消えるのだ。
砥ぐように、己は消えていく。
我は無く、無に在り、しかして求む、斬撃よ。
残響に耳を澄まし、鋼の残滓に目を濡らし、踊る体は血潮で回る。
互いに一歩も引かぬまま、響と素子は剣戟を交わす。ぶつけ合うのは意志であり、伝播する心の波紋は、一閃ごとに両者の肉を存分に震わせた。
「青山ッ!」
素子は純化する意と裏腹に、肉から溢れる熱気を吐き出すように吼えた。叫びが響に届くまでに、虚空に十を超える火花が咲き、鈴の音が鳴る。
それは人類の限界。天才と天才が同じく可能性を突き詰めた果ての剣舞。繰り返すことに三千億。無限と等しき刃の喝采が、両者の周囲で光を放ち、熱のこもった互いの得物が赤熱化を始めている程。
共に眼前の斬撃を斬撃すべく、無限と放つ刃の全てに、ありったけの意と威を乗せていた。斬るという意志は斬るという反存在に斬られ、同時に相手の斬るという願いを斬る。
今、二人の間で行われている死闘はそういった類のものだ。
攻防という概念は意味をなさない。
否、必要すらない。
「ひひっ! 楽しいです! 楽しいです青山!」
響もまた、意味無しと知りながらも、内側から溢れる欲求を口にしてみせた。
斬るのだ。
そして斬られるのだ。
斬って斬られる。
不変の真理を互いの胸に懐かせながら、その常識すら凌駕して、共に思うことは一つ。
「貴女を斬りたい! 斬りたいんだぁぁぁぁ!」
斬るという当たり前に欲情する。
常識に歓喜出来る奇跡は、響と素子、この世界に二人しか理解できる者はいないだろう。
「ははは! 私もだ! 私も斬りたいんだよぉ! お前を!」
同時、懐いた狂気が二人の間で一際巨大な火花を放ち、堪え切れずに両者の体が空を舞った。
しかし、まるで鏡合わせのように同じタイミングで虚空を蹴り飛ばした響と素子の影が夜空で交差する。
練り上げた気が夜に尾を引くテールランプとなる。その閃光が淡く散るよりも早く、虚空で鍔迫り合い、絡み合うように地上へ落ちていく最中、響が肉体の限界を無視した気を放出して、競り合いを制して素子を吹き飛ばした。
「ぐ!?」
力任せに薙ぎ払われた素子の体が、空気の壁を一瞬で破砕して木々を吹き飛ばしながら山中へと消えて行く。だが夜闇で見えぬはずの姿を、青山の奈落は容易に視認し、吹き飛ばされる素子へ、虚空瞬動一歩のみでその背後へと回り込んだ。
「ひぁ!」
悲鳴のような気迫を込めて、その首を背後から狙う。消えた切っ先。死角からの必殺。達人どころか、仮に相手がエヴァンジェリンであっても反応すら出来ぬ一閃。
しかし素子は感覚を超えた超反応にて、首筋に触れる直前でひなの刀身を合わせることに成功する。だがそれも殆ど偶然。もう一度やれと言われれば出来ぬ絶技で窮地を凌いだ素子だが、安息する暇など何処にもない。
「ひひゃ!」
態勢の有利を存分に生かした響が、ひなもろとも素子の体を地面へと叩きつけた。吹き飛ばすだけで大気の壁を砕く膂力にて大地を舐めさせられた素子を中心に、爆心地の如きクレーターが生まれ、周囲の景観が一瞬で戦場跡へと様変わりした。
「ご……ふ」
流石に全ての衝撃を吸収することは出来なかったか。全身を走る衝撃によって内臓を痛めた素子が苦悶と共に血反吐を撒き散らした。
油断。というよりも、響らしからぬ奇襲にまんまと嵌められたとみるべきだろう。致命的ではないが、それなりの負傷を受けたはずなのに、冷静に素子はそう考えて、そして頬に己のとは違う熱血がかかるのを感じた。
「ひ、ひ」
こちらを見下ろす響は、笑いながら多量の血を口から滴らせていた。
響を再度青山へと終わらせた素子の一撃の影響は甚大だ。肩から腹まで袈裟に斬られた負傷の深さは動くことすら本来至難なはず。
それゆえの強引な戦法。
斬りたいからこそ、斬るという在り方を捻じ曲げてさえ、斬らんと欲する。響はただそれだけのために、短期決戦を狙って限界を超えた気の発露を行っているのだ。
「そう、か」
斬ることの当り前故に、負傷の深度などすっかり頭から抜けていた素子の失態である。そして、代償はそれなりのダメージと、今尚続く不利な現状。
這いつくばる素子を押し込む証を引いた響きが、断頭台のように証を振り上げた。脳を揺らされて朦朧とした意識で、響の斬るという意志を察した素子。
だが遅い。
立ち上がらせる暇すら与えず、気の発露と力む筋肉の収縮によって傷口よりの流血を加速させながら、響は再度、首を狙って証を振り下ろす。
迫りくる斬撃。
それのみの純粋なる意志。
これも悪くないと思いながらも、しかし素子もまた響を欲するが故、ただで斬られるつもりはなかった。
凛と鳴る、命の戦慄。
滂沱と散る血と土の塊、そして夜に飛ぶ肉と土の複合物。
斬った。
悟った刹那、笑う素子の顔が眼下にある事実を響は知る。
「ッ!?」
間一髪間に合ったひなの刀身が証を受け止めている。だがしかしどう考えても間に合うタイミングではなかったのに何故間に合ったのか。
理由は、今も空に舞っている血を撒き散らす肉の塊。
素子の左腕だけが飛んでいる。
「おぉ!」
完璧なタイミングを逸して動揺を僅かに滲ませる響の腹へと、素子の蹴り足が襲った。全力を賭した一撃と動揺、そこに生じた隙を完全に取られた響は、成す術なく熾烈な一撃を甘んじて受ける形になる。
「ぐ、げ……!」
反吐を散らしながら、今度は響が山中の木々を道連れに吹き飛ぶことになった。弾丸となった響を飛ばす火薬となった素子の足は、蹴った反動を生かしてそのまま体を起き上がらせる。
だが追撃は出来なかった。斬られた左腕を止血せねば、数秒も動ける自信がなかったからである。
「楽しいなぁ青山」
斬られる瞬間、なけなしの気を全て左腕に集中させて、一瞬でも刃を留める盾としたことによる先の攻防。同じく斬撃に完結した体だからこそ、響の刃にすら一瞬とはいえ耐えられる盾となったのだ。
だが代償として、こうしている今も着ている装飾の袖口が白から赤に染まり、吸収しきれなかった熱血がポタポタと地面に点を作っていた。
それでも素子は笑うのだ。着物ごと傷口をひなで斬って止血しながら、青ざめた顔で壮絶な狂気を歓喜と渦巻かせ、爛々と沈んだ眼で、一直線に抉られた木々の闇を見る。
「……えぇ、とても、とても、楽しいです」
闇の向こうから、響が闇を斬り裂くように現れた。最早、腹の出血は素子の一撃で完全に止めることが不可能となったのだろう。内蔵こそはみ出ていないものの、流れる血潮に全身を染めて、青山もまた素子と同種の漆黒で心を満たしていた。
考えることは同じだ。
斬りたい。
斬りたくて斬りたくて。
愛しくて狂おしいくらいに斬りたいのだ。
「でも、斬る」
告げたのはどちらか。
あるいはどちらもか。
追い求めた刀の極みを惜しみなく出し尽くせる時を噛みしめて、剣客としての天国を舐めつくしながら、それ以上の欲求が二人の青山の死に体を走らせる。
流血で道を描きながら駆けた響が、迎え撃つ形の素子の頭上へと飛び、虚空を蹴って彗星のように突撃した。
体一つを丸ごと刀へと変えた響の渾身を受けるには、片手の素子には分が悪い。咄嗟に一歩引いたのに遅れること零秒、地面に突き立った響の刃が、今宵最大級の刃鳴りを世界中に響かせた。
凛と揺らぐ波紋に合わせるように、斬り裂かれた大地が大きく揺らぎ、次の瞬間、鈴の音の波に揺れるようにして山が丸ごと震えた。
結果、山が斬り捨てられる。
響を中心に波打った山が、その命を丸ごと斬られて吹き飛ぶ。それは遠目から見れば、山が丸ごと手りゅう弾のようになったかのような光景だった。
轟音すらも鈴の音に斬られ、その光景とは裏腹に、波紋の音色以外全くの無音のまま、神鳴流秘奥の修行場もろとも山一つが吹き飛び、周囲の山々へとその残骸を散らす。
だがそれだけでは終わらない。
砕けた残骸が別の山に触れると同時、その残骸に残留した波紋が伝播して、残骸が落ちた大地の周囲の木々が美しい鈴の旋律を奏でながら粉々に斬られて散った。
最早それは、斬撃という名の広域殲滅。山一つの質量弾はさらにその余波だけで数秒もせずに周囲の山々を斬り捨てて、ようやく狂気の伝播は停止した。
しかしその程度のこと、剣戟を合わせる青山共には視界にすら入っていない。
「おぉ!」
「はぁ!」
再度、空中を舞台に残骸を足場としながら二人が躍る。響の放つ刃の残滓など問題ないのか。触れれば斬られるという恐るべき山の残骸を足蹴にする素子が斬られる様子はない。それどころか、素子の乗った残骸が、蹴りぬかれた瞬間散ってしまう程。
共に、斬撃を終わりと見定めた両者を斬るに値するのは、その手に持つ鋼の冷気のみ。
冷たさとは裏腹に炎の如く二人は夜空の星々に負けぬ煌めきを無限と生んだ。
互角。
だが時間の不利は確実に響を追い詰めている。素子も腕を失う重傷ながら止血は上手くいった。しかし響は血を流しすぎた。
もって後、一分? 十秒? それとも――。
「斬る」
思考は即座に斬り捨てて、己のことよりもどうやって素子を斬るかのみに心は砥がれる。
そうだ。これ以上は無い。
ここが修羅場なら。
俺はここで、修羅を成す。
「斬るんだ!」
自分に言い聞かせるように叫びながら、これで三度目となる限界を超えた気が響の全身から破裂した。そして月下に舞う。目を焦がす素子の頭上から今一度突貫し、突き出した切っ先はひなの迎撃を抜けて素子の頬を深々と斬った。
もつれ合う二人の体は、回転しながら地面へと落ちる。山の跡地より流れた川の水で出来た即席の湖へと沈んだ二人は、巨大な水柱をあげて周囲の水を弾いて地面に降り立った。
「是非も無し!」
素子も覚悟を決めて、響と同じく限界を超えて気を放出し、弾かれた水が怒涛と迫るのすら気にも留めず、正眼に証を構え直した響へと駆けた。
ひなの刀身もまた限界が近い。曲りなりにも京都を震撼させた妖刀すら、人間を極めた青山という修羅の戦いには追いすがるのがやっとだったのだろう。もうじき素子の意志と響の意志に斬られるのを分かっているから、素子もまた覚悟を決めて短期決戦に応じた。
素子が刃の圏内に響を入れる。それは素子もまた響の圏内に突入したということ。
死よりも先に斬られるという予感。
殺すよりも先に斬ったという確信。
踏み込みの勢いをそのままに、大上段からの袈裟斬りと清涼な構えよりの振り下ろしは、双方悟った通り、その線上で交差して刃鳴らす。
音の壁は斬られ、空気を斬りながら響き渡る意志が、押し寄せる濁流すらも悉く斬り捨て、即席の湖の水は全て両者の意に斬られて水蒸気となり空へと帰っていった。
周囲一キロ以上に及ぶ巨大クレーターの中心。
世界を斬っても止まらぬ想い。
放つのは我。
斬る様を。
「かぁ!」
鍔迫り合いから、証を己の右側へと逸らした素子は、肌が触れ合う程まで間合いを詰めると、青山の足元へと伸ばしたひなを斜めに振り上げた。
当然と見えぬ軌跡を予感して、大地を蹴って真上に飛んで空を飛ぶ刀身を響は逃れながら、飛んだ勢いで素子の顔面へと膝蹴りを放つ。気で強化された膝は鼻骨を粉砕し、眼底を砕いて両目を押し出すのは確実。だが鼻先まで触れた膝から視線をそらさずに、素子は事前に前へと踏み出した足に重心を移すように体躯を揺らして膝蹴りを最小限の動きで回避する。
虚空へ飛んだ響の背後を得た。絶対的な位置の有利。これに、伸び切ったひなを基点に回転することで、刃を今一度振り上げるロスをなくして、軸足を支点にくるりと半回転しながら響の背中へとひなを振るう。
対して響もまた、放った膝蹴りの勢いを殺さずに縦に回転しながら刃を合わせた。
態勢的に振るうことは叶わず、ひなを受けたと同時に吹き飛ぶ。両者の威力に対して、肉体の軽さは木端よりも頼りない。叫ぶ一瞬で天然闘技場の端へと飛ぶ速度で弾かれながら、響は虚空で態勢を立て直す。
その時には既に素子は飛ばされた響に追いすがってひなを縦に振るう態勢に入っていた。
このままでは嵐に飲まれた草木の如く踊らされるのは明白。それを嫌った青山は虚空瞬動で素子の斬撃を逃れる。
躱された斬撃は真一文字に放たれ、駆け抜ける斬気が地面を斬る。
幾重にも今宵奏でられた音色が、素子の欲望を表すように歌われた。
朗々と染み渡る波紋は、突き立った地面より先に染みて、斬り殺された山の命のさらに奥。根源的な命の在り方の一部すら斬り裂く。
おぉ、その何たる無垢なる惨劇か。
地面はさらに割れ、波及する斬撃は生き残った周囲の全てを一切合切容赦も区別もなく斬っていく。
草木は輪切りに斬られた。
土は斬られ、眠っていた虫達は斬られた。
ただ大地を闊歩していた動物達も斬られ、それはつまり素子の一閃によって無機も有機も、命の有る無しも関係なく斬られていくということ。
響があくまで素子を捉えられず、『仕方なく』山を斬ったのとは違う。
斬るべき相手を捉えられなかった無念を、八つ当たりと星そのものへと放つ狂気。それは魔法という非科学すら常識に貶める暴挙だった。
響と素子。二人によって一方的に斬られた山の跡地は、見渡す限り斬り捨てられた物しか存在しない。
だがどうでもいい。
素子は振り返って響を見た。
響は着地して素子を見た。
「はは」
「くひ」
斬りたいのだ、目の前の修羅を。
そこには互いしか存在しない。そして何者の介入も許されない神聖なる世界。
修羅場と名付けた、この素晴らしき斬撃空間よ。
お前か。
貴女か。
斬って斬られて。
斬り斬り斬って、斬り続け。
散り捨てられてく、その様よ。
しゅらばらばらばら。
その末路にて、終わりの先を
叫び散らす両者の哄笑は、共に奏でる音色に乗せた歌声のようにすら聞こえた。