リョウメンスクナによる破壊の嵐によって壊滅した京都だが、その中心地より離れた山々は被害も少なく、そして青山素子が修行の場として選んだ秘境は、神鳴流の中でも知る者が少ない特別な場所だ。
清涼な空気が周囲を満たした滝壺のすぐ傍には、巨大な一枚岩によって作られた天然の闘技場があり、一人、気を練り上げて技を磨くにはこれ以上ない最適な場である。
その一枚岩の上に坐して瞑想していた素子は、静かに現れた気配を察してゆっくりと瞼を開いた。
「……来たか」
待ち望んでいたように、それとも会うのを望んでいなかったように。相反する複雑な感情を湛えた素子の声に反応したのは、鞘走る鋼鉄の響き。
「お久しぶりです。素子姉さん」
「青山か」
「はい、俺です」
奈落の眼に負けぬ漆黒の刀、証を片手に立つ男。
修羅外道。
恐るべき青山が、素子の前に姿を現した。
「今更何の用だ? お前と私の決着はあの日ついた。私が斬られ、お前が斬った。この結末をもって、二度と会わぬと思ったのだがな」
「……鶴子姉さんが、素子姉さんがこちらに居ると仰ったので」
「姉上が、か……。あの狂人め、以前から片鱗は見せていたが、ようやく狂っていると納得出来た。いや、既に気付いていたのを、私の未練が否定していただけか」
「素子姉さん。鶴子姉さんを狂人というのは些か失礼かと」
「はっ、餓鬼の頃からお前を練り上げ、一角の修羅に仕上げたのは姉上だ。全貌を知らずとも、その才覚が届く果てを見ようとした姉上を、狂人と言わずに何という? あぁそうさ! 結局、姉上も青山だったというわけだ! この肉に流れる青山に魅せられ、足りぬ才覚故に私とお前に青山を託した怪物さ!」
諌めるような青山に対して、素子は薄ら笑いを貼り付けて、己を含んだ青山という全てを唾棄した。
切っ掛けは、きっと青山響という男だろう。前世の知識を持つ凡才の魂を宿した天才の肉体。その歪により生じた無垢なる刃。
斬撃という孤独の世界。
その狂気に引き上げられた青山という家は、果てに立つ終わりを見定め、そこに至るべく腐心した。させられてしまった。
結果、ここには素子と響。共に青山を名に持つ血脈の狂気が立っている。
素子は歪な気配を纏う青山を自然体のまま見据えながら、何故、彼が青山を名乗り、そして周囲もまた青山と彼を呼んだのかようやく理解した。
「だから、答えはこれで決める」
素子は怯むこともなく鼻を一つ鳴らして、傍に置いていたひなを握って立ち上がった。
青山は既に臨戦態勢に移った素子に何か告げようと口を開閉させ、かける言葉が見つからないと小さく頭を振って、目の前の戦いに集中すべく意識を研ぎ澄ます。
それに、言われたからではなく、伝えたい奇跡がこの胸にあるからこそ、青山は刃を翻し切っ先を向けるのだ。
斬るという生の証。
証明し続けると誓ったこの奇跡を、貴女にも。
「……この刃で――」
「そうか……木乃香お嬢様を斬ったか、お前」
魅せつけたい。
そう語る前に、素子の言葉は青山の喜悦を真正面から斬り伏せた。
「え?」
「意外か? ふん、むしろ、その程度を滲ませている今のお前のほうが私には意外だが……お前が青山で、私も青山で――ここに、刀がある」
困惑に動揺したままの青山が平静を戻す暇すら与えないと、素子は鞘からひなを引き抜いて、青山に突きつけた。
それは突然の変化だった。否、存在そのものが別人になったかのような異常。ひなを抜きはらった素子の身より溢れる鬼気は、その凶悪さとは裏腹に、心地よさすら感じる程清涼な気である。
故に、不気味だった。
清涼ながら、鬼気的という矛盾を体現させる不気味に、青山は言葉を失った。
一方で、素子もまたそんな青山の様子に疑問を浮かべていた。
何を、恐れる。
何を、慌てる。
お前は、この程度、否、どんなことがあっても――斬るだけ、それだけのはずだろう?
「どうした? 何を驚く? 刀がある。刀だぞ?」
「素子、姉さん?」
「斬るんだよ。そうさ、お前が私に、斬りつけたんだ」
精錬された気をその身より放ちながら、素子は突きつけたひなを大上段に構えてみせる。
その姿に青山は言葉を失った。
何と美しき立ち姿であろう。まるで刀と体が一つになったかのような在り方に、少しばかり思考を失うという愚を青山は犯し。
「だから」
その隙を断つように。
「斬るぞ」
劇的な踏み込みにて、素子が青山の懐へと飛び込んだ。
「ッ!?」
「シッ!」
縫われた思考の合間を穿つ、神速と轟くひなの切っ先が突き抜ける。
辛うじて証の刀身を切っ先に合わせ横に逸らしたが、油断が招いた代償として、頬が斬り裂け耳たぶが宙を舞った。
意を越えて動いた体が反応せねば、この一撃で決着してもおかしくなかった程の苛烈の勢い。素子はそのまま全身からぶつかり、己の額を青山の額に叩きつけた。
一瞬だけ意識が飛ぶ。脳天を揺らされた衝撃に眩む中、激情を湛えた素子の視線から感じ取った鬼気が、途切れそうになった意識を繋いだ。
それもすぐに終わる。弾けるように一歩ずつ互いに押し合って距離を開くと、青山と素子は同時に手にした漆黒で虚空をなぞった。
空に散る火花に遅れて鳴る鋼鉄の軋み。当然のように音を追い抜いた両者の斬撃は、やはり当然と互いの知覚領域を超えるには至らない。人の規格を超えた反射神経は、脳も脊髄も介さぬ肉体の雷光である。次の一手を予測などという領域ではない。直感と機能する五体に刻まれた技に従って、二人の青山は持てる技量を全て吐き出した。
斬魔剣弐の太刀。
共に放つ全てが神鳴流の秘奥。存分に吐露した術理にて、観客なき静寂の土地に、鉄の歌声を幾重にも重ねて木霊させるのだ。
だが両者同等の技量を誇るというのに、開始一分も経たぬところで既に天秤は傾き始める。
「はぁぁ!」
「ぐ、ぅ……!?」
気迫あふれる斬撃を繰り出す素子。それに気圧されて、必死に踏み止まらんと歯を食いしばって堪えるのが青山。
このままでは完全に飲み込まれてしまう。
その予感が確信に変わる前に、何とか場を仕切り直すため、青山が放った乾坤一擲と素子の大上段が一際大きく弾きあった。
一歩ばかりの距離が生まれる。
一呼吸にも届かぬ間。
互いにたたらを踏んで態勢を崩し、整えるのに必要な一呼吸を、青山は己を落ち着かせるために使う。
落ち着け。
押し込まれるな。
自身を叱咤しながら、しかし青山は再度の驚きに心を乱すのだ。
「おぁ!」
間を置いた青山とは違い、即座に姿勢を正した素子は烈と吼えて青山との距離を強引に縮めた。
代償は少なくない足への負担。
しかしその程度知ったことではないと素子は笑った。
「これだよなぁ! 青山ぁ!?」
「ひ……」
津波のように荒ぶる素子の斬撃が青山を飲み込もうとしている。だがその苛烈とは対照的に、浮かぶ表情の何たる冷たさか。
三日月を口許に浮かべ、瞳は激情など仮面か何かのように冷え冷えとしている。
さながら、刀のような相貌。
宣告し続けている通り、斬るという一点だけに染まった素子の刃は、矛盾を孕んだ青山を畏怖させた。
語らうべく刃を交わそうとした青山は、問答無用と斬る意志のみを乗せる素子が分からず、当惑を露わにするばかりなのだ。
前提が違う。
生きるから斬るという奇跡を行おうとする青山と。
ただ斬るのだと、無心と駆ける素子は違う。
「ね、姉さん!?」
「どうした!? いつも通りに斬ってみろ!」
証越しに腕に轟き響く素子の斬撃。
速く、重く、薄く、厚い。
何よりも冷たく鋭い剣戟が、鍔迫り合いの形となったことで、さらに青山の全身を震え上がらせた。
直後、耳元に鬼気を察する。咄嗟にしゃがみこんだ後、鍔迫り合いを制して証を弾いたひなが、一文字に青山の首が合った場所を駆け抜けた。
その時点で、青山は疑問を投げ捨てて思考を切り替える。最早、この奇跡を伝えるというそういった状況ではないのだ。
相手はこれまでの強敵とは違い、接近戦でこちらと互角以上に渡り合える。そして接近戦での思考の乱れはすなわち死。
それだけは許されることではない。
――だって俺は、生きねばならないのだ。
魅せつけるべき解答が胸に懐いた今、死こそ何よりも忌避すべき存在となっている青山は、素子の放つ斬撃より逃れるために瞬動で一気に後退した。
「ひぃ……! ひぃ……!」
死の恐怖からくる悲鳴と、すり減らした体力の消耗からくる荒々しく情けない呼吸が青山の口より漏れる。
明確な死に恐れがある。ただ純粋に斬撃を放つ素子の意志は、たった一閃だけで青山の内をかき乱す矛盾を暴き出し、メッキがはがれた狂気はただの外道となって姿を現すのだ。
荒々しい呼吸とは別に震えている身体。次、素子の一撃を受ければすぐにでも斬り捨てられそうな弱弱しい姿に、しかし追撃はなく。
「なんだ、それは」
驚愕に染められた素子。それは彼の狂気を恐れながらも、不変のものとして信じていたからこその驚きであった。
「青山、なのか? 本当に、お前が?」
「俺、は……」
「違う。違う! お前の刃は! 斬撃は!? こ、これじゃあ違うじゃないか。なんで、なんのために私は修羅に堕ちたんだ。お前がそれじゃ! 正しく堕ちた意味がないだろ!」
素子より漏れ出る殺意は、憤怒と落胆、何より悲哀に満ちていた。
戦闘中にも関わらず、構えを解いて涙すら滲ませ顔を歪めている。それは、何よりも悍ましく思いながらも、だからこそ信頼していた全てを裏切られた修羅の慟哭だった。
理解出来ぬ哀愁。
そして今の青山は、何故素子が涙を見せるのか理解出来ないのだ。
「そんなこと……! 知ったことか!」
震える身体に鞭打ち、青山は勝手にこちらに失望している素子に吼えた。
理由は分からない。だが、今の己に失望されるということは、つまりこの生き方を否定されるという屈辱に他ならない。
斬撃に絡む生への執着。
これこそ新たに至った境地だと、青山は証明するしか道は無いなら。
ふと、青山は涙する素子を見て、脳裏に稲妻が走るような感覚に襲われた。
「あぁ、そういうことか」
「青、山?」
一人勝手に得心したと冷静さを見せる青山を、素子は涙で滲んだ視界で見た。
だがしかし、そこに立つのは素子が恐れ、嫌悪し、しかしそうであり続けるだろうと信じた修羅ではない。
「素子姉さんも、生きる気力がないんだね?」
外道。
修羅からも外れた、只の外道。
青山は不器用ながらも慈愛の笑みを浮かべながら、証の刀身を天高く掲げた。
「なら、斬るさ。そういことなんだ。だから素子姉さんは、俺と刀を交えたかったのか」
喜悦に染まる心を表すように、天を突く証の刀身に、周囲の景色すら歪むほどの気が収束した。
それはあらゆる生を冒涜する生への渇望であり、あらゆる刃を下劣と成す、斬るという怨念であった。
矛盾する二つの無垢は、絡み合うことで混沌とした歪となる。
生きながら斬る。
殺すのに斬るけれど生きていける。
「これが奇跡だ、素子姉さん」
おぉ、充実する歪よ。狂気でもなく混沌でもなく、ただただ歪で禍々しいその意を知れ。
生きているから斬るけれど殺すから斬って生きていると信じられる今を斬るとすれば生きることそれすなわち斬ることなり。
つまり外道。
矛盾を強制的に合理と成した果て、堕ちるのでも至るでもなく、外れただけの外道だから。
「俺は斬ろう。貴女のために」
一閃に賭す生の咆哮。
伸ばした証の柄を両手で握りこむと同時、世界全てを飲み込まんと発露されていた気が泡沫の如く消え去った。
違う。涙を拭った素子は、消え去ったのではなく、束ねられたのだと見抜いている。
証の刀身に薄らと乗った気の残滓。だがそれは正視するだけで眼球が潰れ、脳髄が圧搾され、心臓が停止するほどの並々ならぬ何かである。
しかし素子は真っ向からその気を見た。
迷いはもうない。青山が青山ではなくなったということは、むしろ喜ぶべきだろう。そう切り替えることは出来たから。
それでも、胸に空いた小さな風穴に吹く風は、泣きたいくらいに冷たいけれど。
「……来い、外道」
青山ではなくなった、かつて青山だった残骸へ。
しかし当の本人は素子の悲哀を勘違いしたまま、矛盾にすり減った解答をそのままに、音の無くなった世界を駆けた。
時が凍る。
脳を超え、脊髄反射を否定し、肉の反応すら抜けて、魂という根源のみが知覚できる零秒の時。大地を踏み抜いた青山がゆっくりと迫るのを、光速となった視覚で捉えた素子がひなを下段から空へと走らせる。
軌跡の先に青山は居た。迷いなく袈裟をなぞる証の刀身は、丁度ひなと重なる線を描く。
驚愕は青山にあった。
何故、捉えられる。
極みに至ったこの斬撃に、何故、生を手放した素子が追いすがることが出来るのか。
いや、それどころではない。
――重なる刃。
刀身越しに伝わる意志と力。素子は表情を崩さず、青山はそれまでの喜悦を絶望に変えて、掌に響く鈴の音色に心を震わせた。
――振り斬られるひな。担い手ごと弾かれる証。
それは、明確な力の差。
いや、斬撃という領域を汚した外道に対する罰だったのかもしれない。
「う、ぁぁぁぁ!?」
「うるさい、黙れ」
音の伝播しない世界だというのに、二人はそれが当然と言葉を交わしながら、先んじた素子の一閃が、態勢を崩した青山の足を浅く斬る。
痛みは届かない。
神経伝達すら遅延された世界で、だが斬られたという事実を青山は明確に認識させられ、さらに恐慌するのだ。
「斬られ……!?」
「そう、斬った」
返す刀が二の腕を斬る。再度斬られ――胸が斬られる。また斬られ――思考する間に脛を刃が抜ける。
連続する裂傷。青山が斬られたと知覚するよりも早く、新たな傷は幾重にも重なっていく。
何故。
疑問は、呆れた風に眉を顰める素子によって答えられた。
「外道如きに、後れを取るか」
修羅として外道をなすのではない。
外道として外道をなすお前如きに。
「消えろ。青山は、私がいただく」
この身、一心斬撃と成すことこそ青山ならば。
今まさに、醜き美しさを纏った素子こそ、修羅外道に相応しき様。
「そ、んな……」
矛盾する解答を斬り捨てられたかつての修羅は、外道と罵られ地に伏せる。
そして、時は再び正常なる流れに戻った。
「ご、ふ……」
同時、無数と体に走った傷口から、青山の熱血が流れ出した。
臓器もやられたのか、喉よりせりあがる血も口より漏らしながら、青山は自身の体より流れた血の海に沈む。
「哀れだな」
ボロ雑巾と化した青山を見下ろして、素子は淡々とその様を蔑んだ。
青山は一瞬で追い込まれた肉体を、証を杖にすることで何とか起こす。その無様に生き足掻く姿を見て、素子は最早見てられぬと嫌悪を露わにした。
「な……ぜ……」
だが青山は素子の視線の意味すら知ろうとはせず、醜態をさらして尚、矛盾する解答を己の内側で成立させようともがいていた。
一度は斬った相手である。しかもその時とは違い、得物による差は明確。証という最高の刀を持つ自分が、苦戦こそすれ負けるというイメージはなかった。
否、勝つ負けるではない。
素子に、この素晴らしい生き方を教えることが出来たはずだった。
「無駄だ。修羅から、ただの外道になり下がった今のお前じゃ、私には届かないよ」
そんな考えを見抜いた素子は、下らぬと青山の葛藤を斬り捨てた。
「ッ」
そこで青山もようやく気付く。
見抜かれた。
これまで己がそうしたように、素子もまた青山としての己の底を見透かし、暴いているのだ。
対して自分は素子の何も見えずにいた。斬り合いの果て、常に見出した斬撃すべき何かが、素子には見えているのに、青山には見えていない。
明確な差があった。
素子と青山。
修羅と外道。
断罪されるべき外道は、穢れなき刃に斬られるのを待つしかないのだ。
「だったら、何で……」
――俺はそこに居ない。
至ったはずだ。
己だけの領域。
これ以上先のない終わり。
冷たき鋼。
生きるという、斬撃を。
「教えないよ」
だが素子は青山の葛藤に対する解を授けるつもりはなかった。
唯一無二の答えを、矛盾させることで擦り減らした哀れな男。だからと言って、その矛盾を指摘しても、もう無駄だというのは、心を覗いたために分かる。
「なん、で?」
冷たく突き放された青山は、乞食の如く素子に手を伸ばした。
どうしてだ。
何が違うと言うのだ。
生きるという奇跡と。
斬るという不変と。
二つ揃ってさらに極まった我が斬撃こそ――。
「醜いんだよ。外道」
醜悪なだけの狂人にかけるべき言葉はない。
そして、その歪さを知る故に、素子はこの男に相応しい終わりを与えるのだ。
放たれる終極。
魅せられた斬る果ての死から遡る記憶の一本道。
青山。
否。
青山響が培った原風景。始まりにして終わり。駆け抜ける記憶の中、素子は遂に暗黒の根源を捉え、それ目掛けて渾身の斬撃を放ったのだった。
次回、響と素子。
今の素子はあえて名づけるなら修羅正道。語呂悪いね。