プロローグ 我が友(マイン・フロイント)
フェリックス・ミッターマイヤーの過去への旅は紆余曲折を経て、少年に心を決めさせた。血ではなく、思いを受け継ぐことを。その過程において、彼は『法』とは何かを考え続けた。フェリックスは、進路を決める。武官ではなく、養父のような政治家でもなく、法律への道を。
実の母から全てを奪い、復讐に到らせたリヒテンラーデ一門への処罰。実の父に、誣告への抗弁をすることより、剣を以て立ち上がることを選ばせたもの。
それは、すべての法を超越する皇帝という絶対の存在。だが、皇帝にも枷をはめる方法がある。今はハイネセン記念大学の准教授、ユリアン・ミンツが提唱した立憲君主制。五百年もの長きにわたり、帝政しか知らない銀河帝国にとっての難問。そして、もうすぐその座を襲う道しかない親友に、できることはないのかと。
「進学おめでとう、フェリックス。
でも意外だったな。君が法学部に進むなんて思わなかったよ」
「ありがとうございます、
深々と一礼するチョコレートブラウン。海色の瞳が、微笑みを浮かべてそれを見つめた。十五歳になった大公アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムである。彼もまた、フェリックスと同じく父の美貌を受け継いでいた。
しかし、剄烈な表情と鋭気に包まれ、見る者を圧倒するような威を持っていた父ラインハルトとは違う。かぎりなく優しく、透き通るように繊細な伯母のアンネローゼとも異なる。美貌では、両者にまったく劣らないのに、それで人を萎縮させることがない。晩秋の午後の海のように、どことなく静かで穏やかな容貌だった。
彼は、後世に『思考し、思索する秀才』あるいは『教師と周囲に恵まれた後継者』と評されるが、
それはむしろ、父の敵手だったヤン・ウェンリーの後継者、ユリアン・ミンツに似ていたかもしれない。万事なにごとも卒なく、かなり高い水準でこなすが、突出した部分はない。性格的にも尖った才気はないが、粘り強くて、前向きで皆に優しい。
「それでも、君の選んだ道は、僕にとってはありがたい。
協力してくれないか、フェリックス」
「御意にございます。しかし、何にご協力を……」
「僕は父のような絶対的な存在にはなれない。
母のように、父の後継をひたすらに努めるようなことも無理だと思う。
僕は、父を知らないから、その思いにあれほどには共鳴できないよ。
ならば、道は一つしかない。立憲君主制への移行だ。君に力になってほしい」
藍青色が大きく見開かれた。
「僕が成人するまではあと五年だ。
二、三年のうちに立太子式があり、成人と同時に即位するのだろう。
それまでに、立憲君主制を学びたいんだ。
僕の教師は選りすぐりだが、さすがにこんな内容の授業は不敬だと、
教師の方に断られてしまう」
「ですが、私は……」
「フェリク、普通に話してくれないか?
それとも先帝最後の勅令で、定められた友人なんて嫌いになったかい?」
「そんな、どうして……知っていたのかい、アレク……」
「こういうことは、そんなに隠しておけるものじゃないよ。
でも、君が僕と友達でいてくれたのは、先帝の命令なんて関係ないのもわかるんだ」
フェリックスは拳を握りしめると、藍色の眼差しを鋭くして、アレクに言った。
「君を嫌いになるはずなんてないじゃないか。
いつも一緒に遊んで、イゼルローンでヤン元帥の幻を見て、
同じ女の子に一目ぼれして、一緒にふられた仲なんだから」
豪奢な金髪が力なく振られ、美少年の口から深い溜息が零れた。
「フェリク、最後のは現在進行形なんだ。またふられてしまった」
「まだ、文通をしてたんだね、アレク……」
フェリックスの長い睫毛が、大気圏最上層の色を半ば隠した。
「アレク、ほどほどにした方がいいと思う。
ついに、フロイライン・ペクニッツが
絶対にペクニッツ公が差し止めたんだよ!」
「やっぱり、君もそう思う?
あの頃もそれは綺麗な子だと思ったけれど、今や春の女神もかくやという美しさ、
という情報を聞いたんだが、会わせてもらえなくなってしまって。
文通だけしかしていないんだ」
「でも文通は応じてくれてるのか……頭が下がるなあ」
「さすがに僕らの初恋の君だよね」
「殿下の場合は過去形になっていないんでしょう!
しかし、その情報は誰から聞いたんですか、アレク殿下」
機嫌が斜めになると、アレクに対して敬語を使うのが親友の癖だ。
「僕にも伝手があるんだよ。きらきら星の人に」
「な、なんで……」
フェリックスの顔が硬直したので、アレクは言い足した。
「ペクニッツ公爵夫人の薬を届けたのは、宇宙最速の運送会社、
トウィンクル・スター運送なんだよ」
この世で一番強いのは、経済と流通と情報に携わる者なのかもしれない。
「そして、財務省顧問のヘル・コモリ。
ペクニッツ公爵夫人は、大変に美的感覚の優れた方だから、
テイラー・コモリ社の商品開発の助言役になったそうなんだ。
カザリンにも時々意見を聞く機会があるそうだよ。
母子ともども、とても洗練された趣味の持ち主で助かっているそうだ」
「公爵夫人が働いていらっしゃるんですか……」
「ペクニッツ公も、貴族のところで召使をしていた人を雇って、
家政婦派遣会社を経営しているよ。
フェザーンの会社だけれど、出資者はペクニッツ公と友人の貴族だ。
新帝都に来ている役人や軍人のご両親の世話で、僕たちも間接的に恩恵を受けているんだ」
「いったい、いつの間に!?」
「公爵夫人の病気はよくなったけれど、もう子どもができないお体だから、
側室を迎えられたんだ。その直後からだよ。もう五、六年ぐらい前になる。
今はオーディーンの名士で、名ばかりの公爵じゃないんだ」
「それはいいことだと思いますが」
更にアレクの眉が寄り、がっくりと肩が落ちる。
「確かにいいことだよ。オーディーンの貴族がまとまって、経済も上向いた。
だが、皇帝の求婚に応じよと言ったところで、
簡単に通るような状況じゃなくなったということでもあるんだ。
一つ目には、外戚として権勢を振るわないかということ。
二つ目は、フェザーンやバーラトとも、ペクニッツ公は交流してるんだ。
下手をすると、一家そろって逃げられてしまう」
「逃げるって、どこに逃げる所があるというんです」
フェリックスの眉も寄る。
「バーラト自治領。あの国のほうが、カザリン・ケートヘン一世には同情的だ。
子どもに先祖の罪を着せるなんて、というお国柄だし、
エルウィン・ヨーゼフ二世を受け入れた過去もあるんだから。
しかも、玉座に据えられた乳児が、輝くばかりの美少女になって、
その息子の求愛から逃れてきたなんてことになったら……」
受け入れずにはいられないだろう。外交筋から苦言を呈しながら。現在の外務長官は、フレデリカ・
主席に就任した最初の演説で、自らの父の起こした軍事クーデターについて謝罪した。不当に拘束されたヤン・ウェンリーを救出するために、夫を殺害しようとしていた者を殺したことを告白し、さらには、旧同盟自由惑星同盟を戦火に巻きこんだことをも語った。
そして、親の罪に子が連座されない社会であり、あの行動が司令官を守る副官の職分だと認めてもらえたからこそ、この場にいるのだと、国民に強いメッセージを投げかけた女性だ。彼女は出馬の時から、自らの経歴を公表していたが、そのうえで国民に選ばれたのである。
「亡命じゃなく、普通に国籍の選択という形で受け入れる、かな……」
「そうなるだろうね。それもいいか、とも思わなくもないんだけれど。
バーラト国民になってしまえば、彼女をゴールデンバウムの末裔扱いはできないし、
そうなれば、先々帝だから無理とも言われなくなるんじゃないかと」
フェリックスは呆れかえった。
「アレク殿下、前々から思っておりましたが、前向きにも限度というものがあるんです」
この言葉に、アレクは形のよい眉を上げて肩を竦めた。
「開き直らないとやっていけないよ。
獅子帝ラインハルトが父、賢君の摂政皇太后ヒルダが母。
僕はその土壌で育った温室育ちで、環境のお陰で身についた知識や才能しかない。
両親の作った国を大事に治める以外の道は、僕にはない。
二人して好きにやって、新銀河帝国と僕を作ったのに、不公平な話だよね」
困惑しきったフェリックスに、アレクは小さな笑いを漏らした。このぼやきに同意しても、否定をしても、不敬にあたるのだった。
「ああ、ごめんごめん、君を困らせるつもりはなかったんだ。
でも僕は、彼女以外の人は考えられない。
だから、皇帝にも守るべき法を定め、あんなことを繰り返さない国に
していかなくてはならないと考えているんだ。
憲法は、こういう国にするという、国民への約束なんだって。
重ねて言うよ。協力してほしいんだ、フェリックス・ミッターマイヤー。
大公アレクではなく、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムに。
天才には決してなれぬ、この僕ですまないけれど」
フェリックスは首を振った。
「君が天才である必要なんてない。君は素晴らしいものを持っているんだ。
僕も君の力になりたい。だって、友達だろう、アレク」
「ありがとう、
とにかく、この国の皇帝が絶対的な存在のうちは、
フロイライン・ペクニッツは決して『
彼女の血脈を父は罪と断じた。母がそれを赦した。
だが、許されたから許してくれるなんて、僕には思えない。
フェリックス、ごめんね。君だって同じことだろうに」
静かな初秋の午後の海が、大気圏最上層の色に向けられた。
「殿下」
フェリックスはそう言うのがやっとだった。深い青の瞳は遥かに彼方を見ていた。
「僕の名は、自由惑星同盟のアレクサンドル・ビュコック元帥から
いただいたのかもしれないと、最近思うんだ。
彼の最後の言葉は、民主主義とは対等な友人を作る制度だというものだったそうだ。
いまの帝国では到底望めぬものだが、それに近づくことはできないのだろうか。
僕は考えてみたいと思うんだ。孤独なのは母上までで終わらせたい。
僕はそんなに強くはなれないから」
新銀河帝国二代皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム。
皇帝ラインハルトや皇太后ヒルダに勝る、二代皇帝アレクサンデルの美点は、繊細な感受性と人を思いやる想像力だと後世に評される。それが彼の思考を支え続け、穏やかな人格が周囲の人間の人望を集めた。
勝る点はもう一つあった。それは、人を見守り、成果を待つことができる気の長さだ。
敵を破り滅ぼすことで、父が建てた王朝を、宥和で安定させた母の路線を引き継いで。しかし、さらなる自由と協調を目指して、立憲君主制を完成させる道を選んだ。
これは彼の人格の形成に大きく寄与したとされる、『皇帝アレクサンデルの往復書簡集』の一部である。