「こんにちは、大公アレク殿下」
「こんにちは、ヤン主席……」
アレクは行儀よく、
「こんなに遠くまで行啓においでになって、大変でしたわね。
それに随分こわい思いもなさったとか。
でもね、そのあなたたちにお礼を申し上げたいの。
私が長い間、不思議だった疑問の答えが出たのかもしれないのよ」
意外な発言に、三人は呆気に取られた顔をした。彼らの表情に、バーラト星系共和自治政府の主席は上品な笑い声を上げた。
「私がヤン提督の副官だったのはご存じでしょう?
提督の作戦は、どうしてそれを思いつくのか、
私たちこそ教えてもらいたいものが多かったの。
その中でも、まったく種の分からない魔術があったのよ」
「ヤン主席、それはなんでしょうか」
ハインリッヒの質問に、元イゼルローン共和政府の主席は質問を返した。
「私たちが帝国にイゼルローンを返還してから、
システムの改修にかかった期間はどのくらいだったかしら?」
「そちらの退去と並行して設計を開始しまして、施工と点検、試運転を含めて約4年半です」
「そうね。かなり機器の入れ替えもなさったそうだから、そのくらいはかかるでしょう。
でも、もしも機器の交換をしなくても、システムの大きな変更にはとても時間がかかるの。
アレク殿下、思いついて、すぐにできるものではないのは、おわかりになるかしら?」
「はい、なんとなくとなくわかります」
「それに、システムの変更は、安全な時に行わないといけないのよ。
何かあったら困るでしょう? 特に電気や空調が止まったら、大変なことになるわね」
百五十年戦争末期の同盟各地でも頻発していたが、人工惑星のイゼルローンでそれらの供給が停止したら、寒い晩に居間でキャンプの真似事をするような呑気なものでは済まされない。早晩宇宙空間と同じ環境になってしまう。絶対零度、真空の棺桶だ。
子どもたちにはピンとこなかったようなので、ハインリッヒはそっと耳打ちして二人に告げる。それが、自分たちの居場所であることに、何とも言えない顔をする二人だった。
「同盟にクーデターが起こっている時だとか、
第八次、第九次の攻略戦の最中には、絶対にできないことよ。
ましてや、一つのキーワードでイゼルローン要塞のすべての攻撃機能をとめてしまって、
別のキーワードでそれを乗っ取ってしまうようなものならなおのことね」
年少の二人は、更に首を捻るばかりだったが、士官学校生はそれに気づいた。『魔術師の弟子』は語ったではないか。
「ヤン提督の『魔術』には、種も仕掛けもあるんですよね」
「そのとおりよ」
ヘイゼルの瞳を細めて、フレデリカは頷いた。
「第九次の時に種を仕掛けて、第十次に使った紅茶の呪文。
『健康と美容のために、食後に一杯の紅茶』
『ロシアン・ティーを一杯。ジャムではなくマーマレードでもなく蜂蜜で』」
ルッツ艦隊も傍受した、正気とは思えないような文面。それは魔術師が女王に捧げた甘い毒。ただ一言で、彼女は救いだした祖国の騎士らを裏切り、流浪の魔術師の囁きに身を委ねたのだった。
「あまり、センスのいい呪文とは言い難いわよね。
あの人は硬い文面はうまかったけれど、ユーモアのセンスは今みっつくらい足りなかったのよ」
「は、はあ」
フレデリカの慨嘆に、ハインリッヒは心底困り果てた。それ以上に困ったのは、二人の男の子だった。互いの顔を見つめ、また画面に視線を戻す。どういうことなんだろうと、疑問が増すばかりだった。なんとも可愛らしいその様子に、フレデリカはくすりと笑った。
「私たちヤン艦隊は、約二年間イゼルローンに駐留していたけれど、
そのうちの八か月以上は、ヤン提督がイゼルローンにはいなかったのよ。
それを除くと、安全と言える期間は半年ちょっとの間だったの。
では、あの人は、いつの時点であれを構想していたのかしら」
「ヤン艦隊が駐留していたのは宇宙暦796年12月から799年1月でしたね」
「ええ。着任した頃は、まだリップシュタット戦役も、同盟のクーデターも始まっていなかった。
私は、ずっと不思議に思っていたの。私たち司令部も知らされていなかったから。
つまり、口止めができるくらいの少ない技術兵に任せていたのよね。
逆算するなら、ヤン提督がイゼルローンに来たすぐ後には、
考え始めないと間に合わないはずなの」
語りかけるフレデリカの眼は、アレク達ではなく、ここではないどこか、ここにはいない誰かに向けられていた。
「あのキューブに映っていたヤン提督は、花束を持っていないでしょう。
あなたたちが見た提督の、一年後の写真だもの。
持ち主の女の子が、797年のクリスマスに貰ったプレゼントだったんですって」
「どういうことですか、ヤン主席?」
ハインリッヒは、怪訝な表情で彼女に問いかけたが、またしても質問を返された。
「宇宙暦797年2月に捕虜交換式があったことはご存じかしら」
これに答えたのは、義弟の方である。
「はい、ヤン主席。
キルヒアイスげんすいがヤンげんすいとお会いしたと、父から聞きました。
あ、そうだ、思い出した! カメリアだよ!」
「フェリク、どうしたの?」
「ぼく、あのお花がなにか、ずっと考えてたんだ。あのお花は、カメリアだったよ」
フェリックスの言葉に、フレデリカは小さく拍手して続けた。
「ええ、ご名答よ、フェリックスくん。
その時、帝国軍の捕虜の人が、イゼルローンの修理を申し出てくれて、
あの公園の照明も直っているのよ。
公園の照明の調子が悪かったのは、駐留してから三か月の間よ。
その間にヤン提督があの花束を持って、お帰りになったのは一回だけ」
明確な口ぶりに、彼女が、宇宙一の名将を支えるに足る副官だったことが分かる。
「宇宙暦797年1月22日。
ヤン提督がカメリアの花束を持って、照明の具合の悪い公園にいたという条件を満たすのは、
この日だけなの。つまりね」
元気のない大公殿下に向けて、彼の母にある意味でもっとも近しい女性は優しく微笑んだ。
「あなたたちが会ったのは、キューブの写真よりも過去のあの人。
そして、あの人は、未来のあなたたちを見たのではないかしら。
アレク殿下を見れば、ローエングラム候と近い血のつながりがあることは一目でわかるわ。
でも当時、そんな子がいないことも、あの人にはすぐに分かったはずよ」
当時、侯爵だったラインハルトにも、その姉君にも子どもはいなかった。
「あの人は神秘主義者ではないけれど、不思議な出来事を頭から否定もしなかったわ。
そういう、不思議なお話の本を読むのも好きだったの。宇宙怪談集とかね。
天使か妖精のような、ローエングラム候そっくりの小さな男の子が、
二人のお供を連れただけで、イゼルローンの森林公園に来る日が訪れる。
それを見たから、『紅茶の呪文』を考え付いたのかもしれない。そう思うのよ」
長い金色の睫毛が、二度三度と瞬くと、俯いていた視線を上げた。
「じゃあ、あのヤン元帥は幽霊じゃないの?」
「私はそう思うの。あなたたちとちゃんとお話をしたのでしょう。
そして、『独身の間はおにいさんと呼んでほしい』んですって?」
そういうと、フレデリカはすんなりした指を一本立てて、悪戯っぽく片目をつぶった。
「ここでひとつ訂正をしましょう。アレク殿下と皆さん、元帥ではなく大将よ。
まだ二十代だったんですもの、おじさんと言われたくないのはわかるでしょう?」
金と褐色の頭が、こっくりと頷いた。彼女の白い指が、もう一本立てられる。
「もう一つ、本当に幽霊なら独身を自称しないわ。
仮にも私というものがありながらね」
皇太后ヒルダにも劣らぬ、美しい女性の柔らかな笑顔の中に、なんとも言えないものを感じて、副官見習いはひっそりと肩を竦めた。