身体は浮遊感を増し、身体と世界の境界線がぼやけていく。
力を入れていた腕は解され、溶けていく。
そしてとうとう身体は世界を浮遊し始めた。
同時に焦燥、恐怖が音を立てて消え去った。
ここは蒼の世界。
魔女が作り出した海。
息を吸う術のない人間はただ漂う事しかできない。
見上げた空は何処までも遠い。
第24話 私にできること
「この結界って前の奴と一緒だ。…リベンジマッチね。」
魔法少女へと変身を遂げた美樹さやかは辺りの状況を確認するよう左右を見渡した。
結界の広さは先程まで見えていた公園より遥かに広い。
まるで海かと錯覚してしまいそうな程、底は見えず見上げても何一つ変わらない蒼が広がっていた。
頭上へ上がれば上がるほど明るく、沈めば沈むほど暗い所など本物の海のようだ。
辺りにはまだ魔女の姿も使い魔の姿もない。
剣を構えるも向けるべき相手がいない。
とりあえずは先程まで手足を抑えていた、今は世界を漂うだけの一般人を一カ所に集める。
「あいつに出来るなら私にだって!」
空いている左手を人々に向けて突き立てる。
すると剣が何本も現れ、一般人を取り囲むような檻を形成した。
佐倉杏子の作った結界を意識して創ったそれは、片刃を外側に向けて形成され、外から迫り来る敵を容赦なく切り捨てる。
これで少しは一般人を気にせず戦うことが出来る。
結界を創り終えた美樹さやかが振り返ると、いつの間にか人形の形をした使い魔の群が壁を作るように現れた。
その数80。
使い魔の作る壁の向こうに、テレビが羽を生やしたかのような、使い魔とは違う生物が辛うじて確認できた。
黒のブラウン管テレビに羽を一対組み込んだような様相で、画面は砂嵐を延々と流し続けている。
小さな羽をパタパタと羽ばたかせ、結界内をプカプカと飛び回っている。
その余裕を見せつけるような行動に美樹さやかは奥歯を強く噛み合わせ、握っている一振りの剣真っ直ぐに突き立てた。
それを合図に使い魔は波のように巨大な壁のまま押し寄せる。
いや、倒れ込む、といった表現が正しいかもしれない。
それを美樹さやかは退く事も避ける事もせず、真っ直ぐに突き立てた剣そのままに壁に突っ込んでいく。
一歩の跳躍は肉体を音速の塊とし、とても視認できる早さではない。
使い魔から見れば消えたように感じてしまう程だ。
壁を構成する使い魔1体の胴体に剣が突き刺さる。
突き立てた剣と突進による衝撃波だけで使い魔の壁は呆気なく穴を空け瓦解していった。
「舐めんじゃないわよ!」
美樹さやかは一直線に魔女へと突き進む。
既に使い魔の壁を越え、美樹さやかと魔女の間に遮る物は何もない。
勝利を確信し美樹さやかは大きく振りかぶり、魔女を真っ二つにせんと袈裟切りを放った。
魔女のテレビのような身体に刃が近付いていく。
このタイミングでは魔女は避けること叶わず、身体を斬られ結界は消えていく。
美樹さやかの勝利は確かに確定的なものだ。
…しかしこの魔女は違う。
もう3度も美樹さやかの剣戟、速度を経験した事があるのだ。
魔女は身体を大きく斜めに傾ける。
たったそれだけしか反応出来なかった。
ただそれだけで美樹さやかの剣は魔女を切り裂く事なく空を切った。
「っ!?」
ゴッと鈍い音が響く。
魔女はパタパタと結界内を飛び回り、使い魔は主を守ろうと美樹さやかとの間に壁を作る。
状況は巻き戻しされたように元通りになった。
美樹さやかは魔力で作り出した足場で突進の勢いを止め、くるりと魔女へと振り返る。
右手には先程同様剣が握られていて、額からは紅い液体が流れていた。
刹那の攻防。
確かに美樹さやかは必殺の剣を魔女に振り下ろした。
人で例えれば左肩から右足に向けて真っ二つになるように。
それを魔女は左肩を挙げ、右足を下げた…用は身体を全体的に右下がりに傾けたのだ。
もしそれが人であるなら剣は肉を割き骨を砕き首をへし折り、そして肉体を切り分けていただろう。
しかしそこが人と魔女の異なる所だ。
テレビの形をした魔女が傾くということは、平らな頂部が急勾配な坂道のように斜めになる。
そこに剣が振り下ろされるが、剣は身体を切り裂く事なく、美樹さやかの予想以上につるつるとしたボディに、剣が沿うように滑ってしまった。
その結果剣は切り裂く事なくボディを滑り、そして空を切った。
また魔女を切り捨て駆け抜けようとしていた美樹さやかだが、いざ魔女の横を通り抜けようとした瞬間、魔女の身体の角が眼前に現れる。
超スピードの美樹さやかにそれを避ける術はない。
その結果が額から流れる血液だった。
身に着けている白の手袋で血を拭う。
すると出血は瞬時に治まり、傷口が塞がっていた。
こういう時は魔法が便利な物だと心底思う。
一息吐いて迫り来る敵を見定める。
美樹さやかにゆっくりと近付いてくる使い魔が10ほど。
後は変わらず壁を作り、主を守ろうと必死である。
近付く使い魔が美樹さやかに辿り着くまではまだ少し時間がかかる。
勿論美樹さやか自身が打って出ればすぐさま衝突する距離ではあるが、美樹さやかはそれを選択しない。
「あんたを倒せば手に入るんだ! だからっ!」
以前佐倉杏子に指摘されていた攻撃。
魔力を著しく消耗してしまうそれを承知しつつも、この魔女を倒すことで手に入るであろうグリーフシードにより浄化できれば問題ない、と取らぬ狸の皮算用である。
しかしそれが勢いに繋がる。
持っている剣を左手に持ち替え、そして右手に新たな剣を創り出す。
それは既に使い慣れたものである投擲用の剣。
それを力強く握り締め、そして使い魔の壁の中心目掛けて神速の剣を放つ。
風を割き空気を貫き、そして使い魔の壁をいとも容易く突破する剣。
そしてその先にはパタパタと飛ぶ魔女の姿があった。
あくまで狙いは魔女のみ。
2度逃がした教訓は確かに美樹さやかの奥底に根付いていた。
しかしまだ甘い。
先程の美樹さやかの一撃を結果的に避けた魔女は、ただ羽ばたくだけで飛来する剣を簡単に避ける。
そしてその様子に舌打ちする美樹さやかは、突如焦りを浮かべる事になる。
剣は障害物に当たることなく、真っ直ぐに飛んでいく。
使い魔の壁を越え、魔女を狙い、そして避けられた先には…
「っ!? 危ないっ!」
剣が向かう先、そこには結界の中に現れた新たな結界。
美樹さやかの作り出した剣の結界に向けて、美樹さやかの必殺の剣が刻一刻と迫っていた。
それは結界すらも破壊してしまいかねない一撃。
美樹さやかが空になった右手を突き出し、握り拳を作るような動作を行うことで投擲剣は霧散して消えた。
「くっ…こいつなんなのよ…」
額に付いた汗を拭い、再び右手で剣を握る。
腰を落とし軸足である左足に力を入れていく。
使い魔はケラケラと笑い、魔女はそのテレビのような身体にある画面に先程の慌てて右手を突き出す美樹さやかの姿を、まるでリプレイ再生のように映し出していた。
一息深呼吸を行い心の乱れを抑える。
魔女の良いようにされている現状を認知し、一度冷静になってから辺りを再度見渡す。
相変わらず使い魔は壁を作り、魔女はその向こうでパタついている。
美樹さやかの創り出した結界も依然として健在だ。
瀬津そうまから受けたアドバイスが頭に過ぎる。
『先ずは冷静に状況確認。それが第一だ。それから自分にとっての敗北条件を考える。』
美樹さやかにとっての敗北条件…それは美樹さやか自身が魔女に負ける。
それだけでなく一般人を守れず、魔女に危害を加えられる事。
美樹さやかは誰に聞かれた訳でもなく、ただ1人軽く頷く。
(えっと…それから…自分に出来ない事を挙げていく、っと。)
美樹さやかは片手剣による接近戦を好むが、剣を飛ばすことで遠距離戦も可能。
より魔力を負担すれば太刀筋を飛ばす事も出来た。
しかしこの場において遠距離戦は最善手ではない。
一般人を守る結界を気にしながら、という煩わしさも有り、またソウルジェムも濁ってきている。
美樹さやかは再び深呼吸を行う。
戦い方は決まった。
美樹さやかは左足で大きく蹴り出す。
「つまり全部ぶった切ってやればいいんでしょ!」
美樹さやかは剣一本を身に付け使い魔の壁へと向かって跳ぶ。
一匹、二匹…
美樹さやかの振るう剣は次々と使い魔を両断していく。
一振りで三匹、瞬きのうちに五匹、一秒のうちに十匹…
時間が進むにつれ使い魔の壁は小さくなっていき、脆く瓦解していく。
ものの三十秒ほどで使い魔の壁は完全に崩壊した。
それでも美樹さやかの剣劇は止まることはない。
残る数匹をも完膚なきまで叩き切る。
使い魔程度では美樹さやかの流れるような立ち筋を避けることはできない。
遂には壁を形成していた使い魔を全て消滅させることに成功した。
しかしそれだけでは結界は消えることはない。
美樹さやかを観察するように辺りを浮遊し、そして新たに使い魔を生み出している魔女が今もなお健在しているからだ。
もちろんそれは美樹さやかにも分かっている。
使い魔の壁を壊し、美樹さやかは後方を浮遊する魔女の方を見上げる。
そこには新たに、先ほどよりも小規模ではあるが、新たな使い魔の壁が出来上がっていた。
「甘いっての!」
脚に力を入れ、そして結界内を跳ぶ。
目標は使い魔の壁、ではなくその先にいる魔女、でもない。
後方に跳んだ美樹さやかは身体を回転させ、その勢いのまま腕を伸ばす使い魔の群れを一振りで吹き飛ばす。
美樹さやかの目の前には剣の結界。
中の人たちは全くの無傷であり、この結界の魔力を浴びてかとても気持ちよさそうな表情を浮かべていた。
「ははっ! 仁美のこんな顔初めて見たかも!」
つい笑顔がこぼれてしまうがすぐさま気を引き締め直し、剣を握り直した。
魔女との距離は約20m。
間にある使い魔の壁まではあと15mといったところ。
美樹さやかはまたも剣を両手に携えた。
まずは左手に握る投擲剣を使い魔に投げる。
先ほどの再現を見るように使い魔の壁は真ん中に穴をあけ、そしてその奥にいる魔女はいとも簡単に避けた。
何度も見た攻撃、何度も体験した攻撃。
それだけに魔女は攻撃を先読みしているかのように剣を的確にかわす。
美樹さやかと魔女の距離は依然として変わらない。
魔女は美樹さやかを観察するように結界を漂い羽ばたく。
もしも魔女に目があれば、この時美樹さやかと眼が合っていただろう。
不敵な笑みを浮かべ、勝利を確信したかのような表情を浮かべる美樹さやかと。
「切り札は最後まで取っとく物でしょ!」
美樹さやかは再び剣を創り出し両手に剣を携える。
先ほどまでのやり直しのようであるが、今度創りだした剣は投擲剣ではなく普通の片手剣。
両手に片手剣を持ち胸を突きだすように身体をそらす。
腕は左右それぞれを斜めに高々と上げ、身体全体を大きく見せるように剣を高々と上げた。
振り下ろされる両手の剣。
切っ先は空を切り風を切り、そして真空波を作り出す。
魔力を込めた美樹さやか最大の一撃は三日月型に飛んでいく2m程の真空の刃。
魔力はより消費するものの、一点を撃つ投擲剣よりも線で切り裂く真空波は広範囲かつ高火力だ。
速度も大気の圧を受ける投擲剣に対し、魔力を編み込んだ真空波は物理法則さえもねじ曲げ音速の速さで敵に迫る。
穴の空いた使い魔の壁を抜け、魔女の身体を縦に切り裂く2つの刃が魔女に向かっていた。
先程までは使えなかった遠距離技。
その制限の原因たる一般人は美樹さやかの背後にいる。
そこまでお膳立てすれば、近距離も遠距離も知ったことではない。
ただ敵を討つためだけに剣を握り、ただ美樹さやかの小さな世界を守るために魔力を振るう。
そして2つの真空波が結界を切り裂いた。
再び上条恭介の自宅前。
結界が解かれた際に美樹さやかが立っていた場所は意外にもそこだった。
上条恭介の自宅からは今もぎこちないヴァイオリンの音色が聞こえている。
どうやら魔女の結界に巻き込まれてはいなかったようだ。
「あっ…そういえば。」
美樹さやかは辺りを見渡す。
するとすぐさま目的の人物は視界の中に入った。
「良かった…命の恩人なんだから、感謝してよね。」
こっそりと近付き目の高さを合わせるように座り込む。
勿論一介の女子中学生なので、座るときスカートを挟み込むように座ることを忘れない。
笑みを浮かべながらすぅすぅと寝息を立てている志筑仁美の頬を人差し指でつつく。
プニプニと何度かつつくも志筑仁美は起きる様子はない。
少しばかり柔肌を堪能した美樹さやかはようやく指を離し立ち上がる。
もう一度上条恭介の部屋を外から見上げ、そして帰路につく。
そんな時背後から急に声をかけられた。
「忘れ物だよ。」
「えっ? わっ!?」
振り返ると眼前に何かが迫ってきたので、慌てて右手でそれを受け止める。
飛来してきたそれは消しゴム程度の硬い物体。
感じたことのない感触に視覚を持って確認してみると、それは過去に巴マミが見せてくれた物だった。
「魔女を倒した報酬だ。あんたの手柄なんだ。受け取りな。」
「佐倉…杏子…」
グリーフシードを握る手に力が入る。
燃え盛るような紅い髪の毛に八重歯が特徴的な魔法少女、佐倉杏子がポッキーを口に加えながら不敵な笑みを浮かべていた。
魔法少女の夜はまだ終わらない。