「おまえの実の父、オスカー・フォン・ローエンタールは男だったら羨望して止まないものを
ほとんど全て備えていたよ。ただ一つを除いてな。
だが、その一つのせいで、残りはあいつにとって無価値に等しかったのかも知れない……」
ミッターマイヤーはこう前置きして、フェリックスに語り始めた。二十一歳の時に、イゼルローン要塞に配属され、殺人事件の調査がきっかけで知り合ったこと。一緒に調査をするうちに、不思議と馬が合い、事件が解決するころには『かたぶつの平民』と『女ったらしの下級貴族』が、友情を育むに至ったことを。
「あいつはな、背は高いし、顔はいいし、軍人としての才能も高かった。
艦隊を指揮してはヤン元帥と互角、白兵戦に臨んではシェーンコップ中将の猛攻を凌ぐ、
そんな男は、俺の知る限りでは他にキルヒアイス大公ぐらいだろうな。
こと智勇の均衡という点では、皇帝ラインハルトも及ばなかっただろう」
帝国の『至宝』の賞讃は続く。
「それに行政能力は俺なんかの比ではなかった。
イゼルローン回廊決戦直後のハイネセンに駐留して、統治するなんて並大抵のことではない。
九月一日事件はあったが、それでも最小限で食い止めることに成功したんだ。
それ以前に、ロイエンタールが行政的な功績を上げていたからだよ。十億人が暴動を起こす
ことだってあり得たんだからな。そうなったら、五三〇万の新領土軍ではどうしようもない。
兵士一人対二百人だ。艦隊を動かす前に、地上で襲撃されてたら勝てやしないんだからな」
「確かにそうだね」
「結局、今でも新領土総督府は置いていないだろう。
場所は問題じゃない。ハイネセン以外にもシロンだってアルーシャだっていい。
あいつほどの軍政双方の才能のある、そんな人材がいないんだよ」
灰色の瞳が、神妙な様子の少年をじっと見る。その男によく似た、だがより繊細な顔立ちは、母からの遺伝もあるのだろうか。艶やかな髪も、親友よりやや明るい色をしている。
「まあ、性格は能力ほどに円満とは言えなかったがな。
おまえも知ってのとおり、女性関係は褒められたものじゃなかったし、
斜に構えたところがあった。
なんと言ったらいいのか、理が勝りすぎているというのかな、あれは。
誰かが何か文句をつけるとするだろう。
カッとして言い返すんじゃなくて、鼻で笑ってからやりこめるという感じだった。
それがまた、ああいう冷たい感じの美男子にやられると、
これほど腹の立つものもなくってなぁ」
先程、親友を賞賛した時以上に、実感の籠った描写であった。だが、よく聞かなくてもマイナス査定ではないだろうか。
「父さん達は、ほんとに友だちだったの……?」
息子が上目遣いになって、極めて疑わしそうな表情を向ける。決まり悪げに咳払いをして、ミッターマイヤーは続けた。
「だが、決して話の分からない男じゃなかったぞ。
ちょっとばかり皮肉屋だが、ちゃんと筋の通った奴だった。
俺の命の恩人で、皇帝ラインハルトと俺を引き合わせてくれたのもあいつだ。
あいつの判断が優れていたからこそ、俺は今こうしておまえと話している。
勿体なくも、今の地位を賜って、至宝などと呼ばれてな。
あいつは、キルヒアイス大公の次に、皇帝の臣下になったんだ」
それから彼は、前王朝の不祥事、『クロップシュトック候事件』について語り始めた。当時の貴族の腐敗ぶり、横行する暴力と流血。老夫人を暴行し、殺害して指輪を奪った貴族の馬鹿息子を、軍規を正すべく、自らの手で銃殺刑に処したこと。
フェリックスの顔が蒼褪める。艦隊戦による戦功の影にいる、何十万、何百万の死者よりも、優しい父が自らの手で引き鉄を引き、人を殺したことの衝撃は大きい。
「俺はそのことについては後悔はしない。信じられないだろう。
ほんの二十年前には、貴族の腐敗でこんなことが
貴族の権力闘争で、相手の貴族はおろか、その領民まで略奪や暴行の犠牲になったんだ。
こんなありさまじゃ、ヤン元帥が専制政治に断固として抗ったのはよくわかるだろう。
皇帝ラインハルトが、歴史上稀有な存在だということも。ああ、話が逸れたな」
貴族の馬鹿息子を、少将の職権に基づいて銃殺刑にしたのは合法であったが、これが権門の怒りに触れて、拘禁されてしまった。処罰した少将は平民、銃殺された大尉は貴族であったからだ。貴族、それも大貴族の横暴は法を容易に逸脱する。生殺与奪を握られたミッターマイヤーを救助すべく、ロイエンタールは行動を起こした。
権威には権威を。当時はまだミューゼルの姓を名乗っていた、皇帝の寵姫の弟に親友の救助を嘆願したのだ。対価は自身の忠誠と、親友の感謝。そして、下級貴族や平民の軍人の好意を得られると。これをラインハルトとキルヒアイスは了承し、ミッターマイヤーの救助に赴いた。
今も鮮やかに
「その後は、俺もミューゼル大将の
皇帝ご自身も当時は大貴族から白眼視を受けておられた。
その点では、俺たちは似ていたのかもしれんよ」
その後は、ミューゼルからローエングラムに名を変え、爵位を授かり武勲を
「それから先は、同盟軍との決戦になった。
相手には地の利があったが、本来は多勢に無勢だ。
百回戦闘があれば、九十九回こちらが勝つはずだったんだが、
ヤン元帥は強いなどという言葉では表現しきれない相手でな」
「知ってる。この前、学校で授業があったんだ。みんな驚いてた。僕もだけど。
初めてイゼルローンに行く間、ユリアンさんに色々聞いたんだけど、
あれは全部じゃなかったんだね」
「ああ、本当にあれが全てじゃなかったんだ。
だが、ロイエンタールの話と関係ない部分は割愛しようか。
バーミリオン会戦で、皇帝ラインハルトが負ける寸前、
俺たちはハイネセンを押さえて、無条件降伏命令を出させた。
それにヤン元帥は従い、停戦が成立して、バーラトの和約が結ばれた。
レンネンカンプが高等弁務官となったことが、後の悲劇に結びつくんだが
あの時、皇帝の当初の構想のとおり、
その職にロイエンタールが就いていたらどうなっていただろう」
父の言葉に、フェリックスは首を傾げた。
「ヤン元帥は今でもお元気で、同盟はバーラトの和約に従い、存続していたかもしれない。
彼が生きていれば、高等弁務官のあいつを陥れようと思う者はいなかったろうな。
だが、そうだったらおまえは生まれていない」
藍色の目が大きく見開かれた。
「あいつがオーディンに残ったことで、おまえの母親と接触したんだ。
彼女は、俺たちが皇帝の命によって処断したリヒテンラーデ公の一門だった。
その命を受けて、処罰を実施したのがあいつだ。辛いことを教えてすまない。
おまえの実の母親にとっては、皇帝も俺達二人も敵だったんだ。
大公を失った皇帝の怒りは深くて、女子供は辺境に流刑、
十歳以上の男子は死刑という大変厳しいものだった。
それを恨みに思ったリヒテンラーデ候の姪の娘が、ロイエンタールを襲った」
父とその親友についての業績の話がここにつながるのか。フェリックスが耳にしていた、『実母の恨み』は、痴情のもつれではなかったのだ。
「そうだったんだ。それが恨み、だったんだ」
伯父の罪で、自分の父や兄が殺され、自分や母、姉妹は流刑に処される。他の大事な親族も、あるいは殺され、あるいは遥か遠くに引き離される。貴族としての贅沢な生活を失うことと、いずれがより辛いことだっただろうか。
「ロイエンタールにとっても望まぬ処罰だったさ。
だが、帝国宰相にして元帥であるローエングラム公に、
思うにな、これも専制政治の欠点なんだ。同盟では自分の罪以外では裁かれることはない。
そして、何人も裁判なくして処罰されないとある。この裁判も最大三回の機会がある。
迂遠といえばそうなんだが、処刑されてしまった後で、
無実だとわかっても取り返しがつかないだろう。
これは、旧同盟でも冤罪が蔓延していた時代があって、
より慎重になったということらしいんだがな」
ミッターマイヤーは重い溜息をついた。そのことが記された『無実によって殺された人々』という本がヤン・ウェンリーの愛読書だった。この事実を彼が知ってなお、ラインハルトを望みうる最良の専制君主と評価しただろうか。
そして、この旧同盟の憲法に謳われた権利を、政府自らが踏みにじって、ヤンを密殺しようとした。もはや、同盟政府は民主主義を掲げるに値せずと、彼が考えたとしても誰が責められるだろう。この原因は、ヤンに対する敗戦の屈辱を引きずったレンネンカンプと、彼におもねった同盟政府首脳部の双方にある。
もし、これが当初の構想とおりにロイエンタールがその職についていれば。ヤン・ウェンリーに敗戦を喫しなかった数少ない将帥であり、皮肉屋だが冷静な親友ならば、根も葉もない噂として鼻で笑って終わりにしただろう。無論、しかるべく調査はさせただろうが。
だが、ヤンは『歴史にもしもはない』という考えを持ち、人生は自分の選択の結果だと、運命や宿命で片付けるのをよしとしなかったという。心の底から強く、
ラインハルトやロイエンタールは、そういう意味では強い人間ではなかった。だが、ポプラン退役中佐が息子に語ったように、人は自分以外にはなれないのだ。生育歴の重要性は語るまでもないことだろう。
「だから、その女性が襲って来た時に、すぐに官憲に引き渡すことをしなかったのは、
今度は彼女が死刑になるのではないかという懸念もあったんだろうな」
そして恐らくは、彼女にある女性を重ねたのだろう。
「父さん。こんなことを言ってはいけないのはわかっている。
でも、どうして皇帝を狙わなかったんだろう。
だって、どっちを狙っても、成功なんてしないのに」
「フェリックス」
「だってそうだろ。皇帝は厳重に警護されていただろうけど、
どうせ殺されるなら皇帝に直接抗議するほうが筋が通ってる。
僕ならそうする。だって、貴族のお嬢様が銃を撃っても当たりっこないもの」
「実際はナイフだったそうだ。美しい細工の、淑女の懐剣だな。
おまえの言うとおり、あいつにかすり傷一つ負わせることは出来なかったそうだよ」
「じゃあ、殺されに行ったようなものじゃないか」
「ああ、案外そうだったんじゃないかと、今では思うようになったんだ」
あの頃の自分は若く、直線的に過ぎるほどだったような気がする。もっと複雑な面のあった親友には、自分の単純さが好ましかったのではないだろうか。
「それはどういうこと?」
「ロイエンタールは、社交界でも有名な存在だった。
母親は伯爵家の出だし、父上は帝国騎士だが事業に成功した資産家でな。
あいつはごく自然に贅沢が身についていて、
そこらの大貴族が束になっても敵わない気品があったんだ。
それに最初に言っただろう。男なら羨ましく思うような容姿だったと。
皇帝ラインハルトも、それは美しい容貌だが、大公妃殿下によく似ておられた。
傍に寄るのはご遠慮したい、とヤン外務長官が以前言っていらしたな、そういえば」
「でも、ヤン長官はとっても綺麗な方だよ」
「ああ、俺もそう思うよ。でも、それでも比較対象にされるのは厳しいのだそうだ。
皇太后陛下がそれに臆さなかっただけでも、敬意に値するとおっしゃっていた。
女性というのは、よくわからんなあ」
ミッターマイヤーは
「まあ、とにかくあいつは女性にもてた。
彼女もあいつを知っていたのではないかな。
自覚はないが片想いではなかったんだろうか。
ああいう理由で没落してしまうと、結婚することもできんし、
元貴族の女性にできる仕事は多くない。
そうなる前に、惚れた相手の手で死んだ方がましだと、
心のどこかで思っていたのではないかと」
彼女の名は、エルフリーデ・フォン・コールラウシュだった。今でもどこかで生きているのだろうか。親友は彼女の純潔を奪ったという。そして、美しい手をしていたと。人類最古の女性の職業に就けば、前者は失われていた。そして、どんな仕事についても、象牙を彫刻したような傷一つない美しい手を保つことはできない。
自らが貴族と言えるうちに、美しいうちに、生を絶ってしまえば、相手の心に何らかの形で残る。そう考えても不思議ではない。人が絶望するのは、貧困にあえぎ飢えることだ。次の食事も摂れないようになれば、明日のことなど気にしなくなる。そうなったら、自分もろとも相手を滅ぼすことに躊躇はしない。
薄幸の佳人はいても、不幸な美人はいない。真実の不幸――貧困――で衣食住の全てがなくなれば、生来の美しさなど
「それでな、フェリックス。ロイエンタールが酒に酔って、俺に一度だけ言ったことがある」
ついにここまで話が進んでしまったのか。ミッターマイヤーは、膝の上で拳を握りしめた。
「あいつの母親は大変な美人だった。
実家が没落して、資金援助のために帝国騎士の家に嫁入りしたんだ。
あいつの父は、ずっと年下の妻を溺愛したが、妻の方は若い愛人を作った。
やがて、あいつが生まれた。夫と妻は青い目で、愛人は黒い目をしていた。
美しい手の母親は、美しい細工のナイフで、
赤ん坊の黒い目を抉ろうとしたところを見咎められた。
ほどなくして、狂気の中で亡くなったそうだ。『彼女』と似てはいないか?」
顔も覚えていない、だが自分に色濃くその容貌を遺した母の、どこか歪んだ鏡像。自覚があったか否かは不明だが、彼も彼女にそれを重ねたのではないだろうか。
「あいつが子守歌代わりに聞かされたのが、
その話と父親からの生まれたことに対する呪詛だったそうだ」
亡き親友によく似た顔が、今度こそ蒼白になった。左右が同じ濃藍の瞳が、ミッターマイヤーを凝視する。ミッターマイヤーの灰色の視線が真っ直ぐに、それを見返した。
ああ、これこそ親友が真に欲しかったものなのだ。自分に正面から対峙する父が。
「あいつが持たないただ一つ。それは家族の愛情なんだ。
実際に血がつながっているかではなくて、心がつながっている相手だよ。
何があっても無条件に自分の味方になってくれる。
時に褒め、時に叱ってくれる、そんな存在がいなかったことだ。
俺は親友だったが、そこまでの存在かと言われると否だ。残念ながらな」
そういった父は、とても寂しく悲しい顔をしていた。常日頃の若々しさを失って、一気に十も二十も老けこんだように。
「もしもあいつにそういう存在がいれば、自分に掛けられた疑念を晴らそうと
思いつく限りの手を打ったのではないかと思う。
自分への執着がなかったから、疑われて、奸臣に申し開きをするぐらいなら、
剣を以て叛くことを選んでしまったんじゃないか」
「いままで、皇帝に仕えてきたのに……?」
「だからこそ、とは考えられないか」
ラインハルトが、皇帝の寵姫の弟、いわば月のような存在だったころからの二番目の臣下。軍歴はラインハルトよりも長く、その輝きの本質にも二番目に気がついた存在。あたかも月の出を導く宵の明星のように。その表現は、息子にとって思いがけないほど詩的なものだった。
「あいつは、キルヒアイス大公の次に長く、皇帝ラインハルトに仕えてきた。
双璧なんて世間は言うが、樹てた戦功はあいつの方がずっと上だった。
それだけ心血を注いで、皇帝に尽くしたのに、
小者の
『
最強にして最良の敵手、ヤン・ウェンリーは既に亡い。そうなれば、艦隊戦においてはラインハルトを凌ぐロイエンタールは、潜在的な最強の敵とも見なされた。
そして、ウルヴァシー事件が起こる。皇帝ラインハルトとミュラー、ルッツの一行が帝国軍兵士に襲撃され、ルッツ元帥は皇帝の盾となって亡くなった。後に地球教徒による犯行だと分かったが、今にして思うと、ヤンの死後、すぐに後継者たちと講和会談を設けていたらどうだっただろう。
彼は、『自分を屈服させる』という皇帝のこだわりを見抜き、自らの首を的にしてラインハルトをおびき寄せた。よくも悪くも、ラインハルトにとっては、ヤン以外を相手と認識していなかったのである。
皇帝はお仕着せな日程の行幸を嫌った。ウルヴァシーに着陸したのは、前述の三名と、副官と随員と従卒という少人数だった。帝国軍の駐留艦隊しかいない惑星ということに、油断がなかったとは言えない。そのわずか四か月前に、ヤン元帥を殺害した地球教徒は、帝国軍兵士を装っていたのだ。そして、ユリアン・ミンツ達が地球教団本部に潜入した時に、サイオキシンによる洗脳が行われている情報を入手できていたら。
まったく、賢者ならざる身としては、いくつもの『もしも』を数え上げずにはいられない。これこそが、俺と魔術師の差なんだろうさ、と父はフェリックスに漏らした。彼らしくない、自嘲の色を浮かべて。
ヤンがこれを聞いたら、『そう思わないとやっていられないだけですよ』と穏やかに反論しただろうが、彼にそれを知る術はない。
「初代軍務尚書のオーベルシュタインには、皇帝にはナンバー2は不要という持論があった。
キルヒアイス大公が亡くなったのも、半分はあのオーベルシュタインの進言のせいさ。
だが、最終的に判断をしたのは皇帝だ。
今度もそうなるのかとあいつが考えなかったはずはない。
自分の無実を弁明しても、管理責任を問われて更迭されるのは間違いない。
丸腰にされたところを、小者の言で処刑されるぐらいならと、剣を執って叛いたのだ」
そして、太陽に叛旗を翻す。それはまるで明けの明星。
作中のモチーフは宇月原 晴明著『黎明に叛くもの』より着想しました。