親愛なるフロイライン・ペクニッツへ
(前略)詩の勉強なんてつまらないよ。どうして、そんなの読んだり書いたりしなくちゃならないのかな。
それに、なんでダンスなんてこの世にあるんだろう。毎日、先生の足をふんじゃってます。先生はいたくありませんよって、言ってくれるんだけど、そういう問題じゃないよね。
どっちもうまくならなくて、嫌いな授業です。やらないわけにはいかないのかな。
アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム
親愛なる大公アレク殿下へ
すてきなお手紙をありがとうございました。殿下のお言葉から、新帝都のにぎわいが伝わってまいります。
詩は、たくさんの言葉を連ねて、美しい響きになるように書かれたものです。ですから、詩を読むと、言葉を美しく発音できるようになっていくのだと、わたくしは母に教えられました。
アレク殿下は、将来多くの方々を前に、お話をなさるお立場です。その時にきっとお役に立つことでしょう。
詩は、星々の輝きや季節の移ろい、人の心の模様をうたいあげるものでもあります。人の心の表れを読み、色々と想像するのはとても楽しいことで、わたくしは大好きです。
ダンスの勉強は、背筋をぴんと伸ばして、きれいな動作をすることにつながるのだそうです。こちらはダンスの先生の言葉ですが。よく、男性は女性の三倍は難しいと言われますが、それは女性の動きを知って、リードしなくてはいけないからです。
ダンスのリードが上手な方は、優しい性格をなさっていることが多いので、お婿さんを選ぶときの参考になったのだとか。男性の方が服装は楽ですから、羨ましいと思っておりましたが、それを聞いて考えてしまいました。男性も別のご苦労をされているのですね。
貴族の女性の正式なドレスは重いので、その動きのための練習でもあるそうです。園遊会でわたくしの着たドレスは、子どものものでしたから、それほど重くはありませんでした。ですが先日、母の若い頃のドレスの手入れを手伝い、びっくりいたしました。
よい絹は布自体にも重みがあり、ドレスのスカートには三本も針金の輪が入っているのです。その輪だけでは、綺麗なふくらみが出ないので、内側には薄絹がたくさん重ねてありました。
侍医の二人はフェザーンの人ですから、余計に驚いていました。持ち上げたドクトル・ヒメネスによると、三歳児ぐらいの重さだそうです。わたくしは、聞かなければよかったと思いました。
そのドレスは未婚の女性が着るもので、母にはふさわしいものではなくなったため、わたくしが受け継ぐことになるのでしょうが、困ったことがあります。針金が入っているせいで、夜会の間は座ることもできないのだと教えられました。
こんなに重いものを、三時間も着ていなくてはなりませんのに。さらにダンスまでしなくてはならないのかと思うと、今から気も重くなります。
そして、もうひとつ困ったことがあります。このドレスとそろいの靴は、かかとが高くて細いのです。きちんとワルツが踊れるようになるのでしょうか。こんな靴でお相手の足を踏んでしまったら、どれだけ痛い思いをさせてしまうことか。
わたくしも、殿下と同じく頑張ろうと思います。
カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツ
始まりは、エレオノーラ・フォン・ペクニッツの病に寛解状態が訪れた頃のことだった。
「何を言い出すんだ、エレオノーラ。私の妻はきみだけだ」
「ありがとうございます、あなた。
今まで、わたくしはあなたにご苦労と我慢を強いて参りました。
そう長いこともないと思っておりましたから」
バーラト星系共和自治領から、ペクニッツ家の侍医、ホアナ・ヒメネスが取り寄せた新薬は、彼女の伯父のがん専門医が予言したとおりの著効をもたらした。全身に転移していたがん細胞が消え、だが副作用は非常に軽いものだった。いままでの抗がん剤治療の、嘔吐に下痢、脱毛といった副作用に苛まれてきたエレオノーラは、象牙色の髪と、薄いが肉付きと、肌の滑らかさを取り戻した。
そして、ユルゲン・オファーの父が婚約者だといって引き合わせ、あまり可憐さに少年に口も利けなくさせた、あの頃の面影も。
「縁起でもない事を言うのはよしなさい。
きみの病はもう大丈夫だと、先生方も保証したではないか」
「ですが、わたくしが新たな子をもうけられぬのに変わりはないのです」
そう言う妻に、彼はむきになって反論した。
「我が家には、カザリンという娘がいる。
我が子ながらに、美しくて賢くて心根も優しくて、非の打ち所のない跡取りだ。
本当にきみにそっくりだ。あの子がいるのに、どうして側室などを勧めるのか。
それは私も男だ。その、そういう事をしていないとは言わん。しかし……」
少々、尻すぼみになった夫の主張に、エレオノーラはくすくすと笑った。
「貴族の妻たるもの、殿方とはそういうものと母から教わっておりますわ。
むしろ、わたくしにできぬことをしてくださった方に、感謝をしなくては」
ユルゲン・オファーは気まずくなった。エレオノーラの父母、リンデンバウム伯爵夫妻は、たいそう仲睦まじく、互い以外には目もくれないとまで言われていたものだ。皇女を妻にすれば、おいそれと側室を持つわけにはいかないが、そんな必要もなかったのだ。なにしろ、美男美女ぞろいの五人きょうだいだった。その妻の母上の教育には、あまり説得力を感じないのだが……。
「わたくしが危惧するのは、大公アレク殿下の求愛です。
園遊会の時は、カザリンの断りに頷いてくださいました。
しかし、即位されて皇帝となられ、妃にと望まれれば断ることはできません」
「それは、きみの気にしすぎではないのかな?
まだ七つの子どものことだ。はしかみたいなものだよ。
しかも、フェザーンとオーディーンに離れている。
顔を会わせなくなれば、そのうちに熱も冷めようというものだ」
夫の楽観論に、妻は眉宇を曇らせた。
「わたくしも、正直そう思っておりました。
ですが、あれから毎月、カザリンにお手紙を下さるのです。
いつも沢山の便箋で封筒が膨らんで、はちきれそうなほどですのよ。
あのくらいの子が、そんなに文章が書けるのかと感心するくらいですが、
もう十か月になります」
ユルゲンのこめかみが、ぴくりと動いた。
「……そうか。アレク殿下は文筆家でいらっしゃるのかも知れないな。
ところで、カザリンはどうしているんだ」
「きちんとお返事をしたためておりますわ。
宇宙で一番、アレク殿下のお心がわかるのは、あの子かも知れないのですもの。
決して、憎いとも嫌いだとも思ってはいないでしょう。同情さえしているのかも」
アレクからの手紙を読むカザリンは、時に瞳を輝かせ、笑みをこぼしていた。どんなお手紙を書いてくださったの、とエレオノーラが問うと、微笑みながらそれを見せてくれた。
「沢山あるから不思議でしたけれど、これは絵日記なの。
フェザーンのことが色々と書いてくださってあるわ」
沢山の手紙に、カザリンは丁寧に返事を書いた。詩の勉強なんてつまらないという愚痴には、美しい言葉を沢山知り、読み上げることで、自分の会話も磨かれていくということ。なんてダンスなんてこの世にあるんだろう、という嘆きには、同意と共に、背筋を伸ばした正しい姿勢で、相手をリードする動作の重要性を説いた。なにより、礼服での挙措動作の最良の練習にもなるのだと。
それらは、三歳あまり年上のカザリンも通ってきた疑問点だった。相手のわからないことがわかる相談相手。カザリン・ケートヘンは、大公アレクの教育の一翼となった。『ペクニッツ公爵夫人の書簡集』に、十一歳のカザリンも加わったのだった。
母のエレオノーラは、流麗な書蹟の持ち主であり、彼女に学んだ娘も同じく美しい字と文章を書いた。母よりも筆勢に強弱をつけて、年下のアレクにも読みやすいような配慮がされている。
アレクが惚れ直すには充分だった。そして、皇太后ヒルダを唸らせるにも。大公妃アンネローゼもサファイアの瞳を丸くした。
「ああ、なんてことかしら。
フロイライン・ペクニッツのように教えてくれる人がいれば、
私も詩やダンスの勉強をちゃんとやったでしょうに」
こんなふうにして、詩やダンスを学ぶ理由を二十五年ほど前に知っていればよかった。
「お母さまも詩やダンスのお勉強がお嫌いだったの?」
「ええ、アレク、あなたと一緒よ。
なんでこんなものがこの世にあるのかと思って、真面目にやらなかったの」
「ぼくもだよ」
決まり悪そうな息子に、母は更に顔を曇らせた。
「実はウエディングドレスを着た時、歩くのに大苦労したの。
それでも、あれは新領土のデザインで、伝統のドレスよりもずっと軽かったのにね。
かかとは低くしてもらったけれど、ドレス用の靴は爪先がとても痛いのよ。
先帝陛下の後を受けて、スピーチをするために、草稿を作るのも苦手だったわ。
できた原稿を読み上げるのにも、なかなか綺麗に明瞭な発音ができなくて。
ああ、あれは、そういう時のための勉強だったのね……」
「伯母さまは?」
アンネローゼは小首を傾げた。美しい顔に苦笑を浮かべながら。
「わたしの場合は、疑問に思う暇もなく、言われるがままに習うしかありませんでしたよ。
嫌いも何も、他と比べられるほどの知識もなかったのですもの」
園遊会の時の、カザリン・ケートヘンの優美な動作と歌うように流暢な帝国語。 それらもこういった勉学の賜物であったとは。
「ぼく、これから詩やダンスのお勉強を、もっと一生懸命やるようにするよ」
「遅まきながら、私も習おうかしら」
「お二人とも、それはとてもいいことですわ。
それに、カザリン様は先々帝でいらしたから、
アレクとお手紙をやりとりすることができる方よ。
ヒルダさんが、アレクの手紙に添え書きをするのも許されることです」
摂政皇太后と公爵夫人という身分差で、ヒルダからは返事を出すことができなかった手紙。これを、子ども同士の文通に一筆添える形で解消できる。そういうアンネローゼの言葉だった。
「まあ、そんな方法があったのですね」
「ヒルダさん、これも貴族の女性の知恵なのです。趣味のサロンの開催も、
共通の趣味を理由に異なる階層の者が集い、情報や意見を交換するのですよ。
メックリンガー夫人の芸術サロンにも、そういう役割がありました。
エレオノーラ様のお手紙はとても素晴らしいでしょう。
あの方のお母さまの読書会サロンは有名でした。教養の高いご一家だったのです」
「ええ……そのとおりです。いつもいつも、風景が見えてくるような手紙ですわ。
どうしましょう、お義姉さま。勉強しなくては、添え書きどころではありません。
十一歳の子が、こんなに綺麗な字で素敵な手紙を書いてくるのに……」
「いいのよ、ヒルダさん。一番大切なのは心が込められていることです」
ヒルダは明後日のほうに眼を泳がせた。正直、そちらも苦手な教科であったからだ。彼女の息子も、ブルーグリーンとは違う方向に海色の視線を泳がせた。
「あらあら、ラインハルトと似た者夫婦に似た者親子だこと。
おふたりとも、こういうことをおろそかにしてはいけませんよ。
言葉にしなくては、何も伝えられないのです」
そう言ったアンネローゼの眼差しは、透きとおっていた。くすんだ金色と、黄金が言葉もなく聞き入り、静かに頷いた。それを見て、黄金と青玉の佳人は、限りなく優しい笑みを浮かべた。だが、とても悲しい微笑みだった。
アレクはそれを忘れない。イゼルローンに行啓に赴く際に見た、ダークブラウンの瞳に湛えられたものと同じだったから。
書簡の往復は続いていく。徐々に双方の文章が上達をみせながら。子どもらしい踊るような文字の形も、少しずつ整っていく。皇帝アレクサンデルは、能書家としても後世に評価されるのだが、それは未来のこと。
ペクニッツ公爵家に残る、『
彼が七つの頃から送られ続けてきた手紙は、カザリンが保存用の冊子に貼り、美しい装丁を加えたりして、丁寧に保管したのだ。それはすぐに本の厚さに達し、二十冊近くにもなっている。その数と一冊ごとの背幅を見ただけでわかろうというものだ。
その時点では、書簡は一冊目の頁残りがわずかになった状態だったが、エレオノーラ・フォン・ペクニッツにも思うところがあったのだろう。
「だからといって、側室を迎えてあの子にきょうだいを、というのは……。
カザリンも気に病むのではないか」
「わたくしは大公妃殿下とも文通をさせていただいておりますけれど、
先帝陛下は、十歳の頃に後宮に召されたあの方を取り返さんと、
亡きキルヒアイス大公殿下と誓われたのだそうですわ」
ユルゲン・オファーの眉間に皺が刻まれた。
「宇宙統一は、大公殿下のご遺言だったとも耳にしております」
エレオノーラは、優雅に溜息を吐いた。
「わたくしは心配ですのよ。大公殿下は、先帝陛下に生き写しでいらっしゃいますから」
「……考えさせてくれ。しかし、側室でなくとも、養子か養女ではいけないというのか?」
象牙色の巻き毛が緩やかに振られた。
「親族が多く残られている皇太后陛下のご実家でも、
養子にふさわしい家格と年齢の方がいらっしゃいません。
今は公爵となったペクニッツ家ではなおのことです。
あなたのお父様がお亡くなりになった、クロプシュトック候事件で」
「そうか、そういうことになってしまうわけだね」
ユルゲンは胸の痛みを堪えた。
「だが、側室に迎えるにはふさわしい相手がいると、きみは言うのかな」
エレオノーラは頷いた。
「あなたやわたくし、そしてあの子を支えてくださった、我が家になくてはならぬ方です。
あなたとあの方がそういう関係ではないのは存じておりますが、愛しておいでなのでしょう?
そのお心も、ご相談すべきですわ。
お選びになるのは、フロイライン・ヒメネスのお心次第なのですから」
彼は舌を巻き、尻尾を巻き、全面降伏するしかなかった。
こんな相談をされた女性医師は、赤面して次に青ざめ、いつもの穏やかな口調は銀河の果てまで投げ飛ばし、しどろもどろに女主人に
妻は夫の不器用さに、溜息混じりにホアナ・ヒメネスの謝罪を遮った。
「ヒメネス先生、お顔を上げてくださいな。
わたくしと主人と両方とも言葉足らずでした。
わたくしこそ、先生のお心を患わせたことをお詫びしなくては。
フェザーン生まれの方に、側室などとは失礼なことなのでしょうが、
公爵家とは時に帝室を守る、範たらねばならぬことがあるのです」
「ど、どういうことですか」
「皇帝ラインハルト陛下のお子は、大公アレク殿下お一人です。
もし、皇妃となられた方にお子が恵まれなかったり、お一人しかいなかった場合、
皇太后陛下のご実家は、継がれる方がなくなってしまいますわ。
今のうちに、新王朝でも側室を迎えた例を作っておかねば」
怪訝な顔をするホアナに、エレオノーラはかなり苦労して、分厚い本を持ち上げて差し出した。
「ごらんになって。このアレク殿下からのお手紙を。
カザリンが必死の思いでお断りしたそうなのに、諦めては下さらなかったのね」
促されるままに、ページをめくると子どもらしい元気な字の躍る手紙だった。文面から、『好き、大好き』というのが溢れんばかりに伝わってくる。
「わたくしは、長い命ではないと思っていました。
だから、死ぬまでは夫を独占したかったのです。
ヒメネス先生たちのおかげで、命が助かりました。心から感謝をしています」
安楽椅子に座ったまま、エレオノーラは実に優雅に一礼した。ホアナは語気を強めて反論した。
「医師として、当然のことをしたまでです。
それにエレオノーラ様は、私にとっても大事な友人です。
なんとか、生きていていただきたいと願うのは当然ではありませんか!」
「でも、これで夫は再婚というわけにもいかなくなりました。
わたくしもできることならば、ユルゲン様を自由にしてさしあげたい。
しかし、離縁したところで、帰る家とてないのです。
ならば側室を迎えるしかありません。夫にも娘にも愛され、愛してくれるような方を」
「エレオノーラ様……。おうかがいしたいことがあります。
どうして、あなたはそこまで他の方に尽くせるのですか。
あなたご自身は、それでいいのですか」
ホアナはずっと思っていた。この人が恨みの連鎖を止めたから、オーディーンは静穏を保っている。夫のために、娘のために生きているかのように。では、エレオノーラの幸せはどこにあるというのか。
「ホアナ先生、貴族というのは見栄を張るものですのよ。
家族を喪い、あの子が至尊の冠を戴いた時に、わたくしは散々に恨み嘆きました。
そして夫と娘が、新無憂宮に召された間、何度となく夢を見ました。
蒼氷色の瞳に、白い喉に、黒と銀の胸に、懐剣を突き立てる夢でした」
息を呑むような告白だった。
「血まみれの手で、揺り籠のカザリンを抱き上げると、火のついたように泣き出して、
白い産着が真紅に染まっていく。そこで目が覚めるのです」
やや細すぎる優美な手に、彼女は視線を落とした。その手がスカートの上で握り合わされる。
「難産のせいで、なかなか床上げもできずに、見るのはそんな夢ばかり。
眠れた気がせず、体調が悪いのもそのせいだと思い込んでいました。
お医者さまに診ていただくことなど頭になくて。
やっと、二人が戻ってきた時に、倒れてそれでわかったのです。
もう、長いことはないのだと」
長い睫毛が伏せられた。これもまた、病からの回復によって蘇ったものだ。
「頭が真っ白になりました。
次に考えたのは、カザリンを守れる者がいなくなるということでした」
返す言葉を見つけられぬホアナに、エレオノーラはふと微笑んだ。
「ああ、ユルゲン様の浪費の問題ではありませんのよ。
あれはあの方なりの復讐だったのですから。
わたくしの家族とも、親しく行き来をしていたのに、誰もいなくなってしまって」
群青の瞳に、深い寂寥の影が射した。
「これは、先生もお聞きになったことでしょうから、割愛いたしますね。
カザリンは望むと望まざるとに関わらず、貴族として生きるほかないのです。
先々帝という地位があの子を守る一番の楯。皮肉なことです。
しかし、貴族の令嬢、夫人としての生き方を、大人になるまでに教えるのは母の役割です。
それを全うできないうちに、わたくしはいなくなってしまう。
ならばせめて、頼りになる方を作ろうと考えました。
あの子を可愛がってくれる、私の友人を」
それが、同僚のイリューシンが驚嘆したほどの忍耐力の源泉だった。あの病状でドレスを着て、座って歓談するなど、とても無理だと専門医に言わしめた。たおやかな微笑の下に、絶望と激痛を閉じ込めて、絹と宝石の戦場に赴く女戦士の姿だったのだ。
「そのためには、カザリンを心優しい、嗜みのある子にしなくてはいけないでしょう?
一番、早道なのはカザリンのそばにいるわたくしが、理想となれるように振舞うことです。
そして娘と夫に、わたくしは優しく美しいひとだったと思われて死にたかった。
あの時は、そう考えていました」
「エレオノーラ様……」
「ですが、わたくしが最初に死に掛けていた頃から、もう七年、いえ今年で八年ですね。
見栄というのは、一度張り始めると、引っ込みがつかなくなるものです。
このまま、貴族の女性の理想として振舞うのも、
悪くないのではないかと思うようになりました。
ゴールデンバウムの血を引く者が、皆愚かしく非道な人間ではないと、
わたくしや娘の生き方で示していきたいのです」
凛とした瞳は、もう夕闇の色ではなかった。
「そう思えるようになったのは、あなたとイリューシン先生がおいでになったからです。
わたくしがあのまま死んでいれば、夫の心は壊れ、カザリンは笑顔のない子になったでしょう。
ずっとあなたは、我が家に力を尽くしてくださいました。
他に愛する方がいるのでしたら、無理強いなどいたしません。
……いかがかしら?」
この奥方は早春の光だ。儚くも柔らかな、しかし澄んで怜悧な偽りを許さぬ瞳。ホアナ・ヒメネスも彼女の夫と同じ事をするしかなかった。ただし、相手は違っていたが。
「……はい」
この答えに浮かべられた笑みは、春爛漫の輝きだった。
新帝国暦十一年の九月、旧都オーディーンの短い夏が終わり、秋薔薇の盛りを迎える頃、ペクニッツ家に側室が迎え入れられた。フェザーン出身の黒髪に暗緑色の瞳、小麦色の肌の長身の美女が。