◆
最近、美柑の様子に違和感を感じる。
結城リトはふと、ここ最近の日常を思い出すと同時にそう感想を抱いた。
結城美柑。
自分の妹。
家事全般が得意で、見た目も頭もいい。
運動も出来て、世話焼きな自慢の家族。
そのあたりに関しては今も昔も変わらない。
飾りの無い正直な話で言うならば。
現在恋人といった特別な感情を抱く人間のいないリトにとっては、自分以外での世界の中心といっても過言無い存在である。
自分自身以上に護らなければいけない大切な人間。
家族以上に強固な信頼を寄せる可愛い妹…それがリトにとっての美柑への評価だった。
その美柑の様子がおかしいと思ったならば、兄のリトが気がかりにするのは至極当然の事と言えよう。
「なんか、妙に大人っぽくなったり子供っぽくなったり…ちょっと変なんだよなぁ」
ほとんど二人っきりで今までの人生を過ごしてきた兄には、妹の姿がそういう風に目に映っていた。
事実、そんな彼の感想は的を射ている。
真実は彼にとって想像が及ばないほどの事態であるが故に、そこへ至る事はおそらく永久に訪れる事は無い。
まさか、自分の妹が突然大人っぽくなった理由が『中身は自分より年上の未来から来た妹だから』などという荒唐無稽な話を思いつく人間は稀有であろう。
更に言えば、例えどんなに違和感を持っても、中身は『本人』自身である。
美柑自身、リトと共にもう一度人生を歩み直す気でいるが故に、起こり得る事態は最小のズレでしかない。
誰にも決して悟られない歴史の再構成。
本人達の意識していない、深層的な部分での僅かな変化。
だが、些細なズレであってもその影響は遠くを見据えれば大きな食い違いを起こす。
一本の直線は、この数日の間に確かに折れ曲がった。
それは本来辿る未来への道を大きく外すには十分過ぎるほどのもので…。
最早、到達点は未来から来た美柑でさえも解る事は無い。
この世界は既に『結城リトがハーレムを創る世界』とは大きく異なる世界へと変貌しつつあった。
◆
「リトっ! そ、その…今日はい、一緒にっ、いっしょにおフロに、入らない…?」
「へ? え~と…別に俺は、かまわないけど?」
プールから帰宅してきた私は、決意していた本日最後の難関へリトを誘った。
このくらいの年齢の時はわりと普通に一緒にリトとお風呂に入ってた記憶がある。
だから、極々自然に。フツーに、誘っても断られるなんて事は無いと確信していた。
でも、体はともかく、『中身の私』はそこまで割り切る事なんて出来はしないらしい。
(わー!? わー!!? めちゃくちゃどもってんじゃん私!! リトが凄い不審そうに見てるし…は、恥ずかしい…!!)
純粋だったあの頃の自分は何処へやら。
全く気にせず、体の隅々までリトに晒しても恥ずかしいなんて微塵も思わなかったあの頃の私をこの時ばかりは羨ましく思った。
すっかり不純になってしまった私は否が応でも無粋な事を想像してしまう。
勿論、私だってそのつもりは……多分ない。
流石に兄妹でその行為への到達はあまりにも不都合が多すぎる。
いくら私でも、それくらいの倫理観は持っているつもりだ。
何より、リトはともかく今の私はそれを受け入れられる肉体ではない…と思う。
経験だって無いし、いざとなってよく解らないまま、万が一に誰かにバレでもしたらリトと離れ離れになるかもしれない。
それが出来るようになるまではとにかくまだ早い…じゃなくて、早い遅い以前の問題だっけ?
だからもしもリトからその気になって…ってそんな事ありえないけど。
万が一、本当の本当にどーーーしても、リトが我慢できなくなったら私だって考えなくは無いけど、だからといって兄妹でそんな事になるワケないし、だから全然心配する理由なんてまったくコレっぽちもないからいいんだけどね。
……あれ、いいのかな?
いったん落ち着こう。
そう、とにかく。私はそんな気は
だから今日はフツーの兄妹として一緒におフロに入るわけで。
そんな訳だから何もない、全然ない。
緊張する理由なってないし、無駄に恥ずかしがる必要も無い。
ふぅー、私は妹、私は妹、私は妹……。
「美柑ー? 食器洗っとくから、先に入ってていいぞー」
「わひゃ!? い、いいよ!? 私が洗うからリトがお先にどうぞ!!」
びっくりした!
いやいやそれよりも、まだ心の準備が出来てないんだから先は困る。
そうでないといろいろ困る。
「そ、そうか? じゃあ、先に失礼するけど」
「ちゃっちゃとやっちゃうからっ、待っててね!!」
思えば。
先に入っちゃえば、心の準備なんて要らなかったんでは?
冷静になって、そう結論した頃には食器は全てピカピカになっていた。
――――――
ぱしゃぱしゃと弾く水音が聞こえてくる。
洗濯かごの中には既にリトの服が納まっていて、当然ながら今おフロに入っているのはリトである事を現していた。
深呼吸を繰り返す。
ふーっ、フーッ、フーッ………あれ、深呼吸ってこうじゃないような。
無駄に息が荒くなるのをなんとか堪えながら私は着ている衣服に手をかけた。
「………」
いや、脱がないと。
解っているのになかなかその手は動かない。
今日まで。
戻ってきた日から散々、昔の体の方の精神状態に悩まされてきたけど、ここに来て、もともとの思考に悩まされるなんて思わなかった。
モモさんを妨害する為に中学校ぐらいまでリトと一緒におフロに入ってたけど、流石にこの年になったら恥ずかしい。
洗面台を見ると、設置している鏡の向こうには耳まで顔を赤くしている自分が立っている。
心臓はさっきから飛び出しそうなくらいバクバクと音を鳴らし続けている。
「ど、どうしよう…ななななんでこんなに…!?」
この扉を開ければそこにはリトが居る。
おフロなんだから何も身につけていない裸のはずだ。
そこに同じく裸の私が入っていくのを想像してしまう。
無邪気だった頃は一緒にはしゃいで遊んだり出来ただろうけどそんな余裕は無い。
借りてきた猫のようになった私をリトはきっと心配そうに見つめてきて……私は裸で、リトも裸で、触れそうなくらい顔も体も近くて……。
「うあぁぁぁ………」
何これヤバ過ぎる。
恥ずかしいとか、微妙に嬉しいとか以上に、耐えられそうにない。
思わずその場でしゃがみ込んでしまう程の恥ずかしさに挫けそうになる。
だけど、これは避けては通れない道だ。
ここを乗り越えられないで、優勢になるなんて事はありえない。
だから平常心をどうにか取り戻さないといけな…
「おーい、美柑いるのかー?」
「い、います! 今から入ります!?」
「大丈夫か…?」
言った。言ってしまった。もう退けない。退く気はないけど。
止まっていた手が再び動き出す。
夏なので薄着だった私の装備は、ものの数秒で脱げ切ってしまう。
まだブラジャーは着ける必要の無いこの体だけに余計に早い。
いや、そうだ。今の私はそのくらい幼い。
何も恐れず、幼かった気持ちを呼び戻そう。それしかない。
「は、入るよー」
深呼吸…は、いらない。
そんな事してなかった。今の私は結城美柑小学3年生。
勢いよく入って、後はその場も勢いで何とかしよう。
少しずつ慣れていけばいいんだ。急ぐ必要は無い。
私は力任せに扉を開けて、大きく一歩を踏み出した。
「お待たせリトーッひぇ!?」
勢いに任せた突入は成功したが、そこが風呂場だという事を失念していた。
簡単に言えば、おもいっきり一歩目を踏み外してしまった。
そのまま床に衝突する痛みを想像する余裕も無いまま、アレだけ高鳴っていた鼓動が一瞬止まったような錯覚に陥る。
ギュッと目を瞑った私に訪れたのは刺さる様な痛みでも、打ち身の鈍い痛みでもなく…安心する熱を持った硬くもあり、柔らかくもある何かに抱きしめられる感覚だった。
「お、おい美柑平気か!?」
(あ、これまずいやつだ)
状況を瞬時に悟った私は諦めにも似た感覚で力なく目を開けた。
案の定、そこには私の救い主であるリトがいた。
肩を力強く支えられ、お互いの胸もお腹もぴったりとくっつき合っている。
何度もやってきたハグよりも情熱的過ぎる姿と力に、再び心臓は破裂する。
声も無くポロポロと涙が流れていく。
「ええ!? どっか打ったのか!? ど、どこも打ってないと思ったけど…」
もういやだ。今日の私は最悪かもしれない。
――――――
あまりの恥ずかしさに号泣してから暫く。
未だにスンスンと鼻を鳴らしながら座る私の後で、遠慮の無い手つきで髪を洗ってくれるリトの姿があった。
泣いてしまったからなのか、これが素なのか。
非常に優しい手つきで、リトはシャンプーで泡だらけになった私の頭をちょうど良い力でわしゃわしゃと洗ってくれた。
手の動きに合わせて頭が揺れる。
次第に心まで落ち着いていき、あれだけの事があったのに意外とすんなり現状に順応しつつあった。
「落ち着いたかー? 痛いなら痛いって教えろよー?」
「うん、大丈夫、痛くない」
ゆらゆらと頭が揺れる。
明らかに挙動不審すぎる私の行動もリトは優しくフォローしてくれる。
いきなり泣き出す妹なんて…危ない失態だったけど、どうにかなりそうである。
本当に気をつけなければならない。
(今日は良く寝れそう…)
プールで走り回って肉体的にも疲れ、今ので精神的にもダウンしそうだった。
そんな事を思っていた私の頭にお湯が降り注ぐ。
このままさっきの失態も流れてしまえばいいのに…なーんて。
その後はお返しにリトの背中を流してあげた。
中学生といっても、男性的には既に同級生なんかとは比べ物にならないくらい出来上がっているしっかりとした背中を見ていると熱が上がる。
ここからこのリトが更に逞しい背中をしていくのを想像するだけで、鼓動が早くなる。
邪念を払うように、精一杯強めに擦っているのに「まだ強くていい」と言うリトに、男の子なんだなという感想が零れた。
リトの癖になー。ずるいよ。
ふつふつと悪戯心が芽生えてきたので少しだけイジワルしてやろうか。
私は泡の付いていないうなじや首筋を目掛けてカプリ。と、甘嚙みする。
「ふおわ!!?」
「へいいっはい、ふぁってるっての…ん、女のコなんだから察してよね」
あむあむ嚙みながら喋ると情けない声がでたので途中で止め、唇を離す。
ふと、口元に残るのは昼間と浴室の熱気で出したリトの味。
(今日はしょっぱい)
まぁ、当然か。
◆
これが普通の兄妹って感じなのかな。
浴槽に浸かりながら美柑は思う。
記憶にあるのはいつの頃のか思い出せない。
でも、確かにあの時は楽しかったのを覚えている。
そうだ、何を恥ずかしがっていたんだろう。
(今が、幸せなんだ。なら、それでいいんじゃない?)
お湯で顔を洗いながら美柑はそう結論付ける。
あれだけ悩んでいた事がこんなに簡単な事なんだと理解した瞬間、思わず笑ってしまいそうになった。
最後にリトとおフロに入ったのは何時だったかを思い出しながら、リトに近づいて抱きついた。
この頃はまだ浴槽に余裕があった事を感じる距離。
リトの足に座り、なんだか窮屈だなと思う事もあった。
でも、あれだけ肌と肌が密着する時間は他に無かっただろう。
当然といえば当然。
しかし、美柑は今になって気付く。
あの窮屈な時間が、一番リトに近づける時間だった事を。それがとても安心できた事に。
突然抱きつかれたリトは今日何度目になるかわからない程に狼狽する。
美柑からすれば、もう一度あの時の安心を取り戻す為に抱きついただけなのだが、リトからすればまさか風呂でも抱きついてくるなんて思ってもいなかった事だった。
いくら妹で、幼いといっても。裸で密着するほどに抱きつかれては流石に落ち着く事はできない。
しかし、突然泣いたり、憂う様な表情をする妹を無碍に突き放す事は出来ないのは兄の宿命か…リトはとりあえず片手で背中を抱きながら美柑の後頭をポンポンと撫でる事にした。
リトはこれが反抗期…ではないが、よくわからない成長の時期なのかもしれないと思い始めた。
考えれば、殆ど二人だけで生活していたようなものだ。
親が恋しかったり、何かに不安になったり、意味無く寂しいと思うのは普通なのかもしれない。
加えて男と女の違いなんて解る訳も無い。
だから、これからが自分にとっても、美柑にとってもお互いを大事に。支えあう為に必要な時期なんではないだろうかと。
「大丈夫だから。兄ちゃんはずっと一緒にいるから」
ならば今は一緒にいるべきだ。
今日は望むならずっと一緒にいてやろう。
リトにとって美柑は家族で、妹で、護るべき対象。
様々な不安は残るが、兄として、男として、この腕に収まる女のコをずっと大切にしよう。
徐々に、けれど確実に。
リトにとっての美柑は妹以上の存在に変わりつつあるのを本人は知らない。
勿論、思惑通りに進んでいても美柑はそれを知る事は出来ない。
少なくとも、浴槽の中で愛しげにリトに抱きつきながら目を瞑る美柑と、慈しむ様にそれを受け入れるリトの姿は誰がどう見ても兄と妹の姿ではないだろう。
そのまま安心しきって眠ってしまった美柑に気付き、慌てて抱き上げて浴室を出るまで、この光景は続いた。
(あれ、お姫様抱っこだ…ちょっと役得かも)
と、おぼろげな意識の中。
美柑は運ばれている中でなんだかんだ今日は良い一日だったかもしれないと訂正するのだった。