「こうやって、茶のみ話の与太話で、シミュレーターの画面を眺めているのはいい。
バーラト星系共和自治政府の国防長官に、イゼルローン要塞司令官兼駐留司令官が、
人知れずに接触し、この艦隊運用をものにするというのは非常にまずい。
あなたも部下と四苦八苦してお考えになるといい。
そして公表し、記録に残し、軍務省の決裁を仰ぐことだ。それがあなたを守る」
「一体、何から守ると……」
ミュラーはようよう口を開いた。
「『半分が味方になれば大したものさ』。これもヤン先輩の言です。
民主主義的には、実に正しい勝利基準だ。
自分を含めれば過半数で、のこり半分引く一は負けです。
それは一票、いや人間の価値が平等だからです」
アッテンボローの返答は、ミュラーの疑問への直接的な答えではなかった。
「しかし、あなたの国ではそうはいかない。半数が味方でも危うい。
あなたの国は、人間の価値が平等ではないからだ」
ただ一人の絶対者に否定されれば命脈が断たれるのだ。回廊決戦当時の統帥本部総長、オスカー・フォン・ロイエンタールのように。
「あなたは恨みを昇華できる、非常に希少な人間です。素晴らしいことだと思いますよ。
俺にはとても真似できないし、多くの人間もそうではない。
我々ヤン艦隊は、弱兵を基準にした訓練と行動を行い、戦ってきた。
だから、名だたる疾風ウォルフにも鉄壁ミュラーにも負けずに済んだのです」
それもまた、ミュラーへの示唆であった。宇宙で一二を争う名将たちは、公明正大な人格者だと広く知られている。しかし、それほどに優れた者は、宇宙でも一人二人ではないか。真似しろと言われて、真似できれば苦労はしない。
「このシミュレーターの中で、帝国軍に悪さをしているAは誰なのか。
それもお考えにならないといけません」
言葉を失ったミュラーに、アッテンボローは言葉を続ける。定理を述べる学者のように淡々とした口調で。
「先ほど申し上げた三代名君が続いた国ですが、四代目からはもういけなかった。
五代目は仰天するような悪法を定めた君主だった。八代目に名君が出ましたがね。
銀河帝国が、父祖の功によって権力や富を占め、
罪によって裁かれるうちは、いつ功が罪に転じるか。
皇太后陛下、大公アレク殿下は、あなたを直接にご存知だ。
しかし、アレク殿下の子や孫はどうなのか。あなたの子や孫はどうなるか」
アッテンボローは、リュシエンヌ・ノーラ・キャゼルヌの菓子を一口頬張った。美味に一瞬顔をほころばせたが、すぐに真顔になる。
「ヤン先輩の『歴史にもしもはいない』に対になる言葉を、
私はこうなんじゃないかと最近思うんですよ。『未来に絶対はない』」
いまだ若々しいそばかすの頬の上、青灰色の瞳が見ているのはミュラーではなかった。
「だから、功罪が自身のみで帰結する共和民主制がまだましだと、あの人は考えたんでしょう。
むろん、そいつは法で定めた建前です。
愛するものを殺されたら、誰しもそいつを恨んで憎み、決して許したりはしない。
アスターテ会戦で戦死したジャン・ロベール・ラップ大佐。
軍事クーデターの際のスタジアムの虐殺の犠牲者のジェシカ・エドワーズ議員。
ヤン・ウェンリーの数少ない同い年の親友だった。
事故で天涯孤独になって、心がズタズタの十六歳の彼を癒してくれた人たちだ」
ヤン・ウェンリーの後輩は、鉄壁ミュラーに凄まじい衝撃を与え続ける。考えてもみない死角からの一撃だった。ヤン・ウェンリーにとってのジークフリード・キルヒアイスだったのかもしれない二人。
「もっともね、本心がどうであったか、誰かに見せるような人じゃない。
他者に心を預けきったりする性格でもないし、そういう意味では情のこわい人だった。
だが、念頭において考えるべきでしょう」
だから戦い抜いたのか。皇帝ラインハルトの
「そして、自分だって当然そう思われる。そう考える人でした。
そいつの家族だって、同様に恨まれ謗られるということもだ。
こいつは、エル・ファシルの脱出行で、アーサー・リンチの家族に起こったことだ。
もっと身近には自分の義父と妻もそうですよ」
ミュラーを打ちのめし、切り刻む言葉の数々だった。もしも自分がその立場であったなら、皇帝ラインハルトの輝きを太陽だと思えるだろうか。差し伸べられた手を、握り返すことができるのか。ミュラーがヤン・ウェンリーに抱く好感が、勝者の驕りでないと言えるのか。
自分は、真に大事な者を旧同盟との戦争で奪われてはいない。いや、帝国の主な将帥はすべてそうだ。戦死した僚友は数多いが、それほどの関係を持つ者は含まれていないだろう。
相手を真に慮る想像力を、自分が持っていなかったことを気付かされる。そして、それこそが戦場の心理学者、ヤン・ウェンリーの力の一端だ。魔術師の左腕は、その用兵にも劣らぬ舌鋒の矢を放つ。心を射抜く一点集中砲火だった。
「それだけ、人の心がわかるのに、いや、わかるからこそ人を殺せる。
死者の無念、遺族の憎しみや悲しみを知りながら戦うしかない。
憎まれ、恨まれて当然、家族にもその声の矛先が向かうのも承知していた。
だが、建前こそが重要で、それがあるから血のつながりや姻戚で罪に問われることはない。
こっちは、故パトリチェフ副参謀長の持論です」
「……それにどのような関係があると」
「おや、あなたほどの方がおわかりになりませんか?
このYが、銀河帝国皇帝に何をしたのか」
更に戦闘の状況が変わっていた。猛然と突進したYが、迎撃しようとする帝国軍をかいくぐり、天底方向に急激に針路を転じる。そして、下方からLを狙って砲火を浴びせかける。Lから的確な反撃を受けたものの、隊列を整えて整然と後退した。回廊決戦に出撃した、姓の頭にLを持つ将帥はただ一人である。皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラム。
ミュラーは再び言葉を失った。
「自分だけじゃない。副官だった妻に、生まれたかも知れない子ども。
そして部下の我々はともかく、その家族が大逆罪に連座をさせられる日が、
絶対に来ないと言い切れますか」
やはり、返せる言葉などミュラーには見つけられない。リップシュタット戦役当時の詳細な状況は、当然ヤン・ウェンリーの知るところではない。しかし、賢者は歴史に学ぶ。
気に入らぬものを味方にするよう努力するより、一気に処分してしまったほうが遥かに楽だ。リップシュタット戦役のように。
感情の赴くままに動いても、
本来ならば、諫言には命を賭すほどの重みがある。限りなく冷徹な正論を述べ続けたオーベルシュタインだけが、それを知っていたのだろう。ゴールデンバウムを最も憎んだ者こそが、最も歴史を追い求めただろう。
回廊決戦の手袋を叩きつけたヤン・ウェンリーも、皇帝の出撃に目論見の成功を知り、だからこそ深刻な危機を感じたのではないか。己が戦死を想像しない宇宙の支配者に。歴史を愛した者だからこそ、専制政治最大の弱点を知り抜いていただろう。
「一番偉い皇帝が、一番楽をしたくなったとき、暴君が誕生する。
学生の頃、ヤン先輩は大帝ルドルフの評伝を読んで言ったものです」
沈黙するミュラーに、アッテンボローは目の前の焼き菓子を一つつまんで、画面に近付けた。
「この菓子を作った、リュシエンヌ・ノーラ・キャゼルヌの父も、
あの子が六つだか七つの時に、ガイエスブルク要塞に
何万人、いや何十万人も死なせたでしょう。その罪まで娘たちが
俺の両親に三人の姉貴とその旦那と子どもを始めとする、兵員二百万人を取り巻く人々。
そこまで累が及んだら」
「皇帝ラインハルトは、そのような方ではない!」
「ええ、彼がやってもいないことを責めているわけではありません。
ルドルフ・ゴールデンバウムによる、歴史上の事実であるとだけ申し上げておきましょう。
これ以上の言及は差し控えますが、ルドルフへのアンチテーゼの下に、
新領土の人間は育ってきた。他者の罪に連座されず、不利益は不遡及であること。
今、その恩恵を受けているのが、皇太后陛下と大公アレク殿下であることは、
あなたも知るべきだ」
ふたたびの示唆は、ミュラーの脳天を直撃する。 なぜ、新領土の人々が帝国による統治に従っているのか。たった三人の皇族、たった七千万の帝国軍に対する、泥沼の報復テロが行われていないのか。それは、ラインハルトへの怒りや恨みを、妻子にぶつけたらルドルフの轍を歩むからだ。
だが、暴君が誕生すれば、その瞬間に新帝国は死を迎えるのだと心するがいい。旧同盟の百三十億人以上が立ち上がるだろう。この灼熱の五年に覚醒した者たちが。
それはヤン政権きっての論客、国防長官アッテンボローとしての言葉だった。
近づいてくる足音に、アッテンボローはオレンジのマドレーヌを口にした。口いっぱいに広がるオレンジの風味と香りに、思わず顔を綻ばせる。
「お話中失礼します」
控えめな声がして、ユリアンが新たな紅茶を運んできた。
「とにかく、これは忠告ですよ。せっかくの部下育成のチャンスです。
つまりはね、カンニングするなってことです。我々もこれには散々苦労した。
俺が下野してからなら、ヒントはさしあげましょう。ちゃんと報酬はいただきますがね。
あと半年ぐらい、宙域の分析をしている内に過ぎちまうでしょう」
「アッテンボローさん、じゃあ今度は出馬をしないんですか?」
「ああ、大分回り道になったが、そろそろ本来の志望を目指そうと思ってる」
そう言って笑った顔は、悪童のようにいたずらっぽく若々しい。政治家としてのダスティー・アッテンボローに圧倒されていた、帝国最年少の元帥はようやく言葉を見つけることができた。
「ヘル・アッテンボロー、あなたの志望とはなんだったのですか」
「ジャーナリストですよ」
「あなたが、最初からそちらの道に進んでいらっしゃればと思いますね。
では父上の後を継がれるということですか」
半ば引退したが、彼の父パトリックは硬派リベラル系の論客だった。切れ味のするどい批評文を、ミュラーも読んだことがある。
「とんでもない、俺が軍人になったのは、そのくそ親父の陰謀ですよ。
俺が名前を貰った母方の祖父さまの遺言でね。
士官学校と志望校も受験したんですが、士官学校にしか合格しなかった。
そこで、二人の先輩に会って、今に至るというわけです」
ミュラーの砂色の目が石像のように固まった。ここにも軍人になりたくなかったのに、軍人になってしまった名将がいたのか。道理で多彩な能力の持ち主ばかりのはずだ。軍人になりたくて軍人となった、帝国軍首脳部とはそこからして違うのだ。
「……ああ、そういうわけでしたか」
「だが、キャゼルヌ先輩よりはマシですよ。
あの人なんて大学の受験日を間違えて、士官学校しか受けられなかったんだから」
なんという運命のいたずらか。眩暈がしてきたミュラーは、思いを口にした。
「国防の要の士官学校が、それでよかったんでしょうか」
だが、きっとキャゼルヌは同じ座にいたような気がしてならない。
「結果としてはよくないでしょうよ。同盟は滅びちまったんですから」
アッテンボローは肩を竦めて、お手上げの動作をしてみせた。
「あの頃は、第二次ティアマト会戦の『アッシュビーの平和』の余光が残っていました。
金を払って兵役を逃れる者が大勢いたんで、人材確保に困りましてね。
大学の奨学金は大幅カット、士官学校のほうには免除制度を拡充したんです。
ヤン先輩の動機も相当に不純だが、キャゼルヌ先輩の組織工学論を読んで、
入学してきたのもいるんですよ。学費が免除されて、こんな勉強ができるんならって」
ユリアンは眉を寄せた。
「一体誰ですか」
「キャゼルヌ事務監の副官みたいなことやってた、あの人さ。
結婚して姓が変わってたんで、しばらく気づかなかったが、顔見てわかったよ。
あのガードナー氏が目をつけた論文を、これだと思った女子中学生だ。
わかるだろ、色々と?」
ミンツ元中尉は思わず眉間を押さえた。
「……ああ、色々とわかりました。そして納得しました。
アッシュフォード中佐ですね」
あの真冬の成層圏の青は、すいぶんとユリアンの心胆も寒からしめてくれた。ミュラーもひそかに居住まいを正した。友人ユリウス・エルスマイヤーをして、手強いと嘆かせる財務省補佐官の名だったからだ。
「本来なら、ユリアンの母校兼勤務先のハイネセン記念大に行って、
国家公務員試験にトップ合格できる連中が、学費めあてに来てたんです。
だから、後方系の人材はいいが、前線指揮官はさっぱりふるわなくてね。
帝国との実戦が減って、叩き上げがいない。
政治家に擦り寄るおべっか使いが幅をきかせて、
有能だが政治に距離を置くまともな人の足を引っ張って、ごらんの有様ですよ」
「いや、しかし、なんと言っていいものか……」
帝国とは逆の現象だった。第二次ティアマト会戦の『涙すべき四十分間』で数十名の将官を失った帝国は、軍部の再建に力を入れ、盛んに平民を登用した。そして、ローエングラム王朝創立時に名将が輩出する。その一方で文官は下級貴族が中心となったが、旧銀河帝国の末期から人材は失われていった。
クロプシュトック候事件、カストロプ公の動乱。そしてリップシュタット戦役。こうしたことに主家が関わり、運命を共にせざるをえなかった者が少なくなかった。リヒテンラーデ候に連なる高級官僚も、やはり処刑台に消えた。国務尚書を務めた者の一族である。失われたのは経験豊富なベテランぞろいであった。おかげで平時の今、四苦八苦しているのだ。
ミュラーは、帝国の体制や法制のさらなる改革の必要性を痛感した。そのためには、広い視野を持ち、想像力を養い、なにより学んでいかなくてはならないだろう。過去から現在、未来はつながっている。それを考慮して国や社会を考察し、構築すること。帝国上層部のほとんどの者に欠けている資質だった。
「俺は、あの五年間に至る潮流を追っていきたいと思っています。
だから、親父とは書くものは違いますし、跡を継いだわけじゃない。
政治家になりたくとも、選挙で勝たなきゃなれませんが、
辞めたい時には辞められるのが民主主義のいいところです。
相応の守秘義務はあるにせよ、あとの人生は自由だ。
食っていかなきゃならないが、それでも好きなことをやっていい」
アッテンボローはティーカップを掲げた。爽やかな風が吹く六月のはじめ。今はもういない、歳を追い越した人々と、まだ追い越さない人々にこの一杯を。
「未来に絶対はないが、今を自分の手で作っていくことはできる。
そいつが過去となり歴史になる。だから歴史にもしもはない。
だって、みんなそうやって、できるかぎりの選択肢を選んできたんだからってね」
三千光年を隔てて、ユリアンとミュラーは、魔術師の左腕を凝視した。その言葉を告げた者の名は、語る必要も聞く必要もないことだった。
宇宙暦809年12月、第二次ヤン政権、任期満了により解散、総選挙を行う。
宇宙暦810年1月 第一次ホアン政権発足。役職を替えた主要閣僚は、外務省長官フレデリカ・
新入閣を果たしたのは、国防省長官クブルスリー。同次官ラオ。財務省次官マリネスクと運輸省次官ボリス・コーネフは、フェザーン出身者がエル・ファシルに移転し、バーラト国籍を取得して閣僚となった最初の例である。
種をまき、芽を育て、枝を伸ばしたのはフレデリカ・G・ヤンだが、根を張り幹を太らせたのはホアン・ルイだと後世に評される、バーラト星系共和自治政府の新政権の発足であった。