これは、監視者から軍の上層部に伝わることとなった。そして、イゼルローン監視部隊の体たらくもワーレンから上申される。イゼルローン政府軍との相違点を知ることになった新軍務尚書は、灰色の眼に苦渋の色を浮かべた。
ラインハルトの圧倒的な天才とカリスマによって、帝国軍はこの五年で凄まじいほどに巨大化し、国内における権力を増大させていた。それを僚友に嫌われながら黙々と支えた、オーベルシュタイン。ミッターマイヤーは彼を謀臣として捉えていたが、巨大な組織の管理者としての比重に、彼の価値の天秤は大きく傾いていた。
亡き金銀妖瞳の親友に、地位に応じて器量を広げると評されたミッターマイヤーだったが、軍務尚書という重責を引き継ぐのは、困難と表現するのも過小なものだった。フェルナー少将という有能な次官の存在、仕事に結果を要求され、時に胃薬の世話になりながらも、職務を果たしてきた職員らなくしては、彼の就任を待たずして帝国軍は瓦解していただろう。
「あのオーベルシュタインが、陛下にも否を唱えた理由を今さら知るとはな。
それを悟らぬ俺達に、さぞや腹が立ったことだろうよ」
フェルナーが見事な概要を作成したものの、到底数十ページではすまない。だが、それでも一目でわかる軍事費による国家予算の圧迫。アムリッツァの大敗で二千万人が死亡した旧同盟よりも、深刻な数値が並んでいた。同盟の場合は、国民の税金や国債から軍事費を支出していた。あの大敗で、遺族への補償に莫大な費用が発生し、艦隊の数は激減した。
しかし、死者には艦艇も武器も糧食も不要だ。ランテマリオの会戦以降、動けるのはヤン艦隊のみとなって、帝国軍の将帥らは魔術師に誘い出され、操られるがままに踊らされた。あの局面では、同盟軍はヤン艦隊の面倒だけを見ればよかったのだ。
一方の帝国軍はそういうわけにはいかない。第一次
いままでそれを支えてきたのは、解体された門閥貴族から没収した資産だった。しかし、これは親戚の遺産を相続したようなものだ。いかに巨額であろうとも、景気よく大盤振る舞いすればいずれ底を尽く。そうなる前に、定収である税制を健全化させなければならなかったが、門閥貴族資本の企業や土地は国有化された。国民を食わせ、軍需物資を賄うだけならそれでもいい。
しかし、これでは金を生み出さない。フェザーンが帝国から旧同盟に売っていた物は、貴族向けの贅沢品だった。高価で希少なワイン、手仕事で作られた精緻なレースに、金襴刺繍を施した布地。伝統工芸による貴金属の宝飾品や、わずか一滴に数千の生花を必要とする香水。主な顧客がいなくなり、あるいは自身が略奪の対象となって、これらの生産者は激減した。
こんな状況下で、戦いを
『本来、悲惨な戦争のはずが、彼の前では華麗に見える。危険だと思うよ』
生前のヤンはそう評したと聞いた。戦争を嫌った敵将は、もっとも皇帝ラインハルトを把握していた。
『彼は、愛憎に己を焼いて悔いない人なのだろう』とも、弟子に語っていたという。
ヒルダが覚えた戦慄を、ミッターマイヤーらも味わうことになった。自分は何のために戦ってきたのだろうか。門閥貴族を倒すためか。叛徒を平らげ宇宙を統一するためか。いや、それを考え、行動に移した皇帝ラインハルトのためだ。思想のために戦ったのではない、思想を体現する人のために戦った。イゼルローンにいるダスティ・アッテンボローが激白したように。
だが、その思想を体現する人の在り方は大きく異なる。絶対の権威を求め、それを手中に収めた金髪の美青年と、個人の思想の自由と権利を守ろうとした黒髪の青年。
後者は前者に語った。だれか一人のせいにしてしまえるという点で、最良の専制政治も、最悪の民主政治に劣る。この混乱もラインハルトの死によるものだ。
死ぬことさえ、死んだ後さえ、それが君主の責任となる専制君主制。ラインハルトという恒星の輝きで気がつかなかった、帝国首脳部の責こそ重い。彼の政戦両面の才能があまりに優れていたから、皆がそれに縋って自ら考えてはいなかった。ただ、皇帝ラインハルトの指示のままに突き進んだ。イゼルローンの人々が、ヤンの死後に直面したことでもあった。
だが、彼らはまもなく立ち上がった。『ヤン・ウェンリーならどうしただろう、どう考えただろう』という問いを携えて。
言論の自由を奉じた国の住人らしく、黒髪の青年は誰かと語らうことを好んだ。自分の考えを語り、他者の考えに耳を傾けた。そして、自らも考え、相手にも考えさせた。彼の妻に被保護者、先輩後輩といった近しい部下から、末端の伍長に過ぎない少女にまで。
皇帝ではない、ただのラインハルトからの言葉を聞けた者はいただろうか。いるとしたなら、ジークフリード・キルヒアイスだけだっただろう。それでも、皇太后ヒルダは立ち上がった。彼女なりの考えを携えて。
『一人で担えない重荷ならば、担える人数で分かつ』
これが彼女の基本方針であった。皇帝ラインハルトの政策には逆行するであろう。だが、遺された者たちにできる数少ない方法だった。
『ラインハルトならどうしただろう、オーベルシュタインならどうするだろう』
この問いの答えを知る者はなく、ならば出来ることははただ一つだ。
『自分はどうすればいいのだろう』
自らがよりよい方法を考える。ラインハルトが統一した宇宙が、少しでも長く平和であるように、死者のためよりも生者のために、考えて進むしかないだろう。ミッターマイヤーは、自分がラインハルトに遠く及ばぬことを知っている。
自分に一番必要とされることを、できるかぎりやる。そして自分以外に可能なことは、得意な者に任せる。個人の才覚に依存すること大であった、新帝国の目立たぬが重要な改革であった。図らずも、それはヤン・ウェンリーの手法に相似していた。もっとも、帝国の首脳らの勤勉なこと、ヤンを百倍してもまだ追いつかぬであろうが。
亡き父への恨みではなく、異国の貴婦人を取り巻く思惑が少女を怒らせたように、揺りかごの皇子と、喪服の美女ふたりに全てを負わせてよいものではない。
亡き英雄らだけではなく、遥か多くの平凡な人々に対する責任でもある。その中には、ミッターマイヤーの家族も含まれる。ミッターマイヤーの遅い帰りを待っていてくれる妻のエヴァンゼリン。ロイエンタールの許からやってきた一歳のフェリックスと、あの子のコウノトリとなった十五歳のハインリッヒ・ランベルツ。遠い帝都で、心配している老いてきた両親。そんな家族は帝国軍人の数だけあり、それさえも宇宙の390億人の一つまみでしかない。
軍というのは、国のほんの一部にすぎない。それが中心となっている新銀河帝国は
ようやく訪れた平和に、魔術師のベレーの中の種明かしをするという彼の腹心の部下。アッテンボロー中将はヤンの二年後輩で、士官学校時代から15年間にわたって交友があったという。そうするように進言したキャゼルヌ中将も、ヤンとの交友は長く深い。
「平和が訪れたからには、もう艦隊戦もなくなることでしょう。
これは、キャゼルヌ中将の進言になるのですが、
使い途のないものをしまいこんでおくのは無駄の元だし、
それが未練の固まりなら、相手に疑心暗鬼を呼ぶだけだとか」
ワーレンにとっても二歳下のアッテンボローは、戦術データを移管するという申し出をこんな言葉で切り出した。助言者の家庭生活が、透けて見える気がしなくもない。
「でしたら、いさぎよく必要とする相手に進呈したほうがよいのでしょう。
ヤン・ウェンリーの戦術案を、帝国軍ならば無下にはなさらないはずだ。
敗戦の検証は重要なことですから」
出だしはしおらしさを装っていたが、結びの言葉は応じた者らをざっくりと切り裂いた。色めき立つ部下を、ワーレンは後ろ手に制止した。それを察したかどうかはわからないが、そばかすの上にある青灰色が鋭く輝いた。
「小官としても、軍事機密をお渡しするのは本意ではありません。
しかし、あの艦隊戦術は、ヤン司令官自身の軍才と、
艦隊運用の名人であったフィッシャー提督の合作です。
そして、そのためのプログラムを構築し、一兵卒にまで理解が及ぶように工夫をしたのは、
ムライ、パトリチェフの正副参謀長でした。メルカッツ提督という名将と、
及ばずながら小官も尽力しました。だが、なによりも国や民主主義を守ろうと、
あの絶望的な戦力差の中で、士気を保ち続けた兵士たちがなしえた奇蹟です」
帝国の疑心を晴らすためのものであって、歓心を買うためのものではないと、その表情が告げていた。
「銀河帝国によって平和が保たれるならば、再現する必要はありません。
そんな状況が訪れないよう、平和への努力こそが求められるのです。
小官の考えは誤っているのでしょうか」
「いいや、卿の言葉のとおりだ、アッテンボロー提督」
「では、イゼルローン軍の現存艦艇による人員の輸送についてはいかがです。
正直に申し上げるなら、我々はこれから金策に奔走しなくてはならないのです。
ハイネセンに戻るのに、もっとも安上がりな方法をとらせていただきたい。
使用した艦艇は、爆沈するぐらいなら売りたいというのが、われらが財政担当の意見です」
身も蓋もない告白に、ワーレンとその配下の表情が固まった。
「なにしろ、我々には莫大な借金があります。
それをバーラト星系に新設する自治政府に、そのまま受け継がせるというわけにはいかない。
自治権の代償に支払えでは、とても国民の理解は得られないからですよ。
全額は不可能にしても、利子と元本の一部を返済しておかなくては説得力がありません。
巨額の借金は悪いばかりではありませんがね。
借り手は金以上に、貸し手の保証を得ているので」
咄嗟に返答ができないでいるワーレンを、そばかすの頬をした童顔の青年は面白そうに見詰めた。
「まあ、こんなことを突然申し上げても、そちらとしても返答にお困まりでしょう。
この場で結論が出せるとは、小官も思っておりません。
貴艦隊の移動中にでも、話し合いを持たせていただければ結構です。
実は小官にもあまり時間がないのです。
総選挙公示一か月前には住民登録を完了しないと、被選挙権が得られません。
つまり、小官がイゼルローンに滞在できるのはあと一か月なのですよ」
ワーレン艦隊がすぐにフェザーンに出立したとしても、到着には二週間を要する。
『うだうだやっていないでさっさと来い』
それが、彼の言葉の本質だった。これには反論ができぬ。六月一日の停戦以来、二ヶ月もあったのに、監視部隊は文字どおり監視しかやっていなかったからだ。ラインハルトの死後、すぐさまイゼルローンに戻ったアッテンボローは、まったく状況に変わりがないことに仰天した。監視部隊を締めあげていたところに、新人事が発表されて、すぐさま連絡をとったのだった。
ワーレンは早急に麾下艦隊の準備を済ませ、イゼルローンからの客人を同乗させて、フェザーン宙港から出航した。新帝国暦三年八月十五日のことである。
喪服をまとった皇帝の妻と姉は、乗客らとの別れを惜しんだ。ミッターマイヤーも、薄い紅茶色の髪の少女に感謝の意を伝えたかったが、叶わぬことだ。監視装置の存在を、軍のトップが暴露するわけにもいかない。
そして、カーテローゼ・フォン・クロイツェルの名は、歴史にひととき埋没する。