銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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天と地、光と音

 人生経験からの真っ当な常識論。これもまた帝国首脳部の弱点であった。圧倒的な輝きで、臣下を魅了した皇帝(カイザー)ラインハルト。彼のカリスマに引き寄せられた将帥たちは、その蒼氷色の視線の先にのみ目を向けた。臣下同士の交友関係も、双璧たるミッターマイヤーとロイエンタール以外については、親密とまでは言えなかった。

 

 友人にも様々な段階がある。半身といえるほどの親友など、普通の人間は持たないものだ。それに恵まれたせいか、ラインハルトはごく当たり前の友人を持っていなかった。たとえば仕事仲間であったり、学生時代からのほどほどに親しい友人、社交辞令を交わす近い年齢の親戚など。これは、ヒルダも一部が共通する。ヒルダは親友さえ持っていなかったのでより深刻だった。

 

 ラインハルトの死後、そのツケを皆で支払うことになった。たとえば、大公アレクの養育を任せられるヒルダの親族がいない。ヒルダは親族の女性と疎遠にしていた。ドレスに身を包み、社交行事に日常を浪費する頭が空っぽなお人形。それはラインハルトの考えとも合致していた。ヒルダはああはなりたくないと思ったし、その価値観もまた夫が好ましく思う点だった。

 

 周囲から何と思われても、自分の価値は父やラインハルトや、わかる人にはわかっている。ヒルダはそれでいいと思っていたし、マリーンドルフ伯爵令嬢(フロイライン・マリーンドルフ)、あるいは皇妃(カイザーリン)のうちはそれでよかった。

 

 しかし、摂政皇太后ヒルデガルドとなるとそうはいかない。社交の場を敬遠していたヒルダを、詳しく知る者はいなかった。ヒルダも彼らをろくに知らなかった。国家の元首たるもの、わかる人にしかわからない存在であってはならない。国民の一員である上層階級にも顔を向け、自らの言葉を語り、理解してもらわなくてはいけない。ヒルダが最も苦手としていた分野であった。

 

 伝統的な社会に生きていた者にとって、ヒルダこそが異端児だ。一番冷たい視線を向けたのは、彼女の親族の女性だった。こういう人々こそ、ラインハルトの出自と経歴を決して忘れない。フリードリヒ四世の寵姫の弟、ミューゼル姓の貧乏帝国騎士(ライスヒリッター)。姉のおこぼれで栄達して、皇帝によってローエングラム姓を賜ったことを。そして、自分達を見下していた生意気な小娘のこともだ。せっかく再婚を勧めたのに、それを断った父親の責任でもあると。

 

 そういう二人が皇帝に皇妃になっても、すぐに敬愛と忠誠を捧げられるようにはならない。相手にも、目も頭もプライドもある。見下されていることは日頃の付き合いからわかる。どうしてすぐさま尻尾を振れるか。行動では従う。だが心までは渡さない。フェザーンへの遷都で、貴族はオーディーンに取り残された。

 

 新帝都への距離、弱体化した経済力は、皇宮への参内をしない格好の言い訳になった。それにマリーンドルフの縁者は、皇室に伺候(しこう)できるような名門ではないので、お手伝いにはあがれないというわけである。

 

 社交界という絹と宝石で飾られた世界。貴族の女性は、十代半ばからそこを往来する。変化に乏しい社会の、固定化されて蹴落とされたら二度と這い上がれぬ階級。そこは、生家と婚家の安寧を守るために戦う、女性達の戦場だった。自らを披露し、相手を見極め、友人という人脈の砦を築く場。

 

 むろん、それを理解していた者は少数だが、爵位を有する数千人の貴族、彼らの子女はその数倍。百人に一人であっても数百人にはなる。ラインハルトに与した側にその割合は多かった。

 

 そういう人々は、軍部の突出を苦々しく思っていた。オーディーンから遠いフェザーンで、軍人ばかりが集まって戦争をして、故郷たる帝国本土を蔑ろにしている。なにしろ、皇帝の行事にも軍服が我が物顔で闊歩し、皇帝自身も軍服姿である。彼らにしてみれば、パーティーの席に抜き身の剣を並べられているようなものだ。言わば、リップシュタット戦役からの味方だった勢力である。だが、その最高位だったリヒテンラーデ候の一門は厳罰に処された。

 

 そんな背景があるのに、充分に配慮したとは言えない。欠席しても不敬罪だが、下手に出席してもどんな難癖をつけられるか。リヒテンラーデ候一門のような古い家系に、まったく繋がりをもたない家はないのだ。建国の功臣の一人が、一門の女性に関わったせいで左遷されている。あれほどの戦功を建てたのに、それでも皇帝の赦免を得られないのか。そう判断した者たちは、暗澹とした心持ちになった。同じような目に遭わされるなら、せめて故郷で死にたい。そして欠席の返事が届く。

 

『弱小の当家にとって、フェザーンへの旅費と日程を捻出するのも一苦労でございます。

 なれば、わずかなりとも領地の民生に注力したく存じ上げます』

 

 ラインハルトは、招待された貴族の欠席の返事に寛容というか、興味をもってはいなかった。前王朝なら不敬罪覚悟の行為であり、決して欠席の返事などありえなかったものだが。それを知るマリーンドルフ伯も、あえて進言はしなかった。開明的な彼は、これを機に不敬罪の緩和を図り、因習を脱却しようと思っていたからだ。

 

 だが、それは逆効果だった。彼らにとっては、命を賭けて入れた探りだった。マリーンドルフ伯は、慣習に無知な皇帝に告げ口はしないが、オーディーンの貴族らにとりなしもしないと判断をされた。敗者は(ひがみ)みっぽいものだ。では、もう我々は不要なのだろう。こちらもフェザーンのことなど知らぬ。密やかに、冷ややかに溝が刻まれていく。

 

 時間という、ラインハルトが唯一恵まれることのなかった無慈悲なもの。皇帝ラインハルトの治世はぎりぎり二年を越えただけである。傀儡だったエルウィン・ヨーゼフ二世、カザリン・ケートヘン一世の在位の合計とさほど変わらないのだ。

 

 一方、フリードリヒ四世の治世は三十四年間、ゴールデンバウム王朝の皇帝の平均在位期間の三倍になる。それは決して軽いものではない。

 

 旧銀河帝国の歴史を振り切るように疾走してきた、新帝国の首脳部にとって、まことに手痛い授業料になった。絶対的なカリスマと武力、半神的なまでの美貌のラインハルトには、口を閉ざして従うしかなかった人々も、乳飲み子を抱えた未亡人にはそのかぎりではない。社交の網を編みあげていた貴族の女性は、情報の収集能力が高い。彼女達は、ヒルダには軍を動かすことはできないと見抜いていた。

 

『ローエングラム王朝の皇帝は、常に戦いの陣頭にあることを約束する』

 

 ラインハルトの戦いへの高揚と覇気が言わせた、実に彼らしい一言だった。これは、共に戦場を往来した将兵たちの士気も大いに高め、皇帝万歳(ジーク・カイザー)の歓呼をもって受け入れられた。しかし、綸言汗の如しとはよく言ったもので、彼亡き後は、これがローエングラム王朝開祖の皇帝ラインハルトの遺訓ということになる。

 

『大公アレク殿下は立太子なさっていない。

 なれば現在の皇帝の代行者、摂政皇太后陛下が陣頭にお立ちになりますの?』

 

『乳飲み子の大公殿下を置いて? あるいは戦場に連れていかれる?』

 

『ご冗談を。宇宙戦艦は乳母車代わりにはならないのですよ』

 

『幼な子の体に障りますものねえ。成人まで、ご健勝にあらせられねば困りますし』

 

『先帝陛下のご遺訓を破らないためには、戦をしないようにするしかないでしょう』

 

 意地の悪い言葉が囁き交わされた。だがこれ以上なく正確な洞察だった。 弟が言ったことを耳にしたアンネローゼは、ヒルダに詫びたものである。

 

「あの子の言葉が、あなたを縛ることになってしまったのね。

 でもヒルダさん、これが皇帝の言葉の怖さなの。

 言葉一つで誰かを処刑台に送ることもできるかわりに、自らの言葉に縛られるのです。

 あれは間違いだったと取り消すのは難しいこと。

 特に建国帝の遺訓とあらば、よほどの名君にしか取り消せないものです。

 そして、その間に育まれた考えを、完全に拭い去るのはもっと難しい。

 貴族も皇帝の言葉を利用するのです。言葉は大切に使わなくては。

 力を減じましたが、五百年近く社会を形作っていた人たちです。

 無碍(むげ)になさってはいけません。思わぬ報復をされます」

 

 ヒルダは頷くしかなかった。絹と宝石の戦では、到底勝負にならない。そんな自分が、鋼と炎の戦を取り仕切れるはずもなかった。貴族とて伊達に五百年近く権力闘争をしてきたのではない。ラインハルトの武断ぶりに息を潜めていても、彼の死により息を吹き返そうとしていた。

 

『摂政皇太后は再婚できず、子どもも一人だけ。

 先帝の姉を結婚させ、いとこ同士で帝位を争わせる方法もある』

 

『もっとも、貴族の中には見合う年齢と身分の者はいない。

 七元帥の若造どもを焚きつけたらどうか。おあつらえ向けの単細胞がフェザーンにはいる』

 

 そう考える貴族連合の参加者と近しかった一派。

 

 一方、もう争いはこりごりだという人々もいた。 戦争戦争でこれ以上国土が荒んでいくのは困る。そして、復興には我々からの税金も使われるのだ。生きていられる代償としてなら支払うのは我慢しよう。だが無駄遣いされるのは許せない。

 

『それとなく警告をさせよう。あの黒髪の男爵夫人に耳打ちするのがいい。

 七元帥を婿にするには、彼女にも手柄が要るだろう』

 

『そうだ、あの気の毒な先々帝陛下の母上もお救いしなくてはならない』

 

『フリードリヒ四世陛下の姪でリヒテンラーデ候の従弟の娘。

 彼女は炭鉱のカナリア、その扱いが皇太后の考えを明らかにする』

 

 ヴェストパーレ男爵夫人マグダレーナの警告は、実はかなりの計算が裏に働いていたものだし、彼女もそれを見抜き、納得づくで行ってもいた。マグダレーナも貴族の一員として、自分と家門と領土領民への責任を負っている。ヒルダやアンネローゼへの友情はあるが、それだけでは生きてはいけない。

 

 ヒルダにはわからなくとも、アンネローゼにはそれで充分だった。彼女は甥の養育に専念することを決心し、フリードリヒ四世の最晩年の伴侶として、残っていた貴族の慰撫(いぶ)に乗り出した。そうでなければどうなっていたことか。放置しておいたら、充満した怒りと陰謀で、帝国本土や七元帥も割れていただろう。

 

 爵位を持つ貴族だけの問題ではない。その下には貴族の家門を形成する末端、帝国騎士階級がいる。彼らの多くは帝国の文官になっていたから、旧都オーディーンがとんでもないことになるところだったのだ。ハイドリッヒ・ラングの台頭に、賊軍と呼ばれた者に連なる帝国騎士の文官らは戦々恐々としていた。いつ、その薄い血脈に言いがかりをつけられるか知れたものではない。彼らのなかには、懐に辞表と妻への離縁状、子供への遺言状を忍ばせて、出勤していた者さえいた。その緊張が続けば、軽くはサボタージュ、または情報テロに走ったかもしれない。アンネローゼの提案は、それを未然に防止したのだ。

 

 人の心、人の営み。それは星の海からは見えない。真空を越えては伝わらない。地上に降りて、目の当たりにし、耳へと届く。強く美しいものより、辛く、悲しく、醜いもののほうがずっと多い。でも、それが人間だ。

 

 ラインハルトは眩い輝きで、人間の卑小さを忘れさせてくれる、夢を見せてくれる存在だった。人間とは、かくも美しく若さと才能に溢れ、雄大な構想を持ち、意のままに羽ばたくことができるのか。それがラインハルト・フォン・ローエングラムの力。皆がそれに焦がれ、争って忠誠と献身を捧げる。五百年近い閉塞と停滞に、飽いていた若く才能ある人々は、その旗に集い疾走したのだ。

 

 しかし、斜陽に暖をとり、まどろんでいた老いた弱きものにとって、砂漠の酷暑に放り出されるのに等しかった。フリードリヒ四世の治世は、ラインハルトが親友に吐き捨てたように、無能が罪悪とはされない社会だった。皇太后ヒルダも、帝国政治機構の構造改革を着手するにあたり、大胆な人事転換を行おうとした。首を横に振ったのは、アンネローゼだった。

 

「ヒルダさん、無能とは、平凡とは悪なのでしょうか? 弱いことも悪ですか。

 心優しいがゆえに、思ったことを呑みこんで我慢してしまうような人も。

 帝国の首脳部は、有能で強い性格の方ばかりです。

 だから、そうではない者のことは、怠慢だと思いますか。

 才能や性格の弱い者を切り捨てるのは、ルドルフ大帝とどう違うのです」

 

 才能の多寡、性格で人を量り、基準を満たせぬ者を切り捨てる。その思想は、突き詰めるとルドルフに辿りつく。アンネローゼに諭されて、ヒルダは慄然とした。ラインハルトの臣下に、無能者はいない。つまり、そういうことだったのではないかと。ヤン・ウェンリーに固執し、その亡き後は軍を返した。あそこで、後継者らと講和を結べば、流さなくてよかった血がどれほどあったろう。その進言をこそヒルダは怠っていた。好敵手を失い、消沈するラインハルトしか見ていなかったから。

 

「違いませんわ、お義姉さま。それは私の傲慢と怠慢でした。

 そういう人によりそい、育てる方法を取り入れることを面倒だと思ってしまったからです。

 時間をかけなければ解決しないことばかりですのにね。すぐに忘れてしまうのです」

 

「あの子はせっかちでしたわ。それをいつもいつもジークが諫めてくれました。

 ジークが亡き後は、オーベルシュタイン元帥が、代わってくださっていたのでしょう。

 あの子はなかなか、わたしたち以外の人の言う事を聞かない子でした。

 理詰めの正論には耳を傾けるけれど。大変なことだったでしょうね」

 

「アンネローゼさま……」

 

「ジークが亡くなった時、ラインハルトを説得するようにと通信を下さいました。

 彼なりに、あの子を案じてくださっていたのだと思います。

 あの子を駆り立ててしまったのは、やはりわたしの罪です。 

 その償いをしなくてはなりません。リヒテンラーデの一門にもです。

 新領土の人が、罪ではないと言って下さったけれど、わたし自身が赦せないのです。

 ですから、わたしは、あなたを支える新たな血脈を生むことはできません。

 それを赦してください」

 

 やはり、自分はラインハルトの輝きにばかり目を向けていた。その影を歩んでいた人もまた、大きな役割を果たしていたのだ。太陽が照りつける昼間だけの世界に、人は生きてはいけない。熱を冷ます夜も必要だった。

 

 ヒルダもラインハルトの覇業の全ては知らなかった。彼にとってヒルダの進言は、ほぼ出来上がった料理のスパイスの一振り、淹れられた珈琲に加えられる砂糖とクリームのようなもの。それを知って溜息が出た。

 

 ラインハルトの構想を、まとまった形で継承した生者はいない。彼の頭脳は、書き散らしたメモワールなどを必要としなかった。早くに帝国の実質的な最高位に就いたため、上官に宛てた親書なども。それで困るのだ。

 

 こと、情報の保存と公開性という点では、帝国は新旧いずれも旧同盟に遠く及ばない。かの国とて、政府の報道にはふんだんにバイアスが掛かっていたが、複数のメディアの存在が、批評や反対意見を全土に伝えた。

 

 帝国の報道機関は、国営放送のみだ。寄らしむべし、知らしむべからずというゴールデンバウム王朝の姿勢は、戦火の悲惨さを覆い隠し、叛徒の討伐という部分だけを貴族や平民に教えていた。それも帝政のための方便だったから。ラインハルトの戦いは、圧倒的な勝利が続き、期せずしてそれを踏襲した。戦勝に次ぐ戦勝、それにはまったく嘘偽りはなかった。

 

 ただひとり、ヤン・ウェンリーなる叛徒の首魁のみが、それに抗ったが所詮は多勢に無勢。その無勢で、多勢の中心核を()いてくるのがヤンの恐ろしさだったが、彼に命令を下す同盟政府を、服従させるのは遥かに簡単だったのだ。戦争は黄金の有翼獅子(グリフォン)を飾る、真紅の彩りにさえ見えた。

 

 だが、一兵も損なわぬ勝利もない。少なからぬ帝国の死者、はるかに多い同盟の死者。遺された者たちは、仰ぐ旗が違っても同じように嘆き悲しむのに。

 

 地上からは見えない。ダゴンの会戦の最初の砲火の輝きも、百五十光年分しか星の海を進んでいない。六千光年以上を隔てたオーディーンには、あと四十倍の年数を経ないと届かないのだ。真空の中は無音の世界だ。艦艇が爆散する時の、兵士らの断末魔も愛する者を呼ぶ声も、ただただ虚空に吸い込まれる。

 

 そのことを貴族らは知らなかった。ラインハルトの宇宙統一の真実の価値を。百五十年ぶりに宇宙から戦火が消えたことを。


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