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黄昏時。空は夕焼け色から紫色に変わり始め、穏やかな週末の夜が町に訪れようとしている。
「中沢君、ちょっと良いかな?」
「え? あっ、はい?」
少年『中沢 元国
「早乙女先生。オレに、なにか?」
声の主は、中沢の担任である『早乙女 和子
「ごめんね。帰ろうとしてる所に……」
「いえ。そんなそんな、全然ですよ。ハハハ」
早乙女先生は申し訳なさそうに、両手を合わせるが、中沢は人の良い笑みで答えた。
「実は、鹿目さんに、これを届けて欲しいんだけど……」
それは桜色の可愛らしい筆入れだった。丁寧な刺繍で『鹿目 まどか
鹿目まどかは、中沢のクラスメイトで女子の保健委員である。
今日も、二人で保健委員として保健の先生と早乙女先生の手伝いをしたばかりだった。
「私たちの都合で、暗くなるまで付き合わせたのに、急かして帰らせちゃったから……、悪い事しちゃったなぁ…私たちはこれから職員会議で、その……」
早乙女先生は本当に申し訳なさそうにうなだれた。
「ダメなら、来週、学校で返しても良いだけど……」
「イイですよ。『コイツ』で走ってから帰ろうかと思っていたので、一石二鳥というか? どっちでもイイというか? 全然大丈夫です」
中沢は、親指だけ立てた握り拳『サムズアップ』で、早乙女先生の頼みに応じた。
他ならぬ早乙女先生の頼みを断れないのは勿論だが、何より二日間も持ち物が手元にない鹿目まどかが気の毒に思ったのだ。あの忘れ物をした時の感覚は、中沢自身、大の苦手だった。
「本当? 助かるわぁ。あ、いけない! 会議! じゃあお願いね、中沢君。今度ジュースでもオゴっちゃうから!」
そうして、早乙女先生は中沢に筆入れを渡すと、パタパタと足早に職員室に戻っていった。
中沢は、先生をしばらく見送った後、筆入れをナップザックへ大切にしまうと、ストライダ君に乗り、校門を出た。
しばらく走ると、いくつ目かの交差点で、自動車はまったく通っていないのに律儀に信号待ちをしている桜色の髪の少女の後ろ姿を見つけた。
鹿目まどかに違いない。
「おーい、鹿目さーん!」
中沢の呼びかけに少女は振り返った。
「中沢くん? どうしたの、帰り道こっちじゃないよね?」
はたして少女は鹿目まどかだった。
中沢は、彼女を脅かさないように手前で自転車を停めて降りると、自転車を支えながら、器用にナップザックから筆入れを取り出すと、
「これ! 忘れ物。鹿目さんのだよね?」
と、まどかに手渡した。
「あっ……、うん。わたしのだ。そっか、わたし保健室に置いて来ちゃったんだ。中沢くん、ありがとう」
まどかは一つ頷き、微笑むと軽く頭を下げた。
「いやぁ、そんなそんな。お礼なら早乙女先生にしてよ。オレなんか、頼まれるまで気が付かずに帰る所だっただしね。ハハハ」
中沢は困った様に笑った。これくらいの事でお礼を言われたら、照れくさいったらない。
「えへへ。もちろん先生にもお礼は言うけど、持ってきてくれたのは、中沢くんだし。だから、ありがとうだよ」
まどかは、中沢につられる様に笑ってから、再び頭を下げた。
「そう……かな? じゃあ、ゼンゼンお安い御用だったよ?」
「うん!」
なぜか歯切れの悪い中沢の返答にまどかは笑顔で頷いた。
そんな彼女を見て、中沢は
(鹿目さんは良い人だなぁ。こういう人には幸せになって欲しいなぁ……)
と、思春期の少年としては、ややアレな事を思っていた。
そうこうしている内に、信号が赤から青へ変わった。郷愁を誘う優しげなメロディが流れる。
「あっ。じゃあ、中沢くん、また明……じゃなくて、来週だね。学校で……」
まどかは、小さく手を振って横断歩道渡り出した。
中沢は、胸が締め付けられる様な気分になった。怒りや苦しみ等のネガティブな感覚ではないのだが、中沢にはそれが何がナンだか解らなかった。
それは、十中八九『恋』だろう。
中沢は実に、チョロいイイ奴だった。略してチョロ沢だった。
「か、か、鹿目しゃん! おく、おく、送ってい……行くよ!!」
チョロ沢は、チョロいはチョロいなりに勇気を出して、まどかに声をかけた。
中沢とまどかは歩いていた。歩いているのは、二人だけで、時折、思い出した様に自動車が車道を通り過ぎていく。
二人の間に会話はない。
中沢は、まどかの歩幅に合わせるのを少し苦労しながら、横目で彼女の横顔を伺う。
まどかは、ややうつむき加減で歩いている。なんとなく顔を赤く見えるのは、沈みゆく夕日のせいだろうか?何にしろ、メチャクチャ気まずかった。
『ウイットなジョークで彼女に笑顔の花束をプレゼントして、楽しく家までエスコートさ♪』
などという高等技術は、チョロ沢のチョロいボキャブラリーでできるはずがなかった。
(落ち着け……。考えろ、考えるんだ。このままじゃ、鹿目さんに『変な奴』だと思われてしまう!)
もうすでに思われているのではないか? という残酷な可能性を無視し、中沢は考えた。
(…それにしても…、改めてこうやって並んで見ると鹿目さんって小さいなぁ……。腕も脚も細いし、髪なんてふわふわした感じで……、女の人ってこんな華奢な作りで大丈夫なのか?)
「吹けば飛びそうな……」という比喩表現を思い出しつつ、中沢は再び彼女を観察する。
ふと、中沢は我に返った。
(……てぇっ、オレは! 女の人をジロジロ見て! 何を考えてるんだ! これじゃヘンタイだよ!!)
胸中で盛大に頭を抱える中沢。気を紛らわせるには数式を考えると良い、と聞いた事が有る。
しかし中沢は、数学が苦手だった。そもそも数式とは何なのか憶えていなかった。
仕方がないので、円周率でごまかす事にした。
(3.1415926……3? 5だっけ? ……3.1413……杉山先生ぇ(数学担当)オレ、これからもっと頑張ります!)
チョロ沢は諦めて、数学の授業をもっと真面目に受けようと決意した。
その時、不意にまどかが立ち止った。
「? どうしたの、鹿目さん?」
「う、うん。あれ何……かな?」
中沢は彼女の指差す方向を仰いだ。
そこに『白い壁』があった。そう、『白い壁』が道を塞いでいた。
工事中なのだろうか?そんなはずがなかった。
そもそも、工事中だったとしても地面から電柱の天辺まで隙間なく塞ぐ必要など何処にも無いのだ。
「なん……だろうね?」
「クモの巣? クモの糸に見えるけど……?」
「うん、だね……」
まどかの意見に中沢も頷くが、これが蜘蛛の巣……蜘蛛の糸だとしたら何もかもが大き過ぎると思った。
中沢は愛車のスタンドを下ろすと、慎重に『白い壁』に近付く。
「中沢くん……! 気を付けて……」
「あぁ、うん……」
心配そうなまどかの言葉に、中沢は手を『白い壁』を触る直前で引っ込めた。
制服のポケット、いつも入れているシャーペンを取出し、ペン先で触れてみた。
ねっとりとした気味の悪い感触がした。
すぐにやめようとしたが、接着剤が着いてしまったかのようにシャーペンはなかなか取れない。
中沢はやっとの事で引きはがしたが、ペン先は、まだ糸を引いている。
「うん、回り道……。回り道した方が良さそうだね、コレ……。ハハハ……」
「う、うん……。えへへ……」
中沢はまどかに振り返り、不安な気持ちを苦笑いでごまかしながら、提案する。
まどかも同じような苦笑いでそれに応じた。
「? ……!」
二人が道を引き帰そうと振り返ると、『ソレ』は唐突に、そこに存在していた。
街灯の逆光で輪郭のみしか分らないが、二メートル近い巨体が強靭な筋肉に鎧われているのが、輪郭からだけでも分る。
「な、なんですか? アナタ、何か用ですか?」
中沢は、まどかを庇う様に前に出て声を張る。
声を張ることで恐怖を押さえ込もうとしているのだ。
『ソレ』は中沢の声を無視して、無言で驚くほど静かに歩み寄ってくる。
「……なっ?」
「……えっ?」
『ソレ』がやっと二人の視界に入った。
『ソレ』は、一言で言えば、《怪人》だった。そう半人半獣の《怪人》だったのだ。
《怪人》は、側頭部から四対の蜘蛛の足のような角を生やし、額には六つの黒いガラス玉のような目と、その下に爬虫類を思わせる琥珀色の双眸を持ち、強靭な顎に縁取られた牙が薄暗闇に鈍く光る。
古代ギリシャあるいは、古代ローマの戦士を思わせる具足と装身具に身を包み、《怪人》は確かな知性を感じさせる足取りで中沢たちに……いや、まどかに向かって近づいて来る。
《怪人》は右鎖骨あたりから、みぞおちに右掌を滑らせると、左手の伸ばされた人差し指と中指で、右手の甲に、アラビア数字の3を描くように動かす。
「鹿目さん、逃げて! このぉ!」
危険を感じた中沢は、まどかに叫び、無謀と思いつつも右拳に全体重と踏み込みの勢いを乗せて《怪人》の腹部に叩き付け、その歩みを止めた。
しかし、それだけだった。
《怪人》は首を傾げるように中沢を見ると、彼の襟首を引き千切るように掴み上げ、片手で軽々と脇へ放り捨てた。中沢は、塀まで転がった。
「中沢く……ああ!!」
まどかが、倒れ、呻く中沢に駆け寄ろうとしたその時、《怪人》の右手が彼女の白く細い首に掛った。
「……鹿目さんを……放……せえ……!」
中沢は、声を上げ立ち上がろうとするが、声も力もうまく出ない。
まどかは、《怪人》によって宙吊りにされ、呼吸もままならないのか、抵抗らしい抵抗もできない。『怪人』は頭上に白い光の輪を浮かべ、ゆっくりと口から極細の糸を空いている左手で引き出した。
(ママ……、パパ……、たっくん……、みんな……)
声も出せず、窒息が彼女の意識を刈り取ろうとしたその時である。
『ずいぶん楽しそうじゃねえか? 俺も混ぜろよ。えぇ、兄弟! くははは!』
あたりに皮肉気で不敵な声が響いた。