The Song of Yggdrasil.   作:笛のうたかた

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遅くなりましたm(_ _)m


旅人の歌―3

 

 月光が空から駆け下りてくる。

 海を思わせる青い輝きが、蝶の姿で風に舞う。

 吸い込まれるような夜霧の森に、人の知らない世界があった。

 幻想、夢。魔法詠唱者でさえ絵空事と断じるお伽噺のような舞台は、しかし腹にのしかかる現実感を突き付けてやまない。それでいて月光も、煌めく蝶も、目に見える幻想の全てが、引き立て役でしかないのだ。

 見えない美しさに、ニグンの視界が滲む。

 

 “――――――♪”

 

 それは、音だった。祝福だった。生命の誕生を祝い、言祝ぐ、いと高き天からの贈り物だった。

 鼓膜ではなく、魂が震える。喜び怒り、哀しみ楽しむ。あらゆる感情がぐちゃぐちゃの絵の具のように湧き上がる。哀喜し、楽怒する、わけの分からない心の動きに、馬上から降りることもできないまま、ニグンは確信を得た。

 

 ――ヒトに可能な音楽ではない。

 

 ――畢竟、これは神の御業に相違なし。

 

 そうして幾ばくの時が過ぎたのだろう。永遠に思えた福音はされど一曲分の時でしかなかったと、まるで変わらない月の傾きが証明する。神奏の音が絶え、思い出したように夜の静寂が押し寄せる。それを破ったのは、幼さを交えながらも張りのある、美しい声だった。

 

 「――嬉しいな」

 

 はっとしてニグンは袖で目元を拭う。未だ熱を持っているものの明瞭さを取り戻した視界で、声の主を見やる。

 古色蒼然とした切り株の上に佇む、小柄な人影。月光を浴び、煌めく蝶の群れを従え、神々しい竪琴を携える、まさにお伽噺から抜け出たような姿。森を彷彿とさせる深緑の衣装もその印象に相応しい。

 言葉通り、嬉しそうに微笑む端整な面差しに、信仰を神に捧げたニグンでさえ見惚れかける。男女の別なく虜にするだろう魔性の美。――しかし、羽根つき帽子の下から飛び出た長い耳にようやく気付き、ニグンはのけ反るような思いで驚愕する。

 

 (エルフ!? そんな、まさか――)

 

 法国の常識として、エルフは亜人であり下等な存在である。社会的地位は認められておらず、奴隷として売買される者が数えられるほどいるだけで、ニグンも目にした回数は多くない。それでも、その特徴的な耳を見れば種の違いは明白だった。

 だが、しかし。ニグンは目撃したのだ。未だ神奏の余韻は頭の奥に響いている。

 

 (このエルフを下等と見なすなど、私には……。いや、そもそもあれは、本当にエルフなのか……?)

 

 価値観をも打ち崩す存在に混乱したニグンの脳味噌は、不意に卵をテーブルに立てるが如き発想を得た。

 

 

 

 (――そうか! これは試練だ。神が私を試すべく、わざとエルフの姿を取っているに違いない……!)

 

 

 

 醜い老婆が実は女神であった。すげなくこれを追い払おうとしていた狭量な男は、女神であると明かされて態度を一変させるも、もはや取り繕いようがなく神の怒りに触れる――。出所不明なお伽噺だが、なるほどと腑に落ちる説得力がそこにある。

 六大神とは行かずとも、従属神のいずれかが姿形を変えて降臨したのだとすれば、この場の全てに合理的説明が付くのだ。

 ニグンは歓喜に打ち震えながら気を引き締めた。神の試練を直接与えられるなど、身に余る栄誉である。その目に留まったというだけでも、誇らしさで胸が張り裂けんばかり。である以上、神の期待を裏切るなどあってはならない。天上におわすべき御方がその身を地に下ろしたのだ。重大な意味と目的があるに違いなかった。

 一言一句聞き逃さぬ。類稀な信仰心を胸に、ニグンは次なる言葉に全神経を傾けた。

 

 

 

 

    ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

 「――嬉しいな。ここに来る人がいるなんて思わなかった」

 

 本心である。人里――あるか不明だが、多分ある――から遠く離れた森の奥も奥。現れるとしても動物かモンスターかと思っていただけに、演奏を終えて目を開けた時、広場の端に騎乗する人影を見かけて、本当に嬉しかったのだ。……いやまあ、この世界にもちゃんと人間がいるんだなぁ、と驚く気持ちも少しぐらいはあったが。どのくらいかと聞かれたら、一割の十分の一ぐらいだ。きっと。

 そんなどうでもいい思考を頭から削除し――おいコラ待てとかいう骸骨な幻聴もあっさりと無視し、アルンは両手を広げて迎え入れる。

 

 「歓迎するよ! ほら、座って座って。全部空いてるから、好きなところでいいよ?」

 「突然の来訪にも関わらず、そのような歓待の言葉……感謝します」

 「硬いねー、カチコチだよ。もっと気楽にしてないと聞き逃しちゃうよー?」

 「……恐れ入ります」

 

 顔の傷以外に特徴がない男は慣れた仕草で馬から降り、近くの木に轡を結び付けた。笑顔を保ちながらゆっくりと近づいて来るものの、どことなく緊張が見え隠れしている。アルンは内心で首を傾げたが、今は舞台に立っているのだ。余計な感情などおくびにも出さない。

 男は菌糸の観客席に戸惑いを見せたが、座れるものかどうか一度触って確認し、納得したように腰を下ろした。ちょうど真ん中あたりだ。近くもなく、遠くもない。遠慮を知る人間の選び方だった。

 うんうんと頷き、アルンはハープを親指で強く弾いた。ドン! と腹に響く太鼓の音が木霊し、男がビクリと肩を震わせる。

 

 「僕の名前はファルン・アルン。今日はどちら? 明日はいずこ? 流れる星のファルン・アルン♪ ……申し訳ないけど、僕は一度弾いた曲は同じ日には弾かないんだ。飽きるから」

 

 神妙な態度で耳を傾ける男が不満を漏らさないことに満足し、アルンもまたにこやかな表情を消して奏者の極地に心を置く。

 

 「……七連星に並ぶ七曲は生と死を表現したもの。“ドゥーベ”と“メラク”は潰え、残るは五曲。続く“フェクダ”は少年期。若々しく、生命力に溢れた時代。“メグレズ”にて人は恋を知り、“アリオト”にて愛を知る。順風満帆な人生にも分かれは付きもの。“ミザール”は愛しき人との別れを記した。そして最後に至るは“アルカイド”。衰えた肉体から離れていく魂。……自らの生に悔いがないならば、至福の記憶が蘇る。だがそうでないならば、絶望と悲哀に襲われるだろう。……覚悟はありや否や?」

 「是非もなく。この身は既に道を定め、邁進しております。悔いなど、我が身に欠片もなし」

 

 いい答えだ。アルンは唇を緩めた。即興で合わせてくれるとは、演劇の才があるのだろう。

 ロン、と弦を爪弾く。練習のつもりだった先ほどと違って、客の目がある。身の入り方が違う。

 よって存分に、心行くまでに、自分にできる最高の音色を奏でる。途中で止めたりはしない。最後の最後まで、音を紡ぐ。

 いつものように目を閉じる。だから、気付かなかった。

 男が浮かべる陶酔、畏敬。恍惚とした、感激という言葉では説明しきれない様子に。

 アルンは、知らなかった。

 あまりにも音楽というものに慣れ親しんでいるがために、想像すらしなかった。

 

 ――この世界に、天才モーツァルトがいないことを。

 ――クラシックの原点モンテヴェルディも、音楽の父たるバッハも。

 ――楽聖と謳われるベートーヴェンすら、いないことを。

 

 楽師という職業がどれほど狭い世界にあり、音楽を探求できる者がどれほど少ないか。過去に流入したプレイヤーから曲と楽譜が舞い込んでいても、それを完全に再現し得る人間は、過去数百年、誰一人としていなかった。

 そしてユグドラシルの外にさえ名を轟かせるアルンの演奏が、この世界でどれほどの域に達しているか。

 何も、知らなかったのだ。

 

 

 かくして双方が誤解したまま、悪戯好きな運命の女神は駒を進めてしまう。

 

 

 目を閉じていたアルンはその騎影に気付かず、聴き入っていたニグンもまた同じ。

 騎乗する新たな影は、魔法詠唱者でないが故に、その光景が如何なる奇跡かを理解し得なかった。

 

 

 

    ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

 至福の時だった。自らの生でこれほどの充足を得られる日が、果たしてもう一度あるのか。

 拠り所を失くした低音が寂しげに過ぎ行き、天へと突き抜ける高音が歓喜を唄う。奏でられる音色は何らの魔術的効用を持っていないにも関わらず、もはや人を魅了する魔法に等しい。ニグンは熱くなる目頭を押さえながら、神の与え給う遊楽に聴き入っていた。

 楽しき時は光陰。恋に燃えた若者が愛を知り、愛しき者との別れに涙し、やがて自らも老いて倒れ伏す。死に際に蘇る在りし日々。ニグンもまた過去を想起する。法国に生まれ育った子供時代、神を奉じ弛まぬ修練を身に課した青年時代。ついには陽光聖典隊長の地位を任されるに至った自分。

 不意にドクリと心臓が跳ね上がり、胸を押さえた。

 

 (何だ、これは……この、感情は……なぜ、昔のことなどが目に浮かぶ? このような時に雑念など――)

 

 だが考えまいとするほどざわざわと、胸の奥を虫が這うような悪寒に晒される。どうしようもなく突きつけられる過去の記憶にニグンは目を走らせた。

 幼いニグンがいる。

 鍛錬を重ねるニグンがいる。

 声を張り上げ部隊を指揮するニグンがいる。

 

 ――自分の他に、誰がいる?

 

 「っ……!?」

 

 いない。誰も。ニグンに思い描ける相手は誰もいない。恋だの愛だのそんなものは切り捨て、ただひたすら信仰に身を捧げた。それが間違いだとは思わない。ニグンのみならずあらゆる信徒にとって、自らの信仰心を神に示すことは存在意義そのもの。である以上、神の代行者に大切な者など必要ない。

 ――だがなぜ、こうも寒いのだ。腹の底から寒気が這い上がる。滝のように嫌な汗が湧く。カチカチと奥歯が鳴り、ニグンは自らの肩を掻き抱く。

 恐怖ならば耐えられる。如何なる脅威も神の試練と思えば立ち向かえる。しかし今、ニグンを襲う寒気は別種のものだった。

 暗黒の沼底にたった一人彷徨うような――

 凍てついた時の流れを誰とも心通わせず永遠に流離うような――

 神奏の音が剥き出しにした、これまでニグンが目に入れようともしなかった心の側面――

 

 ――それを孤独と、人は言う。

 

 (何という……何という…………おお、神よ!)

 

 ――だからこそ、ニグンは感激に咽び泣く。

 

 これは神の教えである。試練である。一度たりとも他者を顧みることなく、己だけを見続けたニグンへの罰である。他者に目を向けよ。人を知り、人の心を知り、人を愛せよ。声なき訓戒に諭され、滂沱の涙が溢れ出る。

 絶叫のような弦の導きにはっと目を開く。

 奇跡がそこにあった。

 天つ音が最終章を迎え、蝶の輝きが舞台に集い、音鳴りに乗って弾かれたように高く舞い上がる。

 静寂。闇が降る。月光の淡い光だけが、一つの終わりを物語っていた。

 

 

 

 「……素晴らしい」

 

 

 

 ゆっくりと一礼するエルフに万感の想いを告げたのは、ニグンではなかった。

 拍手を送りかけていたニグンは両手を持ち上げた中途半端な姿勢のまま、ぎょっと背後を振り返る。

 筋骨たくましい偉丈夫がおもむろに下馬するところだった。たまたまだろう、ニグンが繋いだ馬の傍に自分の馬も並べ――あるいはそこが馬の繋ぎ場所と思ったのかもしれないが――気負いのない足取りでキノコの観客席を素通りしていく。舞台上の演奏者に意識を惹きつけられているのか、すぐ傍のニグンに気を払う様子もない。

 だが当のニグンはそれどころではなかった。愕然とした思いでその男の横顔を見つめる。

 

 「遊芸には疎いが、それでも言葉に尽くせぬほど素晴らしい演奏であったことは分かる。本当に……ただ、素晴らしいの一言だ。王宮でさえこのような音色は聞いたことがない」

 「あはは照れちゃうな。でも宮廷楽士なら僕と同じぐらいの演奏家が一人か二人はいると思うけどねー」

 「まあ俺も詳しくないから断言はできんが……っと、失礼した。許しも得ずこの場に踏み込んだ非礼を詫びたい」

 「いいよいいよ。誰にも聴いてもらえないと思ってたのに、お客さんが二人も来てくれたんだから、僕はとっても嬉しい!」

 

 大げさに両手を広げて喜びをアピールする少年エルフに、男の口元が緩む。

 

 「……俺はガゼフ・ストロノーフ。リ・エスティーゼ王国で戦士長の任を預かっている。不躾で申し訳ないが、名前を教えてもらえないだろうか。是非とも王宮に招待したい」

 「――待て」

 

 咄嗟に、口を挟んだ。キノコの座席から立ち上がり、ニグンは偉丈夫の隣に並ぶ、

 

 「先にここに来たのは私だ。招待するなら先着順だろう。……申し遅れました。私の名はニグン・グリッド・ルーイン。スレイン法国にて、とある部隊の隊長を務めております」

 

 牽制するように偉丈夫を睨みつけ、丁重な仕草で腰を折る。

 

 「つきましては、我が国で最大級のもてなしをさせていただきたく存じます。どうかお許しくださいませ」

 

 

 

 

 




勧誘合戦開始。

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