酒呑童子。
現代日本に語られる妖怪の中でも特に強靭で恐ろしい存在と言われてきた鬼の中でも、頂点として君臨した最強の妖怪。
現代では御伽噺の一つとして語られる存在でしかないが、果たして時を遡ること数百年前にもなるだろうか。当時の極東における陰陽師や神鳴流の剣士が総力を結集して辛うじて封印に成功した鬼こそ、この御伽噺にしか出ない化け物であることを知る者は、現代では数える程しか存在しない。
鬼としての剛力や耐久力。その暴力性も驚嘆に値するが、酒呑童子が真に恐れられたその理由は、この恐るべき鬼にはあらゆる防御手段が通用しなかったことにあった。
あらゆる防御を問答無用で破壊する異能。まさに破壊の権化とでも言うべき力を宿したこの妖怪との戦いの結果、極東の陰陽連合はその後半世紀以上、戦力回復に尽力したと言えば、酒呑童子が如何に恐るべき妖怪なのかは分かるだろう。
そんな規格外の化け物を、矮小な人間という器に宿し、しかも僅かに肉体に変調をきたしながらも理性を保って制御している浦島ひかげという女が、人類として限界を極めた天才だというのは疑いようのない事実なのは確かである。
『ジツニスガスガシイキブンダ』
その小さく細い掌の握りを確かめながら、ひかげは充実する力に満足そうに頷いてみせた。
頭部からは、鬼を吸収した証と言わんばかりに二本の立派な角が生えているが、それ以外に見た目の変化はあまりない。後は眼の白と黒の比率が逆転した程度であり、化け物然とした豹変はしていなかった。
だがその体からあふれ出す鬼気とも呼ぶべき気の、なんと恐ろしきことだろうか。世界を焼き尽くす紅蓮の如くその身より沸き立つ気は、離れた場所に居て尚、感じるはずのない熱量を青山に覚えさせた。
それはまさしく鬼神。鬼の頂点に君臨した怪物にのみ許された、絶対なる力そのものだった。
油断しきったその態度は、青山という神鳴流の極地に立つ男を前で本来とるべきものではないだろう。間合いはおよそ数歩。この距離ならば、例え相手がドラゴンであろうと、青山ならば呼吸一つ分の時間で一刀両断することが容易い。
だが今の青山は、隙を晒すひかげに一歩も踏み込むことが出来ずにいた。
見た目は只の少女にしか見えないというのに、その身からあふれ出す気と魔力の混ざり合った力は、この小さな島を丸ごと飲み込んでいる。立っているだけでも並の術者ならそれだけで意識を失いそうな力の海の中、顔を青ざめながらも決して油断を見せずにいる青山は超一流の名に恥じぬ胆力の持ち主と言えよう。
しかし、だからどうだというのか。
今や超一流の陰陽師の身に、かつて極東の術者を壊滅まで追い詰めた鬼の力が宿った反則レベルの化け物が相手では、青山の力も霞んで見えてしまうことだろう。
努力する天才と最強の妖怪の融合体。
あるいは、単騎で世界を相手取れる究極が、今のひかげである。
「……ふぅ」
だからとて。
だからとて、向かわないわけにはいかないだろう。
恐怖を超える狂気は、確かにこの胸を苛んでいるのだ。
「行くぞ」
青山は震える身体を、気を整えることで抑えると、絶望的な力量差を無視して単身、ひかげへと飛びかかった。
油断を晒す今こそが最大にして最後の好機。奥義を放つ余地を見せれば隙が閉じてしまう恐れがあったため、青山は出力した気を久楽に全て纏わせて、間合いを詰めると同時にその首筋へと放った。
空気の壁を斬り裂いて、音色の是非も断つ極限。
研鑽した術理を余すことなく注ぎ込んだ一閃に対して、ひかげは明らかに反応が遅れながら、斬撃の線上にその握れば折れてしまいそうな右腕を翳すばかり。
ならば、その驕りごと我が刃は千殺する。
意を乗せた刃は乙女の柔肌へ。腕ごと首を断つ青山の刃は――その腕どころか肌を裂いたところで停止した。
「な、に?」
『ホゥ、コノミヲキリサクトハ……ヤハリオマエハアナドレヌオトコダ』
互いに驚きの色を浮かべるが、その意味合いはまるで違う。
青山は渾身をもってすら皮一枚と僅かに筋繊維を幾つか斬り裂いただけで停止させられたことへの驚愕。
ひかげは鬼の統領である酒呑童子の力を纏った己の体を、神鳴流の技ではなく、ただ気を纏っただけの斬撃で少しであるが斬ってみせた青山の技量に対する驚嘆。
最早、その心境一つとっても両者の間にある力の差は歴然としたものだった。
『デハ、ツギハワタシガイカセテモラオウカ』
そう言ってひかげが左手を強く握りこむ。象ったのは小さな拳。しかし込められた気の総量は、人間の規格を遥かに超えた――。
破壊される。
本能が絶望を察した。
「う、おぉあああぁぁぁぁぁ!」
青山はひかげの拳を見た瞬間、暗がりに一人放り込まれた童のような悲鳴をあげて虚空瞬動を行った。
戦略も何もない。遮二無二、空へと飛び出した青山は、その眼下でこちらを目で追うひかげの凄惨な笑みを見る。
『ソラ、コテシラベダ』
ひかげは笑いながら、握った拳を天高く掲げると、青山にではなく地面へと拳を叩き込んだ。
最早、そこに居るのは見た目通りの乙女ではない。象られる拳から解き放たれる災禍。振り上げた拳を腰だめに構えたひかげは、何の術理も無く、ただ剛力に身を任せてその拳を虚空舞う青山へと放った。
拳の先より吹き荒れる破壊の極限。余波だけでひかげの立つクレーターがさらに深く掘り下げられた。地面が砕けて隆起し、吹き荒れる突風は辛うじて残った木々を根こそぎ奪い去る。
余波だけでこの威力。まさに青山が予感した通り破壊そのものと化した純粋エネルギーは、音すらも砕いた真っ直ぐに青山へと殺到した。
「ひ……!」
小さな悲鳴をあげながらも、脳髄を介することなく回避行動に移れたのは殆ど奇跡だろう。逃れた直後に体の横を突き抜けた破壊の余波で発生した乱気流にもみくちゃにされながら、しかし己の態勢を立て直す以上に、青山は回転する体を立て直すと、八双に構えたまま雷光もかくやという勢いでひかげとの距離を埋めた。
そのまま振りぬいた久楽とひかげの拳が激突する。衝撃で久楽の刀身が悲鳴をあげて、柄を握る掌にも痺れが走ったが、構わずに瞬動にてひかげの背後へと回る。
『ン?』
ひかげの反応は鈍い。いや、現実問題として、今の青山の攻撃の殆どが脅威で無い以上、防衛本能が働かない結果とみるべきか。
どうでもいい。
いや、どうでもよくはないか。
「奥義」
その油断。逆手に取る。
腰構えから伸びた刀身に宿る閃光。留めた気力は最大へ、先の雷光を凌ぐ一閃にて、貴様の油断を裏に斬る。
「斬魔剣、弐の太刀……!」
神鳴流が奥義にして、神鳴流が退魔を生業とする上に当たって常に決め手とした絶対の一撃。
己の斬りたい物を斬り捨てるという弐の太刀の中で、特に妖怪変化等の魔的な存在を狩り取ることに特化したこの奥義ならばいけるはずだ。
斬気を走らせる僅かな間にそんなことを思考しながら、技を放つ瞬間は見事そのような雑念を挟むことなく、青山が極み、斬魔の太刀が無防備なひかげの背中を袈裟に舞う。
見事と語る他なき美しき銀色の軌跡。青山もまた、これ以上ないと確信した斜線と描いた刃の手ごたえは――
『ハァ!』
迎撃するようにひかげの体より放出された鬼気によって、相殺される結果に終わった。
これで何度目の驚愕か。しかし振り返り際に笑みを象るひかげの殺意を見て、青山は思考を走らせる暇はないと悟る。
一度で駄目ならば何度でも試せ。通じるまで技を、気を、己をぶつけ続けるのだ。
何よりも、この程度で挫ける性根であれば、最初から死地へ赴く資格など無いのだから。
「奥義!」
『ムダダ』
だがそんな青山の覚悟すらも砕かんと、再度気を久楽に纏わせた青山の顔面にひかげの手が伸びた。
反射的に技を中断して久楽で掌を弾く。まるで巨大な鉄の塊を押したかのような重量感と手ごたえ。
隙は無い。
なら、一度間合いをと思うが、瞬動の起こりを見抜かれているために、動く先にひかげの手は伸びた。
間合いを離す余地も無い。
なら、覚悟を決めろ。気を纏わせ、全力を賭した一撃は皮一枚でもこの鬼の体を斬った。だがそんな青山に全身全霊を賭す余地も与えぬと、放たれた久楽の切っ先を掻い潜って青山の胸元へと飛び込んだひかげが、瞬きする暇も無い程怒涛の拳撃を始めた。
「ッ!?」
『ハハハ! オマエノカンガエナドオミトオシダヨ! ヒビキ!』
懐に入り込まれた青山は、迫る拳を辛うじて弾くことしか出来ずにいた。
そもそもの身長差から、二人の間合いは随分と違う。それに加えて青山の得物は長大な野太刀。結果、入り込まれた瞬間、青山は久楽を振るう間すらも失ったことになる。
そして、鬼としての身体能力故か、無呼吸による連打を放っているというのに、ひかげには疲労の色は見えない。逆に防戦する青山のほうが、ひかげの拳を受け流す度に両手に疲労が重なり、霞める度に着物はおろか皮を吹き飛ばされ、巻き起こる鎌鼬が肌を切り裂き流血を増やしていた。
怪物的すぎる。
勝てるわけがない。
青山お得意の斬撃は封じられ、神鳴流の退魔の術も放つ余地が無ければ扱えない。
八方手詰まり。
このまま一方的に嬲られ、死ぬのを待つばかりか。
『チガウダロ!? ソウジャナイダロ! ヒビキ!』
否定の言葉は、この状況を作り上げている張本人より漏れ出た。
『オマエノチカラハ! コンナモノデハナイダロウ!』
まるで哀願するかのような訴えに、青山は徐々に重くなる体を引きずるように操りながら、無茶を言うなと内心で悪態をついた。
これ以上の手は無い。
何も残されていない。
死だ。
後に待つのは、死ぬばかり。
繰り出される拳打は、確実に体を掠める数が増え始めている。迎撃が追いつかない。弾いても弾ききれない。
死ぬのだ。
死ぬ。
死。
「それも……一興」
どうせ二度目の人生ならば。
この怪物と斬り結べたことに感謝こそすれ、死を恐れる必要はないだろう。
青山の笑みと同時、遂に防ぎきれず躱しきれなかった一撃が青山の胸元へと触れる。
その瞬間、先程までの笑みを凍り付かせて、泣き出しそうな表情を浮かべるひかげの顔が面白くて。
「泣くな、馬鹿」
胸を貫く破壊の一撃。
酒呑童子の力と現代最強の陰陽師の技量が合わさった一撃は、違うことなく青山響という名の男の命に届く。
劇的な展開なんて、何処にもない。
それは最初から決定していた末路。
『ヒビキ! 死ぬなよ! 私を置いて死なないでくれよ!』
――無茶を言うなよ、この馬鹿が。
こみ上げる血潮で思いも語ることも出来ぬまま、決着を告げる一撃を受けた青山響は、永遠の眠りにつくのであった。
―
記憶の原点を俺はもっていない。
それは俺が前世の知識を持つためであり、仮に俺の原点を言うならば、それはきっとこの青山響という肉体に突如として前世の記憶がよみがえった時だろうか。
それは初めて真剣を手にした時であった。
雷が駆け抜けるように、一瞬にして前世の記憶、この場合知識というべきものがよみがえった瞬間、俺は驚くのではなく、むしろ少々の落胆を覚えたものである。
あぁ、俺は、これから先、子ども幼少時に感じる未知を知る歓喜を殆ど手に入れることが出来なくなったのだ、と。
未知を知る歓喜は人間のもつ固有の欲求だ。だが知識欲とでも言うべきその欲を、俺は前世の知識を思い出すことによって殆ど満たす術を失ったことになる。現に、子どもらしい丸い掌で握った真剣は、実際に触ったことがあるかは定かではないとしても、知識として既に存在しているため、子どもみたいに好奇心にあふれた行動をすることはかなわない。
どうしてこんなに重いのか。
どうして鞘に収まっているのか。
どうして怪しい光を放っているのか。
どうして斬るための道具として作られたのか。
どうして斬られると痛いのか。
どうして斬ると痛いのか。
痛いことは良いことなのか。
痛いことは悪いことなのか。
真剣一つとっても、そこから得られる無数の謎を俺はもう知識として知ってしまっている。
それが残念だった。
その間に俺の親が語ることなど耳に入らぬ程、その時の俺は未知を失ったことによるショックが大きかったくらいだ。
そして、話が終わった後、知識がよみがえるまえにこの肉体が経験した記憶と、こっそりと調べたこの世界の情報を知って尚のこと俺は落ち込まずにはいられなかった。
この世界はある程度の地名等の差異はあれど、ほとんどが俺の見知った常識と同じ世界で構成されている。
つまり、未知がない。
子どもだというのに、既に好奇心を発揮する手段を俺は失ってしまった。
その嘆きを誰が知ろう。
なまじ前世の知識があるからこその弊害。未知を享受出来ない絶望。これでは何のための人生なのだろうかと嘆く始末。
折角若返ったのだからと思わなかったこともないが、そもそも俺は前提として前世の知識や常識はあれど、前世で俺がどういった人間だったのかという記憶が存在しないのだ。もしかしたら老齢の男だったかもしれないし、もしかしたら今のこの体とそう変わらない幼女であった可能性もある。
つまり、二度目であるという実感がない。
なのに、未知は全て埋め尽くされている。
知識はある。であれば必然として俺は二度目の人生を始めたということになるだろう。だがそんなことは何の慰みにもならない。
子どもに強制的に知識を植え付けた結果、知識の分だけ強制的に精神年齢が上げられたという奇妙な感覚とでも言うべきか。しかしこんなことを周囲に話しても、狐にでも憑かれたのかと疑われるのが関の山。
ならば、惰性と過ごすしかないのだろうか。そう思っていた矢先、俺は青い鳥を見つけることに成功する。
とはいえ物語の彼らが、自分の家に幸せを見つけたのとは違って、俺の場合の青い鳥とは、まさに俺自身であったというのは何たる皮肉か。
子どもである身を嘆きながら、嘆きを救済したのがその子どもの身。
つまり、青山。
青山という前世の知識に存在しない異常なる肉体。
気という超常的力に、神鳴流という超常の術理。
そしてそれらを十二分に操れる己の体。
天才の肉体。
青山という血。
これを知ったからこそ、俺は幼少時に絶望することなく、子どもの好奇心を如何なく満たすことが出来た。
そしてその好奇心に応えてくれる肉体は、年を経て尚も十二分に答えてくれている。
進化を続ける肉体。
限界を知らずに育つ血潮。
凡才の身ゆえに、天才という体が発揮する性能に魅せられた日々。
だから俺は青山なのだ。
どうしようもなくこの体に魅せられた、どうしようもない凡才なのだ。
「だから、満足だ」
胸部に触れたひかげの拳より伝播する鬼の気によって魂を破壊されながら、俺は走馬灯のような刹那の時で充足の声を漏らす。
そう、満足だった。
鍛えに鍛え続けて、まだ鍛え足りないと訴えるこの体で二度目の生を楽しめたことが満足だった。
唯一の心残りは、この肉体の全てを発揮することが出来なかったくらいだけど。
でも満足だった。
凡才でしかない俺が、これ以上を望むのは罰当たりだから。
「だから、泣くなよ」
聞こえてはいないだろうが、俺はくしゃくしゃに顔を歪めたひかげを見つめ、囁く。
最後の相手に、おそらく世界最強の怪異と陰陽師の合わさった存在と戦えたのだ。
これ以上、臨むことは何もない。
「だから……」
細分化され消滅していく俺の魂。
消えていく自我。
失われていく意識。
消失する全存在。
最早、瞳は光を灯すことは無く。
「これでやっと」
――育ててくれて、ありがとう。
「あ?」
終わりの場所に、目を疑う。
死という結末に触れた時、『ソレ』が暗黒の底から歪に微笑んだのを――。
斬る。
おはよう。青山。
響が粉砕☆玉砕☆大喝采なお話でした。
次回、断章最終話【青山】