The Song of Yggdrasil.   作:笛のうたかた

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あの人が登場。


旅人の歌―2

 肌に重みを感じるほど濃密な霧が、草原一帯を越え、舐めるように森の奥まで広がっていく。星の瞬きも月の導きも、白い闇が僅かな間に覆い尽くした。

 霧の向こうからマーレとシモベの混乱したやり取りが響いて来る。そこに一抹の申し訳なさを覚えながら、アルンは幕を引くように腕を下ろした。〈五里霧中〉に続いて発動した〈妖精の輪〉が短距離転送陣――俗にフェアリー・サークルという名で知られる、草花やキノコが綺麗な円状に生え揃った場を、濃霧の中で無差別に花開かせていく。

 足元に注意して進めば避けられる〈妖精の輪〉と、視覚を妨害する〈五里霧中〉。身を隠して逃げる際にはこの二つをセットで使うのがアルンの基本戦術だ。リキャストタイムの問題で一日一度が限界だが、真っ当な対処法が〈天地改変〉か地道な探索ぐらいしかないので重宝している。……キレた〈ワールドディザスター〉に超位魔法及び第十位階魔法を連打された時は困ったが。

 

 「……右往、左往、迷子かな♪ 霧の狭間できりきり舞い、鬼さんこちら、手の鳴る方へ♪ ……またやりたいなー、あの鬼ごっこ。異形種ばっかりのくせにノリのいい面子が多くてね、遊びなのに賭けまで始めて、嘘みたいに白熱したんだよー」

 「――」

 「まあでも、ウルベルトが最後ぶち壊しにしちゃったから、賭けは不成立でお流れになっちゃったけどね。儲け損ねた音改がウルベルトに文句言って、ヘロヘロがそこに便乗したら、なぜか愚痴の言い合いが始まったんだよね。不満はどこかで吐き出さないとパンクしちゃうから、もちろん僕も参加させてもらったけど」

 「――」

 

 ナザリック内部への入り口。その横で、アルンは壁に背を預けて座っていた。膝に抱えたお気に入りのハープ、蠢くように濃い白霧。――そしてすぐ隣の温もりを、伴にして。

 プレアデスが一人、ナーベラル・ガンマ。東洋風の面差しながら白皙の美貌を持つ、攻撃能力に特化した戦闘メイド。創造主の弐式炎雷から毒吐きナーベラルとまで評された彼女はしかし、アルンと同じように座り込み、抱えた膝に額を押し付け、声もなく肩を震わせていた。時折、押し殺し切れなかった嗚咽が漏れ聞こえてくる。

 そちらに目を向けず、霧の向こうを仰ぎながら、アルンは取り留めもない話を続ける。

 至高の四十一人の思い出。

 他愛ない日常の会話。

 冒険での失敗談。

 ただ少しだけ、啜り泣きより大きな声で。聞いていなくても構わないから、絶え間なく言葉を繋げるだけ。

 やがて彼女の震えが止まる頃、アルンもまた話を終わらせた。

 静かな時間が流れる。マーレも作業を中断したのだろう、風の音しか聞こえない。アルンは目を閉じて、静寂に息づく世界の音に耳を澄ます。

 少しして、今にも消えてしまいそうな声音が、耳朶を震わせた。

 

 「…………行かないのですか?」

 「そうだね……。あと少し、このまま座っていてもいいかな」

 「……好きにすれば、いいでしょう。ナザリックの、どこだろうと……モモンガ様は、お許しになっているのですから」

 「うん……じゃあ、もう少しだけ、君の隣にいさせてね」

 「…………勝手に、しなさい……スズムシ」

 

 ぼそりと、付け加えられた一言に、アルンは微笑みを口元に忍ばせる。

 何も言わず、拳一つ分だけ距離を置いたまま、ただ流れていく時を感じていた。

 足音が聞こえてくるまで、ずっとそうして、座っていた。

 

 

 

 

    ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

 第八階層が封印されているとはいえ、ナザリックは広大だ。九層から一層まで上がり、ようやく入口にたどり着いたユリはほっと息を吐く。九層から一層までの距離もさることながら、上層階の迷宮部分に時間を取られてしまった。……恐怖公の守護領域を避けなければもう少し短縮できたかもしれないが。

 気になるのは主人であるモモンガが〈伝言〉で呟いた一言だ。ナーベラルが泣いた。――あの、ナーベラルが?

 言葉にするのは簡単でも、どうにも想像できないというのが、姉としての本音である。

 

 (人間種への風当たりは強くても、仕事には忠実な娘だから、不測の事態が起こったことは間違いないけど……アルベド様のお言葉に感化されていたようだし、不安すぎるわね。……あら? これは……霧?)

 

 真っ白な闇がひしめく光景に目を瞠る。アンデッドのユリは種族的に闇を見通す能力を持つが、深い霧の向こうを見透かす力はない。仕方なく声を張り上げる。

 

 「ナーベ! モモンガ様のご命令で私が迎えに来ました! どこにいますか!?」

 「ここだよー?」

 

 え、と横を見れば、五歩と離れていない場所に座り込む妹と、その隣で壁にもたれかかりながらたっているアルンの姿。これほどの至近距離で気付かなかった自分に羞恥が湧く。

 

 「も、申し訳ありません、アルン様。お客様の前で大声を上げるなど、メイドにあるまじき振る舞いを……!」

 「いいよいいよ、気にしないで? この霧を発生させたのは僕のスキルだから、原因はむしろ僕にあるんだよー?」

 

 のほほんとしたアルンの返事にユリは安堵の微笑を浮かべる。寛容な方だ。同時に、このような方が色仕掛けに引っかかるだろうかと、疑問に思う。

 

 「ユリ姉さん……」

 

 そして、目の当たりにした妹の姿は衝撃的だった。覇気がなく、棘がなく、ナノグラムの毒さえない。泣き疲れた幼子のように、弱々しくこちらを見上げるナーベラル・ガンマ。隣り合うアルンと妹の間で分かれた、明暗の落差が激しすぎる。

 何があったのか――口を突いて飛び出そうになった疑問を、ユリはぐっとこらえて呑み込む。ゆっくりと妹の隣にしゃがみ込み、赤くなってしまった目元に手巾を当ててやる。

 

 「……詳しい話はまた明日。ゆっくり休むようにと、モモンガ様からお言葉を賜っています。ほら、立って。行きましょう」

 

 コクリ、と頷いて、ふらふらと立ち上がった背中を支えてやる。一礼して、二人一緒にその場を後にする。

 ナザリックの内部へ向かう間際、徐に後ろを顧みたナーベラルにつられて振り向くと、アルンがにこやかに手を振っていた。子供っぽい姿に苦笑しながらユリは手を振り返し、直後にぎょっとする。

 

 「……ナーベ?」

 「何、ユリ姉さん。……私が手を振り返したら、おかしいの?」

 「でもあなた、人間は嫌いでしょう? アルン様はエルフだけど、あなたアルベド様のご提案に喜んで賛成していたじゃない」

 「……ええ、嫌いよ。低脳で非力で見苦しい下等生物なんて、この世から消えて無くなればいい」

 

 霧の中にアルンが姿を消し、力尽きたように腕を下ろすナーベラル。黒い瞳が、立ち消えたエルフの背中を探しているように見えて、ユリは不思議な気持ちに駆られる。

 

 「……でも、例え下等生物でも、観賞に足る生き物はいる。……私はまだ、あのエルフの声と、言葉を聞いていたい。……あ、その、スズムシとか、コオロギとか、そういう感じで、深い意味は全然なくて……!」

 「別に弁解しなくてもいいでしょう? 吟遊詩人と聞いたけど……そんなに凄かった?」

 

 尋ねた途端、何を思い出したのか、ナーベラルの横顔がみるみるうちに赤く染まる。哀しみと懐かしみと、羞恥に喜びがごちゃ混ぜになったような表情を浮かべ、いきなりその場に蹲って頭を抱えた。

 

 「わ、私は、あんな観賞生物の前であのような醜態を……!」

 「今頃恥ずかしくなったの? 斬新ね、思い出し恥じらいなんて。……というか下等生物じゃないのね」

 「ユ、ユリ姉さん! 今すぐあのエルフの記憶を抹消するにはどうすれば!?」

 「モモンガ様にお尋ねするしかないと思うわ」

 

 くっ、と唇を噛み締めたナーベラルは今にも割腹自殺でもしそうなほど悲壮な顔色だった。……喩えであって、本当にするとは思わないが、他に妥当な形容が見当たらないのもまた事実。元気になって何よりだけど、とユリは溜息をこぼす。

 

 「――どうしても、ということであれば、私からモモンガ様にお聞きしましょうか?」

 

 突然かけられた声に、二人してびくりと肩を跳ねさせる。暗い通路の奥から、純白のドレスを纏う悪魔がするすると姿を現した。

 

 「アルベド様? どうしてこちらに……」

 「ナーベラルの様子が気になったのは私も同じだから、モモンガ様にお許しをもらったの」

 

 慌てて立ち上がったナーベラルが居住まいを正す様子を優しく見つめながら、アルベドが言葉を続ける。

 

 「アルン様のご不興を買っていないか――というのは建前として、ナーベラルが私の提案をさっそく実行したのなら、その結果がどうなったか気になって仕方なくて。……その様子からすると、失敗したみたいだけど」

 「アルベド様、昨夜は賛同する妹たちの手前、差し出口は控えましたが……やはりアルン様に色仕掛けを施すなど、モモンガ様に対しても不敬かと思われます」

 

 美を武器に迫り、手を出して来たらそれを口実にナザリックから追い出す。サキュバスらしい奸智だが、納得してはいない。だからこそ昨日は中立を貫いたし、当のエルフが、あのナーベラルが態度を翻すほどの傑物であると分かった今、賛同する理由は露と消えた。明確な反対の意思を見せて、ユリは眼鏡の奥で目を光らせる。

 

 「守護者統括ともあられる方が、なぜそのような軽挙を唆したのか、お聞かせください」

 「……分からないの?」

 

 頬に手を当て、守護者統括は困惑の気配すら漂わせる。

 

 「あなたは真面目だけど、こういう駆け引きには向いてないのね。仕掛けられた彼の方が理解しているのに、プレアデスの実質的なリーダーがその体たらくだなんて……。今後はそういった方面の教育をメイドたちにもしていくべきかしら?」

 「……お、お待ちください!」

 

 愕然とした面持ちで、ナーベラルが声を上げる。

 

 「なぜ、顔を合わせてもいないアルベド様が、そのように確信をお持ちなのですか!? それにあのエルフは、私の演技を見破ったと……!」

 「確かに、昨日六階層の闘技場で別れて以来、顔も合わせてないし、〈伝言〉を交わすこともなかったわ。……でも、モモンガ様を通じて彼は言伝を残していったもの」

 

 驚くナーベラルの方こそを、不思議そうに見ながら、守護者統括は言う。

 

 「『傍付きでも側仕えでも何でもいい』、と。ただ了承の意を伝えるのではなく、“何でも”いい。しかもその言葉を私に伝えたのはモモンガ様。つまりこれはお二人からのメッセージなのよ。――“できるものならやってみろ”、という」

 「……な」

 「モモンガ様が黙認されたのだから不敬には当たらないわ。当事者のアルン様も同じこと。……それについさっき、結局上手く行かなかっただろう、という意味のお言葉もいただいちゃったから、もうどうしようもないわね」

 「時系列が前後していませんか? アルベド様の提案があったのは昨夜遅く、アルン様が寝付かれてから。アルベド様の策に気付かれたアルン様が、モモンガ様に言伝を頼めるのは早くても今朝のはず。私たちにお話しいただいた時点では不敬に当たらないかどうか判断できないのでは?」

 「目に見えることならよく把握しているのね、ユリ。……そうね、確かにユリの言う通りだけど、言ったでしょう? 『上手く行けば儲けもの』だって。成功すれば万々歳だけど、失敗して得られるものがあるなら実行する価値はあった」

 「失敗に、価値が……?」

 「そうよナーベ。実際に失敗してみて、あなたはあのエルフをどう思った?」

 

 ナーベの黒い瞳が感情のさざ波を映した。一度ぎゅっと目を閉じて、喘ぐように答える。

 

 「凄い……と、ただそれだけの、凄いという言葉しか、今は……」

 「それが答えよ」

 

 え? ナーベと二人、ユリは呆気に取られる。

 

 「凄いが、答え? それは、どういう……」

 「私も、あなたたちも、ファルン・アルンというエルフのことを何も知らない。あの妙な言動のおかげで何を考えているのか全く分からないし、人となりも掴めない。――だけどこの策を実行したことで、まず一つ解明できた。あのエルフは、他者の心理や思惑を量る術に長けている。プレアデスを傍に置きたいという私の言葉を受け取っただけで、色仕掛けの可能性まで考慮するぐらいには、泥沼の人間関係を経験している。――即ち普段の軽薄な態度は作ったもの、演じたもの。本人はそれを楽しんでいるようだから、全てが全て虚構というわけではないでしょうね。……だけどあの明るい笑顔の裏には、そんな些細な策にさえ気を払う賢しさが隠れている」

 

 アルベドの爬虫類のような縦長の瞳孔が、怜悧に輝いた。

 

 「モモンガ様に見透かされるのは元から織り込み済みよ。それも含めて、プレアデスを束ねるセバスではなく、直接モモンガ様にご提案したの。そしてアルン様に指摘された場合は、守護者統括の命令だと事が大きくなってしまうけど、メイドの独断だったらまだ融通が利くでしょう? もしもの時は全力でかばうつもりでいたし……第一、いくら気安いご友人同士でも、あなたの部下に色目を使われて困るなんて、なかなか言えないわ。誰だって自意識過剰に見られたくはないでしょうし、それが本当に色仕掛けかどうかなんて証明しようがないもの」

 

 至極当然のように、たった一つの策に秘められた真意が語られる。

 

 「彼が女で転ぶ人間かどうか。転ばないならそれは紳士として手を出さないのか、それとも色仕掛けと見破ったのか。見破ったとしたらどの段階で察したのか、またそうと理解してどう対処するのか。モモンガ様に密告する? それとなく距離を置く? 傍付きを拒否する? 泳がせながら逆に陥穽を用意する? 適当にあしらう? ――ほら、こうして考えて行けば、彼の人格や行動原理、思考回路が少しずつ見えてくるでしょう? その結果はナーベ、あなたが言った通りよ。モモンガ様がお認めになるだけあって、彼は“凄い”わね。あしらうどころか、一日で人間嫌いのナーベを誑し込んでしまうんだもの」

 「わ、私は誑し込まれてなどいません!」

 「ユリ?」

 「……少なからず心を許しているのは確かかと」

 「姉さん!?」

 

 裏切りを受けたような顔を向けられても困る。事実だ。言外にそんな視線を送ると、ナーベは悔しそうに歯軋りする。

 

 「さて、疑問は晴れたかしら? 二度も同じ話をしたくないから、他の娘たちの疑問にはあなたたちで答えてあげるように。……ナーベ、今日の報告は明日の朝一番にお願いするわ。ゆっくり体を休めなさい。これはモモンガ様のお言葉なのだから」

 「はっ、ありがとうございます。私もアルベド様にはめられたわけではないと知って、安心いたしました」

 「……はめられた?」

 

 ユリが首を傾げるのと、アルベドが眉をひそめるのが同時だった。

 

 「ナーベラル・ガンマ、彼に何か言われたの?」

 「え? あ、その……昨夜のお話で、命令ではなくお願いという形で私たちに策を語ったのは、アルベド様が私たちに責任を着せるためだと……。で、ですが、もしもの際はかばってくださると仰ってくだいましたから、もはや何の心配もしておりません!」

 

 そう力説するナーベラルだったが、アルベドは頭が痛い様子で額に手を当てる。

 

 「油断ならないわね。私がこうして説明しなければ、あなたの中で私に対するしこりが少なからず残り続けたでしょう。……まったく、煮ても焼いても美味しくなさそうなエルフで嫌になるわ」

 「いえ、エントマであればどちらでも美味しくいただくかと思われますが」

 「……」

 「……」

 

 ユリはアルベドを見た。アルベドもユリを見た。

 

 「……教育は任せるわ」

 「……謹んで承ります」

 「姉さん? アルベド様?」

 

 分かっていないナーベラルをよそに、二人分の溜息が重なった。

 

 

 

 

    ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

 「こいこい、三光、猪鹿蝶。濃い濃い、月光、シカトかな♪ ……だから霧が濃いんだって」

 

 スキル使ったの僕だけど、とぼやきながらアルンは奥深い森に踏み入る。

 〈五里霧中〉は物理的な視覚妨害スキルであり、逃亡か奇襲に使われることが大半だ。使用者を行動不能にする以外発動を阻止する方法がないため、嫌がらせ予防の意味も込めて二十四時間という厳しいリキャストタイムが設定されている。アップデートで実装された際には強スキルかもと期待されたものの、探知系能力を持つ相手にはほぼ意味がない上、使われると面倒だが使いどころには困る微妙な性能という事実が広まった途端、あっという間に死にスキル認定されてしまった。

 ――だがそれは、ユグドラシルでの話でしかないのかもしれない、とアルンは辺りを見渡して思う。

 

 (適当に〈妖精の輪〉を踏んで連続転移したのに、この霧どこまで広がってるわけ……? ナザリックに設置したマーカーからもう二十キロ近く離れてるんだけどなー)

 

 以前は違った。どんなに他のスキルで強化してもエリア一個分が限度で、それ以上はどうやっても広がらないよう制限されていた。――ではその制限がなく、現実の霧と同じように風に乗って流れるとすれば?

 

 「困った。せっかく抜け出てきたのにこれじゃ探検にならない……地形もいまいち分かんないし」

 

 ぐるりと見渡しても霧、霧、霧……。スキルの使用者も霧に巻かれるのが〈五里霧中〉最大の欠点だ。旅人系クラスを修めているアルンだから迷う心配はないが、景色が見えないのはどう考えても失敗だ。

 

 「……仕方ない。切り替えよう。どうせだから楽しまないと」

 

 お気に入りのハープを一旦アイテムボックスに仕舞い込む。代わりに取り出したのは指揮者が使う棒――タクトだ。握りの部分には細い蔦が絡みつき、瀟洒な白い花が縁取った部分から、鋭い針のような棒が伸びている。森をイメージして作ったアイテムだが、これ自体のレアリティはそれほど高くない。

 ただ楽士系統の派生クラス〈コンダクター〉のスキルを使うには、あった方が便利なだけだ。

 

 「アン、ドゥ、トロワ――森よ、木よ、花よ。スリー、トゥ、ワン――霧よ、雲よ、月よ」

 

 三拍子を刻みながらタクトを振るう。軌跡がエメラルドの光を帯び、地へ、森へ、空へ、粉吹雪のように舞い散る。

 トン、トンと足先で奏でたステップと共に、光の渦を振り下ろす。

 

 「〈メイクアップ・ステージ〉!」

 

 ざわり、と木々が震えた。梢をざわつかせ、身をくねらせ、ずぽっ――と地面から根を引っこ抜く。

 

 「……へ?」

 

 予想だにしない光景を前に、目を丸くする。樹木の一本一本が隊列を組み、そのまま規則正しく行進し始めた。ぼこぼこになった地面を下生えが飛び上がって踏みつけ、平らに均し、にょきにょきと頭を出したキノコが椅子代わりになるほど急成長したかと思えば、野花がキノコの隙間を埋めるようにこぞって飾り立てていく。

 一際樹齢を感じさせる古木がのっしのっしと奥の方から歩み出て、背伸びをするようにぐぐっと大きく反り返る。ぱっくり口を開けた切り株の舞台があっという間に出来上がり、気付けば天然のコンサート会場が完成していた。円形の広場だけ刳り抜かれたように霧が晴れ、舞台上に月光が降り注ぎ、なぜかキラキラと輝く蝶が楽しげに宙を舞う。

 

 「…………現実ってすごい」

 

 間違ってもユグドラシルでは、ここまで無駄に負荷をかけるようなスキルではなかった。光って場所に合わせた雰囲気のステージを作って終わりだ。

 茫然と、しかし陶然と、呟いたアルンの口角が上がっていく。

 

 「すごい……すっごい……うわぁ、こんなステージがいつでも作れるとか、最っ高……!」

 

 しかも、これはきっと夜の森に合わせた形で、環境が違えば他の舞台が出来上がるはずだ。使ってみてその確信が湧いた。クリエイト系魔法のスキル版で、魔法と違って汎用性に欠けるが、趣味スキルであることを考慮した運営の計らいにより、回数制限が撤廃されたのだ。一時間のリキャストタイムが必要なので実際には二十四回までだが、一日の間にそう何度も使うスキルではない。

 ――いや、そんなことはどうでもいい。アルンはすぐさまタクトを片付け、お気に入りのハープを手に取る。心が急かすままにキノコの観客席の間を走り抜け、自分のための舞台へ一直線に飛び上がった。

 

 「……あ、そっか。お客さんは誰もいないのか」

 

 空っぽの客席を振り返り、舞い上がっていた興奮が少しだけ薄れる。

 残念だが、だったらリハーサルのつもりで頑張ろう、と気を取り直す。予行演習なら、いずれ訪れる本番のためにも、本気で弾こう。

 

 「――ようこそ、月夜の森の音楽祭へ。ファルン・アルンの演奏会へ」

 

 誰もいない観客席に向かって深々と腰を折ったアルンの口から、流れるように前口上が滑り出る。

 

 「今宵の曲目は“ドゥーベ”に始まる七連星。死と冬を意味する北の象徴でありながら、命を掬い上げる形をした慈愛の星。……一人としてここに居ずとも、いつか聞いてくださる誰かのために、心よりの演奏を」

 

 左腕でハープを支え、右手の指を弦に添える。

 ロールプレイ用――つまり吟遊詩人用の曲は伴奏みたいなものだとアルンは区別している。詩吟が主役で、演奏は添え物。スキルの使用時も目的が違うため別枠である。だからまだこの世界に来て、真面目な意味での演奏は一度もしていない。――いや、ユグドラシルが終わると知って、しばらくゲームに比重を傾けていたから、かなり久し振りだ。

 錆びついてなければいいな、なんて思いながら、すぅっと息を吸い込んだ。ゆっくりと吐き、呼吸を整える。チリリと頭の奥で電流が走り、演奏を行う状態に意識が切り替わる。

 音が消えていく。まるで世界から隔絶され、切り離されたかのように、アルンの耳から音が絶える。

 誰に言っても理解してくれない。科学的に解明できたわけでもない。しかし確かな事実として、アルンはその時、その瞬間、ありとあらゆる雑音から解放される。目を閉じればそこはもう、暗黒の大海原。何も見えない。何も聞こえない。がらんどうの虚無の世界。

 ――だけどほら、大丈夫。心配しないで。ちゃんといるよ。ここにいるよ。――僕がいるよ。

 唇に笑みを浮かべ、研ぎ澄まされた指先が音を生む。

 ロン、と弾けた音が、空虚な闇に軌跡を曳いた。ひとつ、ふたつ、みっつ。数えきれない鈴生りの音が流星の如く尾を引き、光となって橋を架ける。――ほら聞こえるよ、君の声。目を開けてごらん。――世界はもう、暗くない。

 彼方から此方へ。此方から彼方へ。

 音の連なりが星となり、月を生み、太陽となって、銀河を生む。星々が誕生し、潰え、また集う音が星となる。虚無はいつしか、無数の光に満ち満ちる。

 煌めく音の道標。ファルン・アルンの演奏を評して、誰かが言った。

 

 ――まるで天の河のような音楽だ。

 

 その音は澄み渡り、どこまでも遠くへ駆けていく――

 

 

 

 

    ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

 「……何だ、この……美しい、音色は。……いや、これは本当に、音楽なのか……?」

 

 平凡な、特徴というものに見放された男の顔が、陶酔に歪んでいく。

 霧に巻かれた森の奥深く。人の気配などあるはずがない場所で、天上の調べが響いていた。――人気がないからこそ、神がその腕を披露しているのかもしれない。

 ニグンは一切の疑いなく、神が奏でているものと信じた。祖国の、国を挙げての宴でさえ、こんなにも魂を震わせる音色に出会ったことはなかった。

 導かれるように調べの源流へ馬を歩かせる。任務のことなどもはや頭から抜け落ちている。突如霧に巻かれ、現在置を消失し、部下とはぐれた状況さえも忘れ去る。

 ただ音へ。音色へ。この調べの元へ。

 ニグンの前で、不意に霧が晴れた。

 

 

 

 ――この世のものとは思えない幻想的な世界が、そこに広がっていた。

 

 


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