銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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宇宙暦801年/新帝国暦3年 宇宙(そら)から大地へ
But it My Home


 宇宙暦801年9月。フレデリカ・(クリーンヒル)・ヤンは、夫と共にハイネセンの土を踏んだ。二年ぶりのことである。黒髪の夫は、二度と目覚めぬ眠りについていた。それは一年三か月前。

 

 ようやく、この星で大地を(しとね)に眠らせてあげられる。朝寝と昼寝の好きな人だったから、狭くて冷たい保存カプセルではさぞ不満だったろう。彼が最も長い時間を過ごしたのは、星を散りばめた真空の海であった。彼はそこが好きだったようだが、宇宙も彼を寵愛すること限りなかっただろう。

 

 だから、これはフレデリカの我儘だった。大気と重力の井戸の底、手の届くところに夫を留めておきたいと。いずれ、ハイネセン郊外の公共墓地の片隅に、簡素な墓標を立てて葬ることになるだろう。フレデリカにとっての義理の両親は、ハイネセンから150キロほど離れたサンテレーゼに眠っている。その傍らも考えないではなかったが、往復で5時間近い時間を墓参に充てられるのは当分先のことになる。

 

 まもなく、第一回のバーラト星系共和自治政府の総選挙を行うのだから。

 

 イゼルローン要塞からのヤン不正規軍らの退去は整然たるものだった。皇帝ラインハルトとの最終決戦で、これあるを予想していたアレックス・キャゼルヌが入念な準備を怠らなかったからだ。第一次神々の黄昏作戦の際よりも、退去者の人数は遥かに少なかったし、民間人もほとんどいなかった。また、帝国軍にしっかりと足と警備を提供させた。軍としての武力は勝っても、軍官僚の折衝能力の違いは歴然としていた。

ヤン艦隊が戦い抜いた陰には、キャゼルヌ中将の補給と兵站能力、さらには資金調達の才があってこそだった。

 

 新銀河帝国の文官らは慄然とした。約五百年続いた門閥貴族制。皇帝ラインハルトによって、貴族資本の殆どは帝国の直営企業となった。

 

 貴族の殿様商売から、国家の親方日の丸体質への変貌にすぎない。剣で勝てても算盤では負ける。キャゼルヌは卓越した経済官僚だが、彼に迫る能力の者は旧同盟政府や民間企業にもごろごろいる。

 

 (ひるがえ)って、新帝国はどうか。カール・ブラッケやオイゲン・リヒターら、貴族出身でも開明的な官僚が民生や財務に新風を吹き込もうとしている。

 

 だが、同盟では二百年前からそれに取り組んでいた。政治家が腐敗しても、末端の公務員らの多くは粛々と役割を果たしていた。救国軍事会議のクーデターや双璧によるハイネセン包囲と帝国への降伏、その後の皇帝大親征や新領土戦役の間でさえも。

 

 それらの出来事に端を発する暴動の際にも、病院は負傷者を収容し、死者らの身元を特定し、遺族に引き渡したり埋葬したりしてきた。社会サービスやインフラ整備の低下が深刻化していた同盟末期であっても。これが知識やノウハウの蓄積の差というものであった。

 

 だから、イゼルローンからの帰還者第一陣で宙港がごった返すようなことにはならなかった。重要人物であるフレデリカは、薔薇の騎士の生還者たちに警護されている。当面は、旧同盟軍の軍宿舎に入居することになっている。これもキャゼルヌの交渉の結果だ。本当に頭が下がる綿密さで、夫同様そのまま頭が上がらなくなるだろう。

 

 そう思って、フレデリカが苦笑した時であった。宙港職員の女性が一通の封書を手に彼女らの元に歩み寄ってきたのは。警護の歴戦の勇士らが身構えかける。フレデリカと同年齢ほどの女性は歩みを止めて笑顔を浮かべた。軍人が怖くて接客業はできない。お客様は神様で、下手をうつと祟り神になるのだから。やはり遠巻きに見張っていた帝国軍の兵士は、ほとほと感心した。同盟の女性は傑物ばかりだ。

 

「フレデリカ・G・ヤン様でいらっしゃいますね。

 ヤン様あてにおことづけの封書が届いております。

 大変失礼ながら、危険物等の検査は弊社がさせていただきました。

 お受け取りいただけるでしょうか?」

 

 フレデリカは首を傾げた。封書の差出人の名に心当たりがない。夫と同様に彼女自身の父母は既に亡く、双方親族とは没交渉である。だが、姓のほうはその限りではない。コンピューターにも比されたほどの、金褐色の下の記憶野から数秒のうちに心当たりが検索された。しかし、またどうしてだろう。

 

 彼女は再び首を傾げた。ミルベール。亡き夫、ヤン・ウェンリーと、短くも幸せな新婚生活を送った新居。そこの家主の姓であった。だが、家主は老齢の男性だった。彼の名は失念したが、差出人の名と筆跡は女性のものだ。そこまで考えて、フレデリカは小さな声で叫んでしまった。周囲の怪訝な顔に、慌てて何でもないと伝える。しかし、一気に体温が上がってこめかみに汗がにじんできた。

 

 同盟政府による、ヤンの不当な拘束。シェーンコップらの助けを借りて、救助に向かった時には、夫は銃殺される寸前だった。帝国の高等弁務官を人質にして、ハイネセンから脱出するという立体映画(ソリムービー)の悪役なみの所業を皮切りに、イゼルローン要塞の再奪取、皇帝ラインハルトとの決戦、夫の死、そして彼の弟子による皇帝ラインハルトとの最終決戦。

 

 その中ですっかり忘れていた。あのフレモント街の家が、貸家であったことを。記憶力がいいなんてとんでもない。ミルベール氏にとって、さぞや迷惑なことだったろう。家賃ももう二年以上不払いだ。ヤンとフレデリカの銀行口座は封鎖されてしまっていたから。

 

 そして、さまざまな家財や私物のほとんどを置き去りにしてきた。あのゴミ箱や冷蔵庫の中身はどうなったことであろうか。もちろん家宅捜索も入っただろう。帝国か同盟かどちらの憲兵かはわからないが。

 

 いろいろと考え出すと、貧血を起こしそうだった。封書の中身を読むのは、心を落ち着かせて、人目のないところにすべきだろう。無論、ちゃんと腰かけてだ。ばったり倒れてもいいように。

 

 ああ、こんなミクロのことでも気が重いのに、ハイネセンの10億人を背負っていけるものだろうか。亡きあの人が、日常の色々を被保護者に頼っていたのも今なら納得できる。結婚後の行状については、あまり弁護の余地はないが、フレデリカ自身主婦として有能とは言えなかった。これを追求されると、自分の心の方が痛む。ヤンが幸せ太りしたことはなかったのだから。

 

 彼女は気もそぞろにマスコミのインタビュアーらを追い払い、ようやく宿舎に落ち着いた。封を開け、深呼吸を一つしてから手紙を開く。ヘイゼルの視線が文字を追うにつれて、困惑から驚愕に突き落とされる。全文を読み終わるや否や、彼女は蹌踉(そうろう)と立ち上がった。

 

「大変だわ……どうしましょう」

 

 エル・ファシルからの脱出の準備の最中も、軍事クーデターの首謀者を父だと知った時も、こんなに慌てたことはなかった。自分の知らない間の出来事だったからか、黒い髪に線の細い背中の持ち主がいないからなのか。とにかく、宿舎の狭い部屋を飛び出して、頼りになる先輩の部屋のドアを叩く。迎えてくれたのは、父譲りの薄茶色の瞳。頭一つ下の位置から、きょとんとして見上げてくる。

 

「どうしたの、ヤンおばちゃま?」

 

「ああ、シャルロット、お母さんはいらっしゃるかしら」

 

「今、食堂の手伝いに行ってるわ。

 あ、ちょっと待ってて、妹に呼んできてもらうから。

 とにかく、中へどうぞ。座ったほうがいいと思うよ。顔が真っ青だもの」

 

 あの母にしてこの娘ありというべきか、12歳とは思えぬ判断だった。軍人用の宿舎は狭く、ベッド以外にこれという調度はない。その一つにフレデリカを座らせると、妹に母を呼びに行かせ、コーヒーとチョコレートまで出してくれた。インスタントでごめんね、と詫びながら。

 

 ほどなくして、下の娘に手をひかれたオルタンス・キャゼルヌが戻ってきた。フレデリカの様子にこちらも目を丸くした。

 

「まぁ、フレデリカさん、どうなさったの?」

 

「あの、何から申し上げたらいいのかしら……。

 オルタンスさん、私達の家の後始末をして下さったんですね。

 今まで忘れていたなんて、本当にお恥ずかしいですわ。

 そして、ありがとうございました」

 

 彼女のただならぬ表情に、息を詰めていた家事の達人は大きな吐息をついた。

 

「ああ、びっくりしたわ。何かと思えば、気にしなくてもよかったのに。

 あそこは私の伯父の持ち家だもの。姪の私が手伝うのは当然だわ」

 

「え?」

 

「ヤンさんもね、家さがしに大変だったのよ。何しろ国家の英雄でしょう。

 なかなか不動産屋を回るわけにも行かなくて、アレックスに心当たりがないか聞きにきたの。

 だから、私が伯父を紹介したのよ。

 とにかく頑固なおじいちゃんなんだけど、口の堅さは保証できるから」

 

 オルタンスはこともなげに種明かしをした。ヤン・ウェンリーは、あまり目立つ容貌の人ではないのだが、メディアに報道されるたび、センセーショナルな功績との二人連れで紹介されていた。

 

 エル・ファシルの、アスターテの、イゼルローンの英雄。バーミリオンで皇帝ラインハルトを指呼の間に捉え、撃破の寸前まで追い詰めた名将。最初に報道されてから、十年と少々。あまり容貌が変わっていないせいで、彼の顔は国民みんなが見知っている。下手に住居がばれたら、イエロージャーナリズムの好餌にされてしまう。だから、信頼のおける人のコネを頼ったのである。それがオルタンスの伯父だったというわけだ。

 

「そうだったんですか……では、オルタンスさんは伯父さまが倒れたことは御存じなんですか?」

 

「ええ、伯母がこぼしていたわよ」

 

 ミルベール氏は、たしかに頑固な御仁であった。帝国の憲兵が家探しに入ろうとしたところに、声を張り上げて抗議をした。曰く、中の家財はヤン元帥のものだが、家屋敷は自分のものだ。中を改めるならちゃんと同盟の法に則ってもらう。それがないなら、家に入らず捜査をすることだと。ヴェニスの商人ではあるまいに無理難題である。

 

 当然、憲兵らと押し問答になった。彼は心臓病の既往歴があったのだが、興奮してまた発作を起こした。幸か不幸か、軍人は救急救命処置は手慣れたものだ。大慌てで処置をしながら病院に搬送したおかげで、大したことにはならなかったのだが。

 

 彼は、若いころの戦傷が元で、たいそう悪筆であった。また、心臓発作の合併症で呂律が回りにくい。だから手紙は夫人が代筆した。ただし、頭はしっかりしていて、リハビリのおかげで発音は大分良くなってきた。

 

「もうすぐ九十歳なんだから大人しくしてくれればいいのにねえ」

 

 人騒がせな、と言わんばかりのオルタンスだった。

 

「おかげでね、家宅捜索や差し押さえなんてできなかったみたい。

 伯母が年寄りを殺して、財産を奪う気ですかと猛抗議をしたそうでね。

 そして、ヤン提督の家財が不当に奪われたり、

 秘密捜査で罪をでっちあげられるのも座視はできない、

 旧同盟の裁判所に申し立てするって。

 似た者夫婦なのよ、うちの伯父と伯母はね。

 だから、私がしたのはごみと生物の始末だけよ」

 

「あの、家賃のほうはどうなっていたんでしょう」

 

「そっちは、エル・ファシルに合流してから、アレックスが送金しておいたそうよ。

 ヤンさんの給与天引きでね」

 

 フレデリカは、シャルロットの先見の明に深く感謝した。座っていなければ床にへたり込んでいるところだったろう。

 

「どちらにしろ、あのヤン・ウェンリーの家を、誰かに貸したり売ったりはできないのよ。

 ヤンさんのご家族以外にはね。後から入った人が、不当に非難されることになるわ」

 

 その優しい眼差しに、この白き魔女が手紙の内容を知っていることをフレデリカは確信した。それは、生前贈与の申し出だった。夫は病後で、手紙を書いた夫人も体調が心もとない。彼ら夫婦の息子は、子供をもうける前に戦死し、未亡人は実家に帰ってもらった。彼女は再婚したが、幼い息子を残して夭折(ようせつ)。その再婚相手と子も既に亡くなっている。近親者は姪一人で、彼女に相続の諸々を背負い込ませるのも気の毒だ。今のうちに身軽になっておきたいと。

 

 その手紙にはこう続いていた。故ヤン元帥の境遇は、息子の嫁の子に似ている。私達は、彼に『孫』を見ていた。あなたのことは孫の嫁同然に思っている。もしも、受け取る意志がないならば、彼の『息子』に託していただけないか。私達夫婦にとって、『曾孫』ができるのは望外の喜びである。とにかく、一度あなたたちの家に戻ってきてほしい。家は人手をかけないと痛んでしまうから。

 

 フレデリカは逡巡のうえ、口を開いた

 

「いいのでしょうか……」

 

「あなたはもっと欲張りになってもいいと思うわ。ユリアンくんもね。

 くれるというものなら、感謝して貰っておきなさいな。私もその方が楽になるしね。

 あなたは、次の選挙で多分主席官邸に住む事でしょうけれど、

 それまでの間と、ユリアンくん達には家が必要よ。

 ヤンさんの蔵書の面倒を見てくれるのは、あの子しかいないのではないかしら。

 とにかく、一度行ってごらんなさい。伯母には私から連絡をしておくわね」

 

「はい、本当にありがとうございます……」

 

 その後、雑事を片付けてどうにか時間を取った。9月の下旬。ハイネセンに秋風の季節が訪れていた。空には雲の細波が立ち、夏の頃より涼しげな蒼が穏やかになった陽光を引き立てる。

 

 フレモント街の借家は、二年前と変わらぬ外観で、家主が手を入れてくれていたことがわかった。綺麗に刈り込まれたツゲの生け垣がその証拠だ。ミルベール氏が発奮して、この生け垣を刈りこんだが、それが祟って腰を痛めたという連絡が入っていた。姪をまたも呆れさせたが、ご老人は予定の変更を受け付けなかったのだ。

 

 車椅子の老人と、それを押す夫人。傍らには、ブリーフケースを提げたダークスーツの壮年の男性。フレデリカは、彼らに一礼した。キャゼルヌ母子も一緒である。その様子に、老夫婦は相好を崩した。

 

「今まで大変ご迷惑をおかけしました。

 それなのにこんなご厚情をいただき、心からお礼を申し上げます」

 

「いや、私ら国民はヤン元帥に何も報いていないよ。

 この家だって、今までちゃんと家賃をいただいてきた。

 ヤン夫人、とにかく中を確認してみてください。

 時々は掃除を入れたが、全部はとても無理でしたからな」

 

 ミルベール氏の口調は、ややゆっくりとしていたが、充分に明瞭なものだった。夫人が言い添える。

 

「ええ、お部屋の中をいじるわけにはいきませんからね。

 埃よけのカバーは掛けさせてもらったけれど」

 

「いえ、お心づかいに感謝しますわ」

 

「じゃあ、お入りになってください。私達はオルタンスと話をしておりますから」

 

 ミルベール夫人から鍵を渡されて、フレデリカは玄関の扉を開いた。かつての新居の匂いに包まれる。手の中の鍵を握りしめて、彼女は屋内に進んだ。熱くなり始めた目頭に力をこめながら。

 

 玄関からすぐの部屋はまだ空き部屋。将来的には子供部屋にしようと思っていた。次は小さな客間。ここもソファーとテーブルが置いてあるぐらい。新婚家庭の来訪者は、ヤンとフレデリカの先輩夫婦一家ぐらいだったから。

 

 家の中央にはダイニング、奥にキッチン。危なっかしい手つきの彼女の調理を、黒髪の夫がはらはらしながら見守っていた。さすがと言おうかキッチンは綺麗に片付いていた。食器棚の中や調理器具まで整然と整頓されている。無論、冷蔵庫や保存庫も空になっていて、彼女は大いに安心した。浴室、トイレ、水周りは完璧である。今すぐにでも使用できそうなほどだ。

 

 二階に上がると夫妻の寝室と夫の書斎。空き部屋は二つ、一つは客用寝室、もう片方は用途未定。書斎のドアを開けるのには、少なからぬ勇気が要った。またしても匂いに包まれる。古い本と古くなり始めた本の匂い。薄く香るのは紅茶の残り香か。安楽椅子の傍らのサイドテーブルに、乱雑に積まれた本。書きかけのメモが栞代わりに挟み込まれている。

 

 なのに、彼だけがいない。今にも椅子の上から、眠たげな優しい声が聞こえてきそうなのに。

穏やかな抑揚で名を呼んで、触れてくる温かく乾いて感触のよい手。髪を梳き、頬を撫で、壊れ物のようにそっと抱きしめられた。銃を握らなかったその指は、軍人にしては細く、中指にペンだこがあった。

 

 それが何百万、何千万の血で染まっていることを、彼は忘れることはなかった。だが、フレデリカは構わなかった。自分にとっては、誰よりも愛しい優しい手。血の海に座り込んで、一人ぼっちで息を引き取るのが、似合う人ではなかった。

 

「ほんとうに、化けて出てきてくれてもいいのよ、あなた」

 

 あとはもう、言葉にはならなかった。椅子の前の床に座り込み、金褐色の髪を帳に、ヘイゼルを瞼と白い手で覆って、実に一年以上ぶりに声を上げた。言葉にならない嗚咽を。

 

 

 家の外回りや庭木の様子を見て回りながら、老婦人は姪に囁いた。

 

「オルタンス、やっぱり早すぎたんじゃなかったかしらねぇ」

 

「でもね、伯母さま、

 フレデリカさんはこれからヤンさんの名を背負って立たなくてはいけないのよ。

 もう泣く事はできなくなるわ。今のうちに思いっきり悲しむ時間が必要だと思わない?」

 

 ミルベール夫人は二階の窓を見上げて、気遣わしげな表情になった。

 

「ええ、でもこれで立ち上がれなくなってしまわないかしら」

 

「私はそうは思いませんよ。ヤンさんが選んだひとだもの。

 あの人は優しいけれど自分に厳しい人だった。

 フレデリカさんは14歳のころからそれを見てきたのよ。

 簡単には折れたりしないわよ。だって、似た者夫婦だったんですものね」

 

「そう、でもそれはそれで問題ねぇ。まだお若いのに……」

 

 ヤンの母のように、息子の元妻のように、新たに愛する人を見つける人生もあっていい。

 

「それはまだしばらくは無理でしょうけどね」

 

 あるいは彼女の生涯を通じて。政治的にもそうだが、何より感情的に至難の業だ。初恋の種は芽吹いて根付き、フレデリカ・G・ヤンの精神の根幹を形づくり、交友の枝葉を茂らせ、思い出という果実を抱く。

 

 それを引っこ抜くのは、皇帝陛下でも無理だった。さて、初恋にして成就した愛の相手に勝ちうる人間がいるだろうか。

 

 宇宙の誰にも負けることのなかった、黒髪の魔術師に。

 

「確かに、文字通りの老婆心だったわね。ただねぇ、ここを貰ってくれるかしら。

 ほんと誰にも貸せないし売れないし、維持費も固定資産税も、そのうち相続税もかかるのよ」

 

 そこに、反対周りを回ってきたミルベール氏が合流した。

 

「おいおい、私はそんなにすぐには死なんぞ。

 だがなぁ、ハイネセンが新領土になってから、ここらの地価は下落が激しいんだよ。

 下手に転売すると大損なんだ。

 寄付というかたちにして、税金の類を免除してもらったほうが我々みんなが幸せになるんだ。

 むろん、最終的な相続人はオルタンスだが、そのころは建物の価値もさらに下がっているぞ。

 あちらの司法書士さんの試算によれば、固定資産税の分だけ損をすることになる。

 老人の蓄えを無駄にせんようにしてもらいたいんもんだ」

 

 ダークスーツの男性は、困った顔をした。名誉な曰くつきの物件なのである。

 

「伯父さま、早手回しがすぎますよ」

 

「わたしもね、そう言ったのに聞きやしないんだから」

 

 女性二人の呆れ顔にも、ミルベール氏は頑固に言った。

 

「善は急げだ。選挙で立候補する前に済ませたほうがいい。

 ヤン夫人が受け取らなんだら、軍司令官だったお若いのに連絡してもらう」

 

 夫人のほうは肩を竦めた。

 

「ほんとに年取ってせっかちになっちゃってね。まあ、明日があると思えないのが年寄りだから。

 だからオルタンス、あなたが頼りよ。なんとか言い含めて、ヤンさんを頷かせてちょうだい」

 

「伯母さまもりっぱにせっかちよ。まあ、ちょっとは時間を下さいな」

 

 オルタンスも、伯母に倣って二階の窓を見上げた。フレデリカが忘れていたというわけではないだろう。触れることもできない痛みだから、考えないようにしていたというのが恐らく正しい。彼女の立場に自分が置かれたらと考えると、本当に頭が下がる。

 

 この家の想い出は、愛おしくも辛いものだろう。だが、他人がここに住むのは更にいたたまれないだろう。

 

 きっと、彼女は最終的に頷く。住所をここに置いて、選挙に出馬をするといい。アーレ・ハイネセンの精神を、ヤン・ウェンリーの精神を継いで、星の海から地上に回帰する。ここは天上ではなく、楽園でもない。でもここはあなたの家なのだから。


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