかはその異様ともいえる光景に数秒程しどろもどろとするが、やがて覚悟を決めたように一つ溜息を吐き出した。
「……理由は、言えないのですね?」
「……」
「幾らなんでもあまりにも滅茶苦茶なお願いであることは聡明なネギ先生も真面目な刹那さんも……明日菜さんも最低限の常識は弁えていると思っていますので承知であると思いますが?」
「……」
「……分かりました。私の方から皆様に何とか説明してみます」
「本当ですか!?」
頑として頭を下げたままだった三人の顔が、根負けしたあやかの言葉を聞いた直後に跳ね上がるように起きた。そのあまりにもあからさまな反応に頭が痛くなるような心地になるが、それでもあやかは彼らが事情を言えぬ事情があるのだと理解した。何より――。
「真剣ですのね」
「え……?」
あやかは不思議そうに首を傾げるネギに小さく笑いかけると、その頭にそっと掌を乗せた。
「何でもありません。……ともかく、生徒への説明は何とかできますが、流石に同伴の教師の皆様の説得までは難しいですわよ? 発案者であるネギ先生からの助言や、先日は軽めにすませてしまった被災地の環境状態の説明云々。一応それなりの言い訳を作ろうと思えば作れますが、それでも失敗してしまうことは覚悟してください」
「それでも、ありがとうございます」
頭を撫でられるがまま嬉しそうに笑うネギの笑顔に、内心で敵わないなぁと自嘲しながら、あやかは安堵する明日菜と刹那に厳しい視線を向けた。
「さて、それはともかくお二方!」
「は、はい!?」
「理由はあえて問いません。ですがネギ先生を危ない目に合わせたら絶対に許しませんからね!」
あやからしい厳しくも気を引き締め直させてくれる凛とした声に明日菜と刹那は無言で力強く頷いた。
「……よろしい。では私は早速説明のための案を検討しなければならないので……ネギ先生達は?」
「すぐにでも出かけるつもりです」
「私達には外出を禁じながら、皆様はお出かけなさるとは……」
「あはは」
あやかの指摘に三人共に苦笑いするしかない。だがその反応を分かっていながらあえてそう告げたのは、無理難題を押し付けてきた彼らへのささやかな意趣返しである。
バツの悪そうな三人を見て少しだけ気分を良くしたあやかはネギの頭を撫でる掌を名残惜しげに離すとネギの肩を軽く押した。
「さ、私もそうですが皆様もお時間はないのでは?」
「は、はい」
「では早く行ってください。善は急げと言いますが、別に善行でなくとも何事も急いで損はないというものでしょう?」
おそらくだがネギ達の抱えている何かはきっとまともなものではない。そのことを察して、分かっていながら背中を押してくれる彼女の優しさに、ネギは最後に「ありがとうございます」と改めて礼をすると、足早に三人はあやかの元を後にした。
「……いつの間にか、遠くなってしまいましたのね」
ネギ達が居なくなった後、あやかは一人消えた三人の、否、明日菜の背中を思い出して独り言ちる。
京都の旅行から明日菜は劇的に成長していたのを彼女は知っている。それは見た目の話でも性格の話でもない。人間として一回り以上大きくなり、あえて言葉にするなら大人になったと言うのが一番しっくりくるのだろうか。
そんな親友の成長を喜ぶ反面、あまりにも早すぎる成長に不安を抱いてしまうのは仕方ないだろう。
何かがあったのだ。
あの日、京都の災害で彼女の身に何かがあり、それをきっかけに彼女は大人に成長『せざるをえなくなったのだ』。
それはネギにも同じく言える。元から不相応なくらい大人びていたが、最近では完全に子どもらしさが失われ、見た目だけが子どもであるだけにしか見えなくなっている。
だがその成長を喜ぶべきなのだろうか? 周囲は「最近ネギ先生かっこよくなってきたねー」とか「明日菜って綺麗になった」などと言っているが、明日菜と長年接し、ネギを弟のように見守ってきたあやかはそれを素直には喜べはしなかった。
不安なのだ。一足飛びで成長する彼らが何故そこまで急いでいるのか。その理由はもしかしたら――。
「木乃香さん。貴女は一体……」
突然、親戚の元に療養すると言って学校を休んだ木乃香。先日見た彼女は災害直後と比べて随分と元の明るさを取り戻したように見えたが、あやかは何故か彼女の傍に近づくのを恐れてしまっていた。
その理由も分かっている。彼女を恐れた理由。彼女を恐れる者にした理由は。
「青山、と言いましたわね。あの殿方は」
木乃香が明るくなった理由であり、刹那が怒り狂った理由。
一見、繋がりそうにもないその点が何故かネギと明日菜に繋がるのではないか?
そして、それはきっと――。
「……どうか、ご無事で」
両手を胸の前で合わせて、あやかは三人が何事もなく戻れることを強く願う。そして同時に、どうか自分の想像が突拍子もない妄想であると信じることしか出来ないのであった。
―
「……魔法を使って強引に彼らを留まらせるほうがよかったのではないですか?」
ホテルを出てから暫く、響が居るだろう神鳴流本部に赴く前に準備を行っていると、不意に刹那がそんなことをネギに聞いてきた。
「そうですね。ホテルに泊まっている魔法先生の能力を考慮しても、僕なら問題なくホテルに留まらせることは可能でした」
術式の装填された魔法銃の点検をしていたネギはその手を止めることなく刹那の問いに淡々と答える。当然だという返答に、だからこそ刹那は疑念を膨らませた。
「ならば、何故?」
「もしもの時、ホテルから逃げ出せるようにする必要があります……それと万が一の場合、一か所に留まっているよりもばらけているほうが助かる人が多いはずです」
あやかの説得が失敗して、日程通りにボランティア活動が始まった場合、各地に散逸しているほうが逆に助かる人間が多いかもしれない。無論、魔法先生にも適当な説明してホテルには先程結界も張ったため、ホテルに留まっているほうが基本的に安全なのは確かなはずだ。
だがホテルに留まるのが正しいかと言えば首を傾げざるを得ない。ネギは万能ではなく、未来を見据えた手を打てるわけではないのだ。ならば最低限いざというときに誰もが自分の意志で動けられるようにしたほうがいいとネギは考えたわけである。
「無責任、とは違いますが……些か杜撰ではないかと」
「なら魔法を使ってホテルに留まらせますか? 認識操作を少し行えば問題ないでしょうが……刹那さん、あの住宅街を見た貴女ならそれがどれだけ危険なのかわかるはずだ」
「ッ……」
あえて先日刹那が遭遇したあの悲劇を口にするネギの真意を悟り刹那は唇を噛みしめた。
青山と青山の激突による周囲への甚大なる被害。文字通りの爆心地付近であれば確実にその命を斬られてしまう。
「……仮にこれから僕達が青山さんと戦うことになり、彼の傍ではないとはいえ認識操作を受けた者が何かしらの影響を被らないという楽観視はできません。僕はリスクを秤にかけて、認識操作のリスクが重いと考えただけです」
「そうであれば納得です。すみません、手間をかけました」
「気にしないで下さい。僕だってこれが本当に正しいのか分からないんですから」
ネギだけではない。正しい答えを知っている者などこの世界の何処にも存在しないだろう。何とか取り繕っているが、ネギだって心境としては不安でいっぱいだ。それはネギと刹那の準備を見守っている明日菜も同じだろう。
だが行動を起こさなければ、未練だけしか残らない。
ネギは、一際長大な魔法銃の点検を最後に終えて、点検を終えた全ての魔法具を装備したマントをその体に纏った。
迷いはその瞳には感じられない。そして意志の光は小さな悩みすらも払拭し、覚悟の力で支えた両足が一歩前へと進み出る。
「行きましょう。全てが杞憂だと言うにはもう……あの人は――」
「ネギ?」
「……何でもありません」
ネギはそっと己の片目を抑えて寂し気に俯く。未だ残滓として燻るこの体に宿る修羅が囁きかけているのだ。刹那と激突したあの場所に着いてから感じる違和感。その場に残留していた響の力から汲み取れる事実。
それはきっと世界にとって最悪で。
それはきっとあの人にとって――。
「……何でもないです」
ネギにしか分からないこの感覚を伝える意味は無いだろう。そう言い切ったネギの横顔から迷いなどといったものが無くなったのを見て、明日菜もこれ以上何か問い詰めることなく、その隣を歩くのであった。
―
傾いた太陽が地平線に隠れるのも近くなってきたころ、麻帆良学園にて人知れず行われた世界そのものの在り方を変革するだろう戦いは終わりを迎えようとしていた。
超鈴音とその一派による麻帆良学園の世界樹を用いた世界規模の認識魔法作動計画。世界樹の魔力を用いて時間逆行を操れる超の科学と魔法が合わさった恐るべき技術は、麻帆良に残った戦力ではタカミチを含めたとして抑えることは出来ずにいた。
何より超の計画を阻止すべく戦っている彼らも、戦いの最中超が告げた計画の内容を聞いて心を揺らがせているのも、超が優勢である要因の一つであろう。
京都の災害。悪魔の襲撃。
立て続けに起こった悲劇は、いずれも魔法が公のものであったならば防げた可能性が高いのである。立派な魔法使いとして世のために働いてきた彼らが感じていた限界、それを突破できる可能性が超の計画が成就した先にあるのならば、今、自分達が何のために戦っているのか悩むのも無理はないだろう。
故の現状。最早、大勢は決した。怒涛と押し寄せる機械人形の物量と龍宮真名の超人的な狙撃による時間を超えるという強制転移。一人また一人と悩みを抱えたまま、計画後の未来へと飛んだ彼らが一体何をその先で見ることになるのだろうか――。
「下らん。茶番にも劣る。ガキのお遊戯でももっと楽しめるだろうが」
そんな彼らの迷いも、超がこの計画に賭ける執念も。それらを一切纏めて欠伸が出る程退屈なのだとエヴァンジェリンは笑った。
どいつもこいつも中途半端。僅かしかない命だというのに、右往左往する様は滑稽と言うべきもの。これなら蝉の一生の方が有意義に思えてしまう。
「だが、まぁこういうのも人間だ。短い一生を下らぬものに愚直と注ぐ者も居れば、短い一生を何も決められず中途半端で腐って終わる……そういうものだから面白い。退屈でつまらんし、楽しめもしないが、全くもって貴様らは笑えるなぁ」
永遠に消えることのない嘲笑を浮かべる化け物は麻帆良の上空より戦いを俯瞰している。今まさに始まった超とタカミチによる最終決戦を見据え、彼女の計画を知ったことで惑い迷うタカミチは精細が欠けている。今は互角に戦えているが、いずれ超が一手上回るのは――。
「決まったか」
タカミチの隙を突いて直撃した時間跳躍弾がその体を未来の世界へ吹き飛ばす。
これで終了だ。残党が幾人か残っているが、世界樹の奪取に成功した超が計画発動まで凌ぎきることは容易である。
既に限界まで発光をしている世界樹は数分もせずに魔力の全てを解放し、超はその膨大な魔力を全て行使して、世界各地と連携させた魔法にて認識魔法は茶道する。
結末は決まった。まるで予想外の出来事など起きない茶番を最後まで見届けた己の忍耐力を自賛しつつ、エヴァンジェリンは遂に悲願を成就させようとしている超の前へと降り立った。
「おめでとう。おめでとう超鈴音。分かりきった勝利とはいえ、貴様が持てる全てを注いで手にした勝利だけは賞賛すべきものだろう」
「エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル……」
挑発するようにやる気のない拍手をしながら、嘲笑を浮かべて降りてきたエヴァンジェリンに向ける超の眼差しは鋭い。そんな彼女の視線に、怯えているわけでもないのに大袈裟にエヴァンジェリンは肩を竦めてみせた。
「おいおい、そんな怖い顔をするな。私は心の底から貴様の勝利だけはほめたたえているのだぞ? それとも、化け物の賛美は受け入れられないかな?」
「……今更何の用ネ。私達の関係は不戦条約のようなものだと思っていたガ?」
「そう邪険にするな。貴様は勝ったんだ。勝者を祝福するのに理由は必要ではない。素晴らしく、素晴らしいのだと、それだけの話だ」
――それに。エヴァンジェリンはその細い指先で超の背後で輝く世界樹を指さした。
「これが広げるものを一番の特等席で見届けたいだけだ。誇れよ、未来は知らんが、これから貴様が踏み込む一歩は間違いなく世界を変えるよ」
「……言われなくても、最初から変えるつもりヨ」
そんなことは今更だ。超は消えて行く夕焼けに背を向けて、その輝きを吸い込んでいるかのように光度を増す世界樹を見上げる。
さぁ、ここから全てを始めよう。今、自分を気持ちの悪い笑みで見ている化け物を初めとした不安要素は無数と存在するけれど、いつだって一歩を踏み出す勇気こそが人類をその先へと進ませてきたのだから。
「未来を……今、ここから……!」
瞬間、限界まで膨れ上がった世界樹の発光と同時に、その全長を全て覆い隠す程の巨大な魔法陣が描かれる。世界樹の頭上に描かれたその巨大な魔法陣は、瞬く間にその魔力を媒体として、地球全土へと細やかな、しかし世界の在り方を変換させる認識を全人類の心に植え付ける。
その未来を思い描いて、超の顔に小さくない歓喜の笑みが浮かんだ。そうだ。ここより全ては始まる。己が手によって、あの荒廃した未来ではなくより良い未来を作り出してみせるのだと。
「ここから、全てが始まる!」
世界樹が蓄えた膨大な魔力が暗黒に染まった麻帆良の街を白く染め上げる。まるで新たな世界の誕生を祝福するかのように空へと放たれた巨大な魔法の塊は、その周囲に居た全ての者達の視線を受けて、遥か上空にて世界中へと拡散する。
ここに、超の計画の一歩目にして最大の難関は成就した。後はものの一週間もすれば裏に隠された魔法の神秘を世界の誰もが受け入れる。
それも良いのだと。
科学ではありえない存在も受け入れようと。
そして、その認識の差異をもってして、超は己が生まれた未来の世界とは違った未来を描くのだと、広がり続ける祝福の音色を聞きながら――。
りぃん。
「きれい」
エヴァンジェリンは、嗤った。
―
世界の速さを、理解する。
「そう、貴様は――」
だから君は泣いた。
「そう、貴方は――」
だから君は笑った。
「あぁ、俺は――」
だから。
だから、俺は――。
「 」
最期が、始まる。
次回はオリ主とネギ会合。そしてエヴァちゃん出陣とこのちゃんフィーバーと麻帆良組のその後を経てまぁあれです。大乱闘的なあれになる。