フェザーンに滞在していた、イゼルローンの面々もワーレン元帥の出動を聞き、キャゼルヌ事務監の顔を脳裏に描いた。しかし、皆沈黙を保った。ワーレンは尊敬すべき将帥だし、これからは銀河帝国とは外交関係を築いていく。
だが、この世で一番尊ぶべきは、
ワーレンは、ユリアン・ミンツにキャゼルヌ中将について尋ねた。青年は、形の良いダークブラウンの瞳を一瞬宙に泳がせたが、てきぱきと親しみを込めて返答をした。
自分の保護者だったヤン・ウェンリーとは六つ、いや七つ違い。ヤンが士官学校の三年生のとき、24歳の若さで士官学校の事務局次官として就任してきた。若い頃からその俊英ぶりを買われ、将来の後方本部長と目されてきた。
「小官が、ヤン提督の被保護者になったのも、キャゼルヌ中将の計らいなんです。
当時は、色々と常識外れの奴だから、飼いならしてやってくれとおっしゃいました。
ヤン提督が27歳で大佐の時のことです。確かにびっくりしました。
エル・ファシルの英雄はどんな人だろうと思ってお宅を訪ねたら、
パジャマに歯ブラシをくわえて出てきたんですよ」
そして、おさまりの悪い黒髪はひどい寝癖でぼさぼさだった。ようやくヤンの思い出を口にできるようになったが、それが温かいものであるほど、心の柔らかな部分に痛みが走る。
それでも知って欲しい。ヤン・ウェンリーという不世出の戦争の芸術家の、一人の人間としての側面を。ユリアンにフレデリカ、キャゼルヌとアッテンボロー、大勢の部下達と沢山の人々が愛したのは、日常の頼りなく優しい平凡な顔だったことを。
ユリアンの思い出話に、ワーレンは驚いた顔になった。ユリアン・ミンツはヤン・ウェンリーの養子だということだったが、赤の他人とは思っていなかった。
「卿はヤン元帥の縁者だったわけではないのか」
「はい閣下。トラバース法、正式には軍事子女福祉戦時特例法というものが同盟はありました。
戦争孤児を軍人が引き取って養育すると、
15歳までは養育費の補助があり、税金も控除されます。
そのまま子どもが軍人になれば、養育費の返還は不要というものでした。
つまり、それだけ孤児用の福祉施設が満杯だったのです。
養育費は出せても、施設を作ったり、職員を配置するには予算が足りませんでした。
熟練者不足で、インフラ施設の不調がしょっちゅうあったのに、
それでも戦争が続いていました」
ワーレンはユリアンの言葉に、虚を突かれる思いがした。帝国にとっても対岸の火事ではない問題だった。帝国軍でも戦死者は膨大な数にのぼるが、下級兵士の補償は遺族にわずかな年金が支払われるのみだ。
孤児の養育についても、身分階級や居住地による格差は大きい。
ラインハルトは身分階級の是正にも着手したが、五百年近く続く慣例である。わずか二年の在位の多くを、
「卿に訊きたいが、なぜ15歳までが対象となるのだろうか」
「同盟の義務教育が15歳までだからです。
中学校を卒業後、士官学校や軍専科学校に進学したり、従軍する選択がありました。
もちろん、養育費を返還するなら違う道も選べました。
とはいえ、通常保護者となるのは、子どものいる夫婦です。
それなりの大金になりますから、一括返還は実質的に不可能だったのです。
ヤン提督は、養育費なら返還するから、
嫌なら軍人になんてならなくていいと言って下さいました。
むしろ、小官が軍人となることに反対をされました。
軍人なんて碌なもんじゃないとおっしゃって」
15歳までの義務教育。それはさらにワーレンを考え込ませるものだった。帝国では教育も階級による差別がある。貴族階級は幼年学校に入学し、大学や士官学校に進学する。平民は国民学校に入学するが、それも収入に左右される。その後の進路も言わずもがな。
門閥貴族が酷使していた農奴階級にいたっては、最低限の読み書きしか教えられなくともまだましであった。文字が読めず、簡単な計算もできず、不当な証文に縛られて搾取される。そんな領民も大勢いたのだ。いや、まだ過去形とはなっていない。彼らの教育もほとんど進んでいないからだ。
ワーレンの沈黙に、ユリアンは顔を赤らめた。これでは質問の答えになっていない。
「ワーレン閣下、申し訳ありません。話が逸れてしまいました」
慌てて謝罪すると、ワーレンは軽く手を振った。
「いや、謝罪する必要はない、ミンツ中尉。非常に興味深い話を聞かせてもらい、感謝する」
ワーレンの言葉に込められた心情に、ユリアンは亜麻色の頭を傾げた。しかし、本来の回答をすべきだろう。
キャゼルヌは、ヤンにとっては頭の上がらぬ先輩であり、補給とデスクワークの達人であること。ヤン艦隊成立後まもなく赴任し、二百万人の軍人を含めた五百万人のイゼルローンの住人らの住民行政も担っていたこと。
第八次イゼルローン攻略戦では、査問会に召喚されたヤン・ウェンリー不在の状態で、後方勤務一筋だった彼が、シェーンコップ少将やメルカッツ提督と協力して、ケンプ提督らの猛攻を凌いだ。
第九次イゼルローン攻略戦では、戦艦まで動員して三百万人の民間人の避難輸送を成功させている。ヤンがハイネセンから脱出する際、後方本部長代理の座を捨てて同行し、今日に至るまで、ヤンとヤンの弟子を支え続けてくれた。金策から始まって、物資の補給と輸送にしても完璧である。
個人としては、子煩悩な愛妻家で二女の父である。上の子は十二歳で、下の子は九歳。利発で活発でリーダー的性格のシャルロット・フィリスと、思慮深く料理名人の片鱗を見せつつあるリュシエンヌ・ノーラ。
今頃は、賢夫人のオルタンスと一足先にハイネセンに到着したことだろう。
「イゼルローンに赴任した将兵が、妻子を連れて行ったというのか?」
「はい、そうです。小官もヤン提督の後からイゼルローンに行きました」
ワーレンの驚きぶりにダークブラウンが怪訝な色を浮かべる。亡き妻との間に、六歳になる長男を設けたワーレンだが、息子はオーディーンの自分の父母に預けている。皇帝ラインハルトは、フェザーンに遷都を敢行し、皇宮や大本営は既存のホテルなどを接収した仮住まいだ。帝国の中枢がそうなのに、子どもの学校どころではない。それに、オーディーンからフェザーンまで、一か月以上は必要だった。とても息子を呼べる状態ではない。
「その時には既に従軍を?」
「いえ、まだ14歳でしたから、中学校三年生の途中です」
「たしか、ハイネセンとイゼルローンは三週間以上かかると聞いたが、
では、学校はどうしていたのか。キャゼルヌ中将の令嬢たちもだが」
思わぬ質問に、今度はユリアンが目を瞬いた。
「え、通信教育がありますので。それがどうかなさいましたか?」
難しい顔になったワーレンは、腕組みをした。
「通信教育か……。ではミンツ中尉、それも学歴として認められるのだろうか」
「はい。同盟の教育は共通のカリキュラムがあります。
地理や自然科学などについては、居住惑星独自の項目がありますが。
中学校卒業相当の学力を認定試験で認められれば、大学の受験も可能です」
実際には、そこまでの学力を身につけるのは容易ではない。通信教育の学習成果は、本人のやる気と能力に左右される。先生がいて、級友や先輩後輩のいる本物の学校にはやはり敵わない。高レベルの大学に合格できるような者は、あまり多くはない。ユリアンはそう続けた。
「小官も、授業内容がつまらないのでさぼって読書をしたことがあります。
ヤン提督も、帝国語会話が苦手なのはそのせいだと言い訳をしていました。
読み書き聞き取りはいいけれど、話す機会がなかったそうです。
あの、ワーレン閣下、何度も話が逸れて本当に申し訳ありません」
「いや、本当に重要な内容の話だ。卿に感謝しなくてはならない。
先帝陛下は、様々な改革に着手されたが、その翼の強さに我々も足元を失念していた」
オーディーンとフェザーンとの隔たり。空間と時間が生み出す暴虐。それが教育にも及んでいる。
「私にも六歳の息子がいるが、なかなかフェザーンに呼び寄せることができないでいる。
卿には不思議に思われるだろうが、教育施設はオーディーンが一番優れているのだ。
ここにはまだ、教育関係施設ができていない。
そして、統一カリキュラムによる通信教育など、夢のまた夢だ。
これからイゼルローンに赴くとして、こちらの問題も皇太后陛下に上申をさせてもらおう」
ワーレンの言葉にユリアンは敬礼した。そして、思いついたことを問うてみた。
「失礼ですが、一つ教えてください。今、オーディーンはどうなっているのですか。
遷都をされて、皇太后陛下と大公殿下もこちらにおいでですが、
まだ地球教徒の残党がいるかもしれません。テロに警戒をなさってください」
ワーレンの顔に緊張が走った。ラインハルトの不予、そして死病の発覚と、急坂を転がり落ちるかのように悪化する病状に、主だった将帥はフェザーンに集結した。隠遁していたグリューネワルト大公妃アンネローゼも、弟の最期を看取るべく、星の海を越えて来た。
今のオーディーンは権力の空白地帯だ。ケスラー配下の憲兵が警戒に努めてはいるが、惑星の規模と人口に比べればあまりに少ない。
ほとんどがマリーンドルフ伯の縁者だが、それだけに彼と娘と孫に嫉妬し、反目する恐れがあった。つまり、国務尚書と皇太后、そして大公アレクに。
旗印となりうる者までいる。ゴールデンバウム朝最初の女帝。そして最後の皇帝。いまは退位したカザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツ公爵令嬢だ。
距離が生み出した悲劇から、まだ一年と経っていない。ハイネセンの方がずっと近かったのに、小人の暗躍と、それに便乗した地球教徒の
そして、ユリアンらが協力して制圧した地球教最後のテロ。そして、更に不可欠な人材を失った。地球教本部を攻撃し壊滅させて、安心していた己の失態でもあるだろう。この青年が敬愛のすべてを捧げていた、かの魔術師の死にも責任がないとは言えないのだ。
もしも、残存勢力がオーディーンの貴族らと手を結んだらどうなる。第二のリップシュタットだ。今度はオーディーンが戦火に包まれて、あれとは比べ物にならない犠牲が出る。皇帝を
「重ねて礼を言わなくてはならんな、ミンツ中尉。卿はたしかに、魔術師ヤンの後継者だ」
「恐縮ですが、ありがとうございます、ワーレン閣下」
差し出された右手を、ユリアンは握った。硬く大きいしっかりとした手だった。自分と同じく、人差し指に銃爪を引くための
そして、ワーレン少年が早く父と同居できるようにと願った。