この日、アッバルは初めて鍛練をサボった。デミウルゴスの部下らが笑顔で召喚してくれるモンスターから逃げ回り、物を投げつけては必死に遠くへ逃げる
もちろん「自主」ゆえアインズの許可などあろうはずもない、召喚モンスターは今頃きっと寂しい思いをしていることだろう。
さて、アッバルは【溶岩】にて、マグマに潜む紅蓮に石を投げつける遊びに興じていた。頭の良い先人は言いました、灯台下暗しと。ならばサボるべき場所はここしかない。
石は瞬時にマグマへ溶けるため、紅蓮のライフを1ポイントとして削れない全く無為な遊びであるが、紅蓮は親切にも石が投げ込まれる度に腕らしき物をじたばたと悶えさせている。アッバルの今の気分はイルカにホッケを与えるトレーナーである。
単純な遊びほど時間を忘れさせるものはない。ヨーヨーしかり縄跳びしかり、単純だからこそ終わりがないのだ。いつまでたってもゴールにたどり着けない
アッバルは自然と歌を口ずさみ、口笛を吹き、ダンスとは口が裂けても言えない不思議な踊りをしだす。精神的にある程度成熟してしまうと、人目のない場所では、普段羞恥心によって抑圧された行動をとりたくなるものなのだ。
子供は大通りで歌っても突然踊り出しても許される身分だが、大人が同じことをすると人混みは割れSNS上にて多くの個人に肖像権を侵害され、果ては濃紺の制服を着た有段者に肩を叩かれる。そして鉄扉の向こう、愉快な仲間に迎え入れられることになるだろう。
全くもって笑えない世の中である。
「声高く声高くララ歌え――」
アッバルが歌うのは太陽のマーチ。七男七女の父かつワルツの父でもある
戦場において、若く力に溢れた革命軍に対し、ラデツキーは下馬もせず戦った。「まさに軍人の鑑よ」と褒めたたえられた当のラデツキー、しかしながら当時既にかなりの高齢であった。歳は六十二、十九世紀半ばの平均寿命を考えると此の出征は年寄りの冷や水と言う他ない。そのゆえか、一説によると、彼は馬から下りなかったのではなく下りられなかったらしい。腰でも痛めたのやもしれない。
「下馬せず戦い続けたラデツキー将軍」という話から受けるイメージは勇猛果敢で雄々しく若過ぎぬ男、しかし現実は華々しい戦果を上げたとはいえ引退の近い老将軍。与えられた少ない情報から組み立てられる虚像と実像のあまりの差よ。
人は自らの知る範囲の情報で相手を測り、理解しようとする。ヨーゼフ・ラデツキーを見よ、大まかな構成要素に間違いはないのに事実とはかけ離れた認識をされている。人が自らの常識のみを信ずる限り、赤いジャムは全てイチゴジャムだ、ラズベリージャムの居場所はない。ペティグリー○ャムは言わずもがな。
相手と異なる認識を土台にする限り、勘違い・誤解・思い込みは必然に生まれる。その誤解は放置すれば次第に肥大化し、始めは小さなずれでしかなかった雪玉は坂を転げ落ちるうち雪崩となる。
良貨が悪貨を駆逐するようにいつか自然と真実が誤解を解消するだろう、などという期待はするだけ無駄だ。自ら動かずしてチョモランマより高く海底火山より深い誤解が解けようはずはない。
しかし、誠に残念なことだが、他者と自らの認識に大きなずれがあることにアッバルはまだ気付いていない。レベル上げをサボタージュしている暇があるならば勘違いをたださねばならぬ。時間が過ぎれば過ぎるほど認識のすりあわせは困難になるのだから。ちなみにアインズについては既に手遅れ、巻き返しは不可能である。
だが後悔とは後から悔いるものであり、後の祭りもまた然り。アッバルに予知能力などないゆえ、これからも彼女を待ち受ける勘違いの嵐など知らぬ。悲しいけどこれが現実なのよね。
ところで、楽しい時間ほど過ぎるのは早いもの。鍛錬場から逃げたのは早朝、現時刻はなんと十一時過ぎである。そろそろ帰らねば怒られるとアッバルが後ろを振り返った――そこにはデミウルゴスがいた。
「あ……お邪魔してます、ハイ」
「お気になさらず。昼食になさいますか?」
一体何時から見られていたのだろう。アッバルは粛々とデミウルゴスの先導に従い、アルベドの肉体言語的叱責を受け、そして何故か撫でられた。
自身に注がれる視線の意味を、アッバルはまだ分かっていない。
鍛錬場にアッバルが来ない――部下にその報告を受けるとほぼ同時、別の部下が困惑を隠せぬ様子でデミウルゴスの元へ駆けてきた。紅蓮の元にアッバルお嬢様が、と。
アッバルは真面目で素直な子供である。アインズの養い子としての地位を振りかざしたり、憎たらしい我儘を言ったり、尻の青い餓鬼の癖に小賢しい態度を取ったりしたことなど一度もない。養い子だからと委縮しているのではないだろうかと心配していたのだが、どうやら子供らしい側面もきちんとあるらしい。彼女の初めてのサボタージュに、デミウルゴスも怒るより先に安堵を覚えた。
声の聞こえる距離にまで近付けば、どうやら隠れる気はないらしい、アッバルは元気に歌っていた。ときおり地面に転がっている火山岩を紅蓮の潜むマグマの河に放り投げたりと楽しそうである。普段から暇をもて余している紅蓮も遊び相手を申し付けられて嬉しそうだ。
何ら我が身を脅かすものはない、と言わんばかりに緊張感のないアッバルの様子にデミウルゴスは満足感を覚える。アッバルはサボタージュ先に【溶岩】を選んだ、つまり、アインズに次いでデミウルゴスを信頼しているということだからだ。デミウルゴスの管理監督する場所であれば問題など起こるまいという無言の信頼――彼は眼鏡を外しハンカチで目元を拭う。宝石の瞳が濡れて光に煌めいた。
アッバルはその幼さに似合わず賢く、アインズのことを父と慕うきちんとした感性の持ち主だ。守護者の誰よりも弱い種族の生まれであるのがとても残念である。アインズは養い子の護り手としてデミウルゴスを選んだが、彼女から信頼されるかはデミウルゴスの努力次第……そして彼は信頼を勝ち得たのである。アルベドでもマーレでもパンドラズ・アクターでもない、デミウルゴスの下でアッバルは遊んでいた。これが喜ばずにいられようか?
アッバルはアインズの養い子ではあるが、やはり外様、彼女はまだナザリックでの居場所を見つけられずにいる。よってアインズはデミウルゴスにアッバルとの婚約を言い渡し、アッバルをナザリックに繋ぎ止める楔となるよう命じた。
アッバルなど本来アインズと関わりがなくば路傍の石ほどの価値も見出だせなかったであろう相手だが、彼女は至高の御方々の止まらぬギルド脱退に疲れていたアインズを支え、慰めた存在。アインズはアッバルを愛で、アッバルはアインズを親と慕う――アルベドとシャルティアを除くNPC全てが乗り越えられず乗り越えるつもりもない、創造主と創造物の壁、その外にいるアッバルへの期待は大きい。これからもナザリックにあってアインズの癒しとなって欲しいと誰もが願っているのだ。
そんなアッバルが相手だ、デミウルゴスには彼女を大切にできる自信がある。妻として愛すこともしかりだ。
しかし、アッバルと結ばれることはアインズの娘婿、義理の息子になるということでもある。
アインズを「御義父上様」と呼べるだろうか? 難しい問題だ。仕えるべき相手にそのような馴れ馴れしい呼び方をするなど、身のほど知らずにも程がある。だがデミウルゴスがアッバルを娶らねば他の誰かがアインズをそう呼ぶことになろう、そのようなこと許せるはずもない。
ゆえに、デミウルゴスは堅く心を決めた、自分こそがアッバルを妻にするのだと。
デミウルゴスはアッバルに視線を戻した。はしゃぐ彼女の容姿は十人が見て十人が頷く美しさだ。エルダーへ進化したことで更にすらりとした四肢に、しかし未だ幼い造作と
人間のような劣等種に性的な目で見られることからして許せぬというのに、その視線に晒されるのはアインズの養女・アッバルだという。――そもそもアインズとアッバルは養子縁組していないことだとか、これからもその予定はないことだとかは関係ない。戸籍も役所もないこの世においてアインズが「パパだ」と言えば親子であり、「兄だ」と言えば兄妹なのだ。趙高も真っ青である。
守護者をはじめ、ある程度の戦闘力と人に紛れ込む容姿を備えたNPCらの議論は紛糾した。これからアッバルをアインズと共に外出させる際には、アッバル専属の随行者を増やすべきではないか、と。劣等種共の品性の欠片もない視線に晒されてはアッバルが傷付くに違いない。彼女の盾になるべき者が必要だろう。アッバル様は私の胸をパフパフするのがお好きなのよ、だから私が行くわ。なにおうアッバル様は御休みのとき私のおっぱいに顔を埋めて喜んでらしたもの、私こそ行くべきよ。
これを聞いたアルベドは母子のふれあいが足りなかったのだと思い込み「お母様が今すぐ行きますからね!」等と叫びアッバルの元へ〈転移〉したし、一部NPCはアッバルが産みの親と乳離れできないまま親と別離したのだろうと涙ぐんだ。母性の象徴に執着する彼女の姿はただただ哀れである。
幼いうちに親と望まぬ別離を強いられ、育ての親とも死別などしたのだろう、一人で生きていくためにレベルを積み上げた幼い蛇。だからこそ彼女はあの幼さで身分を弁えているのだ。――異常なほど速いあのレベルを上げる速さからして、彼女はまだ生後十数年ほどであろうに。
NPCらは酔えぬくせして酒杯を干した。幼い同胞を守るのは成体の義務である。元より仕えるべきアインズの養い子ゆえ全身全霊を以て守らねばならぬと考えてはいたが、あの幼さで生死の淵を往き来し続けた彼女を正しく導いてやろうと決心した。
アッバルの未来はきっと明るい、はずである。
結婚 とは [検索]