「そういえば最近、学校ではどんな感じなんだ?」
「…え? あぁ、うん。まぁ、フツーかな?」
カリカリとペンシルの芯が走っていく音が部屋に響く。
今、ここにいる私達が殆ど喋らないせいもあって、その音はとても大きく感じられた。
沈黙に耐えられなくなったなら、と。
先程持ってきたジュースで喉を潤すのはこれで何度目になるだろう?
ストローから口の中へと伝わる冷たい感覚は徐々に失われていく。
かれこれ、リトの部屋で勉強風景を眺め出してから既に30分程の時間が過ぎてしまった。
部屋に入る前のやる気と意気込みに満ちていた私の姿はどこにも無く、ただただリトの唇を凝視しながらジュースを飲むだけとなった私がここにいる。
情けない。
いや、本当にこれは情けなさ過ぎる。
でも解っていても踏み切る勇気はなかなか表に顔を出せないでいた。
「え~と、退屈じゃないか? 別に無理している必要は無いんだぞ?」
「ずずっ…んむ? ん。別に、そんなことないけど」
何度目かになるリトとの会話は全く私の耳には響いては来なかった。
今はそれどころではない。
今は如何に自然に、かつ、何気なくキスを出来ないか模索するのに思考が完全に傾いている。
勉強に頭を悩ませながらチラチラと私の様子を伺っているリトと、状況を打開すべく頭を抱え込む私。
幾度と無く視線を交差させながら、引き際を無くしたにらめっこに頭が痛くなってきた。
◆
もしも。
世間から逸脱した兄妹とは何かと訊ねれば、結城美柑はキスをする仲だと答える。
世の中はそのような線引きに非常に厳しい事を彼女は理解していた。
ではその一線とは何か。
手を繋ぐ。風呂での裸の付き合い。同じベッドで寝る。
多少は首をひねる様な触れ合いもあるが、年齢と言う点に目を瞑れば。まだ、兄妹としての領域を侵すに足る材料ではないと言える。
しかし、頻繁に口付けを交し合う兄と妹となれば流石に年がどうという事よりも発展した問題と取る人間も少なくは無いだろう。
少なくとも、美柑の中での基準はそうなっていた。
故に、美柑はこの時焦っていたのかも知れない。
彼女にとっての本当のスタートとは『
――――――
さて、現在の状況を整理しよう。
受験に向けて軽く勉強をしていたリトの為に、飲み物を持ち込んで彼の部屋へと侵入する事に成功した美柑。
しかし、その裏ではリトと何とかしてキスがしたいという溢れんばかりの欲望と邪念に塗れた意図がある。
が、行き当たりばったりのその目標は、彼女にとってはまさに目の前に立ちはだかる大きな壁だった。
もしも、いつもの冷静さが欠片でも残っていたならば…。
まだ、今のような張り詰めた空気になる事はなかったのかも知れない。
残念な事に、彼女の中にいる美柑でさえも今までに経験した事の無い感覚に完全に屈してしまっていた。
有体に言うと。
大好きなリトにキスがしたくてしたくて堪らないせいで、周りが全く見れていない彼女の姿がそこにあった。
(リトの口…柔らかそう。今キスしたら、飲んでるジュースの味とかするのかな?)
その姿はがっつき過ぎて失敗する人間の姿といって過言無いもので…。
この状況を見る第三者ならばどこをどう見てもそれに非があると言っただろう。
そもそも、彼女の最も理想とする状況に持っていくにはその態度には無理が在り過ぎた。
これがもしも気心の知れた恋人同士だったなら、多少強引でも美柑の思惑通りキスが出来ていたかもしれない。
しかし、リトと美柑はそうではない上に兄と妹の関係だ。
オマケにこれが初体験なのだからその難易度は最早最高といって過言無い。
必然的に彼女の望む後腐れ無いキスというのは、身も蓋も無いが『状況に流される事』の他なかったのだが、まるで獲物を狙う獣の様な視線でリトを見つめる彼女には到底、自然なキスなど出来るはずも無い。
緊張と興奮から相手の気持ちを考えていない今の彼女では、仮にキスが出来ても後を引く結果となるのは目に見えていた。
また、先程からリトが美柑に気を使って何度か挿まれる二人の会話も、二言三言目で心ここに在らずと会話を終わらせてしまう美柑。
再び訪れた沈黙の時間にリトは頭を悩ませる。
既に彼もまた、勉強などに身が入らずに目の前の人物に関心の殆どを奪われている一人になっていた。
(美柑のやつ、一体どうしたんだ? 飲み物を持ってきたかと思ったら、そのまま部屋の中でじっとして……)
ノートや教科書に目は通すものの、向かい側でずっと自分を貫く視線に変な緊張感と不安をリトは感じ始めていた。
自分は何かしてしまったのだろうか?
普段からは想像できない、今までに見た事の無いそんな妹の反応にリトは悩まされる。
(何か約束とかしたっけ…? いや、かまって欲しいだけ…とか?)
まさか自分が気を許す数少ない相手であり、自身も可愛がっている大事な実の妹が自分の唇を狙っているなどと思うはずも無く…。
せっかくのジュースも味すらよく分からないまま喉を一時的に潤す事しか出来ないぐらい緊張してしまうのだった。
◆
この状況をどうにか出来ないものか考えているうちにいつの間にか随分と時間が経ってしまっていた。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「え? あ、うん」
突然立ち上がって用を足して来ると宣言したリトを見送って扉が閉まった…と、同時に私はリトのベッドに飛び込んだ。
「あぁあううあ~~~…どうすればいいのかぜんぜんわかんないよぉ~~~」
ばたばたと足を動かしながらリトの枕に顔を押し付ける。
リトの匂いがした。
ピタッと足を止めてそのまま握り締めるように枕を抱きかかえる。
息が出来ないくらい顔を押し付けて感触を味わうと、リトに抱きしめられているような錯覚に酔っちゃいそう。
あぁ、でもしあわせ~。リトをひとりじめ~、んん~~♪
「………………って! そんな場合じゃないってば!?」
息苦しさと同時に本来の目的が私を呼び起こす。
このまま状況に流されるまま眠りについてしまいたい衝動をグッと堪えて、どうにかリトとキスができないものかと辺りを見回した。
早くしないとリトが戻ってきちゃう。
腕の中の枕を更に強く抱きしめて考えを廻らせた。
その瞬間。
視界に映ったのは更に私を誘惑してくる最大の敵。
枕を手放し、引き寄せられるようにベッドから這い出る。
さっきまでとは違う緊張が心臓を襲う。
悪い事を判っていて手を出す感覚とはこういう気持ちなのかな。
おずおずと手を伸ばし、触れた。
それは時間が経って水滴が浮かんでいるコップ。
その中には私が用意してきたジュースが少し残っている。
そして、指を指されているように釘付けになるのは今の今までリトが使っていた…ストロー。
ゴクリ。
いや、待て待て。これじゃまるで変態だ。
私が欲しいのはこういうのじゃなくて、本物の方のはず。
こんな事を本気でやったら多感な男子と何も変わらない。
僅かに残った理性が誘惑を跳ね除けようとするけど、でもこれを逃せば…という気持ちがなかなか離れない。
いつの間にか、吸い付いたように離す事の出来ないコップを強く握る。
「こ、これも一応『キス』だよね、うん…れ、練習。そう、何事も練習は必要だよね?」
そして私は負けた。
飲んだらバレてしまうので、口をつけるだけ。
衝動と欲望が私の口をストローへと引き寄せ、理性と情けなさと申し訳なさが心を締め付ける。
頭がくらくらしてきた。視界はぐるぐると揺れ回る。
あと少し。
あと僅か。
あとちょっと。
息を吸い込んで覚悟を決めた私がストローを咥えたのとほぼ同時、がちゃりと部屋の音がしたのを耳にした。
◆
気まずさから部屋を抜け出したリトは、トイレに行くと嘘をついた事を後悔する。
自分の妹との接し方が分からないからといって、こんな対応は無かったと反省を繰り返した。
もう勉強どころではないと思いながら自室へと戻ってきた彼が目にしたのは、顔を真っ赤に染めてジュースを飲む美柑の姿。
それを確認した瞬間だった。
壊れた機械のようなぎこちない動きでこちらに顔を向けて、美柑は目を見開きながら徐々に顔を青くしていく。
「え、どうし…」
「いや、違っ!? これはそういうのじゃなくて!!?」
突然狼狽する妹を見てギョッとするリト。
そのはずだ。
部屋を出て戻ってきたリトからすれば、彼女が誰のジュースを飲んでいるかなど瞬時に判断できるわけが無い。
無論、注意深く見れば気付く事もできるだろう。
しかし、その判断もままならない時点で突然の否定。
訳が分からないと混乱するリトに今にも泣き出しそうな美柑。
そのまま宥める様にリトは優しく接しようとするが、混乱と羞恥と不安の極みに達した美柑にはその対応は逆効果だった。
「違う! 違うの!? これは間違えただけだから!!?」
「え? あ、うん?……うん?」
「だから、そうじゃなくて! 違ってて!?」
「お、落ち着けよ美柑。よくわかんないけど大丈夫だから?」
リトからすればこの時の彼女の反応は全く持って理解できないだろう。
まるでとんでもない失敗をしてしまったかのような様子の美柑。
逆に美柑からすれば大好きな相手に自分の変態的な行動を見られたどころか、その好意すらバレてしまったのだと思っているのだから仕方ないのかもしれない。
ましてやその好意は明かされてはいけないものであり、彼女にとっては
遂には我慢できずに目に涙を溜めながら懇願しだす。
「ごめんなさい! ごめんなさい! そんなつもりじゃなかったの!! だからお願い嫌いにならないで!?」
これが全く知らない他人ならば彼の性格からして同じように狼狽してしまったかもしれない。
だが、今回の相手は妹だ。
兄としてしっかりすると自覚し始めていたリトはなるべく顔に出さないように、彼女が落ち着くまで抱き寄せる事にした。
振り払おうと暴れる美柑を痛くないように、でもしっかりと力強く抱きしめながら背中をポンポンと叩く。
腕の中の少女が少しずつ力が抜けていくのを感じ取りながらホッと、リトは胸を撫で下ろすのだった。
――――――
「ごめん…なさい。リト…」
「いや、別にいいから。俺は気にしてないぞ?」
外は既に街灯に明かりが点き始め、日が落ちて暗くなっていた。
未だに美柑はリトの腕の中で蹲っていた。
めちゃくちゃな態度をしたのに関わらず、辛抱強くそんな自分を抱きしめてくれたリトの事を、今の彼女はどうしようもなく好きで好きで仕方が無かった。
泣きつかれたのか。
頭の中はぼんやりと
こんなに優しくしてくれるなら少しくらい…と普段なら考えもしない事を頭が支配すると、リトの服を掴む手に力がこもった。
「もう大丈夫そうだな。まだ時間はあるし、勉強はやめにしようか」
そう言って立ち上がり、離れようとするリトだったが、服に皺が出来そうなくらい強く掴んでいる美柑の力に阻まれる。
そんな様子に仕方ないと、再び座り始めた。
そんな一瞬の出来事。
ギュッと、彼が座ったのと同時に美柑はグイっと彼の襟元を掴んで顔を寄せる。
吐息がかかりそうな程の距離に一瞬思考が固まった。
阻止する事ができたのは偶然。思わず、反射的に行ったものだった。
リトは美柑の肩を掴み、接触の距離を取る。
これには流石のリトも驚きで沈黙した。
今、自分が何をされそうになったのか。中学生ともなれば解らないはずが無い。
(今…え? なんで美柑が?)
その疑問は決して声には出していない。
にも関わらず、その疑問は目の前の少女の口から解答される。
「リト…好き。大好き。だから、お願い逃げないで」
「い、いや美柑? お前、これは流石にダメだって。兄妹だし、こういうのはもっと大人になってからだな」
「もう、待ったよ? リトのこと…男の人として私……」
それ以上は声には出なかった。
誰が止めたわけでもない。本人が自分で止めたのだ。
突然の事に困惑しているリトの顔を美柑は見た。
(あぁ、まだ早かったか)
上気するように顔を染める妹の顔が突然イタズラが成功したような小悪魔のような笑みに変化したのをリトは間近で目撃した。
先ほどと違い、自ら距離をとる美柑。
くすくすと、そう笑うように顔を手で押さえながら笑い声が部屋に響いた。
「あはは、リトってばびっくりしてる~!」
「え、あ。え?」
今のが冗談?
それが始めにリトが抱いた感想だった。
しかし、目の前ではほんの数秒前の妹の姿は消え、完全に最初から冗談だったといわんばかりの反応をする妹がいる。
勿論、腑に落ちないと思うリトだったが、こうする以上は深く立ち入る必要はないと判断した。
(美柑がそう言ってるなら…きっとそうなんだよな?)
こんな。
こんな出来た妹が兄である自分を、男として好きなんて。
リトは想像しても理解はできなかった。
自分が目の前の妹をそんな目で見るなんて、考えた事もなかったから。
きっと誰よりも近い二人は、この時は誰よりもお互いを理解できていなかったのかもしれない。
――――――
「喉、渇いちゃった。リトの飲んでいい?」
「え、別にいいけど…」
美柑は夕飯の支度に立ち上がり、部屋を出る瞬間にそう言った。
何も考えずにそう言ったリトの返事を聞くと同時に美柑は
先ほどの元凶となった行為をいまいち理解できていなかったリトにはその行為があまりにも普通すぎて、疑問に思えてしまう。
だから、リトは油断していた。
「んむっ」
「ぶ、んん!!?」
座っていた彼に、美柑は口を密着させる。
唇同士の触れ合い。
二人とも経験の無い柔らかさに同じ感想を抱いた。
最初に意識を覚醒させたのはリト。
いきなりの美柑の奇行に今度は体が反応しない。
慌てるだけで宙をさまよう両手。
「んんっ!!? んっ、く…んぐっ、ん…」
「ん、ちゅる…じゅる、ちゅ…」
驚いたのはキスを仕掛けた相手から何か流れ込んできたから。
鼻で息をするのも止まり、自分の中へ流れ込んでいく液体。
喉越しの良いそれは唾液などではない。
スッと甘い香りがリトの鼻孔を刺激する。
(これ、ジュース!?)
「ん! んぐ、ん、コクッ…ぷはっ!?」
ムリヤリに喉に流し込まれたその味は一瞬で分からなくなった。
止まっていた分の空気を勢いよく吸い込み、真っ白になった頭で美柑を見た。
美柑も病気を疑うくらい顔を赤く染めて全然大丈夫そうでない顔でリトを見ている。
「これは…口移しだから。キスじゃないから」
何故という、当然の言葉は出されるよりも早く阻止される。
一般的にも苦しいその言い訳のような言葉にリトは反応できなかった。
「だから、全然ファーストキスとかじゃないし、セーフだよね?」
「……そ、うか?」
「そうなの!!」
そんな強引な言葉に疑問も反論もリトは飲み込まざるを得ない。
自分から関係を崩す事をリトと言う人間は進んで行わない。
これ以上何も起こらぬよう、彼はその暴論を呑むしかない。
こうして、二人の初めてではない『初めて』の時間は終わりを告げる。
(忘れよう…きっと冗談だよな?)
(やっちゃった…もう戻れないよね)
部屋を出た美柑と、部屋の中で呆然とするリトの二人は同時に自身の唇を撫でる。
口に残った滴を口に含むと、それは何の変哲も無いミカンの味がするだけだった。