銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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記憶のレース

「ペクニッツ公爵令嬢、カザリン・ケートヘン様」

 

 典礼省の役人の呼びあげた名に、一礼して進み出た少女に、出席者たちは眼を瞠り、息を呑んだ。

白磁の肌、象牙色の豊かな巻き毛と、黄昏の群青の瞳をしたまだ十歳の少女。だが、瞳には遥かに長い時を生きたような静かな知性が宿っていた。まるで智天使の化身のような、清らかな美貌の持ち主だった。年齢にふさわしい形に結いあげた髪も、その容貌に映える優美で精緻な装飾のドレスも、母の愛情と高い美意識を存分に表すものだった。

 

 大理石の床を歩んでも靴音はせず、頭の高さや位置もぶれない。ドレスの裾を持ち上げ、一礼をしても衣ずれの音を立てない。体重を感じさせない幻のように。それは徹底的に挙措動作を学んだ証拠だった。

 

 カザリンは優美に一礼し、美しい声でアレクとヒルダに短い挨拶をした。まるで一篇の詩のように流麗な帝国語で。ただそれだけで、アレクの心を奪うには充分すぎるほどだった。だが、カザリンがフェザーンに滞在する期間は短い。一月半を掛けてやってきて、帰路にも同じ時間を必要とする。本当は、カザリンは母のそばを離れたくはなかった。イリーナ先生は、お体の具合もずっと安定してきているから、大丈夫だと言ってくる。

 

「園遊会は、大公(プリンツ)アレクのお歳なら、お昼に行うでしょう。

 いつものお茶会と一緒だわ。カザリンは普段のとおりにすればいいのよ」

 

 エレオノーラは笑顔で言ってくれた。

 

「皇太后陛下に、お母さまの代わりにお礼を言ってきて。

 カザリン、アレク殿下には礼儀正しく、優しくしてさしあげなさいね。

 でもね、大公殿下に必要以上に接してはいけないわ。

 ご挨拶をしたら、ホアナ先生のそばで大人しくしていればいいのよ」

 

「お母さま、どうしてなのか、教えてくださるのでしょう?」

 

「それはね……」

 

 カザリンの手を握り、エレオノーラは教えてくれた。大公アレクに礼儀正しく、親切にすべき理由を。

 

 カザリンは、一週間ほどの帝都への滞在に、獅子の泉(ルーヴェンブルン)の一角を与えられた。かつてならば、公爵家ならば帝都に大邸宅を構え、領地には荘園を持ったものだが、ペクニッツ家にはそのような力はない。そういう場合は、縁者や友人の邸宅に逗留するのだが、爵位ある貴族でフェザーンに在住しているのは、アンネローゼとヴェストパーレ男爵夫人だけだ。

 

 前者は身分の釣り合いがとれず、後者には七元帥の夫と赤ん坊がいる。身の安全のために、ホテルを利用させるわけにはいかず、皇宮への滞在という異例の事態になった。遷都して十年になるが、銀河を支配する帝国の首都としての機能は、まだまだ不十分なものである。

 

 これも、カザリンには気が進まなかった。客として、主人たる皇太后ヒルダ、大公アレクには、毎朝伺候して挨拶をしなくてはならない。それは問題ではない。嫌なのは、客室からその場に移動するまでに向けられる、好奇の視線であり、囁き交わされる言葉だった。聞こえなくても言われていることは知っている。

 

 エレオノーラが教えてくれたから。

 

 それでも、母に教えられた角度に顎を上げ、歩むことをやめるわけにはいかない。貴族として、ペクニッツ家を守るための出陣だからだ。そして、ゴールデンバウムの血を引く彼女は、味方を作らなければならない。大好きな母の命の終わりは、カザリンの群青の瞳にも見えていた。

 

「あなたはゴールデンバウム王朝の最後の皇帝で最初の女帝だったの。

 ごめんなさいね、カザリン。お母さまのせいよ。あの時死んでいればよかった。

 でも、死ねなかったわ。あなたを産むまでは。

 ローエングラム公が、あなたを玉座に据えることもわかっていたのに、

 それでもあなたに生まれて欲しかったの」

 

 痩せて冷たくなった手が、カザリンの象牙色の髪を優しく梳いた。それは母譲りの髪、リヒテンラーデの血族に多かった淡い金髪。

 

「男の子が皇帝を継ぐのが、ルドルフ大帝の遺言だったの。

 女の子のあなたが皇帝になるというのは、もうルドルフ大帝の言う事は聞かないということよ。

 それに、ゴールデンバウムという苗字の男の子はいなかったわ。

 あなたの息子が次の皇帝になったとしても、もうゴールデンバウム王朝ではないの。

 女の人が結婚すると、ご主人の苗字になるでしょう」

 

 母の言う事に、最初はその象牙色の髪を傾げたが、次には頷いた。お母さまも、リンデンバウムという苗字だったから、それと同じことなのだと。

 

「あなたの夫の苗字の王朝が始まるから、もうゴールデンバウム王朝はおしまい。

 あなたは赤ちゃんだったから、皇帝のお仕事はできない。

 うちのお父さまが代わっていたけれど、ほんとうのお仕事はなかったわ。

 ローエングラム公の言葉に、ヤーというサインをするだけですもの。

 結局、一年と経たないうちに、あなたから譲位を受けて、彼は皇帝に即位されました。

 それが、ローエングラム王朝の始まりよ。

 でも、皇帝(カイザー)ラインハルトは亡くなられて、

 大公(プリンツ)アレク殿下はまだ七歳だから皇帝ではないの」

 

「ではお母さま、今は皇帝陛下はいらっしゃらないの?」

 

「摂政皇太后陛下が、大公アレク殿下の代わりに統治をしていらっしゃるわ。

 とても慈悲深い名君であらせられるのよ。

 イリーナ先生とホアナ先生を、ここへ寄越して下さった、私たちの恩人よ」

 

 娘に伝えるのは、ただその言葉でいい。言葉にできぬ思いは、母が抱いて天上に赴くのだから。

 

「いいこと、カザリン、恨みより感謝を抱いて生きていきなさい。

 失い戻らぬ過去を惜しむより、今をよりよく生き、未来を手にすることを考えるの。

 あなたが皇帝であったから、私はこうして今もそばにいられるのです。

 考えようによっては、帝位という檻からあなたを解き放ってくれたのが、

 皇帝ラインハルトでもあられるのよ。

 お母さまは先帝陛下に感謝してるの。あなたを無事に帰してくれたから」

 

 細い、肉のない腕が、カザリンを抱きしめた。それさえも儚い力だった。カザリンも抱きしめ返した。大きな手術をした体に、無理がないように優しく。無心に抱きつければ、どんなによかっただろうか。その意味ではカザリンは子どもであることはなかった。四つの時でさえ。

 

「そして皇太后陛下は、いまその囚人。アレク殿下も、将来は同じ檻に囚われる。

 この世でいちばん偉いけれど、いちばん自由がないのが皇帝というものよ。

 だから、あなたはアレク殿下の味方になってさしあげなさい。

 皇帝(カイザー)アレクサンデル陛下が、皇太后ヒルダ陛下のような善政を敷くかぎりは」

 

「そうでなくなったら、どうすればいいの」

 

 エレオノーラの群青の瞳に、優しいだけではない光が点った。

 

「あなたから先帝陛下は譲位を受けられた。

 あなたには先々帝としての玉座の請求権がある。

 彼が暴虐の皇帝と化したら、彼を討つ剣を抜かせることができるのです。

 それを忘れてはいけません。でもね」

 

 一際やさしい声が、少女の耳朶に打ち寄せる。

 

「病気がひどくなってから、大騒ぎして手術するより、自分や皆が気を付けて、

 早く発見して治すほうがいいわよね」

 

 カザリンは頷いた。

 

「はい、お母さま」

 

「だから、沢山勉強して、いろいろな方たちとお話をしなさい。

 みんなに優しく親切にすれば、みんなが味方になってくれる。

 あなたは、公爵家の令嬢でもあるのですよ。

 将来は社交界の中心になって、ローエングラム王朝を守る役目があるの。

 だから、今のうちに帝都を見ていらっしゃい。

 あなたのことを、みんなに知ってもらうまたとない機会です」

 

 耳元で囁いていた母が離れ、細い手がカザリンの頬に添えられた。

 

「あなたはお父さまとお母さまの自慢の娘よ。

 とても賢くて優しくて、それに可愛くて綺麗だわ。

 どこに出しても恥ずかしくない、いいえ、誰にも誇れるペクニッツ家の跡取り娘です。

 お父さまとお母さま、二人の分までご挨拶をしてきてね」

 

 そういう母こそ、とても賢くて優しい、誰よりも綺麗なカザリンの自慢だった。痩せて、やつれ、続く抗がん剤治療に長い髪を失ってしまっても、唇の色は蒼褪めても。その母は久しぶりに楽しげに侍女らを采配し、あのドレスにこの靴、髪飾りはこれと選んでいく。

どれもカザリンのお気に入りで、よく似合って上品なものばかり。

 

「あなたもまだ社交界にデビューをしていないし、大袈裟なものはやめましょうね。

 お母さまが、子どもの頃の園遊会で着た服になるけれど、いいかしら?

 おばあさまが、ご自分のおじいさまのオットー・ハインツ二世陛下からいただいたものよ。

 私が一番おばあさまに似ていたの。背や体つき、目の色もね」

 

 カザリンは一二もなく頷いた。祖母に似た母に似合う服なら、カザリンにもよく映えるだろう。

 

「でも、髪はもっと濃い金髪で、私とあなたの髪はおじいさまに似ているのよ。

 上の伯父さまと伯母さまたちは、背が高いのはおじいさまに、髪の色はおばあさまに似たの。

 下の伯父さまは、おじいさまにそっくりで目の色も一緒。薄曇りの春空の色よ。

 ほかはみんな、おじいさまとおばあさまの間のいろいろな青だったわ」

 

 カザリンがはじめて聞く、母の家族の記憶だった。遠い眼差しの母は、窓から差しこむ早春の光に溶け込むように、儚く優しい笑みで語る。

 

「伯母さまたちは背が高くて、この服を着る歳には丈が足りなくなってしまっていたの。

 もっと困ったのは靴で、ぜんぜん大きさが合わなくて、履けなかったんですって。

 おばあさまがそうおっしゃっていらしたわ。

 ドレスと一緒の生地で作った靴でないと、正式には失礼にあたるのよ」

 

 そしてこれも、貴婦人として教育の機会。カザリンは頷いた。

 

「このドレスは、正式な場でしか着られないものなのね」

 

「ええ、そうよ、カザリン。次に着るのは、あなたの娘か孫になるでしょう。

 大事にしてね」

 

 エレオノーラは、母から伝えられた子どもの頃の衣装を、嫁入り道具として持ってきたのだった。こういったものも、貴族の女性の財産の一つだった。それは世代を超えて伝えられる。

 

「はい、お母さま。必ず大切にいたします。お母さまにも、きっとお見せいたしますから」

 

 だから、生きていらして。娘が続けられなかった言葉を、母は汲み取った。微笑を浮かべて頷く。きっと守れないことを双方が悟りながら、結ばれる小さな約束。

 

「子どもはすぐに大きくなるから、ちょうどいい時に慶事がないといけないでしょう。

 そうなるといいわね。この平和が続くように、あなたも力を尽くすのですよ」

 

「わたくしにできるかぎりのことは」

 

「お母さまがあなたと同じ歳に着たのは、ルートヴィヒ皇太子殿下の結婚式の時だったわ。

 三番目の私だけが、服も靴もぴったり合ったの。

 おばあさまはとても喜んで、お嫁入りの時にくださったわ。

 女の子が生まれたら着せてあげなさい、とおっしゃって。

 伯母さま達は背の高い方と結婚なさったから、あちらの孫には靴が履けないわですって」

 

 そして、ドレスだけではなく、袖を通した人々や、それにまつわる柔らかな記憶も共に。母から娘に、そのまた娘に。細心の注意をもって保管され、時を重ねても色褪せず劣化もしていない最上質の絹。リップシュタット戦役がきっかけで、激減した職人が編んだレースに、手の込んだ刺繍。大変に高価なものだが、三世代から四世代、百年以上にわたって少女たちの身を飾る。先祖からの来歴という香気を漂わせて。これは美術品同様の動産なのだ。

 

 仄かな青味を帯びた乳白色のドレスは、カザリンの体格に合わせて手直しがされた。ほとんどその必要もなかったが、何ミリかの差を貴族の女性は見抜くのである。共布で作られた靴は、内貼りと底を替えて調整がされる。

 

 園遊会や皇宮での服はこれらでいいとして、エレオノーラは考え込んだ。

 

「往復で三か月も宇宙船に乗るのだもの、もっと嵩張らなくて着心地のいい服も欲しいわね」

 

 そういうと、フェザーンから出店している子ども服のデザイナーを呼んで、旅行用の服も十着あまり作らせた。早春に出発し、戻ってくるのは初夏である。船内の温度が一定だから、季節は関係ないとはいかない。そんなに困窮しているのかと、同道する貴族らに値踏みをされてしまう。女の子に着たきり雀な格好をさせるのは、母親にとって最大級の不名誉である。

 

「奥方様には、是非顧問になっていただきたいものですね」

 

 納品に訪れた店主は、まんざらお世辞でもなく言ったものだ。貴族階級の磨き抜かれた美意識は、フェザーンや新領土にはないものであったからだ。たとえ貴族の搾取の産物であっても、オーディーンの街や新無憂宮(ノイエ・サンスーシー)はさながら芸術品である。百年前、二百五十年前に袂をわかった、新興国の者にとっては憧れや羨望もあった。

 

「は、承っておきましょう。しかし、本当にこの額でよろしいので?」

 

 それは、家宰の予想より四分の一以下の額だった。

 

「いやいや、当店の商品としては最高価格帯のものなんですが。

 これからも、よろしくご愛顧ください」

 

 新領土の布などは、工業化による大量生産が進み、帝国本土のものよりもずっと安い。縫製ももちろん電動ミシンを使う。職人が一針一針手縫いをする、帝国貴族の仕立屋とは違うのだった。かといって、品質の点でも決して劣るものではない。機械で丸洗いをしても、皺にならない絹のワンピースなど、帝国貴族の想像を超えた製品もあった。ただ、これらが世代を越えて着られる格があるかというと否であるが。

 

 新しい服を沢山買うと、女性がやるのはファッションショーである。それは貴族も変わらない。きちんと試着して、不具合がないか確かめるという意味もある。結局、モデルの愛らしさに、母も侍女らもあれも着てみて、これも着てとなって、カザリンもちょっと疲れたが、楽しいものだった。父は何を着ても似合う、可愛いと顔を緩めっぱなしで、評価者としては頼りにならなかったが。旅は準備している間が一番楽しいのかもしれない。

 

 始まってみると、早く家に帰りたいと思うのだけれど。

 

 エレオノーラが言っていたように、皇太后ヒルダは大層美しくて優しい女性だったし、大伯父の奥様だったという大公妃アンネローゼ殿下は、更に美しい女性だった。アンネローゼ殿下は、どこか母に似ていた。優しい笑顔の瞳の翳。カザリンは気がついてはいなかった。それが自分の瞳にも宿っていることを。

 

 そして、大公アレク殿下は、とても可愛い男の子だった。先帝ラインハルト陛下は、絶世の美青年だったそうだ。その容貌を色濃く受け継いだというより、大公妃殿下に似ていると思う。特に、澄み渡った青玉色の瞳は、父の蒼氷色とも母のブルーグリーンとも色合いを異にする。豪奢な黄金の髪は、これはご姉弟のどちらにもよく似ている。

 

 アレクは、自分とあまり歳の変わらない女の子と初めて会った。彼にとって、美貌の人間は見慣れた存在だ。母も伯母も美貌を謳われた存在だし、絶世の美青年だったという父に、自分は似ているらしい。一つ上の親友、フェリックスは可愛いというよりも、涼やかな美少年だと言われている。

 

 そういう中で育つと、耐性ができて容貌には鈍感になる。顔は顔だし、いくら美人でも母は母で、伯母は伯母。結局は大人で評価の対象とはならない。


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