【完結】しゅらばらばらばら━斬り増し版━   作:トロ

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第三章【無貌の仮面━仮面喪失━】
【無貌の仮面━選択する色━】


 

 

 

 

 よく生きているものだなぁ。

 なんて、学園長室に二週間ぶりに来た俺は感慨深い思いを抱いていた。

 

「……色々と、ご苦労じゃったの」

 

 京都での戦いの顛末を話したあと、数秒の間を置いて学園長さんが俺を労ってくれるが、その言葉は沈痛な響きが含まれていた。

 現在もテレビでは朝から晩まで報道されている京都の大災害。そのことに対する悲しみがあるのか。

 きっと、そうなのだろう。

 学園長さんは人を信じられる優しい人だ。こんな俺ですら受け入れてくれたのだから、きっとこの事件にも心を痛めているに違いない。

 

「俺は、結局……誰も、救えませんでした」

 

 こんなとき、表情が変わらない己が少しばかりありがたい。

 誰も救えなかった。

 そんな俺が、災害を防げなかった俺が悲しむ権利などあるはずがない。

 それどころか、この災害の中で一人、素晴らしいものに感動すらした始末。

 なんと。

 なんとも、救えぬ、悪党。

 

「……詠春様。兄さんも、俺はこの手で殺めたのです」

 

 刀を持っていない両手を開いて、眺める。今は付着しているはずのない血液が見えたような気がした。

 俺は、兄さんを救えなかった。

 たった一人の兄すら救えぬ、矮小な人間だった。

 

「いや、あの状況じゃ。青山君が一人で頑張ったところで、どうにかなる状況ではなかったじゃろう」

 

「学園長……」

 

「むしろ、孤立無援の中、よくぞ一人で戦ってくれた。顛末はある程度聞いておる。今は、ゆっくりと休むといいじゃろう」

 

 学園長さんの優しさを、俺は真正面から見ることが出来ずに視線を伏せたまま、力なく頷いた。

 義理とはいえ、学園長さんにとっても兄さんは息子のようなものだったはずだ。おろか、関係のない人々が魔法という裏事情に巻き込まれたというのは、学園長さんの心を痛めているだろう。

 それでも俺を労わる優しさに、これ以上俺は何も言えなかった。

 

「失礼します」

 

 俺は一礼すると部屋を後にした。

 扉を開けて、さて錦さんのところへ行こうかと思ったが、扉の外で待っていた高畑さんと鉢合わせになる。というか、話が終わってくれるまで待っていてくれていた。

 

「やぁ、報告、ご苦労様」

 

 高畑さんは表面上、普段となんら変わった様子はなかった。余裕のある笑みを浮かべて、俺に優しく声をかけてくれる。

 軽く会釈してから、俺と高畑さんは二人並んで歩き出した。

 

「学園長も言っていたが、君にだけ随分と苦労をかけた」

 

「いえ、あの場では俺しか対処できる人間がいませんでした。そして、対処できる能力を持ちながら、俺は私情を優先して……それが、あの結果です。高畑さんも学園長さんも、自らを責めず、俺だけを責めていただきたい」

 

 言ってから、己の浅ましい心に辟易する。

 何を言っている。

 何が俺を責めればいいだ。

 そんなことを言われて、彼らが俺を責めることはないと知っているというのに。

 唾棄すべき己の未熟に後悔しながら、慌てて訂正しようと口を開き、それよりも早く高畑さんが口を開いた。

 

「君だけを責めるなんて出来ないよ。そんな危険があるという判断をしなかった僕らの甘い見通しが、この事件を生んだ……誰かを責めなければならないなら、それはきっと、僕ら全員が責任を取る必要がある。そして、それは今後の人生全てを使って贖罪しなければならないことだ」

 

 高畑さんは、僅かに影の射した表情で思いのたけを吐き出した。

 ただ、その言葉に俺は答えをもたなかった。

 見通しの甘さ。それは俺も痛感していた。十一代目を得た俺は、何かあっても一人で対処できるつもりだったし、相手に対しても、一般人を巻き込むつもりはないはずだと高をくくっていた。

 その甘さが今回の惨劇。

 未だ包帯をいたるところに巻いた身体をそっと右手で抱くようにして、己に刻まれた傷を罪の証として再認識する。

 何もかも、悪い方向に繋がった。

 あの時、フェイト少年を総本山で倒していればあんなことにはならなかったのか。

 それとも、旅館で彼らが近衛木乃香さんを拉致するのを防いでいればあんなことにならなかったのか。

 全部俺ならあそこで対処できた。

 それをしなかったのは、全て私情。

 俺の欲を満たすためだった。

 ならばやはり、罰せられるのは俺だけだろう。

 そして恥ずべきことに。

 

 俺は、後悔と反省をしながらも、あの戦いを得られたことに満足していた。

 

 

 

 

 

 翌日。報告をした日はそのまま高畑さんと軽く飲んでから帰宅したため、錦さんには挨拶を出来なかった俺は、丁度いいのでそのまま職場に復帰をした。

 同僚の皆さんが、包帯まみれの俺を見て、心配してくれたのが心苦しく、暫くは休んだほうがいいという言葉も丁寧に断りを入れて、俺はいつもの通り錦さんと清掃を行い、昼休みに入っていた。

 

「身体、痛くねぇのか?」

 

「おかげさまで。錦さんが俺の分も掃除をしてくれたので、痛みはさしてありません」

 

「そうか……ならいいんだが」

 

 いつもの場所で、いつも通りに子どもたちの姿を眺めながら、空気は重く苦しかった。

 錦さんは何かを聞こうと何度か口を開けては閉じている。一体何が聞きたいのだろうと考え、ここを出る前、兄に会いに行くと言ったことを思い出した。

 

「兄は死にました」

 

「……あぁ」

 

 事情をある程度は知っている錦さんには、話をしておく必要があるだろう。淡々と語る俺に対して、錦さんの表情は暗い。

 

「傍にいながら、俺は兄を殺してしまったのです。折角、また兄と呼べるようになりながら、俺はこの手で兄を殺めてしまいました」

 

「ニュースで見たよ。ありゃ、誰かを助けるなんて余裕がなかったのはわかる。お前もそんな様なんだ。そうやって自分を責めるなよ」

 

「いいえ。俺は兄を殺しました……ですが、それでも得られたものはあるのです」

 

 空を見上げて、耳を澄ます。そうすれば、あの時響いた兄さんの歌声が、すぐに思い出せた。

 

「生きることの素晴らしさ。兄さんを殺してしまった俺ですが、それでも兄さんが生きた証を得られたことを、誇りに思っています」

 

「兄ちゃん……お前」

 

「災害のとき、とある少年に教わりました。生きることの素晴らしさ。生きていることの尊さ。そして、これまで俺は命に対してあまりにも無頓着だった……それを悔やみ、改めることが出来た……不謹慎ですが、この災害で多くのものを俺は失い、それでも別の何かを得ることが出来たのです」

 

 生きるということの当たり前な答え。

 

「人は、いずれ死にます。その間に培う生が、どのようなものなのか……きっと、生きることの意味はそこにあって、俺はそれを尊ぶべきなのだと」

 

 それだけは、誇ってもいいことだろう。

 色々と間違って、それでも何かを見つける。得られた答えだけは誇るべき真実だ。

 人間というのはそういう生き物で、いつだって過ちのなかから答えは見つかっていく。今回、俺はあらゆる悲劇の中でかけがえの無い答えを知った。

 代償は幾多の涙だ。償うことは出来なくて、ならば少しでも俺は得られた答えを信じて、誰かの生きた証を紡いでいこうと誓った。

 

「……へっ、どうやら、慰める必要はねぇようだな」

 

 錦さんは自分の鼻を軽くこすって恥ずかしそうに呟いた。俺は出来る限りの感情を込めて頷きを返す。

 大切な真実を、斬ることに並ぶ回答を守ろう。

 それがあの災厄を間接的に巻き起こした俺が出来る唯一の償いだと信じているから。

 

「とはいえ、兄ちゃんはまだ怪我してるんだ。無理だけはするんじゃねぇぞ? それでな、災害があったことでここら辺もあわただしくなるかもしれねぇからってことで、今週からボランティアで夜の見回りをすることにしたんだ」

 

 錦さんは辛気臭くなった空気を切り替えるために別の話題を投げかけてくれた。

 内容を簡潔にまとめると、京都の事件も夜に起きたということもあり、しばらくは何かあってもすぐに動けるボランティアで麻帆良一帯を見回りしようと決まったらしい。尤も、非公式なのでメンバーは職場の人間のみで構成されているらしいが。

 

「いいですね。俺も、よければ……」

 

 参加したいという意思を伝えようとして、それよりも早く錦さんは俺の頭を軽く小突いた。

 

「阿呆、兄ちゃんは怪我してるだろうが。それに住居が麻帆良の離れにあるんだろ? 見回りも時間がかかるんだ。まずは怪我を治す。それと住居をもっと近くに移す。でなけりゃ見回りには参加させられないぜ?」

 

 むぅ。

 まぁしかし、錦さんの言うとおりである。青山である俺はこの程度の怪我であれば充分に動けるのだが、如何せん彼らからすればただの若者でしかない。怪我もしているとすれば、無理をさせるわけにはいかないというのもわかる。

 仕方ないか。うん。残念、残念。

 

「ともかく、復帰おめでとさん……というか、いつも怪我して戻ってくるからな。振り出しに戻るってか?」

 

 冗談めかした錦さんの言葉でも笑みを浮かべることは出来ないけど。

 

「おっ、笑ったな?」

 

 吊り上げた唇が象る不器用な笑み。それで錦さんが笑ってくれて、俺は嬉しかった。

 さて、振り出しからまた頑張るとしようか。

 

 

 

 

 

「随分と時間がかかりましたね」

 

「……まぁ、あんなことがあったからね。事情聴取くらいは仕方ないわよ」

 

 ネギと明日菜は久しぶりに戻ってきた麻帆良の風景を眺めながら、そこでようやく自分達の日常が戻ったという実感を得ていた。

 あの日から一週間が過ぎていた。関西呪術協会の息がかかっている病院に運ばれたネギ達は、そこで事件の関係者ということで詳しく話をしながら療養をしていた。

 驚いたことに、ネギ達の怪我自体はさほど問題はなかった。というのも、最後の脱出を手伝ったクウネルの治癒魔法が彼らの怪我を回復させたからだ。

 だがしかし、ネギだけは後遺症が残ってしまった。

 明日菜達と気晴らしに談笑して判明したのだが、まず麻帆良に来てから幾つかの出来事の記憶が失われていた。それは図書館島での出来事だったり、惚れ薬の件は完全に失われていた。そしてカモとの思い出なども失われており、これについてはいずれ親族との改めて話し合うことで、何処まで記憶が失われたのかを調べる必要があると医師は語った。

 そしてもう一つは、色の失われた左目だ。光を飲み込むような黒い瞳は、視力はあるものの、右目とは明らかに色彩が異なっていた。

 その瞳に見つめられると、明日菜達はおろか、ネギも鏡を見て怯むことすらある。

 青山の瞳なのだ。あの恐るべき修羅の漆黒の黒い瞳と瓜二つといってもいい。早々にネギの右目と同じ色彩のカラーコンタクトを作ったのは当然であった。

 臭い物に蓋ともいう。左目が黒くなった。つまり己もまた青山になるのではないかという恐ろしい事実から目を背けたのである。

 ともかく、ネギは様々な代償を一晩にして払うことになった。同時に、一流の魔法使いすら凌ぐ力を得たのはなんという運命の悪戯か。

 だが時折ネギは思うのだ。

 まだ足りない。

 もっと力が欲しい。

 そんな自分の考えを、周りの仲間を思って振り払う。葛藤を繰り返しながら、この一週間、ようやく手にした日常の光景に二人はたまらずため息を漏らしていた。

 楓は既に帰宅している。正確には、途中で別れて、楓は一人で麻帆良の郊外に出て行ったのだが。

 刹那はそのまま京都に残ることになった。彼女自身も思うところがあったのだろう。神鳴流の本山に向かうといって、京都で別れたきりだ。

 そしてネギと明日菜は二人だけで戻ることになった。麻帆良の生徒達は彼らの数日前に無事に帰宅したということだ。

 ともかく、そういうわけで京都の惨状を知っているが故に、まるで麻帆良の風景は別世界のようにすら二人には感じられていた。あるいは京都こそが別世界だったのか。

 日常と非日常。そのギャップをまざまざと認識して、どこか疎外感を覚えるのも無理は無かった。

 

「よし、じゃあさっさと帰って木乃香に元気なとこ見せないと! 私達のこときっと心配していたはずよ!」

 

 明日菜は様々な葛藤を振り払うために、わざと明るく元気な声を出した。ネギも「はい!」と力強く答えて寮へと帰るのだった。

 

 だが、未だに日常は遠い。寮に戻ったことで、二人は改めて現実を突きつけられることになる。

 

「ただい、ま……」

 

 一週間ぶりの麻帆良。久しぶりに寮に戻ってきたネギと明日菜は、暗く締め切られた部屋が撒き散らす重苦しい空気に、一瞬部屋を間違えたのかと勘違いした。

 いつも暖かな雰囲気があった部屋が苦しい。小さいはずのテレビの音すら妙に五月蝿く感じるくらいだった。

 

「明日菜? ネギ君?」

 

 自分の部屋だというのに入るのを躊躇っていると、まるで這い出るように暗がりで座り込んでいた木乃香が、表情の抜けきった顔で明日菜達を見つめ、僅かにその瞳に涙が浮かんだと思うと、顔をくしゃくしゃにして「よかった……よかった……」と安堵の言葉を漏らした。

 その尋常ではない姿に背筋が凍る。明日菜は慌てて木乃香に近づくと、その肩に手を添えた。

 

「木乃香……」

 

「ウチ……明日菜達も、もしかしたら、居なくなったんやないかって……怖くてなぁ。ウチ、とっても怖かったんや」

 

 小刻みに震える肩、すすり泣くようにしながら、それでも懸命に涙を堪えている少女の背中に、明日菜は言葉を言うよりも早く抱きついていた。

 

「ただいま。ごめんね。心配ばっかかけてごめんね木乃香」

 

「ううん。えぇの、無事だったらえぇんや……ウチ、実家が、京都でな。それで、噴火があった場所が実家のあるところで……お父様から連絡なくて、不安で、それで明日菜達も連絡なくて、ウチ、ウチなぁ……」

 

 上手く言葉に出来ないくらい、焦燥と混乱と恐怖に苛まれていたのだろう。ネギは部屋の明かりをつけて、顔を上げた木乃香の顔が蒼白になっているのに声もなく驚いた。

 

「こ、木乃香さん。お食事は……」

 

 力なく顔を横に振る木乃香。ご飯をほとんどとっていないというのか。当惑するネギ達の耳に、ドアが開く音が聞こえた。

 振り返ると、そこに居たのはクラス委員長の雪広あやかだった。あやかも驚いたように目と口を開いて、直後、ゆっくりと近づいて、手に持った食事をテーブルに置き、ネギと明日菜を抱きしめた。

 

「ご無事で、よかったです。ネギ先生、明日菜さん」

 

「いいんちょ……」

 

 普段とは違うあやかの態度に困惑しながら、明日菜は涙を浮かべて「ただいま」と呟いた。

 ネギはあやかの柔らかな香りと暖かさに、何故か涙したくなった。だがそれを堪えて抱きしめ返して、四人は暫くの間静かに無事であることを喜ぶのだった。

 

 

「……そういうわけでして、木乃香さんはここ暫くお部屋に引きこもったままですわ」

 

 再会から一時間ほど過ぎた後、木乃香の傍にいると言う明日菜を部屋に残してあやかとネギは部屋の外で木乃香のことについて話し合っていた。

 クラスの幾人かも、京都の災害によって心身に負担を受けていたが、それでも早めに避難が完了したため、今は木乃香以外は普通に生活をしているらしい。

 だが木乃香だけは、実家がマグマの発生源の真上だったということもあり、父親の安否が不安で寝食があまり出来ていないらしい。

 

「交代で食事を作ったり、傍にいたりはしたのですけどね。よく一人にさせてと言って、あまり傍にいられない状態が続いていて……申し訳ありませんわネギ先生。私たちでは、木乃香さんの力になれなくて……」

 

「いえ、ありがとうございます。きっと木乃香さんにも気持ちは届いていますよ」

 

「そうだとよいのですが……それで、ネギ先生達はもう大丈夫なのですか?」

 

 あやかの不安げな表情を和らげるため、ネギは優しい微笑みを返して頷いた。

 

「僕も明日菜さんも大丈夫です。ここにはいませんが、楓さんと刹那さんも怪我はありませんよ」

 

 その言葉を聞いて、「よかった」と安堵のため息をあやかは漏らした。

 

「高畑先生からネギ先生達は無事だとは聞いていたのですが、こうして無事な姿を見るまでは不安で仕方ありませんでしたわ。この分だと、来ていないお二人も大丈夫なのですね」

 

 もしかしたら、クラスを落ち着かせるための嘘をタカミチが言っていたのではないかと、あやかは心の隅で考えていたのだ。だが二人が無事であることもあり、刹那と楓が無事であるという確証が得られたのだろう。

 何より、ネギの言葉を信じられた。それは最初からそうなのだが、不思議と今のネギは以前よりもさらに真摯だとあやかには感じられた。

 災害の後、変わったのだろうか。それが悪い方向でないことが良かったと思う。

 

「一応、私のほうでも京都復興のついで、というのは語弊がありますが、木乃香さんのお父様の捜索は行っています。尤も……」

 

 続く言葉をあやかは飲み込んだ。

 ネギも彼女が言いたいことはわかっている。おそらく、いや、確実に木乃香の父親は死んでいるだろう。マグマもそうだが、スクナの砲撃を受けて生きられるわけがない。それこそ英雄と呼ばれた自分の父親でもない限り、あの破壊と災厄は逃れえるものではなかった。

 それに、もし生きていたのなら、西の長としてネギ達のところに来たかもしれない。来なくても、何かしらの伝言はくれたはずだ。

 ネギはその事情を言うわけにもいかず、口を噤んだ。その様子を見たあやかは空気を悪くしたことに気付き、曖昧に笑ってどうにかごまかす。

 

「ともかく、お聞きになっているかもしれませんが、被害にあった私達は、暫くお休みをいただけましたわ。本当は授業に出て、早く日常に戻った実感が得たいところですが……木乃香さんのこともありますし」

 

 あやかはドアの向こうに寂しげな視線を送った。ネギもまた同じように視線を送り、耐え切れずに目を伏せる。

 力が足りなかった。まざまざと見せ付けられた木乃香の現状はネギの罪だ。もっと自分が強かったらあの惨劇を止められたはずだ。

 それこそ、総本山を防衛し、最後は打って出てフェイトとスクナ、二体の化け物を斬り捨てた青山のように。

 

「……ッ」

 

 ネギは己の脳裏に浮かんだ考えを振り払い、嫌悪するように顔をゆがめた。

 青山に対する感情は複雑だ。己の無力を棚上げにして、彼がもっと早く動いていればと思う苛立ちと憎しみ、一人であの災厄に挑んだという尊敬と憧れ、それら一切を覆しかねないくらいの恐怖と絶望。

 斬撃という完結。

 

「僕は、無力です」

 

「……そんなことはありませんわ、ネギ先生」

 

 あやかは木乃香を思って落ち込んでいると勘違いしたが、事実は違う。あやかに抱きしめられながら、ネギが思うのは別のことだ。

 無力を嘆き、強さを求めたその果てにアレに行き着くのを恐れている。

 今ならば楓の言っていたことが痛いほどわかった。青山とは超えてはいけない一線だ。人間が到達してはならない領域に住まう、化け物如きもの。

 だがしかし、あの力が無ければ何も救えない。実際は、ネギが無力を感じたのは、魔法使いでも最高位の戦いなので、無力であるのは当然である。しかし立て続けに最上位の戦いに紛れ込んだ少年は、あの領域に居なければならないという、一種の脅迫概念に襲われていた。

 現実は、そこに至る過程がまるで見えないのだが。

 咸卦法に闇の魔法。

 この二つを未熟ながらに修めたネギだが、そこから先の展望が見えずにいる。

 事件から毎日のように、暇を見つければ研鑽を積んでいるのだが、どうしても強くなっているという実感がわかなかった。

 

「先生?」

 

 自己に埋没するネギをあやかの声が引き上げる。慌てて意識を現実に戻したネギは、何か言うわけにもいかず、曖昧に笑って場を濁した。

 

 

 その翌日、ネギの元に一通の手紙が届けられたことによって状況は一転するが、今はただ、己の無力と、無力の象徴である木乃香を見続けるしかネギには出来なかった。

 

 

 

 

 

 気を体内で循環させることで怪我の治りを早めることは出来るが、それでも動きにある程度の支障は出る。いち早く完治させるためには時間が必要だ。そのため、今日から暫くの間、仕事終わりの一時間をエヴァンジェリンの別荘である異空間で過ごすことになった。

 まぁこれは俺が自分で思いついたわけではなく、エヴァンジェリン直々のお誘いだったりする。正直、エヴァンジェリンと会話するのは楽しくありながらも疲れるのだが、願ったり叶ったりなので、俺はその誘いを受けることにしたのだった。

 

「それで? 京都は楽しかったか?」

 

 以前のときと同じく、テラスで向かい合って座ってから早々、目の前に広げられた豪華な料理以上に興味津々といった様子でエヴァンジェリンがあの日のことを聞いてきた。

 幾らなんでも無遠慮すぎる言い草に、内心で僅かに不貞腐れるものの、余裕たっぷりな笑みを浮かべる彼女に何か言っても無駄だと悟る。俺は観念してワイングラスの中身を一気に煽ると、胸を焼く熱以上に苦しい思い出を開封した。

 

「……死んだよ。見知らぬ他人。見知った知人。見知った光景。知り合えた友、沢山、死んだ」

 

「そうか。見知らぬ他人を斬って、見知った知人を斬って、見知った光景を斬って、知り合えた友を斬って、沢山、斬ったのか」

 

 エヴァンジェリンは俺の言葉をそっくりそのまま使ってそう返してきた。だが彼女にしては些か陳腐な言い回しだ。

 やや呆れながら俺はエヴァンジェリンを見た。

 

「当たり前なことを一々聞き返すな」

 

「くくっ。そうだな。それもそうだ」

 

 全く、本当に何が楽しいというのか。

 色々な人が死んだ。とても悲しいことで、とても心苦しいことで。

 斬った。

 それは別だろう。

 

「人が死んだよ。しかも、俺は兄さんをこの手で殺したんだ」

 

「兄?」

 

「近衛詠春。旧姓は青山詠春といって、俺の肉親だった」

 

 軽く説明すると、エヴァンジェリンは納得とばかりに笑った。

 

「何だ、詠春の奴死んだのか……にしても貴様も随分と手が早いな」

 

 手が早い。

 そう、あっという間に俺は詠春様を殺したのだ。生きているから、斬って、殺す。生物として当然の結末だとはいえ、兄さんが死んだこと、そして殺してしまったことはとても悲しい。

 

「だが兄さんの生きた証は俺の心に残っている。故人の生きた証を胸に抱いて、俺は少しずつ前に進めたら──」

 

「はははははははっ!」

 

 突如、エヴァンジェリンが腹を抱えて笑い出した。それはとても嬉しそうに、無邪気な笑い声の中に膨大な殺意を孕ませて。

 気味が悪い。同時に、そんな汚らしい彼女がとてもお似合いに見えた。

 だがいつまでも見とれているわけにはいかない。俺の決意を侮辱した笑みを浮かべたのは事実。俺は苛立ちをそのままにエヴァンジェリンを見据える。

 

「何がおかしい?」

 

「貴様がおかしい」

 

 先ほどと同じく、台詞をそのまま使ってエヴァンジェリンは返す。俺は口を出そうとして、エヴァンジェリンはそんな俺の言葉を、まるで幼子の駄々を聞き流すようにして続けた。

 

「いい成長をしたなぁ青山。いや、付け加えられたと言ったほうがいいのか? 何処の誰だか知らんが、またえらく歪な代物を渡したものだよ」

 

「どういうことだ?」

 

「どうもこうも。貴様……いや、これは語らないほうがいいか。人間は矛盾を孕む生き物だ。そして、生きることと死ぬことが両極にありながら成立するものと同じように、あるいはその矛盾もどこかで成立しているのかもな」

 

 エヴァンジェリンは、まるで俺の全てを見透かしたような物言いをした。対して、俺は彼女が何を言っているのか理解できなかったが、彼女は話は終わりだとばかりに食事に手をつけ始めた。

 俺も納得はしないが、話して面白いことではないのは確かなので、食事に手をつける。暫く食器と咀嚼の音だけが続いた。

 

「正義の元の行いと悪の元の行い。この二つはどう違うと思う?」

 

 唐突に。

 本当に唐突にエヴァンジェリンはそんなことを聞いてきた。あまりにも突拍子なことなので、俺は食事の手を止めて彼女を見返す。

 少女はどこか憂いを帯びた表情でグラスの中に注がれた赤ワインを見つめていた。俺に視線を向けるでもなく、遠くを見つめた様子で静かに語る。

 

「百人の貧困者がいる。一人は奉仕の精神で彼らを救い導き、一人は労働者を得るために彼らを救いの名の下に騙した。どちらも百人の貧しいものを救ったのは事実だ」

 

「だから?」

 

「極論、善悪に優劣はないというくだらないお話だよ。あらゆる行いは善でも悪でも、どちらの動機でも行うことが出来るということさ」

 

 だからそれがなんだ。

 

「一体、何を話している?」

 

「貴様のことだよ青山」

 

 エヴァンジェリンは視線を上げると、しなやかな白い指先で俺を指差した。

 

「貴様は善悪の基準を抱きながら、斬ることに帰結している。青山、貴様は斬るということに疑問をもったことはないのか?」

 

 その問いは愚問だ。いつだって俺の答えは決まっている。

 

「斬ることは斬ることだ」

 

「素晴らしい。そして、あまりにも愚かだ」

 

 エヴァンジェリンはもろ手を挙げて俺を賞賛し、同時に嘲笑した。

 結局、何が言いたいのかわからない。だから苦手なんだよなぁとか思いつつ、食事を再開するさもしい俺であった。

 

 

 

 

 

 夜。青山がゲスト用の寝室に行った後も、エヴァンジェリンは青山のことを肴にしてワインを楽しんでいた。

 己のことを何よりも知りながら、何よりも己自身を知らぬ愚かな男。それが青山だ。エヴァンジェリンは斬ることと生きること、矛盾する二つを当然のように矛盾させたまま併せ持つ青山を思って苦笑した。

 

「殺した相手の生きた証を胸に宿す、か……」

 

 矛盾している。だが青山の中でこれは矛盾していない。己が殺した相手の死を悲しみ、悼み、証を胸に抱いて、誰かを斬る。

 悪循環だ。そもそもが異常だった青山が、これまでよりもさらに捻れて狂った。無垢なまま気が狂っているという事実は、人間だから取り込めるものなのか。もしくは人間すらも忌み嫌う別種の何かなのか。

 いずれにせよ。

 予感はあるのだ。

 そう、エヴァンジェリンは薄い笑みの下で考える。

 

「貴様が私を殺すか。私が貴様を殺すか……貴様の謎解きなど、そのときが来れば自ずとわかるだろうさ」

 

 それは明日か明後日か。あるいは一年後か十年後か。

 いつ起きるのかはわからない。だがこれだけは斬っても斬れない縁だから。

 私は確かに貴様に斬られた。

 だから、今度は私が貴様を殺す番なのだ。

 来るべき最後のとき、そのときを夢想するだけで、エヴァンジェリンは今宵もまどろみの中、笑みを貼り付けたまま沈むことが出来るのだった。

 

 

 

 

 

 近衛木乃香は人一倍以上に優しい少女だ。少々突込みが苛烈なときがあるが、それも含めておしとやかで愛情に溢れている。彼女の周りでは笑顔が咲き誇り、そんな彼女の優しさに明日菜は随分と助けられたものだ。

 

「……おはよ、木乃香」

 

 だから今度は自分が彼女を支えるのだ。麻帆良に帰ってきた翌日の朝、既に起きていた、あるいは昨夜も眠れなかったのか、もう布団から出てうずくまっている木乃香に、明日菜は笑いかけた。

 

「おはよ、明日菜」

 

 返事だけして、木乃香は立てた膝に顔を埋める。

 木乃香は人一倍優しい。だからこそ人一倍、他人のことを心配する。それが肉親なら尚のことで、明日菜は木乃香の隣に座り、寄り添うしか出来ない己の無力に内心で毒づいた。

 あくまで客観的な、しかもかなり広義に解釈すればだが、今回の京都大災害は木乃香にも責任の一端はある。誰もそのことは責めないし、明日菜も責めるつもりはないが、もしも事件の真相を知れば、他でもない木乃香自身が己を責めるだろう。

 だが詠春の真実は、残酷ながら木乃香に教えられない魔法という裏の事情にこそ潜む。

 そも、どう説明しろというのか。あなたの魔力によって封印を解かれた鬼が実家を焼いた。守れなくてごめんねとでも言えばいいのか。

 違うだろう。短絡的な己の考えに辟易する。

 

「せや、明日菜、お腹空いたやろ……帰ってきたんやし、何か作らんと……」

 

 不意に木乃香は夢遊病者のように立ち上がると、虚ろな瞳で台所まで歩く。今にも倒れそうなその身体を慌てて支えようとして、そっと木乃香の手に遮られた。

 

「大丈夫やから。ウチ、嬉しいんや。明日菜とネギ君が帰ってきただけで、とっても嬉しいんや」

 

 そう言う木乃香の顔にはいつもの優しい笑顔は浮かんでいなかった。

 安否も知れぬ親の行方、連日報道される被災地の状況。優しいからこそ、現実に耐え切れない。

 

「木乃香……なら、私も手伝い──」

 

「駄目や!」

 

 突如、木乃香は大声をあげた。その声に驚き目を見開く明日菜の表情を見て、木乃香は虚ろな表情のまま慌てた様子で頭を振った。

 

「あ、違……明日菜、明日菜は、帰ってきたばかりやから。座って、待っててぇな」

 

「う、うん」

 

 その迫力に気おされた形で、明日菜は引き下がった。

 木乃香は安堵のため息を漏らすと、まるでいつもの日常がそこにあるとでも言わんばかりに、鼻歌を混じりに、冷蔵庫の中から食材を取り出して調理を始める。

 その姿を見ながら、明日菜は何かを言うことも出来ずに押し黙った。

 いつもの日常の出来損ないが広がっていた。いつものようでありながら、何処までも状況が違いすぎる。

 明日菜はわけもわからず悲しくなった。日常に戻ってきたつもりで、結局自分は日常に戻ることが出来なかったのだから。

 罪があり、それに対する罰がある。

 力がないことが罪ならば、木乃香の今こそその罰か。

 だとしたらあまりにも残酷すぎる。当事者である自分たちではなく、被害者である木乃香にばかり罰が下るというのなら。

 

「私は……私達は……」

 

 その先の言葉が見つからない。今、明日菜に出来るのは、この出来の悪い日常の焼き直しに付き合うことだけだった。

 

 

 

 

 

 ネギはその日、朝日も出たばかりの早朝から図書館島に来ていた。

 その手に握られているのは一通の手紙だ。昨夜、ネギの手元に唐突に現れたその手紙の中身は、ある意味では驚愕すべき内容だった。

 クウネル・サンダース。京都にて突如ネギ達の前に現れて、そのまま救出してくれた謎の男からの招待の手紙だった。

 図書館島地下にてお待ちしております。お一人で来てくださいね。

 そう書かれた内容に違和感はあったものの、現状ネギが出来ることはないので、明日菜には一言告げた状態で来たのであった。なお、カモについては留守番である。

 

「……えっと」

 

 ネギは手紙に記された地図の通りに図書館島を進んでいく。罠の位置も正確に記されているのと、魔法が使用可能ということもあり、以前よりはスムーズに奥に進むことが出来た。

 そうして歩くこと暫く、薄明かりを頼りに歩いていたネギの視界の奥から差し込む光に導かれた先で、開けた場所にようやく出ることができた。

 地下にあるとは思えないほど美しい自然が広がる空間は、日差しの暖かさすら感じられるほどだ。魔法で作られた特異な空間を眺めてから、手紙と場所を照らし合わせて、この場所が待ち合わせのところと合致しているのを確認した。

 だが手紙に書かれているのは、ここに来るまでのみだ。それ以上のことは書いておらず、ネギは周囲を見渡して。

 

「お待たせしました」

 

「わっ!?」

 

 突如、背後から声をかけられてその場で飛び跳ねてしまった。

 慌てた様子で振り返ると、相変わらず胡散臭そうな微笑を浮かべているクウネル・サンダースがそこに立っていた。

 いつの間に現れたのかと思って、京都のときも唐突に現れたことを思い出す。転移魔法の使い方がたくみなのだろう。

 そして少なくとも、青山の恐るべき気を受けて、表面上は平然としていられら人物でもある。

 

「もう怪我は大丈夫ですか?」

 

 ネギが警戒心を露にしているにも関わらず、クウネルは落ち着いた様子で声をかけてきた。そのとっつきやすさに、むしろ余計に警戒心が高まる。

 僅かに、苦笑。「嫌われるようなことしましたかね?」とぼやいた矢先、ネギを見下ろすクウネルの目が細まった。

 

「左目」

 

「え?」

 

「左目は、そのままですか」

 

 クウネルはカラーコンタクトを装着したネギの左目。その内側に宿る漆黒の光を見据えて呟いた。

 少年の瞳は暗黒に飲み込まれている。それは闇の魔法の代償か。あるいは別の何かによる『進化の証』なのか。

 人を遥かに超える時を生きてきたクウネルですら、ネギの瞳の質は見たことがない。まるで貪欲に光を飲み込み、己の糧にするような底なしの穴。

 そこに興味を抱いていないといえば、嘘になるだろう。クウネルは内心を微笑のカーテンで隠す。その内心の読めぬクウネルの態度に、埒が明かないと思ったのか、ネギは手紙を掲げてクウネルを見上げた。

 

「どうして、僕をここに呼んだのですか?」

 

「さぁ、どうしてでしょうか。世間話のため、とかはどうですか?」

 

「それなら、ここに呼ばなくても、外でご一緒に出来ますよ」

 

 ネギはあえて警戒心を解いて柔らかい口調で答えた。何となくだが、クウネルにはそう接したほうがいいという直感が働いたからだ。

 クウネルもネギがまとう空気が変わったのを見たのか、笑みを深くして指を立てる。

 

「実はここはここで美味しい紅茶も飲めるのですよ。そうですね。話の内容は……あなたの今後について、具体的には──強く、なりたくないですか?」

 

 何の突拍子もなくそう問いかけてきたクウネルの言葉に、ネギは目を丸くした。

 強くなりたいという願い。それは今まさにネギの内側に潜んでいるものである。強くなりたい。だが強くなる方法がわからない。暗中模索となっていたネギに、突如として降りてきた一本の蜘蛛の糸。

 

「……でしたら、ご一緒させていただきます」

 

「はい。是非とも」

 

 二人は笑い合うと、クウネルを先頭に歩いていく。

 何故、クウネルがネギにそんな提案をしようという考えに至ったのかはわからない。だがそれでも、振って沸いてきた唐突なチャンスをネギは逃すつもりはなかった。

 今度こそ失わないために。

 今度こそ守れるように。

 そのための力を、強さを得るために、ネギは最初の一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 

「あなたは自分が今どれほど強いかを考えたことはありますか?」

 

 マイナスイオンが充満していそうな、大きな滝が地核に見える幻想的な空間。紅茶を注いだカップが置かれたテーブルで、向かい合うように座りあった二人の雑談は、まずクウネルのそんな問いかけから始まった。

 

「僕は、強くないです」

 

 ネギの回答に、クウネルは「違いますよネギ君。どれほど弱いのかではなく、どれほど強いのかを聞いてるのです」と聞き返す。

 弱さではなく、強さを語る。だがネギの中で比較対象になるのは、弱い相手は一般人や明日菜。自分より強いのは刹那に楓、そして抗いようのなかった彼らのこと。

 自分の強さを比べられる相手がいない。いや、一人。犬神小太郎と名乗った少年は比べるには充分な相手のようで──振り返れば、単純な実力では勝てる相手ではなかっただろう。

 

「……んー」

 

 唸るネギを見て、クウネルは微笑みのままカップに口をつけた。いつもながら美味しくいれられたことに満足しながら、悩むネギに声をかける。

 

「今のあなたには比較できる相手がいない。それではどの程度強いのか、どの程度の強さから強いといえるのか、わからないでしょう」

 

 クウネルの言葉はするりとネギの心の中に入り込んできた。確かにネギがこれまで会ってきた者達は、ほとんど総じて今の自分よりも遥かに強靭だ。

 ならどうしようもないというのか。打ちひしがれそうなネギに、クウネルはさらに追い討ちをかける。

 

「強くなりたいという願いは素晴らしい。ですが現実はそんなものです。あなたは弱い。それはあなた自身がこれまで戦いから縁のない世界にいたことと、彼らは幼き頃から戦いに飲まれていたことが最初にして決定的な原因です」

 

 経験値不足。咸卦法と闇の魔法を手に入れたとはいえ、今のネギでは宝の持ち腐れである。それらを扱う技量が圧倒的に足りないのだ。

 言ってしまえば、獣と遜色ない。身体能力の赴くままに戦うだけならば、野生の獣のようでしかないだろう。いや、野性の獣だって己の身体の扱い方を知っていることを考えれば、ネギは獣以下になるか。

 

「……強くなるということは、膨大な経験値が必要です。確かにあなたは掛け値なしの天才です。私の元で少しばかり実戦を経験すれば、すぐにでも才覚を発揮するでしょうが。能力だけ上がっても、その下地が不足すれば、いずれ足元を容易く掬われるでしょう」

 

 そうなれば、また守れない。ネギはクウネルにそう言われたような気がした。

 ネギの表情に陰が射す。クウネルはそれを察して、ネギを安心させるように優しく微笑みかけた。

 

「ですがこれを覆す方法は簡単ですよ?」

 

「本当ですか?」

 

「はい。あなたが経験を積めばいいのです」

 

 あまりにも軽く言われたために、ネギは一瞬何を言われているのかわからなくなり言葉を失った。そして、たちまちネギの内側に苛立ちがこみ上げてくる。

 

「それがすぐに出来ないから問題なのではないのですか?」

 

 経験は一朝一夕で身につけられるものではない。同年代であろう小太郎ですら、充分な実戦を経たことによる経験値は膨大だ。

 そして経験は膨大な時間を必要とする。技術は才能があれば一朝一夕で身につけることは可能であるが、それを生かすための経験はまた別物だ。

 だがクウネルはそれをわかった上で提案する。ネギに足りない経験値。それを補う方法は確かに存在するのだ。

 

「短期間で経験を得られる方法は存在します」

 

 その言葉にネギは驚くが、クウネルは気にせずに続けた。いつの間にか取り出したのか、クウネルは手に持った水晶体をテーブルの上に置いた。

 ネギはその水晶の内側に、小さな建物が入っているのに気付いた。ミニチュアのようなそれは、よく見ると立派な豪邸で、小さなサイズでもその大きさがわかるくらいリアリティーがある。

 

「ですが当然ながら、あなたにはそれなりの代償を払ってもらうことにはなりますが」

 

「代償……」

 

 喉が引きつる。簡単な話ではないのはわかっているが、それでもいざ代償という言葉で言われると、ネギの身体は自然と硬直してしまった。

 

「英雄の息子であるあなたなら、経験を積み、技量を練磨すれば……私の見た目通りなら早くて一年。エヴァンジェリンの闇の魔法を使うのであれば半年でこの世界でも上位の力を得られるでしょう。あなたは少々特殊ですからね」

 

「僕が特殊って……そんなこと」

 

「ありますよ。尤もこれは特別に強いだとかそういうのではないですよ? 本来、経験という下地の上に築き上げられるはずの技量が、あなたの場合、技量の上に経験を築き上げようとしている……これでは順序が逆です」

 

 そしてそこがクウネルがネギを己で鍛え上げようとする最大の理由であることは、本人には言わない。

 天才であるが故か。ネギの開発力とでも言う魔法に対する見識の深さは常軌を逸するものだ。一日どころではない。数時間のうちに咸卦法と闇の魔法を、擬似的にだが体得する。これが異常でなくてなんだというのだろう。

 それがクウネルには不安であった。代償として奪われた左目の光も、不安に拍車をかけている。今のネギはどちらに天秤が傾くのかわからなく、酷く不安定な存在だ。

 あるいは、天秤そのものが崩壊してしまいそうである。最悪の結末を許容するには、クウネルは彼の父親であるナギ・スプリングフィールドに肩入れしすぎていた。

 何も正義の道に進ませようというわけではない。ただ、その器が崩壊するのが許せないという気持ちがある。

 だから、ここで経験という鎧をまとわせてネギを強固にする。

 クウネルは微笑みの下でそう心を決めていた。だからこそ、無償で彼に新たな道を指し示し。

 そっと手を差し伸べて、問いかけるのだ。

 

「ここに切っ掛けがあります」

 

「……」

 

「あなたが強くなれる道の鍵です。それをどう使いかはあなたの自由です」

 

 ネギは差し出された掌を数秒見つめ、そして視線を下に向けた。

 

「どうしてあなたが僕によくしてくれるのかはわかりません。話に出ませんでしたが、あなたは結局、理由を一切話はしなかった……」

 

「理由を話せと?」

 

「そうではないんです」

 

 ネギは膝の上に置いた掌を開いて視線を落とした。頼りない掌、庇護されるべき子どもの手。

 

「そんなあなたにすがらなければならないほど……今の僕に選択肢はない」

 

 弱者だから、無力だから、ネギは京都の夜で平静を保ち続ける強さをもつクウネルに、理由もなく縋ろうとしている。

 盲目というわけではない。怪しさがあろうと、それすらも含めて強くなろうとしているのだ。

 浅ましい考えといわれればそこまでだった。事実、ネギはクウネルの提案に乗ろうとしている己の弱さが情けなかったし、そんな情けない自分から脱却するために強くなるのだ。

 手段を選べない。あるいは手段を選ばない。己はどっちなのだろうか。クウネルの提案を受け入れることは、なりふり構わぬ決断か、わかった上での愚行か。

 どちらにせよ。この提案を理由もなく承諾した時点で、ネギは立派な人間にはなれないだろう。そして、そんな情けないことを吐露して、クウネルから理由を聞き出すという大義名分を得ようとする己の打算的な考えが許せなかった。

 クウネルは心中落ち込んだネギから手を引っ込め、立ち上がるとネギに背を向けた。

 

「……プライドが許さない、という話ではないのでしょうね。理由のない無償の行為が信じられない、ということでもない。だがその考えに至れたことは、誇っていいと思いますよ?」

 

「酷い考え方です」

 

「だが、それが人間です」

 

 ネギは何かに突き動かされるように顔を上げた。すると、応じるようにクウネルは振り返って微笑む。

 

「私が語るのもあれなのでしょうが……立派な人間などこの世には存在しませんよ。というよりも、立派とは何を指して立派なのですか? 素晴らしい聖人になればいいのか。もしくは冒涜的な悪人になればいいのか。ネギ君。あなたの甘いところは、善悪二つの基準に囚われていることです。正義のみを信じるか。悪のみに突き動かされるか。そうなれれば悩みはあれど進めるというのに……どっちつかずは何よりも苦しい」

 

 それも含めて、クウネルはネギに指し示すのだ。

 善であるか。

 悪であるか。

 そうすることで、善悪の垣根に生息する『何か』であることはなくなるはずだ。

 何か。

 つまり、修羅。

 クウネルは青山を知ってしまった。彼本人は自覚をしていないが、それこそがネギを弟子にしようとした最大の要因なのかもしれない。

 

「……そう、ですね」

 

 ネギはクウネルの言わんとすることを何となく察したのか、曖昧に笑った。

 思い出すのは、フェイトと戦ったときに得られたありえぬ確信だ。勝利という事象のみを求め続けたあの時、自分はあらゆる迷いを一切振り払って真っ直ぐだった。酷く歪でありながら、確かに真っ直ぐであったのだ。

 だがそれは善悪という、人間のルールを越えた別種の何かだ。誰しもが己の内側に一本だけ宿している芯。善悪にではなく、そこに囚われることは……異常だ。

 

「それを、教えてくれるのですか?」

 

 ネギも立ち上がってクウネルの隣に立った。善であれ、悪であれとはクウネルは言わない。ただ、経験を積み重ねさせることで、その過程で善であるか悪であるか。その道をネギに示そうというのだ。

 それはネギが当たり前な人間であるために必要な、大切な過程で、同時に、彼の年でその全てを培う必要がないことでもある。

 だがネギは経験を望み。

 クウネルはその経験として善悪両方の道を示すことにした。

 突き詰めれば、ここまでの会話はその程度のことでしかない。

 

「よろしくお願いします。クウネルさん」

 

「こちらこそ。私に任せてくださいね。あなたがあなたであるために……私はあなたの道となりましょう」

 

 今はただ、我武者羅に道を進もう。

 その果てに選択するときが来るまで、ネギは走るしかないのだから。

 

 

 

 

 


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