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季節は夏。
肌を焦がす様に焼きつく陽の光に、陽炎がゆらゆらと辺りの光景を動かす。
そんな人間の体には苦痛とも取れる炎天下の中で一組の兄妹はとある目的地へと赴いていた。
「…あっついなぁー。美柑、だいじょうぶかー?」
「な、なんとかー。ここまで暑いとは思わなかったかも…」
あれから幾日かの時間が流れたが、未だに美柑は、自身が置かれている環境の謎が解明出来ていない。
しかし、ある程度の時間が経ってしまえばそのような事は些細な問題である。
今となっては美柑も流れるままに環境を受け入れ、唯一人の兄との時間に酔うまま季節が流れてしまった。
時が経ち、残ったのは…ようやく自分の気持ちを理解し、焦がれる兄との二度目の思い出にすっかりと溶けてしまった妹の姿だった。
以前の様に、このままこの時間が永く、永く続くと信じて疑わずに、適切と呼べる兄妹の距離を保っていた記憶の中の存在は無い。
まるで年の離れた恋人であるように甘え、
ある日を境に…と言える程にはっきりとした瞬間があったかといえばリトも悩むだろう。
突然、どことなく大人びた雰囲気を出すようになった実の妹。
料理も家事も、その小さな体で今では殆ど一人でこなせる様になっていた。
恩を返すと呼ぶには余所余所しいが、兄として美柑に出来る事は無いかと行動を起こしたりもした。
だが、結果は決して芳しくなく、逆に彼女の迷惑になってしまう事もある始末。
その時には年不相応に大らかな、母性すら感じさせる美柑にリトも不信感を抱いた事もあるが、抱くだけで解答へは決して辿り着く事はなかった。
そんなリトに対して美柑は普段から彼に甘えるようになっていく。
こちらを相応と呼べるかは甚だ疑問は残るものの、まだ小学校高学年にも上がっていない年齢を考えればそれは不自然ではないのかもしれない。
中学生にもなればある程度の環境の把握や、気持ちの汲み取り方等は感じ取れるようになるものである。
リトは妹が精一杯背伸びをしながらも、甘えられる相手がいなくて寂しがっているものだと判断した。
親と接する機会が普通より少ない環境にある二人には世間での兄妹の適切な距離関係は良くわかっていない結果なのかも知れない。
『そして妹からのスキンシップは日々進化していく』
最初の頃はそれこそ服の裾を意味も無く引っ張る程度の範囲から、今では後から抱きつく等は日常茶飯事。
昼寝をしようものなら、目を覚ますと高確率でその隣を美柑は陣取っていた。
そんな気負いのない距離の環境が続けば……必然的にリトの方もその常識を徐々に変えていってしまう。
このくらいは普通なのかも知れないと。
反対に美柑が寛いでいる時。
美柑からの誘いはあるものの、以前までは笑ってゴマかすくらいの対応をしていたはずのリトが、美柑のお腹を枕にしたり、膝枕をしてもらう事に抵抗をしなくなる。
ここ最近では、リトが外出から帰ってくると美柑は「おかえり」と言いながら軽くハグをするようになった。
多少、過度とも言える接触すら数日も続けば『普通』と受け入れていってしまうだろう。
その行為を責める人間は今『この世界』には誰も存在しないのだから。
◆
リトとの関係をやり直そうと決めたあの日から数日が経った。
少しずつだけど、昔と違う何かを歩いていけてる…ような気はする。
だけど、そんな風に思っていると。ふと、不安になる。
「いろいろ変えてしまったら…もし、全然知らない世界になっちゃったらどうしよう」
別にそれが目的なのだからいいと、そう思えたら楽だった。
でも、そこまで楽観視は出来ない。
結果を得るまでの工程は、出来る限り把握できていた方がどちらかと言えば有利なのだから。
ほんの少しでも先は見通す事が出来れば対策の取り様がある。
万が一。億が一にでも、リトが怪我や事故なんて目にあっては困る。
突然、職を失った親が帰って来るかもしれない。
…そこまでマイナス方面に大きく変わる事は
何かの間違いでララさんが早く地球に来てしまったりするかもしれない。
そうなったらもう取り返しはつかない。
だから少しでもあの時に近づける努力はしていこうと決意した。
当面の目標を決めた私は、その為に今日…思い出を繰り返す。
――――――
目的地であるプールに辿り着いた私とリトは思った以上の盛況さに一歩後ずさった。
「やっぱ、考えてる事ってみんな一緒だねー」
「だなー…どうする? せっかくだしちょっとは泳いでいくか?」
昔、誰かに話したような記憶のある光景。
あの時はたしか…うん、モモさん達が来て、自分の居場所がなくなっちゃうんじゃないかって悩んでた時だった、かな?
今になっても覚えている。
リトが私を心配して汗だくになって見つけてくれたんだっけ。
「うん、せっかくだし泳ごーよ」
私の言葉にリトは二つ返事で了解してくれる。
そのまま更衣室へ向かい、持ってきていた水着袋から水着を取り出した。
昔使っていた…いや、今は『今も』使っている学校指定のスクール水着。
…別に、他の人に見られるのはなんて事は無い。
だから出来ればリトには少しくらい私に意識して貰えるくらいの姿で泳いでも良かったかもしれない。
でも今日の目的はあの日の再現。
見たままの年齢だったあの時の私は、何も考えずにこの水着を着ていたはず。
というより、これ以外に水着を持ってなかったと思う。
まぁ、このくらいは大丈夫のはずだ。
一先ず、首から下を隠す、体を覆うタイプのタオルを身につけて衣服を脱ぎ出す。
これが家の中ならいっそリトの前でも……まだ早いかな?
「よし…っと。うん」
ピチッとお尻に張り付く水着に指を入れて引っ張る。
小学校の水着なんて何年ぶりだろうか。と、思いつつも何となく染み付いている仕草で身だしなみを整えて、そのまま服を片付けると同時に走り出した。
リトが待ってると思うとそれだけで心が弾む。
私はそのままスキップでもしそうな勢いで、再び照りつける陽射しの下へ飛び出した。
――――――
「ふい~、やっぱ水に入るとだいぶマシになるな~」
「ちょっとリト? おフロじゃないんだから。何かオジサンみたいだよ」
そこそこ込んだプールでも、意外と人気の少ない空間は探せばあったりする。
私たちはそこでようやく、この気温の中で上がった体温を冷やす事が出来たのだった。
私の発言に少しショックを受けるリトが可笑しい。
本当に、どうしてこんなマヌケっぽい顔をする人を好きになっちゃったんだろう。
でも、それでも確かに目の前にいるこの人の事が。お兄ちゃんが大好きなんだって解ってしまう自分の事も可笑しいと思ってしまう。
だから今日はもう打算も計画も何もかも忘れて、一緒に思い出を作りたいって思うくらいは許して欲しい。
「美柑? 大丈夫か? まだちょっと顔が赤いけど…気分悪くなったらすぐに言うんだぞ」
「…わかってるって。大丈夫だよ、バーカ♪」
「へ? ッぶふ!?」
フンッと軽く鼻を鳴らしながら、鈍感なリトにおもいっきり水を引っ掛けてそのままそっぽを向いてやった。
今は子供だけど、ちょっと大人気ないかな?
ちゃぷ、ちゃぷと、水が動き回る人に合わせて小さな波を立てて跳ね上がる。
流石に大きくスペースが取れないので泳ぐ事は出来ないけど、コレじゃあ本当におフロみたいだ。
う~んおフロ、か。
「今日は一緒に……うん、アリかも」
そんな独り言を呟きながらリトの方を見る。
ボーっと空を見上げているリトは何も考えていないのかもしれない。
ただ水で涼みながら雲を眺めているリト。
せっかくプールに来たのにかまって貰えないのは少々不満だった。
だからコレは別に大した意味は無い。
自然に、自然に。
距離を詰めてーー……えいっ!!
「ぶわっぷぅ!!? ゲッホ、げほっ! な、何だ!?」
「あっはは! もうっせっかく来たのに空ばっか見てるからだよっ」
水の中に潜ってからリトの前でおもいっきり飛沫を上げながら飛び出してリトに飛びついた。
あまり動いてなかったせいか、すっかり乾いていたリトの髪の毛が再び水分を吸って重くなる。
「やったな~美柑~…って、どうかしたか?」
「…え、ううん? 何でもないよ?」
リトを見上げながらそう呟く。
プールに浸かってからそこそこ時間が経っていた。
今日はあんなに暑くてたまらなかったのに、今はほんの少しの熱がとても気持ちいい。
しっかりと陽の光を浴びて水分の消えたその上半身は、冷えた私の体にとってはポカポカと温かくて丁度いい感じになっている。
だからそのままもう少し抱きついてても良いよね? 良いはずだよ。
そのまま、ぎゅーっとリトの腰に手を回して抱きつく。
状況をいまいち理解できてないリトは何をすればいいのか解らない様子で、私の頭を撫でた。
だから、とりあえずで行動するのがいちいち毒だったりするから苦労するっていうのにこの兄は…本当にバカ兄貴だ。
…それは満点だよ。ホント、悔しいなぁ
言葉に出来ない敗北感を感じながらリトの体温をしっかりと体全体で感じながら私は目を閉じた。
◆
それから暫くの間、美柑とリトはプールの隅っこで潜ったり、くすぐり合ったりしながら遊ぶ。
それなりに時間が経ったであろう時に、リトはぶるっと体を震わせてプールサイドへ這い上がった。
「悪い美柑。ちょっと体が冷えてきたからそろそろ上がるよ」
「えー、まぁ仕方ないか。大丈夫?」
「うん、まぁ。美柑はどうする? もう少し浸かってるか?」
美柑は少し悩んだが、もう少しだけ涼む事を選んだ。
直後「ひっくしゅん!」と、リトが盛大なくしゃみを漏らす。
どうやら本当に少し冷えすぎた様子で腕をこすっている。
「ゴメン、ちょっと上着とってくるから」
体を震わせながら更衣室の方へ小走りになってリトは向かっていく。
一人になった美柑は軽く見送ると同時に水の中へ潜った。
(私、何やってんだろ)
最近になって美柑はよく自問するようになった。
どれだけ迷いを捨てようと、躊躇わないと誓っても、それが正しいのか未だに自信を持てないでいた。
今、こうするのが正解なのか。
もっと甘えてもいいのか。
いっそ間違いだと解っててもそれをやってしまってもいいだろうか。
昔の姿に戻って、この世界に溶け込んで早数ヶ月。
答えは出ないし、正解を告げるものも無い。
ここに来て唯一の救いであり、全ての元凶である自分の兄を独占出来ている事が彼女の心を惑わせる。
このままでいいのか。
それとも、何もしない方がいいのか。
(それは…もう嫌だ)
結果を残せなかった妹は大事な兄を失った。
諦めていた時に訪れたチャンス。
嫌だから、仕方ない。きっと、仕方ない。だから、仕方ない。
そう思う美柑は気付かない。
最初はただリトの事を心配だからと。負担を減らす為にあの時の未来を否定したのに、今では自分の為にその未来を否定している事に。
どんなに好意を自覚しても、どんなに心で理解しても。
騒がしくもあったあの時の日々は本当に楽しくて、無かった事にはしたくなかった。
ララがいて、ナナがいて、モモやセリーヌのいる結城家が、全て夢になるかもしれないのが。
その事を本心では恐れている事に彼女は
だってそれは、本当の意味で茨の道だから。
ソレを受け入れずに、新しい道を作るのが最善策だと理解している。
しかし、彼女が今考えているのは。
それを受け入れた上で真っ向勝負をかけるという事だった。
妹の自分が勝つ見込みはどれくらいだろうかと自問する。
これから先、例えララが訪れなかったとしても、春菜や唯に勝てるだろうか。
これ以上、敵を増やして、二人の楽園を創る事が出来るのだろうか?
「っぷは! ハァ…そんなの、わかんないよ」
水中から顔を出し、空気を一気に吸い込む美柑。
吐き出すようなその言葉は、誰の耳にも届かなかった。
「……って、あれ? リトは?」
何度か潜っては顔を出し、潜っては…と繰り返しているとリトがまだ戻ってきていない事に気付く。
更衣室へ向かうぐらいならば、とっくに帰って来ていいはずの時間になっていた事に、美柑は不安を覚えた。
何かあったのだろうか?
まともな思考をこの時に取り戻せていたら、まだ慌てるには早い時間だと思い直したのかもしれない。
待っていればそのうちリトはここへ戻ってくると言う事に気付けたかも知れない。
しかし、軽い酸欠の様な状態である事と、最近の過剰とも言えるリトへの想いから、その判断を遅らせてしまった。
その結果。
「あ、あれ? リト…何処…?」
図らずも昔の記憶どおりの展開。
違うのは迷子になった自分を自覚しているか否かと言うこと。
そして、それは大きな違いであるといって過言無い。
「リト? リトー…? も、う…勝手にいなくなるなんて…」
最初は意固地。今は強がり。
水から上がって少しずつ体に熱が戻る。
刺さるような陽射しは相変わらずで、徐々に息が上がっていく。
(……違う)
息が上がっているのは、既に歩いてないからだった。
此処に来て最初の記憶が蘇る。
必要以上に恐怖した雷。
震える体を抱きながらその時を思い出した。
「やっぱり…この体、精神的にも幼くなってる…?」
この年になって、迷子になったくらいで震えるなんてありえなかった。
しかし、現に体は言う事を聞かない。
不安は動悸に変わり、その分だけ足を動かす。
軽い寒気が治まらない。震えが止まらない。
まるでリトが世界から消えてしまったような、そんな不安を拭えない。
「や、だ。…せっかく。せっかくッ…今度は、って」
もう、なりふり構ってはいられない様子の美柑は走りながら本心を呟き続ける。
心が不安からさらけ出される。
「もう…ヤ、ダぁ…リトどこ……どこ? リト…リトぉ」
次第に足が震えて走れなくなる。
汗が地面に落ちてそのまま熱気になって消えていく。
(…どこ? ねぇ何処に行ったの? リトは、どこ?)
混乱し、ふらふらと歩き続ける彼女を見る目が増えてきた頃だった。
突然肩を後から捕まれた美柑は、びくりと体が跳ね上げ、反射的に後を振り向く。
「っ…ハァ、やっと見、つけたぁ!! ど、どこにいたんだよ!?」
――――――
その先の事を彼女は覚えていない。
力の限りリトに抱きついて泣いたのかもしれないし、そのまま意識が戻るまでリトに引っ付いていたのかもしれない。
気付いたら備え付けのシャワーで体を洗い流していた美柑。
自分がどれ程泣いていたのかも今はわからない。
真上から降り注ぐ水が綺麗に洗い流していく。
帰る頃には日が傾いていて、あれだけ暑かった気温もすっかり落ち着いていた。
(今日は疲れた…)
今日の失態から、美柑は自分で大切な思い出を汚しているようだと自己嫌悪に陥る。
それでも。
「美柑そろそろ家に着くぞー」
「うん…」
彼女がこっそりと準備していた予備のシャツに着替え直したリトにおんぶされながらの帰路。
例え着替えていても、必死に走り回っていたリトからは汗の臭いしていた。
妹を探す為に、かつての記憶の時の様に彼女を探していた証拠。
その事が嬉しくて堪らないと、自分の体にそれが染み付くようなイメージをしてしまう。
「イヤじゃないんだよなぁ」
彼女の思い出は新しく、前より情けなく、より深く刻まれる。
大好きな背中に体を預け、力を抜いて一日を振り返って呟いた。
「今回は、及第点で達成…かな?」