伏せられていた長い睫毛が上がり、藍青の瞳が決然とミッターマイヤーの顔を見詰め、口を開く。
「父さん、僕の実の父親のことを教えて欲しいんだ」
「ああ、わかった」
とうとう言ってしまったと息子は思い、とうとう言われてしまったと父は思った。四月下旬の土曜の昼下がり。居心地の良い書斎に、麗らかな春の日差しが差し込む。だが、養父子の間の空気は、季節を逆行させたかのように張り詰めていた。
少年は
「だが、その前におまえに謝らなくてはならんことがある。
おまえの苗字の話だが、俺も言葉が足りなかった。というよりも勘違いをしていてな」
先日、息子に十五歳になったら実父の姓を名乗ることができると伝えたことだ。
「たしかに以前の法律では、十五歳になったらロイエンタールの姓を名乗ることができたんだ。
だが、この十年で色々と法律が変わった。
もちろん今でも出来なくはないが、家庭裁判所の許可が必要なんだと」
旧帝国法ならば、平民は居住地の領主や代官に届け出るだけでよかったが、旧同盟法を取り入れた今では、当時と事情が違ってくる。
フェリックスの目が真ん丸になった。あまりに意外な単語の出現に、驚いて父に訊き返す。
「裁判所って、裁判で決めるようなことなの?」
「まあ、裁判というより法的に正しいかどうか確認して、
許可をもらうというのが本当のところだな。
十五歳になったら、おまえが原告として裁判を起こすようになるらしい。
国務尚書としては恥ずかしい話なんだが、十五歳以上は子ども本人が行う届出というのが
新法には色々とあってな。正直ややこしくていかん。
あれから法務省の詳しい者に訊いたんだが、呆れられてしまってな」
新帝国になって法律が改正されて、貴族と平民の区分がほぼ撤廃された。前王朝では、貴族と平民の権利には著しい格差が存在し、これを平等にするのがラインハルトの理念の一つだった。皇太后ヒルダはその遺志を引き継ぎ、さまざまな法改正に着手した。
貴族と平民と、その片方にもう一方を擦り合わせるのは現実的ではないので、過去の法律を参考に大改正を行った。この過去例とは、要するに旧自由惑星同盟法である。こと民生においては、国民の平等と福祉の充実が旧同盟の国是であったから。
これを取り入れた結果、未成年者が全くの他人の養子になったり、その養父母から離縁をしたり、氏名を変えたりするような一生に関わる問題には、家庭裁判所の裁定を仰ぐようになった。
「ご子息がどうしてもと言われるのなら、お止めすることはできませんが、
国務尚書閣下と令夫人に代わって、ご子息の保護者になる方をお探しください。
その後で、裁判を三回、届出を二回以上、交互に繰り返すことになります、だと」
「そんなに難しい手続きになるんだ……。ごめん、父さん。僕には無理そうだよ。
自由惑星同盟の人は、そんなに難しいことやってたんだね」
いかにもすまなそうな顔をした息子に、さらにすまなそうな顔をするミッターマイヤーだった。
「いや、おまえの言うことは正しいんだ。旧同盟でも、こういうケースは滅多にない。
未成年者が保護者を失わないために、何回も家庭裁判所の目が入る仕組みになっているらしい。
だが、これを一挙に解決する妙案があるそうだ」
「なんだ、そんなにいい方法があるんだね」
表情を明るくする息子と、表情が変わらない父の姿が対照的である。
「さっき言った手続きがすべて不要になり、当事者と証人が用紙一枚に必要事項を記入して、
役所に提出するだけで終わりになる方法だ」
「すごいね。どうすればいいのかな」
「おまえが成人するまで待てばいいそうだ」
「え……」
絶句したフェリックスに、ミッターマイヤーは深々と頭を下げた。
「すまなかった。俺も随分と気が急いていたらしい。
十五歳という部分で、早合点をしてしまったんだ。
ロイエンタールを名乗るのが、こんなに大変なことだとは思っていなかった。
もちろん、おまえが望むなら俺はできる限りの手助けを惜しまない。
だが、俺のことを気にして、無理にやらなくてもいい。それは分かってくれ」
向かい合った安楽椅子の上で、平身低頭する父の顔には、目の下に隈が浮いている。そして、自分の目の下にも。なんとも滑稽で、フェリックスは吹き出してしまった。息子の反応を、ミッターマイヤーは唖然と見守った。
褐色の頭の上を笑いの妖精が、蜂蜜色の頭の上を沈黙の天使が飛び回る。笑いの発作が治まって、宇宙に溶け込む寸前の空の端に浮かんだ涙を拭う。
「ご、ごめん、父さん。なんか可笑しくなっちゃって。
父さんもベッドの中で悶々としてたのかと思うと……。
あの人がきらきら星の高等生命体って、本当なのかもしれないなぁ」
「笑い事じゃないぞ、フェリックス。俺も色々考えたんだよ。
結果として、裏目に出てしまったのは事実だがな。
エヴァや皇太后陛下にまで迷惑を掛けてしまった。
だが、俺の失敗はひとまず忘れてくれ。
そして、おまえの最初の質問に戻ろう」
笑いを収めたフェリックスを見つめて、ミッターマイヤーは言葉を継いだ。二十一歳の頃の自分を思い出しながら。
「おまえの実の父、オスカー・フォン・ローエンタールは男だったら羨望して止まないものを
ほとんど全て備えていたよ。ただ一つを除いてな。
だが、その一つのせいで、残りはあいつにとって無価値に等しかったのかも知れない……」
ミッターマイヤーにとって、昨晩から今日の午前中までの自分の動揺は、皇帝ラインハルトの下、星々の波濤を越えた、一万光年の征旅の中でも体験のないことだった。
昨晩遅くに帰宅したミッターマイヤーは、妻から息子の遅い帰宅を知らされた。息子が護衛を出し抜いた巧妙な手口に舌を巻いたり、迷子になって悪人に絡まれていたところを颯爽と助けてくれたという『運送屋さん』の正体を知って蒼くなってみたりと、前哨戦から波乱含みだった。
エヴァンゼリンが言うところの、緑の瞳の『とっても笑顔が素敵な美男子』の正体は、彼女宛ての宅配便の伝票から容易に知れた。
株式会社トウィンクル・スター運送 代表取締役オリビエ・ポプラン。
元イゼルローン軍の中佐で、イゼルローン要塞攻防の最終決戦において帝国軍総旗艦に斬り込み、生還した二百余名の中の一人である。
こめかみににじんだ汗を拭い、息子の名に『幸運』の意を持つ古語を選んだ妻に感謝を告げる。息子の恩人の経歴を知っても、妻は穏やかに感心するのみだった。
「まぁ、それじゃあ確かにお強いはずね。
その人がフェリックスを送って来てくれる間に、なかなかいいお話をしてくれたみたいなの」
少女の頃の透明感を未だに失わない彼女は、ミッターマイヤーよりも豪胆なのかもしれない。次に告げられた言葉に、ミッターマイヤーが感じたのは、焦燥とも諦念ともつかない感情だった。
「だから明日の午後、フェリックスからあなたに聞きたいことがあるそうよ」
「やっぱりあの事か。当然か。俺のせいだからな」
こめかみにじんわりと浮いた汗を拭い、新たな難問に直面する。
「どうしよう、エヴァ。
フェリックスが大きくなったら、あいつの事を色々話そうと思っていたんだ。
だが、何をどう話したらいいか、よく考えると思いつかないんだ」
エヴァンゼリンは、呆れを含んだ笑顔を見せながら、軽いワインと軽食を運んできた。
「ねぇ、ウォルフ。あなたは判断や決断が早い方よ。しかも、大体それがいつも正しいわ。
私は、それを尊敬しますし、美点だとも思います。
でもね、こういうことに関しては、早ければいいというものではないと思うの。
一度に全てを知る必要もないのではないかしら」
「だが、避けては通れない問題だぞ」
「でも、十四歳で通らなくてはいけない道でもないでしょう?
あなたとロイエンタールさんが知りあって、あの子が生まれるまでにかかった時間のぶん、
何度でも話をなさったらいいのよ。少しずつ、あの子の理解が追い付くまで」
「だがな、そう長いこと隠してはいられないだろう」
「正直は美徳ですけれどね、本当だからこそ言ってはいけないこともあるでしょう?」
いつもは明るい菫色の瞳が、灰色の瞳に問いかける。あの日、あの時、あなたにはそれが言えたのですか。あの金髪の覇者に、と。
その眼差しが、ミッターマイヤーの悔恨を揺り動かす。キルヒアイス提督の死。リヒテンラーデ候とその一門への処罰。ヤン・ウェンリーに対した、ケンプ提督を始めとする何百万の兵士の戦死。そして、親友の討伐と彼の死について。
「戦場ではないのですもの、時間をかけることも大切でしょう」
「そうだな、戦力と違って、情報を逐次投入するのも一つの戦術だな。
とりあえず、ロイエンタールと知り合った時の頃から話すとしようか。
……ああ、いや、まずい。参ったな」
ミッターマイヤーがロイエンタールと知り合ったのは、彼が二十一歳の中尉の時だ。一歳上のロイエンタールも中尉。これは大尉からの降格によるものだ。
その原因は、ある令嬢を三人の男が取り合っている中、第四の男として登場した彼が、令嬢の心身を手に入れ、あっさりと捨てたことによる。三人の男は、第四の男に決闘を申し込み、彼が彼らを返り討ちにして重傷を負わせた結果だ。
出走直後にロープに足を取られて、穴に転げ落ちた感がある。黙りこくって顔面を片手で覆った夫に、妻が何を察したのか。
「ふふ、フェリックスよりも、あなたが考えることの方が大変そうね。
明日も午前中はお仕事でしょう? 早くお休みになった方がいいわ」
「そうするとしよう。だがな、エヴァ。
おれも『運送屋さん』にご
生者の中では宇宙最高の名将、新帝国の国務尚書の肩書も、一人の親としては何の役にも立たない。肩を落としている『疾風』に、妻は気の毒な事実を告げるしかなかった。
「でも、しばらくはバーラト駐留事務所への出入りは遠慮なさった方がいいと思うわ。
ヘル・ムライは、結構おかんむりらしいのよ。ミュラー元帥の奥様から伺ったけれど」
「まったく、あいつは今度は何をやったんだ」
「ミュラー元帥よりもビッテンフェルト元帥の方が問題みたいね」
「あいつらか。仮にも第二の双璧だろう。
いつまでも若者気分が抜けないのも困りものだな」
「仕方がないでしょう。この十四年、本当に目まぐるしかったわ。
自分にとっては、そんなに時間が経ったなんてとても思えないの。
フェリックスを見ているとびっくりするぐらいよ。
あの子も、私達の結婚式の話を素直に聞いてはくれなくなってきたわ。
お年頃になったのよ。だからウォルフ、ロイエンタール元帥のそういうお話は
もっと大人になるまでお止めになったほうがいいでしょうね」
「そうか、そうだな。すまんな、エヴァ」
我が身に置きかえても、思春期の頃に親の恋愛については考えもしないし、知りたいとも思わなかった。戦術の大幅な練り直しが必要になりそうだ。明日の午前の勤務に、重要な案件が入っていないのは幸いである。
この時点ではミッターマイヤーは知らないが、『きらきら星』の予言は、子と親双方に見事的中していたのだった。