第一話【青山という男】
凶器を扱う者は、狂気に陥る。
殺すということを意識する道具は、それだけで人の中に眠る魔性を引き出すのだ。
冷たい殺意をその鈍い輝きを放つ鉄に込めて、凶器は子どもにすら殺人を選択肢に与える。
まさに、狂気的だ。
だからこそ、凶器を、武器を扱う者は道を外してはならない。
邪道を正道に。
狂気を侠気に。
一歩、一歩。恐れながらその扱いを研鑽していかなければならない。
「……」
男はそれをわかっていた。わかっていたのに、踏み外した。
その行いは悪である。男は、邪道に走った。
冷たい刃の輝きに魅せられた。
狂気になれと囁く甘美に身を任せた。
研鑽を積み。
知られることなく狂気を育てていった。
「……」
その全てを、今暴かれた。
婚約をすることになり、引退するといった姉。全盛期を維持できるのはこれが最後だと思ったから、だから無理矢理呼び止めて、真剣を用いた殺し合いに近い決闘を持ちかけた。
そして、全てを見抜かれたのだ。
正しくは、見せ付けるように、見抜かせた。
決闘の場所となった空き地は、あらゆる場所にミサイルでも着弾したようなクレーターが出来ている。だが対峙する二人の体には、埃による汚れ以外は見られなかった。
この惨状を作り上げたと言うのに。そんな破壊を持ってしても、まるで無傷だった。
「……」
男は静かに刀を正眼に構えた。
いや、本来なら男というには、些か精悍さに欠ける幼い顔立ちだ。それは無理もなく、彼は十を僅かに過ぎたばかりの少年に過ぎない。
だが、感情を表さない冷たい表情と、何よりも無感動な瞳が、彼から少年らしさを剥ぎ取っていた。
対峙する女性もまた、普段の柔らかな笑みを浮かべることもなく刀を持つ。
その内心に浮かんでいるのは──後悔だ。
この数年、本気で試合をしたことがなかった弟。無言で、無表情のまま、ひたすら自己の内側で研鑽を続けていたその狂気を、肉親でありながら知ることが出来なかった。
なんて、無様なことか。
僅かに歪みそうになる顔を無理矢理とどめて、女性は天まで届くようだった気をさらに充実させた。嵐のように激烈な気の奔流を前に、男は無表情のまま、静かに内部で気を練り上げる。
秘境の奥にある静寂の水面を思わせるような静けさだった。女性とはまるで逆。ひたすら己の内部に没頭するそのあり方が、終ぞその内側に眠る狂気を感づかれることをさせなかった所以か。
人を殺すこと。妖を滅ぼすこと。
そこに快楽を求めているわけではない。
そんなわかりやすい狂気ではなく。
誰よりも、圧倒的に、強くなる。
たったそれだけの単純な狂気を、見逃してしまった。
「……」
なら、その狂気を鎮める方法は一つだけ。
ここで、敗北させる。
強くなり続けるという願望を。そのために殺すことすら躊躇わない本質を。敗北という鎖で押さえ込む。
でなければ、この青年は最強になってしまう。最強などというもののために、人を守るという本質はおろか、自分自身という、絶対に守らないといけない人間すら守れなくなってしまう。
──最も、人を守るという役割を放棄しようとしている自分が言えた義理はないのかもしれないが。
小さな微笑。いや、苦笑。
そこに、男は隙を見出した。
男の体が消えたと同時、女性の目の前に突如として現れた。
瞬動と呼ばれる高度な歩法だ。そして、男や相手の女性レベルの戦闘力を保有していれば、基本として修めている技術でもある。
だから、別段驚きもしないし、そもそもこの破壊を撒き散らしている間にそんなのは何度も見た。
「シッ!」
男の持つ刀が振るわれる。上から下への振り下ろし、単純なその軌跡は、単純ゆえに激烈。風すら斬られたことに後で気付くほどの神速は、女性の眼をもってしても見切ることは不可能だ。
瞬動よりも速い斬撃。冗談のような神速を、事前に軌跡を予知することで回避する。
冷たい殺気は女性の長く美しい黒髪を切り裂くに終わり、空を裂く。だがこんなことは先程から何度も繰り返したことでしかない。
続いて女性が動く。右斜めに飛んで、振りぬかれた死を避けきり、男の背後を奪った。最短距離を詰めるのに瞬動は要らない。男の体を通り抜けたように無駄なく回り込み、その肩の付け根を狙って刃を振り下ろす。
しかしこれも避けられる。巧みに体を逸らした男は、光の宿らぬ瞳で振り向いた。
あぁ、その冷たさに嘆く。どうしてこの冷たさに気付かなかったのか。常に無表情。常に無言。沈黙の塊ゆえに注視しなかった。
こんな化け物になるまで気付かぬ。気付かせぬ。
姉さん。あなたは悪くない。男はその内心で優しく語りかけた。
姉さん。あなたは斬ります。男はその内心で優しく語りかけた。
同じように、語りかけた。
「ッ!」
無言の気迫とともに、振り向きざまの加速を合わせて、男が刃を解き放った。上半身と下半身を泣き別れにする一撃は、咄嗟に後ろに飛んだ女性の体を──服を浅く切り裂く。
着地と同時に、女性の顔に焦りの色が浮かんだ。服を切り裂かれただけで、体には傷一つすらない。
しかし、これまで互いに無傷だった状態が、服一枚とはいえ拮抗が崩れた。
やはり強くなっている。この一瞬の間にも着々と、好敵手に対応するために、己の内部に沈んでいき、より速く、より強く、その速度を増していく。
末恐ろしい。今ですら恐ろしいのに、これ以上何処に行こうというのか。奥義を撃つ溜めすら作れなくなった現状、振るう刃はどれもが一撃必殺で、ひたすらに回避、回避、回避。
絶技の応酬だった。まず間違いなく、世界中の全てを含めて、近距離戦では右に出る者がいない二人の激突は熾烈を極める。
危険を冒さずには、この敵手は打倒できない。その思考に至った二人の刃は、次第にその身を危険に晒すことを躊躇わなくなっていく。
これまで傷一つつかなかった二人の体に、ゆっくりと、だが確実に裂傷が刻まれ始めた。余裕が失われていく。思考は余分なことを失っていき、凍りつくように冷たくなっていく。
闘争の行き着く果てなど、殺し合いの帰結など、結局はこの場所だ。
冷たい、無感動。
こんな場所にしか、最強は存在しない。人としてのあり方を見失った場所に、戦いの極みは存在する。
そんな場所に、弟を行かせたくはなかった。冷たく鋭利な思考はそのままに、人としての心が女性の内側から炎となり、冷たい思考を熱くさせていく。
人を守るために振るう刀は、最強である必要は何処にもない。
守るための意思は、時として最強すら超えるのだから。
だから、ここで倒す。
冷たい刃と、熱き刃が激突した。刃毀れを嫌い、受けをしてこなかった両者の得物が拮抗する。名刀と呼ばれる互いの刃が、持ち主の気と敵手の気に板ばさみとなって悲鳴をあげた。
こんな鍔迫り合いを後数秒でも行えば、半生を共にした刀が砕け散る。
それを嫌って女性は飛び退き。
そんなことは関係ないと男は飛び込んだ。
「ッ!」
「くぅ!?」
己を厭わぬ特攻が来る。死して勝利を拾う。その光を宿さぬ瞳の奥の感情を読み取った女性は、苦悶の声をあげながらも、真っ向から向かえ撃った。
互いに瞬動。音だけが響き渡り、虚空で火花が飛び散った。
虚空瞬動を含めた空中戦は、防御を捨てた男の猛攻に女性が気おされる形となっている。
殺しに来い。そう誘っているような無防備に、女性は躊躇った。
殺せるわけがない。苦渋に満ちた女性の顔を見て、男は。
「斬ります」
ただ静かに、涙を流した。
その数年後、少年は神鳴流を破門となる。
─
前世の人格を宿した子どもというのは、異常そのものだ。
幼少の、おそらく三歳の半ばほどの頃、俺はかつての人格を手にした。
そのときの記憶はない。
ただ、例えば読み書きや、色んなスポーツ、料理等の雑学から、学校で習うような学業の内容について等の記憶は残っていた。前世の記憶は失っているが、体験した数々の知識は残っているといったなんとも都合のいい感じのものと解釈していただければいい。
だから、この世界が前世の俺の常識とはまるで違うものだと理解したときの感動は凄かった。
俺が新たな生を受けた青山と呼ばれるさる名家は、神鳴流と呼ばれる、簡単に言うと退魔を生業とする流派の宗家だった。当時は退魔などというオカルトは眉唾ものであったが、それはすぐ、己の体に流れている『青山の血』を知ったことで消し飛んだ。
ともかく、青山という才能は恐ろしかった。幼少の頃から稽古を始めた俺は、ひたすらに没頭して、前世ではファンタジーとも言えるほどの恐るべき身体能力、気、技を身につけることが出来た。
その途中で感情を表に出すことが難しくなったが、まぁそれはどうでもいい。
結果として俺は強くなった。まるでゲームのRPGでもやっているかのように、稽古を重ね、実戦を積み、死線を潜り続けた。
そして今、俺がこの世に人格を覚醒させ、常にその背中を追っていた女性の一人が、目の前にいる。
戦いは、彼女のほうから仕掛けてきた。
長女を降した俺に、彼女は仕合を申しこんでくれた。
まるで、追い求めてもらえたようで嬉しかった。
そして戦い、愛し合うように戦った。少なくとも俺は、愛し合っていたと思う。
だけど、そんな気持ちは俺の独りよがりで。やっぱし俺は皆と違うんだなぁと、見せ付けられたような気がした。
だから、閃き。
「強く、なったなぁ」
その一言に喜びの感情は見られなかった。それも仕方ないな、と心の隅で思う。
俺は強さに魅せられた。青山という体の持つ、とてつもない才覚を開放する楽しさに歓喜し続けた。
それは、人を守るという神鳴流のあり方とは決定的にずれていた。
俺は気付けば修羅になっていたのだ。これがもしも、前世の人格に目覚めていなかったのならば、あるいは正統な青山の後継者として、神鳴流を受け継いでいたかもしれない。
だが最早それは叶わない。俺は俺で、青山という玩具を得た童だ。
殺人の技術を研鑽することに歓喜する化け物だ。
そんな化け物が強くなった。そのことを女性は、青山として追い続けた幾人のうちの一人の背中、俺の二人目の姉、青山素子が嘆いていた。
「姉上を降し、そして、私も降し……誰もお前を、止められなかった。最も、当時の姉上にすら勝ったお前を、私が止められるわけもない、か」
自嘲するような物言いに、俺は首を振っていた。
そんなことはなかった。姉はとても強く、当時の、全盛期の鶴子すら凌駕する力で応えてくれた。
強くて、強くて。
斬った。
姉が手に持っている野太刀は半ばから絶たれ、斬り飛ばされた刀身が大地に虚しく突き立っている。とはいえ未だその戦闘力は失われたわけではない。
対して俺はといえば、持っていた刀は完全に砕け散り、残骸が周り一面に散らばって徒手空拳。神鳴流であればそれでも戦えるが、半ばから折れているとはいえ、業物を持っている姉と俺では、戦力の差は決定的である。
互いに傷は幾つも刻まれていた。しかしそれは決して戦闘を阻害できるほど深い傷ではなく、このまま対峙し続ければ、充実する気による活性化ですぐに塞がれるだろう。
絶対的に不利な状況だ。今、姉に襲われれば、俺は敗北をする。
だが、勝ったのは俺だった。
「斬ったのか……」
姉は悲しげに手に持った野太刀を掲げた。
「斬れるのか?」
「……はい」
「そんな様で、斬れるのか」
「……はい」
そう。
斬れる。
斬れるのだ。
俺は斬れる。
だから斬った。
俺は、斬った。
姉が放った渾身の太刀を、断ち切った。絶ち斬れた。
その代償として、必殺すら斬り飛ばした十代目の相棒は砕け散ったが。
まぁいい。
そんなことは。
どうでもいい。
「斬れるのです。素子姉さん」
斬るのだ。刀があれば、斬れるのだ。
ありとあらゆる全てを斬る。
斬って。
「この様だから、斬るのです」
斬れたんだ。
「果てに、何を求める?」
姉の問いに、俺は答えを持っていない。
強くなれるから、強くなった。
それだけだ。
それだけだったのだ。
そうして果てに待っていたのが、斬撃だっただけ。
それだけのこと。
「理由などない、か」
「最早、果てに至った、ゆえに。理由もなき、刀です……ですが、かつて、願いは、ありました」
苦笑する姉に対して、俺は久しぶりに長く使ったことで疲れてしまった舌をもつれさせないように、一言一言、慎重に言葉を重ねた。
「強く、なりたかったのです」
青山が。俺の体になった青山が。
この青山の血は、何処まで行くのか。
「知りたかったのです。俺は」
もっと先に。
もっと高く。
強くなっていく、この肉体が向かう先を。
俺は見たかったのだ。
「この体が、何処に、行くのか」
そのために、斬った。
だから最早、人を守る刀ではない
そんな狂気の果てが、この戦いで見せた俺の到達点─斬撃─だった。
斬るということだった。
「修羅に生きるか」
「……」
「……負けた私には、お前を止めることは出来ない。いや、お前はもう、進み終わったのか。だから、斬れたのか」
「……はい」
人の道に終わりはない。誰かが言っていそうな言葉は、俺には通じない。
俺は、到達している。
斬るという道の最後に、至ってしまった。
だから姉を斬れたのだ。
そうして俺は斬ったから。そうして姉は斬られたから。剣士として認めざるを得ないほど、俺は、姉の刀を斬ったから。
だから、俺は勝者で。
姉は、素子姉さんは、敗者だ。
「……一手、ありがとうございました」
頭を下げて、踵を返す。強き者と戦えた、そして降せたという充実感を胸に宿して。
そしてもう、二度と会えないことへの悲しみを僅かに感じながら、静かに、帰路につく。
空が、煤けているな。
─
「……」
その背中を、素子は静かに見届けた。
「時代の、落ち子か」
ある日、姉が呟いた弟への評価を口にしていた。
弟は、時代がずれた。と。
青山という骨と神鳴流という肉が作り上げてしまった、神鳴流の塊にして、神鳴流の闇。
青山という化生。
強さを求める修羅。
だが、こことは違う場所で行われた、英雄が闊歩する戦いには間に合わなかった。
もし、あと少しだけ時代がずれていたのならば、そうすれば彼は英雄になっただろう。
しかしもうそれは叶わない。世界を揺るがした闘争は終わり、時代に取り残された修羅は、孤独となった。
「姉上。私達は、遅すぎた……もう、たどり着いていたのです。道半ばではなく、到達していました。私では、道半ばの私では、あの領域には届かない……だから」
ならば、その極点に至った技は、何処に向かうというのだろう。
時代は過ぎた。
闘争の時代は終わった。
だからこのまま。
「平和に眠るといい──。いや……青山よ」
弟の名前を言い直し、その名称を呟く。最早、素子の弟であった青山──は死んだ。
あそこに居たのは、青山と呼ばれる修羅だ。
そうして、いつからか弟を指して呟かれるようになったその言葉を最後に。
素子は静かに弟とは逆の方向に向かって歩いていった。
空では、今にも泣き出しそうな灰色の雲だけが漂っている。
眠れる修羅は、時代の落とし子。
行き場を失ったその狂気は、何処へ行く。
─
社会としての枠組みで見た場合の青山は、不適合者の烙印を押されても仕方ないだろう。
常に無表情で、喋ることもほとんどない。
そんな彼を雇う場所など何処にあるのだろうか。破門されてから暫くは、魑魅魍魎の討伐や、かつて戦っていた頃に蓄えた貯金で生きていける。だがそれとは別に、表向きの職というものは必要である。
「青山、です……お願いします」
そんな彼が奇跡的にも就職できたのは、麻帆良と呼ばれる学園都市の清掃員としての仕事であった。無口、無表情、しかも剣の鬼ではあるが、日常生活では害のない素朴な男だ。周りの従業員が、人生を長く経験した年長の人ばかりということもあり、若輩である青山は概ね受け入れられることになった。
これから、少しずつ慣れていこう。前世の記憶はないが、きっと前世でも働きはしていたはずだと、無表情の奥でやる気を漲らせる。そんな彼は周囲の大人たちに肩を叩かれつつ満更でもなさそうに、長く付き合ってきた肉親にすらわからないくらい小さく、その目じりを緩めた。
「まぁここはとにかく広い。清掃場所なんて腐るほどあるから疲れるんじゃねぇぞ?」
「はい。錦、さん」
「声が小さい! っても兄ちゃん。ちょっと訳ありっぽいからな。そこまでとやかくは言わないが、出来るだけ話すように努力はしろよ?」
俺が小さく頷くと、俺の教育担当兼、パートナーとなった明朗快活なおじさんである錦さんは、眩しいくらいの笑顔を浮かべてくれた。
麻帆良学園の敷地は広い。今日は初めてということで、初等部の敷地の清掃だ。清掃用具を片手に俺は錦さんに言われたとおりに黙々と掃除をこなす。
悪くない時間だった。幼少時、あんなにも没頭した非日常のせいか、戻りたくないと思った当たり前の日常。
それがここまで落ち着けるものだとは思わなかった。こうして一人の人間として、ただの青山として掃除をしているとそう思う。敷地を綺麗にするごとに、自分の心の中も洗われるような気がするのは。
それは、きっと気のせいだ。
「錦、さん。終わりました……」
回らない舌をどうにか回して錦さんに声をかける。思いのほか速かった俺の掃除の速度に僅かに驚いているが、「やるじぁねぇか」と笑顔で褒められる。
この程度なら、鍛えた肉体を行使すれば他愛ない。それに掃除というのもまた鍛錬になるので、やりがいがあった。
いかに早く汚れを見つけ、どうすれば早く全てを清掃できるか、頭にプランを立てる。観察眼と状況判断。この二つが養われる立派な鍛錬だ。
……ほらやっぱしこんな思考。心が洗われているなんて、気のせい。
「ちっと早いが、飯にするか」
錦さんの提案に頷いて応える。昼よりも少し前、暖かな陽気に包まれた俺は、グラウンドで元気にサッカーの授業を楽しんでいる、初等部の子どもたちの様子を見ながら食事をすることにした。
隣には、コンビニ弁当とペットボトルのお茶を持ってきた錦さん。俺は自分で作った内臓を鍛える特別なメニューだ。興味を持った人に食べてもらったりもしたが、どうにも味は最悪らしい。
まぁ、味覚なんてものがあるからそう感じるのだろう。俺には味がわからないのだから、こういうのも悪くはないのである。ちょっとばかし健康に悪そうな煮物を箸で摘むと、静かに食事を始めた。
「しかし、兄ちゃんみたいな若いのがこういう職につくなんて珍しいこともあるもんだ」
錦さんは弁当を食べながらそんなことを呟いた。言うからには多分、そうなのかもしれない。こういうとき、前世で生きてきた記憶がないというのは心苦しい。今世では力ばかりに没頭したため、世間の常識というのには何かと疎い俺である。
答えることも叶わずに沈黙していると、錦さんも答えを求めたわけではないのだろう、そのまま食事を続けた。
そんなとき、グラウンドで遊んでいた子どもたちが蹴ったボールが俺のほうまで飛んできた。白と黒のサッカーボール。コロコロと転がってきて、つま先に触れる。
「すみませーん!」
担任の女性教師と子どもたちが俺に向かって手を振ってきた。僅か、その光景に動きを止めていると、錦さんが俺の脇腹を軽く小突く。
「ほれ、返してやんなって」
そう言われるのと、子どもたちの一人が我慢できずに走りよってくるのは同時だった。
俺は静かに立ち上がってボールを片手で掴む。それを走ってくる少年に向かって軽く投げてやった。
放物線を描いて見事に胸元へ。「ありがとうございます!」快活で、聞いていて気分のよくなる声に、手を上げて応じる。深々と被った帽子の下は見られなかっただろうか。微笑なんて出来ないから、そうすることでしか感情を示せない。
よかった。傍に寄られていたら、子どもはきっと、泣いてしまったはずだ。
「笑わないな、兄ちゃんは」
「……すみません」
「いや……いいんだよ。若いからって俺らより苦労をしてねぇってわけじゃない。色々とあったんだろ? お前さんは」
悟られているなぁ。申し訳なさを感じても、頭を下げるしか出来ない。
そう、色々とあった。
色々とあって、全部斬った。
そんなものだ。
「……」
やはり、斬るのだろう。斬るしか、答えは見つからない。
所詮、日常などは程遠い。
少し肌寒くも、それでも穏やかな陽気に包まれながら、この職についた本当の理由を思い出していた。
あれは今から二週間ほど前、素子姉さんとの仕合が終わってから少し経った頃だった。
寂れたあばら家に届いた一枚の封筒。その中身は二度と会うこともないと思っていた鶴子姉さんからであった。
それは、神鳴流の青山にではなく、俺という青山に向けて送られてきた手紙だった。
内容は、簡単に述べると、英雄の息子が麻帆良学園という場所に教師として赴任するので、影ながらその護衛を担当するように、ということだ。
英雄の息子というのがどういうのかは知らないが、目下、何かしらしようとすることはなかったので、その依頼を受けることにした。
他にも、学園長には従うようにという旨も書かれていた。ともかくはここで働け、そういうことらしい。
何を考えて俺を推薦したのかは知らないが、こうして来たにはやることはやるし、出来ないことはしないつもりだ。
それに、英雄の息子というのがどれ程の有名で、どんな厄介を引き連れてくるのか興味もあったし。
そんなこんなで、俺はネギ・スプリングフィールドという少年を護衛するために、ここにこうして清掃員として着任したのであった。
最も、護衛よりも楽しいことがありそうなので、個人的にはそっちのほうが楽しみではあるのだけれど。
どうせ。
うん。
どうせ、斬るのだ。
─
青山と言えば、神鳴流においては頭をあげることの出来ない名前である。化け物を打ち倒す剣術の使い手の頂点、宗家にして最強の名前。
それが、青山だ。
だが現在、神鳴流、そして一部の術者による青山という呼び名は、羨望と憧れに満ちてはなく、畏怖と恐怖の別名とさえ言われている。
青山。
そう呼ばれるとき、それは宗家の青山を指す言葉ではない。
神鳴流が生み出した生きる修羅を、彼らはそう呼んでいる。
かつては、歴代でも最強と言われるようになると言われていた青山家唯一の男子は、数年前、姉である鶴子を殺し合いの如き決闘の末、半死半生にまで追い込む。
それを皮切りに、その男は日本中のあらゆる妖魔、あるいは人間にいたるまで、強き者であればどのような手段を持ってしても、そう、封印されているのであれば、それすら抉じ開けて、戦いを行い続けた。
驚異的なのは、彼が全ての戦いにおいて勝利を収めてきたということだ。
そしていつしか、あらゆる猛者を殺して回る、化け物の如き男を指して、『青山』と誰もが呼ぶようになった。
何故、青山と呼ばれるようになったのかはわからない。だが誰もが青山と呼んだ。
もしかしたら、あえて青山と呼ぶことで、その男は宗家とは別の人間だと言いたかったのかもしれない。
ともかく、青山が暴走してからの日本は、一時期混乱に陥っていたと言ってもいい。それでも外聞を気にした神鳴流と関西呪術協会のトップの者達の手によって、青山の名を畏怖と恐怖で呼ぶ者は、神鳴流と、一部の実力者などに収まった。
青山自体が、強者以外との戦いを望まなかったというのも大きい。
そうして、人間は青山から隠れ、妖魔も、青山一人で開放できる全ての封印が解け、そこに眠っていた妖魔が絶え、生きていた妖魔達も皆青山の刀に斬り伏せられ、その件はようやく落ち着きを取り戻した。
だが青山と恐れられた男が残した爪痕は、深く、深くあらゆる場所に刻まれたのであった。
「まぁそう固くならんでゆっくりしなさい」
そう朗らかに言ってきたのは、ここの学園長さんだ。
慣れ親しみやすそうな笑顔に思わずこちらも安堵する。最も、俺の表情はまるで変わらないので、この気持ちを伝えることは出来ないのだが。
「よろしく、お願いいたします。不足ながら、学園の、礎になれればと」
代わりに、深々と頭を下げる。真摯な態度は、表情以上に物を言う。俺の経験則だ。
「なに、鶴子ちゃんのご指名じゃからの、腕前のほうは心配しておらんよ。のぉ、高畑君や」
「えぇ。よろしく頼むよ、青山君」
学園長さんの隣に立っている優しそうな男性、高畑さんが優しく声をかけてくれた。
こうして人の優しさに触れるのはいつ振りのことになるのか。その暖かさに感動を覚えながら、そも、その優しさを手放したのは自業自得であることを忘れてはいけない。
こういう世界を、見ることが出来たはずなのだ。
だが、俺は青山だった。
それだけの話である。
「それで、件の、英雄の息子は? 高畑さんのこと、ですか?」
「ほぉ? これは驚いた。英雄の息子といえば有名なのじゃが……知らないのかね?」
「生憎と、俗世には、疎く」
斬ることだけは、怠らなかったが。
「安心せい、高畑君は護衛を必要とするほど柔ではないし、彼は英雄の息子などではないよ」
そうか。どうやら勘違いをしてしまったらしい。
これは恥ずかしいものだ。
「不快な、思いをさせて、申し訳、ありません」
俺はいそいそと高畑さんに向かって頭を下げた。
そうすると、逆に申し訳なさそうに高畑さんが苦笑した。
「気にしないでくれ。何、君には優男に見えてしまったんだろう。僕もまだまだ修行が足りないってことか」
「いや、そのような、ことは……ありません」
むしろ、そそる。
出来れば、学園長と二人一緒に相手していただけたら、それはきっと甘美なことで。
などと、全く。
なんともまぁ度し難い己の阿呆加減に、余計にいたたまれなくなる。
「話に聞いていたよりも、ずっと素朴な青年ですね」
「うむ。青山と聞いて、もっと恐ろしい人だと思ったのじゃがのぉ……と、本人を前に失礼な話じゃったか」
「いえ……事実、ですから」
青山と言えば、知っている人間は怯える。
俺が、高名な宗家の名前を地に落とした。
斬って、落とした。
「俺は、青山です。そういう、ものです。己のために、全部、斬りました」
「そうかい……それは」
言葉に詰まった高畑さんが、どこか寂しげに笑みを浮かべた。その笑みは、寂しいけれど優しい人の微笑だ。
嬉しくなる。こんな自分に同情してくれる人がいるというのは、この上なく幸せなことだ。
だからそんな優しい人に共感されるというのは、俺にはとても悲しいことだった。
「お気に、なさらずに。俺は、俺しか見ていません。そんな俺に、同情など。高畑さんに申し訳ない」
「僕は……いや、わかった。そうだね」
「はい」
こんな人に同情されてしまったら、問題が発生してしまう。
いざというとき、俺を殺しにきてくれないではないか。
それは、とてもとても、悲しいことである。
という思考は置いておこう。
「ところで、俺は、英雄の息子の、護衛として、どのようにすれば、よろしいのでしょうか?」
ようやく本題に入る。最も、俺が勘違いしたせいで話が脱線したのだけれど。
学園長さんもそんな俺の考えを見抜いたのだろう。コホンと咳払いを一つすると、静かに語り始めた。
「君には、この学園内で起こる諸問題に対する指導員としての立場をとってもらいたいのじゃが」
「指導員、というと?」
「要は、生徒間の揉め事を解決する立場じゃよ。そういう立場であれば、一ヵ月後に来る英雄の息子を護衛するにあたっても、いい位置にいることが出来るじゃろうて」
なるほど。と思った。
表向きは普通に仕事をこなしながら、裏では護衛としての仕事を全うする。
実に理に叶っている。
だがまぁ。
「それは、よろしくないと」
俺は、辞退することにした。
「どうして、と聞いてもいいかな?」
と言う高畑さんの言葉に、俺は正直に答える。
「俺が、青山だからです」
理由なんて、それだけで充分だが、少し当惑の色が見える二人に対して、もう少し説明する必要があるだろう。
「少なくとも、二人。神鳴流の使い手の、気配を、感じました」
「……わかるのかね」
学園長さんの視線が鋭くなる。だが特に怯むことなく、俺は頷きを返した。
「まぁ、この学園の、敷地内程度でしたら……把握は、容易で、ございます」
複数を相手に一人で戦うということは珍しいことではなかった。その結果培われたレーダーのようなものだ。魔力と気を察知する、その程度のものである。そこから推察して神鳴流らしき使い手を見つけた。
それだけだ。
所詮は、その程度。
「青山という名は、神鳴流の、禁です。宗家を潰した、宗家の出来損ない。侮蔑の、総称で、あります」
「なるほど。つまり」
「……俺は、可能な限り、接触を控えるよう、心がけます」
だがまぁ、この学園に居る限り、いずれは彼女、あるいは彼らと出会うことになるだろう。
そのときは。
そうだなぁ。
斬るのかなぁ。
「しかし、そこまで根が深いのかね?」
「まぁ……」
一応、殺してきた妖魔や人間は、全てが人間界には害となるような者を選んできたつもりだ。
勿論、俺の噂を何処からか聞きつけて戦いを挑んできたら、それは善悪問わずに斬ったが。
しかしそのやり方は、神鳴流の理念には反する行いだ。
冒涜的で。
異常者のやり口だ。
「宗家の名も、継承者も、まとめて、潰した相手を、許すわけが、ないでしょう」
だがそれでも、鶴子姉さんは俺を推薦してくれたのだ。
ならば、俺は可能な限り姉さんの期待に応えなければならない。
「……無論、やはり、駄目だと、言うことならば……今すぐに、出て行きます」
「いや、そんなことはせんよ。君を推薦したのも、何かしら意味があってのことじゃろう」
「では……」
「君の希望を汲んで、可能な限り目立たない職を探すことにしよう。本当は夜の見回りも頼みたかったのじゃが……まぁそこも上手くすり合わせてみよう」
「ありがとう、ございます。その寛大さに、礼を」
「じゃあ、今日のところは案内するから、ついでに僕の部屋をそのまま寝床に使ってもらおう。この後、時間は空いているかい?」
高畑さんが朗らかに笑いながらそう言ってきた。
いい加減舌が疲れてしまった俺は、頷きをもって返すと、いっそう笑顔が深くなる。
確か、教師だと言っていたなぁ。
人格者なのか。
惜しいなぁ。
そういう人は、本気で斬ってくれないんだ。
「案内、よろしく、お願いします」
俺は深々と頭を下げた。
こんな俺に優しくしてくれる高畑さんの気持ちが、嬉しかった。
優しい人は、大好きだ。
でも。
「それじゃ、早速行こうか」
「お願い、します」
斬らないのだろうなぁ。
─
タカミチと共に、青山は部屋を出て行った。
一人になった右衛門は、今しがた出て行った青年のことを思い返す。
「あれが、青山、のぉ」
髭を撫で付けながら、聞いていた話とは随分と違う印象を受けたことに、僅かな戸惑いと、大きな安堵を覚えていた。
「いや……」
違うのだろう。
鶴子から貰った手紙には、弟は内側で全てを完結していると書いてあった。
表面上に見えるものは、その無表情と同じように意味なし。
あの内側は、地獄なのだとも書いてあった。
そこまで。
そこまで実の姉に言わせる彼が、感情が出せず、口数が少ないけれど、根は優しい素朴な青年であるわけがない。
孕んでいるのだ。
無表情の内側に、あの冷たい瞳の奥に。
「それでも、ワシを頼りにしたのじゃろ?」
ここの、麻帆良の中でなら、彼も狂気を薄れさせることが出来るのではないか。内側に沈殿している、ヘドロのようなどす黒いものを、少しずつ、少しずつだけど掬われていき、いずれ、全うな男として、恐れられるべき青山ではなく、人の上に立つ青山になれるのではないか。
そんな祈りを、鶴子は無理を承知でこの学園に託したのだ。
肉親としての情愛が、半死半生に追い込まれた今ですら残っている。
その優しさを右衛門は無碍にしたくなかった。
ならば、光の道を行かせてみせよう。一人で塞ぎこんだその殻を破り、広い世界を見せてあげようと思う。
ただ、一人の教師として。タカミチもその気持ちは同じだから。
「まぁ、任せておきなさい。鶴子ちゃん」
必ず、あの子を立派な子にしてみせる。そう誓いを新たにするのだった。
だが、もしこれを、もう一人の姉である素子が聞いたのなら、首を横に振っていただろう。
そんな奇跡なんてありえない。剣を交えて理解した。戦う前は、敗北を突きつければ狂気を鎮めることも出来ると、姉と同じ気持ちを抱いていた。
だが、最早あれは、敗北ですら止まらない。
いや、止まらないのではない。
すでに、終わっている。
この世界で今は、素子だけが青山のことをわかっていた。
修羅を行き。
修羅に生き。
そして、アレは果てに行き着いた。刀という道の、一つの極点に。幼少の頃からの修練が産んだ、自己以外を省みなかったから得られた極地。
人は、何処まで行けるのか。
その答えを、アレは得ている。
基本的な変更点は。
エヴァンジェリン戦。
月詠戦。
フェイト、スクナ戦。
となっております。あちらで連載中のほうはすぐに完結予定なので、特に更新速度に影響は出ないと思います。