「俺はあれからずっと考え続けていた。
確かにあの時に重傷を負ったが、決して治療不能な傷ではなかった。
キルヒアイス大公や、ヤン元帥の傷とは違うんだ。
手術をすれば延命どころか完治も可能だった。
本当に徹底的に叛くつもりなら、まだ艦隊の損耗は低い。
新領土の民衆に、自治権を与えると約束して協力させてもいい。
だが、あっさりと兵を引いて、ゆっくりと死を迎えるに任せてしまった。
トリューニヒトという害虫を退治までしてな。
あれはロイエンタールから皇帝への抗議だったのかもな。
『
専制政治の最大の欠点。君主の決定は全ての法を超越する。『
フェリックスは息を呑みこんだ。国務尚書による、建国帝への批判だ。誰かに聞かれ密告されたら、大逆罪での処罰もありうる。限りなく重い一言だった。
「なあ、フェリックス。さっき言った金星の話は続きがあるんだ。
古代の地球では、宵の明星と明けの明星は、別々の星だと考えられていたんだ。
左と右の横顔が、違って見えるあいつのようだろう。本質は同じものなのにな。
太陽と月を除くと、地球の空で一番明るい。本当にあいつのようだ。
誇り高く、輝かしい男だった。俺は、あいつを友と出来たことを誇りに思う。
そして、無念でならない。あの時、なんとしても思い留まらせるべきだった。
あいつが生きていれば、おまえという家族を持てたのに。
そのおまえを、養子としてあいつから奪ってしまっていいのかと」
父の膝の上で、拳が震えるほどに握り締められている。父が泣くのではないか。フェリックスは恐れた。自分はまだ、言うべき言葉を持たないのに。
緊迫した空気を破ったのは、軽やかなノックの音。それは、二人のミッターマイヤーに顕著な効果をもたらした。親子そろって、はっと頭を起こし、水を掛けられた猫のように背筋を緊張させる。
「ウォルフ、フェリックス。今日のお話はそのへんまでになさいな。もうお夕飯の時間よ」
ドアの外から、エヴァンゼリンの穏やかな声が聞こえてきた。我に返って窓の外を眺めれば、落日の残照もとうに消え、宵闇が訪れる寸前の深い菫色が空を染め上げていた。
「冷めないうちに、早くいらっしゃい。今日は新メニューに挑戦したのよ。
そうそう、忘れずにカーテンを閉めて来てね」
「う、うん。すぐ行くから」
気を取り直したのはフェリックスの方が早かった。咄嗟に母に返事をして、言われるがままに窓辺にカーテンを閉めに行く。フェザーンは衛星を持たない惑星だ。また、唯一の内惑星は、恒星フェザーンから非常に近い公転軌道を回っているため、地球でいう金星のような見え方はしない。
「父さん、今日はありがとう。色々なことを聞けてよかった。
でもごめん。すぐにはなにも言えそうにないんだ」
窓辺に立ち、カーテンに手を掛けてミッターマイヤーに向き直る。月がなく、一番星を持たないフェザーンの夜空。
「今日分かったのは、本当に僕が何も知らなかった、ってことだけだ。
だから、もっと色々と教えて欲しい。父さんの知っていることを。
何度も、何度でも。僕もよく考えてみるから」
そう言うと少年は、安楽椅子に座った父の元に歩み寄り、その右手を握って引っ張った。小さい頃によくしたように、十歳を過ぎてからはひさびさに。
「だから早くご飯に行こうよ。母さんが待ってる」
ミッターマイヤーの頑丈な手の中で、息子の手はまだまだ小さく細い。緊張に湿った手のひらから、子供らしい高い体温が伝わってくる。そういえば、ロイエンタールと握手をしたことはあっただろうか。
「そうだな。せっかくの料理が冷めたら、エヴァに叱られるな」
二人は連れ立ってドアを開けると、階下へと降りて行った。漂ってくる嗅ぎなれない芳香に、顔を見合せながら。
そして、少年と中年のミッターマイヤーは、目の前の深皿から湯気を上げる、見慣れない料理に揃って首を傾げた。
「母さん、これ何て料理? フリカッセとは違うよね」
「この白いのは米というやつか?」
湯気を立てる白く艶やかな米の上に、フリカッセに似た色と違う香りの濃茶褐色のものがかかっている。隣の皿には、チシャの上に短冊に切られたポークカツレツとくし型のゆで卵が整頓し、傍らにはこんもりと盛られた色とりどりの粒を含んだ、クリーム色のペースト。寄り添う真っ赤なミニトマトとの対比も鮮やかな一皿だ。
「ええ、フラウ・ムライに教えていただいたのよ。
イースタンの中でも、ニホンという国がルーツの人にとって、
さあ、食べてごらんなさいな。熱いから気を付けるのよ」
うながされるまま食前の挨拶をして、父子は一匙すくって口に入れた。途端、スパイスの辛さと香り、肉や野菜の甘みとコク、ほどよい塩味が一体となって、二人の舌を祝福する。
「おいしい!」
「本当に旨いな、これは」
「そうでしょう、カレーライスというの。
フリカッセに似ているから、作りやすいでしょう、とおっしゃってね。
あと、この白いのはポテトサラダよ。舌を休めるためにどうぞ、ですって。
やっぱり、本職の方は教えるのもお上手ね」
色とりどりのものは、細かく切られた野菜とハム。茹でたジャガイモのペーストと一緒にマヨネーズという調味料で合えたものなのだという。こちらはひんやりと冷たく、ほんのりとした甘みと酸味が舌に優しい。
「ハイネセンの料理というのはなかなか大したものだなぁ」
ミッターマイヤーは思わず唸った。フェリックスのほうは感嘆する時間も惜しんで、せっせと匙を口に運んでいる。
「ええ、本当に色々なレシピをいただいたのよ。
こんなお料理をずっと知らずにいたなんて、本当に宇宙的な損失ね。
おかわりは沢山あるから、どんどん食べて。
でも、デザートの分の余裕はちゃんと空けておくのよ」
「それもハイネセンのお菓子なの?」
「『ホテル・ユーフォニア』特製ティラミスよ。
母さん用に簡単なものにしたレシピになるけれどね」
ミッターマイヤーの眉間に皺が寄った。灰色の目が宙を泳ぎ、ややあってから口を開く。
「なあ、エヴァ。聞いたことのある名前なんだが」
新領土総督府に接収された高級ホテルではなかっただろうか。ひょっとしてもしかしたら。
「ハイネセンでも屈指の高級ホテルで、帝国でもバーラト政府の行事に参加する時に、
よくお使いになるところでしょう。このカレーもそこのレシピよ」
ちなみに、値段はカレーとサラダ、食後のデザートとコーヒーで一食三十ディナール(税、サービス料別)と決して安くはないが、帝国の文官武官双方に人気のメニューである。
「母さんも料理上手だけど、確かに美味しいはずだよね。
ところで、ティラミスって変わった名前だね。同盟公用語とも違わないかな」
「もうあまり使わない言葉だけれど、『私を元気にして』という意味があるのよ。
さっき味見をしたけれど、本当に美味しいの。
これを私が作ったのかと思うと、ちょっと感動してしまったわ。
元気になってくる味よ。楽しみにしていてちょうだいね」
エヴァンゼリンはにこやかに言った。美味しいものを食べれば、いつまでも眉間に皺を寄せてはいられない。
彼女は、夫ほどには息子との関係を心配はしていない。人間の三大欲求の最上位。胃袋を掴んだお袋の味ほど強力なものはないのだから。