ネギがその日、寮に戻って最初に見たのは、荒れ果てた室内と、目から色を失って横たわる木乃香の姿だった。
「木乃香さん!」
慌ててネギが駆け寄って木乃香を抱きかかえる。だが木乃香は全く反応することもなく、何かしらを繰り返し呟き続けていた。
「ウチの責任や。ウチが原因や。ウチが悪くて、全部ウチのせいや」
「木乃香さん……! しっかりして! 木乃香さん!」
精神に異常をきたしている。それを悟ったネギは何とか彼女を正気に戻すために、気分を落ち着かせる魔法を唱えた。
すると僅かばかり木乃香の瞳に色が戻り、ネギに視線を合わせるまでに回復する。
「ネギ君……? ネギ君……」
「僕ですよ。大丈夫です。大丈夫ですからね」
「うぁぁぁぁぁ! ネギ君! 明日菜が! 明日菜がぁぁぁぁ!」
瞬間、恐慌した木乃香がネギに抱きついた。咄嗟に風を操って周囲に音が漏れないようにする。かすかに残る魔力の残滓が、状況の悪化を物語っており、周囲を巻き込むのはいけないと悟ったからだ。
刹那は昨日づけで再び京都に戻った後で、頼ることは出来ない。それよりも今は木乃香を落ち着かせる必要があった。
「木乃香さん!」
「嫌ぁ……もう嫌やぁ……明日菜もいなくなって、ウチ、ウチ……全部、ウチが……」
「……大丈夫。僕が助けます。僕が守ります。だから──ごめんなさい」
ネギは嗚咽を漏らす木乃香に眠りの霧を唱えて眠らせた。
その瞼がゆっくりと落ちて、それでも最後まで己を呪い続けた少女は可憐な吐息を漏らしながら眠りにつく。
そっと床に寝かして、ネギは「ごめんなさい」と一言謝ってから、夢に入り込む魔法を使用した。
「……」
木乃香の夢は地獄だった。
紅蓮に飲まれる父親。そしてクラスの仲間やネギ。
ありとあらゆる全てが紅蓮に飲まれ、それを必至に助けようと手を伸ばし、しかし誰にも手が届かず炎は全てを燃やしていく。
その間、紅蓮に飲まれた全ての人間が囁くのだ。
お前がいたから。
お前が悪い。
お前だけなんで生きている。
酷い。
最低。
死ね。
死にさらせ。
詫びて、死ね。
全身全霊で悶死しろ。
あらゆる怨嗟に包まれながら、木乃香が頭を抱えていつまでも謝り続ける光景に、ネギは吐き気すら覚えた。
だが今必要なのはこの夢ではない。ネギは激痛を訴える左目を無視して、その裏側、最新の記憶を読み取った。
そして、目を開く。
「……明日菜さんを、拉致したのか」
記憶に現れたのはスライムの使い魔が三つ。それが唐突に明日菜を奪い去り、泣き叫ぶ木乃香を虫でも払うように吹き飛ばして、そのまま離脱していくもの。
その記憶も、木乃香の感情もネギは汲み取った。
理解不能な超常現象に親友を奪われ、目に届くところにありながら救うことも出来ない無力な自分。
ネギは木乃香に己を重ねた。
その姿はフェイトに挑んで返り討ちにあった己そのものだったから。
「……そうか」
ネギは滑るように立ち上がった。魔力の残滓は目に見える。痛む左目が微細な魔力の軌跡を表していた。
今のネギの心に沸き起こるのは、善悪を超えた怒りだった。人間なら誰もが持つ正しくも邪悪な怒りだった。
拳は硬く作られ、目つきは険しくなり、苛立ちに歯が軋む。
「僕から、また奪うつもりか……」
一度目は、悪魔の軍勢が全てを赤に染めた。
二度目は、鬼と人形が全てを赤に染めた。
そして三度目。
また、同じ紅蓮を自分に見せるというのか。
「……ふざけるな」
最早、状況は問答を許さなかった。いや、ネギは誰であろうと許すつもりはなかった。
閃光。合成された魔力と気がネギの体から膨大なエネルギーとなるのと同時、さらに集められていく精霊がその手に収束した。
「戦の乙女。百柱……術式固定。掌握」
術式兵装。風精影装。
膨大な力と百に及ぶ風の精霊を身にまとって、ネギは開いたままの窓から実を乗り出して空に舞う。
「何処だ……!」
左目がさらに痛む。痛みとともに謎の存在が内側から強烈に口を開くが、怒りがそれをかき消した。
今は、この激痛が心地よい。痛みの最中、左目が全てを知覚する異常な状況を認識する。脳が沸騰するような感覚。広がり続ける認識。
ネギの脳髄に麻帆良の全てがうっすらと浮かんだ。その中から部屋に残された魔力の残滓のみに意識を固定。見えない道が虚空を伝って浮かび上がる。
五感に頼らぬ何かだったが、ネギは漠然とそれを信じることが出来た。痛むのは左目だというのに、鮮血が溢れるのは右目。雨で流血を洗い流しながら、ネギは捕捉した魔力を追って空に飛んだ。
体は驚くくらい熱いのに、思考はとてつもなく冷たい。脳味噌の代わりに氷をぶち込んだような心地。左目の痛みすらも鈍磨して、鈍い痛みに苛まれた。
許すわけにはいかなかった。
冷静な思考で、敵と出会ったときのことを考えながら、そんなことばかり考える。
許せるわけがない。守るべき日常を再び壊そうとするおぞましき邪悪を、どうして許せるだろうか。
同時に、これが正義の義憤なのかも定かではないとネギは思う。
だが、選択肢は一つしかない。
己の邪悪に従った断罪か。
己の正義に従った断罪か。
結局、行き着く果てが一つなら、終わった後に行動に対する善悪を考えよう。
今はただ、怒りのままに。
「開放。雷の暴風・五連」
そしてその場に辿り着いた瞬間、ネギは縛られた明日菜を取り囲む三つの固体目掛けて移動中にためていた魔法を叩きつけた。
分身体が位相をずらし、五つの暴風が螺旋を描いて殺到した。炸裂した破壊の乱気流は明日菜すらも巻き込むほどに見えたが、そこは台風の目とでもいうべき、五つの破壊が重なり打ち消しあう中心に明日菜を置くことで問題なくする。
相手からすれば何が起きたのかわからないだろう。立ち上る煙幕の中にネギは突入すると、風を頼りに明日菜の元に辿り着いた。
「ネギ!?」
「じっとしていてください!」
ネギは明日菜を束縛していた紐を切り裂き、そのついでとばかりに、明日菜の胸元にあったネックレスを引きちぎって咸卦法の出力のままに握りつぶした。
「……あぅ」
何かの影響か、束縛から解放された明日菜が力なく倒れる。慌ててネギはそれを受け止めると、直後、煙を弾いて三つの影が飛び掛ってきた。
明日菜を抱いているため動きが僅かに遅れる。三体のスライム娘は、腕を刃に変えてネギの無防備な背中に突きたてた。
だがその程度ではネギのデコイはおろか、咸卦法で底上げされた体を貫くことすら出来ない。
ネギはスライムを足で弾くと、空に舞い上がって距離をとった。
改めてみると、ここは麻帆良にある屋外ステージの一角だ。ステージはネギの魔法によって完全に砕け散っているので既に原型はないが、ネギはそのことは気にも留めず観客席に明日菜を優しく下ろした。
「ネ、ネギ……」
「安心してください。もう、大丈夫ですから」
ネギは明日菜を安心させるように優しく笑いかけると、こちらを警戒するスライムに向き直り、杖を突きつける。
「……誰だか知らないし、知る気もありません。召喚した人物も近くにいるようですが、そちらは別の方が相手しているので、今はあなた方を倒します」
勝利を断言する。先の一合だけで戦力差ははっきりしていたからこその宣言だ。
ネギは明日菜を巻き込む危険性を考えて、クウネルからは行わないようにと言われた距離を詰める行為を自ら行う。
瞬動ほどの速度はないが、風と咸卦法の相乗効果によってスライムの反射を凌ぐ加速をもって肉薄。三体の丁度間に潜り込むと、二対の分身を放出して左右のスライムを迎撃。目の前のスライムは雷撃を纏った拳で吹き飛ばした。
三体全てがばらばらになる。戦力の分散は一時的で構わない。一体一体に集中できるだけならば上等。
ネギは己の内側を切り分けていく。分割される思考はそのまま体から抜けた分身体に取り込まれ、一つ一つが別々の思考を用いて魔法を詠唱を始めた。
「ラス・テル・マ・スキル・マギステル。風の精霊60人。縛鎖となりて敵を捕まえろ。魔法の射手・戒めの風矢」
『ラス・テル・マ・スキル・マギステル。来れ雷精、風の精。雷を纏いて吹きすさべ南洋の嵐。雷の暴風』
『ラス・テル・マ・スキル・マギステル。闇夜を切り裂く一条の光。我が手に宿りて敵を喰らえ。白き雷』
『ラス・テル・マ・スキル・マギステル。闇夜を切り裂く一条の光。我が手に宿りて敵を喰らえ。白き雷』
新たに一つの分身も扱い、本体を含めた四人が同時に詠唱を完了する。最初に放たれたのは本体から放たれた五十に及ぶ戒め。それは三つに枝分かれして、スライムを雁字搦めにして逃げられないように縫い付けた。
直後、それぞれスライムの方向を向いた緑色の分身が魔法を放った。極大の暴風と、一筋の白き雷。
雷鳴は轟く。幼い少女の姿をしていようが容赦はなく、ネギの魔法は動けぬ使い魔を貫き、あるいは嵐で切り裂き、瞬く間に殲滅を果たした。
術式兵装。風精影装の真骨頂。以前は己の動きをトレースするだけしか出来なかったが、クウネルとの鍛錬により、現在は最高で五つまで、分割思考により分身い魔力を与えることで別々の魔法を扱えるまでに至った。
尤もデメリットはあり、魔法を使用した時点で分身も消滅するのだが──それはネギの戦闘スタイルからすれば些細なデメリットに過ぎない。
無詠唱が未だに未熟な代わりに、複数分身による多重詠唱はネギの大きな強みだ。
「……ふぅ」
殲滅を確認したネギは、それでも周囲を警戒しつつ明日菜の元に飛んだ。
「明日菜さん! ご無事ですか!?」
「……う、うん。私は大丈夫。それより、木乃香のところに、早く私を連れてって」
衰弱の様子が見られるが、明日菜は自分のことより木乃香のことを案じた。ネギはそんな明日菜に無理をするなと告げようとして、じっとこちらを見つめてくる瞳の強さに、何を言うでもなくうなずきを返した。
雨の中、ネギは風を駆使して明日菜に雨が注がないようにしながら帰路を急ぐ。本来ならタカミチに連絡をするほうが正しいのだろうが、何故かそんな気は浮かばなかった。
行きと同じく窓から入ったネギと明日菜は、明日菜は何だかとてつもない感じの下着を着替えに行き、ネギはその間に木乃香を見守ることにした。
「木乃香さん……守りましたよ。明日菜さんを」
そう優しく囁きかけると同時、何故かネギの眼から涙がとめどなく溢れてきた。
「あ、あれ?」
慌てて目元の涙を拭うが、しかし涙は勢いを増していくばかり。
困惑はすぐになくなった。目から流れる熱いものの正体にすぐに気付けたから。
「ネギ?」
「……僕、やっと、やっと、守れたんですね」
ネギは涙を流しながら、着替えを終えた明日菜を見上げた。
何よりも、守れたことに少年は救われていた。三度目、それもこれまでに比べてささやかな相手だったとはいえ、ネギはようやく大切な人を守ることが出来たから。
「ありがとう、ございます……守らせてくれて、ありがとうござます……」
「ネギ……!」
明日菜は思わずネギに駆け寄りその体を抱きしめた。
何てことを自分は彼に言わせているのだろう。早熟で、聡明で、自分よりもよっぽど大人な雰囲気を漂わせているが、ネギはまだ十歳。大人の庇護を受けるべき子どもだというのに。
そんな彼が嬉しそうに、守らせてくれてありがとうと言ったのだ。それは彼にとって救いであり、同時に、幼い少年に言わせてはならない言葉に他ならなかった。
「ごめんね。ごめんね……私は大丈夫だから。ありがとうなんて言わないでネギ。私が感謝しなくちゃ駄目なのに……」
「いいんです明日菜さん。僕、守らせてもらって凄く嬉しいんです。自分勝手ですけど、守れたことが嬉しいから」
「ネギ……」
明日菜はただ後悔するしかなかった。傷心の木乃香を構うばかり、ネギに巣くっていた闇を見逃したことを。
すれ違って、誤って、自分はもう彼の隣ではないことを悟って、明日菜は涙を流してしまう。許されないとわかっていながら、己のふがいなさに涙しかでなかった。
「大丈夫ですよ明日菜さん」
木乃香を守ると誓ったはずだった。
だが自分は彼女の隣にいることばかりを考えて、ネギのように守るための強さを得る努力を怠ってしまった。自分を誘拐した怪物を圧倒した手並みは、京都のときとは比べ物にすらならなくて。
だからと言って、何も出来ないと言うのはただの逃げでしかないだろう。
「大丈夫じゃないよ」
「え?」
「そんな顔して、大丈夫なわけないじゃない」
明日菜はネギの額に己の額を当てて、その両目を真っ直ぐに見詰めた。
優しい光を灯した右目が当惑に揺らめき。
黒い黒い左目は、やはり感情が読めないくらいに黒いまま。
大丈夫なはずが、なかった。
その様を見て、何も言えないなんて、きっと嘘だ。
「私はここにいるよ、ネギ。隣には立てないけど、後ろにいるから……置いて行かないで」
このままでは、ネギはもっと前に進んでしまう。
胸に懐いていた思いすらも忘れて、何かに飲み込まれて溶けてしまう。
最果てに至る可能性がそこにはあった。
だから明日菜は彼を引きとめなくてはいけないのだ。例えネギの足を引っ張ることになっても、彼が後ろを振り向いて、世界は一本道ではないと思いだしてほしかったから。
「ごめんね。ありがとう。でも、無茶だけは絶対にしないで……」
始まりの過ちは、きっとそこだった。
ネギはネギで。
明日菜は明日菜だ。
「明日菜さん……」
「今のネギ、怖いよ」
「ッ……!」
真正面から見たネギの顔。いつも見ていたはずだというのに、それが何故か久しぶりに見たような気がした。
虚ろな瞳と、今にも追いこまれて動けなくなりそうな表情。いずれは傍観に染まり、苦汁を浮かべながらも決して変わらなくなる様子が目に浮かぶ。それはとても怖いことだった。
だがそうしたのは他でもない。自分達を守るためにネギはこうなった。
ならば責は、側にいながらそこに気付かなかった己にあるだろう。
「私を見なさいよ。目を見て、誰か呼びなさい」
「明日菜さん……です」
「そうよ。私は神楽坂明日菜。アンタに守られるだけの存在でも、隣にいつもいる家族でもない……ただの、パートナーよ。それ以上でも以下でもない」
それは明日菜自身も戒める言葉だ。
ネギを守るだけの存在でもない。
ネギの隣にいつもいる家族でもない。
明日菜は、ネギのパートナーでしかない。
そうわかってしまえば、胸にこびりついていた言い得ぬ何かは、あっという間に剥がれ落ちてしまった。
「悪い夢を見てたみたい……」
幼いころ、失った誰か。
そこにネギを投影していた。
今思えばあまりにも身勝手なことだ。今ここにいる少年を見ずに、失った誰かの影ばかりを追っていた。だからネギの変貌にも気付くことが出来ず、このぎりぎりの間際までネギが進むのを見ることしかできなかった。
「でも、それはアンタも同じよ。バカネギ」
明日菜は額を離すと、軽くネギの鼻を弾いた。「あぅ」と悲鳴をあげるネギに、晴れ晴れとした笑顔を向ける。
「何が守らせてくれてありがとうよ。いっちょまえに大人ぶっちゃってさ。アンタはただのお子ちゃまでしょうが」
「……酷いなぁ。明日菜さん」
雨は降っている。だがネギは目の前に太陽があるのを理解した。
同じだ。明日菜が言うとおり、ネギも悪い夢を見ていたらしい。
「そうですよね。明日菜さんは、明日菜さんだ」
幼いころ、己を守ってくれた姉ではない。だから、明日菜を必ず守らなければならないというのはきっと嘘だ。
勿論、ネギも明日菜も、互いを助けて支え合うという気持ちはある。むしろ、これまで以上だろう。
だが決して。
守ろうなんて、思ったりはしなかった。
「いつも怒ってる怖い明日菜さんだ」
そう言って、無邪気に笑う。晴れ晴れと、憑き物がすっかりと落ちた少年らしい微笑みを浮かべて。
明日菜はその笑みに一瞬見惚れ、しかし言われた言葉に文句を言ってやろうと拳を握ってから、気付く。
「アレ? アンタ、左目……」
「え?」
一瞬。黒だけの左目が、かつての色に戻ったような気がしたが、それは幻だったかのように、瞬きをすれば元の黒に戻っていた。
「……いや、何でもないわ」
頭を振って幻影を追い払うと、ふらつく足に力を入れた。
「あわわ、まだ危ないですよ……!」
「大丈夫、よ……!」
手を貸そうとするネギを抑えて、明日菜は己の足で立ち上がる。雨は未だ降り続いているが、それもまた今の自分達には似合っている気がした。
「明日」
「え?」
「晴れるといいわね」
同じく立ち上がったネギは、空を見上げる明日菜を見た。何でもない言葉、だが何かを願うようなその一言に、ネギは視線を暗雲の空に向けると。
「大丈夫、きっと、晴れますよ」
明日のことはわからないし、今のことだってあやふやだけれど。
確信をもって、ネギはそう言い切ることが出来たのだった。
次のお話はオリ主のほうなので、A,B共通となっています。