魔術師のそろばん
宇宙暦801年12月1日、バーラト星系における共和自治政府樹立のための、総選挙が公示される。旧イゼルローン共和政府および旧同盟最高評議会の議員らが候補者として立った。総選挙投票日は12月14日。投票率は実に93.7パーセントを数え、空前のものとなった。
即日開票の結果、バーラト共和自治政府初代主席となったのは、フレデリカ・グリーンヒル・ヤン。なお、この選挙は旧同盟憲章を下敷きとした特例法によるものであり、ユリアン・ミンツは被選挙権を持つ年齢に達していないため、立候補はしていない。
旧イゼルローン自治政府の主だった者たちは、政治家となるよりも官僚の道を選んだ。事務総長にアレックス・キャゼルヌ。フェザーン駐留事務所長にムライ。
野党として立候補したのはダスティ・アッテンボロー。圧倒的与党による一党独裁を恐れてのものだ。これには、シドニー・シトレ退役元帥も賛同。旧同盟の軍人として、違う責任の取り方をしたいとの理由による。故ジェシカ・エドワーズが属していた反戦派や和平派であったホワン・ルイらも同様の理由で立候補、当選した。
宇宙暦802年1月1日 バーラト星系共和自治政府成立。後に1月の新政府とも呼ばれ、前身のイゼルローン共和政府の異称と紛らわしいため、後世の多くの学生を悩ませることになった。そのイゼルローン共和政府と先帝ラインハルトが交わした条約には次のようなものがあった。
両国を主権ある独立国家と認め、国際法を定めること。
両国間の紛争、通商、その他諸々のことは、国際法の定めに従い裁定を行う。
旅券法を定めて、旅券と査証の取得により、両国間の移動を自由とする。
将来的には、両国の憲法に「外国への移住、国籍離脱、国籍取得の自由」を加える。
これによって、旧同盟の中で帝国に屈することを良しとしない者はハイネセンに移住した。将来的にはハイネセン国民となるだろう。筋金入りの共和主義者たちの分離に成功したとも言えるわけで、こちらの効果のほうがより大きいだろう。これには新帝国も舌を巻いた。これらの法律は、銀河連邦成立以前のものだ。よくも、こんな古い法律を引っ張り出してきたものだと彼らは驚嘆した。
この構想は黒髪の魔術師のベレーの下から出たものであるらしい。彼が残していたエル・ファシル共和政府の講和構想がその素案だった。ハイネセン脱出後、その死までの1年程度で考え付くものとは思えない。元々は、イゼルローン攻略後の講和の方策として考えだされたものらしかった。
シドニー・シトレは、亡き教え子に何度目かの謝罪をした。
さて、新銀河帝国は宇宙を統一した。領土、領民は約1.5倍以上に膨らんでいる。一方、帝国軍や帝国政府の人員はそのままだ。いや、新領土戦役と二度の回廊の戦いで、軍は最盛期の9割を切っている。そのうえ、門閥貴族制を解体して、帝国本土の貴族領の多くが皇帝直轄領となった。そちらにも行政官を配置しなくてはならない。同盟政府によって地方自治が整備されていた新領土よりも、よほどに問題だった。貴族によって民政整備の格差がありすぎた。これの解消に手一杯である。
また、旧同盟領である新領土。同盟軍が解体され、新領土駐留軍がそれに変わったが2.5個艦隊にすぎない。主将はナイトハルト・ミュラー元帥、副将はフォルカー・アクセル・フォン・ビューロー大将である。ミュラー艦隊が、ラインハルトの最後の親征後に置かれたハイネセン監視軍に合流する。敵対勢力となりうる相手がいないのはいいのだが、いささか以上に練度に不安を覚える主将と副将だった。
彼らはどこに駐留軍を置くか検討を開始した。第一の候補は、新領土第二の惑星、シロンである。ここは新領土屈指の農産地であった。それに並び立つのがアルーシャ。長らく同盟の二位を巡って、互いをライバル視するお国柄でもある。
いつもは、俺が自分がと同盟のナンバー2を奪い合っていた二つの惑星は、この時ばかりは、あなたがそちらがと駐留軍を押し付け合った。
そちらの方が人口も、農業生産も多いだろう。むろん、ちょっとだけだがとアルーシャが。
とんでもない、そちらの方がハイネセンには少しだけ近いし、航路の状況も安定しているとシロンが。
最初はフェザーンから近いシロンに、帝国首脳部は白羽の矢を立てた。選ばれた方は舌打ちし、選ばれなかった方は小躍りした。二惑星の歴史上、おそらく初めて敗者が喜んだ例であった。
星々を巡る宇宙の海。五十年の『
ゆえに、新航路の探索というものに熱心ではない。現在の航路は最大公約数的に安全なのだから。人間の宇宙進出から、八百年以上が経過している旧帝国領とは違う。
新領土駐留艦隊司令官の辞令を受けたミュラーは、すぐにシロンの行政官長に連絡をとった。新領土の統治は、旧同盟の星系自治体組織の上に、帝国の行政官を配置する方法で行われている。帝国本土で手一杯、新領土に必要な人員を配置するのは不可能だった。 たとえデータがあっても、地元民の知識には絶対に敵わない。おまけに新領土のほうが人的資源の質が高い。ミュラーが着任の旨を伝える際には、帝国の行政官のほかに、シロン自治体の助役が同席していた。
褐色の肌と、黒髪と茶色の目をした、とりたたて目立たない小太りの中年男性で、名前はミゲル・フェルナンデス。ミュラーの着任予定時期を聞いた彼は、眉間に皺を寄せて、控えめにこう言った。
「あの、その時期はおやめになったほうがいいと思います」
「ヘル・フェルナンデス、どういう理由か伺おう」
ミュラーに代わって、副官のドレウェンツ中佐が問い質す。
「ええと、帝国はフェザーンの航路データをお持ちでしたよね。
ならばご存知でしょうが、シロン名物の流星群の時期のど真ん中です」
ミュラーは微かに砂色の視線を動かし、副官に目配せをした。同盟領の航路を消去される情報テロがあったことを、口にすべきではないと。前軍務尚書の機転のおかげで、大事に至らなかったと思えたが、小事が発生しそうになっている。
「無論承知しているが、それほどの規模になるのだろうか」
「この数年で最大の規模になりそうです。
十年前の接近時の画像データを後ほどお送りしますが、非常に見事なものです。
ぜひ、実物をご覧をいただきたいが、宇宙船の離着陸はお勧めできません」
惑星シロンは、航路状況が不安定になる要因があった。太陽系と同じく、小惑星帯がある星系なのだが、シロンとその間には巨大惑星がある。名前はグアハティ。太陽系で言えば、土星程度の大きさの惑星で、当然人は住んでいない。年に一回、二週間ほどだが、このグアハティをシロンが内側から追い抜くような軌道をとる期間があった。このとき流星の嵐が来襲するのである。これを観測、警戒に務めていたのがシロン星系警備隊だった。
旧同盟軍には宇宙艦隊以外に、二千万人規模の各星系警備部隊があり、こちらもバーラトの和約で解体されている。そのノウハウをきちんと引き継ぐもののいないまま。フェルナンデスはそう説明した。
「シロン星系の警備隊は、この時期、小惑星帯の外側の宇宙基地に詰めておったのです」
「では、そちらに入港すればよいだろう」
「いえいえ、それは不可能です。ここの警備隊は、他の星系よりも倍の船がありました。
それでも二千隻、二十万人規模です。
駐留軍の規模を伺いましたが、その十倍以上でしょう。とても入りきれません」
「失礼だが、卿らシロンの住人は毎年乗り切っているのだろう」
ドレウェンツの反論に、フェルナンデスは丸っこい手を振った。
「いやいや、我々は年中行事と割り切っているだけですよ。
シロンの象徴で、頭の痛い問題ですがね。
これに合わせて農作物の出荷時期を調整し、各消費地に出荷をしております。
輸入もこの流星による中断を見越して行っております。
困り者ですが、観光資源にもなっているのですよ。
これを見るために、わざわざやってくる観光客も多いのです」
シロンは、同盟屈指の商業惑星でもある。厄介者をちゃかりと飯の種にもしているのだった。そして、その時期は宇宙船の出港も入港も停止して、危険回避をしている。豊富な食糧生産量を誇る、『同盟の金庫と台所』だからできる手法であった。
「収穫時期を調整していると申し上げましたでしょう。
収穫祭をあちこちで開催するんですよ。
今が一番、食い物の旨い時期ですから、観光客はそちらもお目当てでしてね。
二週間もそんな調子ですので、必然的に金持ちが来てくれる。
こっちも売り込みのチャンスですから、自慢の品を蔵出しするんですよ。
あと一週間は早く到着できるのでしたら、是非にもお越しください」
揉み手せんばかりの愛想のよさである。ミュラーとビューローは、そっと視線を交わした。シロンを本拠地とするなら、毎年定期的に訪れる問題だということだ。この時期を狙って武力蜂起をされる可能性が出てくる。それを押し隠して、ミュラーは答えた。
「それはいいことを教えていただいた。
数年で最大規模ならば、よいデータが取れることだろう。
しかし、巨大な隕石が衝突する危険はないのだろうか」
「ほとんどは、グアハティが引き受けてくれます。
こっちに来るのは、そのおこぼれの塵でしてね。
その観測も警備隊の仕事でした。今は、いくつかの天文台がやってくれております。
まあ、宇宙で爆破するような大物はめったにありません。
この二百年弱で両手の指に収まります」
呑気な様子だが、平均して二十年に一度ということだ。これは、天文学的には異常な高率である。無言になったミュラーと幕僚に、フェルナンデスは気の毒そうな顔をした。
「ですから、アルーシャにした方がいいと申し上げたんですよ。
今からでも再検討をしていただいたほうがよろしいかと存じます。
この期間は、
大軍を置かれるには向かないのですよ。
旧同盟軍もうちを直接の補給基地とはしませんでした」
かつての敵地に赴くにあたっての意気込みを、いきなり出鼻で挫かれるミュラーである。
「生きた貴重な情報だ。卿に感謝したい」
「詳しいことは、お送りする画像をご覧になってください。
今年は、これを上回る規模の流星雨が予想されておりますので」
ミュラーとシロンの現地行政官の会話は、資料を元に検討してほしいということで、ひとまず打ち切られた。そして、送られてきた画像は壮観の一語に尽きた。
まさに流星の豪雨。青白い火球が頻繁に発生し、シロンの夜を明るく照らす。昼の画像にも、はっきりと見えるような流星が写っている。これでは、シャトルや宇宙船を出すことはできない。
「これは……本当に災害は起こっていないのか?」
「資料上ではありません。この時期、シロン宙港の出入港記録は毎年ゼロです。
この惑星に入植した当時から、このことは織り込み済みだったのでしょう。
過去の隕石衝突がもたらした、希少金属や宝石の産出量も新領土四位です。
いっそ、こちらの自治権を主張しそうなほど、裕福な惑星ですが」
ハイネセンからの距離は約三十光年。跳躍航行ならば二回、長く見ても三日の距離だ。もう片方の候補だったアルーシャは、約二十光年離れている。こちらも所要時間はそう変わらないだろう。アルーシャは、農業のほか林業も盛んである。航路もシロンより安定している。ハイネセン方向に関しては。
惜しいことに、フェザーン方向からの航路がよくない。民間レベルの船ならあまり問題はないのだが、一個艦隊が航行するとなると無補給では難しい経路だ。だが、その中継点になれるような惑星がないのだ。
一方、シロンからアルーシャへは直行できないという。
「それでは、どうやって行き来をしているというのだ」
「ハイネセンを経由しております。
二つの星系の最短距離には老齢期の球状星団があります。
旧同盟領屈指の難所で、変光星に白色矮星、中性子星の巣です」
ミュラー配下のオルラウ参謀長は、ハイネセンを中心に、四時を指した時計の長針と短針に例えた。
「針から針へ行くには、難所を避けて縁を大回りするより、
針の中心を経由した方が近いということでしょう。
同じような産品を作っているだけあって、直接売買するようなものがないようです。
両方を行き来するのは、主に農場経営会社の社員ですね。
その多くはハイネセンに本社があります」
オルラウの説明は、非常にわかりやすかった。自由惑星同盟は、ハイネセンを中心に、放射状に発展していった国家なのだ。ミュラーは改めて実感させられた。イゼルローンの面々が勝ち取ったのは、交通の要衝でもあった。道理で、旅券法の制定を強く要望するはずである。交通網の中心を押さえている利益は、莫大なものとなろう。してやったりとほくそ笑む、薄茶色の瞳が脳裏に浮かんだ。
ミュラーは砂色の頭を軽く振って、その幻影を追い払った。自治権を認めた以上、ハイネセンに駐留軍本体を置くわけにはいかない。
一方で、駐留軍の誘致を行った惑星もあるのだから、旧同盟というのは一筋縄ではいかない。軍需産業の中心地で、旧同盟軍の艦艇のほとんどを製造していたメルカルトである。
航行の便は抜群であった。なにしろ、旧同盟中から資材を集積し、製造した艦艇はそれぞれの配属先に自力航行していったのだから。その一部は民間船の製造に転用されているが、作られる量が違いすぎる。
もっとも、この産業に携わった面々は、軍属扱いの企業出向者であった。宇宙暦796年には、当時の人事資源委員長ホアン・ルイが、少なくとも技術者二百万人を民間に戻せと主張していた。充分に民需を満たすには、その倍が必要だとも。メルカルトの技術者たちも、同盟軍の解体後、相当数が古巣に戻り経済やインフラは改善に向かった。
それは新領土レベルでは歓迎すべきだが、メルカルトは閑古鳥の巣となってしまった。企業からの法人税や、転出した従業員らの所得税、住民税がごっそりと消えてしまい、だからといって、住民サービスにかかる金はそう減りもしないのである。金を落とすのなら、帝国軍の駐留艦隊でも構わない。見事なまでの割り切りである。
「多少、規格を変更する必要はあるでしょうが、宙港はすぐにでも使用できます。
わがメルカルトの艦艇の修理や点検の、施設設備も技術も新領土一です。
食糧はアルーシャやシロンからの輸入となりますが、
どちらかに駐留されたら、他方の産品は味わえません。
故ヤン元帥が愛飲なさった紅茶もそうなります。ぜひメルカルトをお選びください」
この申し入れに、ミュラーも軍務尚書のミッターマイヤーも苦笑した。
「それにしても同盟の行政官は、揃いも揃って強かですね」
「なにしろ、あのキャゼルヌ事務総長と日常的に折衝している連中だぞ」
ミッターマイヤーが、自らの前任者を呼んだとき以上に、畏怖と苦手の念が同居している口調だった。 砂色の目が、頭半分下にある灰色の目を縋るように見つめた。
「では、この申し入れにもキャゼルヌ事務総長の手が回っているということですか」
「そう思わん理由は何一つとしてないな。ああ、そんな顔をするな。
たしかに彼の手があるにしろ、帝国軍が駐留する場所としては最適だ。
それに、あの星は旧同盟軍のほとんどの戦艦の生まれ故郷だ。
そこに帝国軍を受け入れるということは、武装をしないという意思表示でもある」
ミュラーは、感嘆しつつも手強さに溜息が出た。
「なるほど、二重三重の含みを持たせているわけですね」
「ああ、そのとおりだ。武器を捨て、作る場所もこちらに晒した。
だが、もはや宇宙はほぼ統一され、旧同盟ではなく新領土として考えなくてはな。
メルカルトの経済を支え、ひいては新領土全体を安定させるのも、我らに課された義務だろう。
まあ、これも」
ミッターマイヤーは蜂蜜色の髪をかき回した。
「キャゼルヌ事務総長の受け売りだが」
明朗なミッターマイヤーには珍しい、渋みのある表情だった。イゼルローン要塞の退去に派遣されたワーレン元帥を通して、帝国軍首脳部もその洗礼を受けたのだった。焼いて叩かれ、冷やして、また熱せられるといった具合に。彼のメッセージは明瞭だった。
『ラインハルト・フォン・ローエングラムは稀世の天才だった。
その天才だからできたことを、他人に求めるのは間違いだ』
ヤンの死後、彼が象徴した民主共和制の旗印をその未亡人に、軍事力としての名声を被保護者に分割してしまったように、適材適所で人を使い分けろと。その状況を安定させるには、民衆の生活を保障して、人心の安定を図らなければならない。礼節を知るのは、衣食住が足りてからの話だ。
「世の中、上には上がいるものだな。財務尚書や民生尚書は、開明派の英才だ。
だが、それは帝国本土にありてこそで、新領土には一惑星レベルでも人材がいる。
新領土には、利を与えて自治に近い体制を許していくほかあるまい。
この帝都から遠い、帝国本土にこそ問題が山積している」
ミュラーは頷いた。
「ええ、わかっております。とてもかつての新領土軍ほどの動員はできません。
そして、私にはロイエンタール元帥ほどの行政手腕はない。
エルスマイヤー新領土行政総長を上位に仰ぎ、我々駐留軍を治安維持の手足となす、
その方が私としても望ましいと思っております」
「卿には苦労をかけてすまんな。
だが、キャゼルヌ事務総長が曰く、できない者にはやらせないのも、管理職の義務だそうだ。
わかってくれ」
灰色と砂色が見つめあった。
「あの、それは……」
「能力は高いのだが、性格面が、な……」
灰色がそっと目を逸らし、壁にかかった
「いえ、高等弁務官の扇動を考えれば、ヤン元帥の友人にとって当然の言葉でしょう。
小官も力を尽くす所存です」
ミュラーの敬礼に、ミッターマイヤーも答礼し、惑星メルカルトを駐留地とすべく行動を開始した。メルカルトの対応は、打てば響くを具現化したかのようなものだった。彼らとて、飯の種を逃すものかと必死である。宙港や造船工廠等の規格変更や、駐留軍の人員の宿舎などの対応、さらには食糧の供給案にいたるまで、きっちりと数字を詰められた回答が返ってくる。その見事なことたるや、感心する一方で、黒幕に潜むバーラト星系政府事務総長を確信せざるを得ない。
「行く前から気が重くなります」
温厚なミュラーも、つい僚友にこぼした。壮行の酒席に誘ってくれた、オレンジ色の髪の猛将、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトがその相手だった。
「気弱なことを言うな。卿は帝国が誇る『鉄壁』のミュラーだろう」
「ですが、かの魔術師が戦うまえに白旗を掲げた人を相手にするんですよ」
「なに、あのオーベルシュタインに比べれば、ましというものではないか」
「そうでしょうか。そうだといいんですが……」
それは極めて疑わしい。あの剛毅なワーレンの報告書の行間から、哀愁が立ち上っていた。軍務省の指示で同行した後方担当の少将と中将の十名からの報告は、はっきりと泣き言であった。黒髪の魔術師の後方参謀は、氷の魔女を従えた、腹の真っ黒い悪魔だったと。要約すればそういう内容である。
「正直言って、俺では務まらん役目だからな。
単に艦隊を指揮するならともかく、同盟だったところの治安を守るには、
俺には向いていないだろう。なんだ、そんな顔をして」
「いえ、卿がそうお考えとは少々意外でしたので」
「俺だって、あの概要書を見れば少しは考えもするぞ。
帝都の守護として示威をするぐらいだ。俺は書類仕事が苦手だからな」
ビッテンフェルトはそう言うと、頭の後ろで手を組んで、椅子に
「あのペテン師の言葉を借りるなら、平和の無為に勝てるかどうかが問題なのだろう。
俺もできることを考えんとな」
走り続けてきた者が、歩みを止めて周囲を見る。そんな時期なのだろう。猪突だけでは元帥には昇れないのだ。ましてや、皇帝ラインハルトの部下に無能者はいない。
「ええ、私もよく考えようと思いますよ。
今まで、敵国としてしか新領土を見ていなかった。
これからは、同じ母国として知っていかねばならないのでしょう」
「そうだぞ。難しいだろうがな」
そう言うと、ビッテンフェルトは送別の酒杯を掲げた。
「ミュラー元帥の航海の無事を祈る。再会の日まで壮健なれ。乾杯!」
「乾杯!」
ミュラーも答礼した。彼が新領土駐留軍を率いてメルカルトに出発したのは、その一ヶ月後のことだった。
『キャゼルヌ学校』の一回生として、人材育成のプロたるキャゼルヌに鍛えられることになる。人育ての名人は、温厚で敵の美徳を認めるミュラーに、管理職としての素質を見ていたのだった。
若い分だけ伸びしろがあり、今は鉄壁だが叩いて鍛え上げれば、橋にも盾にも鍋にもなろう。なにより、ヤンの猛攻を四回も船を乗り換えて凌ぐくらいだ。ちょっとやそっとでは壊れないだろう。キャゼルヌの目論見は的中した。
その日々を後年回想すると、砂漠の色の目が懐旧の念以外のもので湿り気を帯びる、ミュラーの新領土生活の始まりだった。