第12話 後ろめたさ
夏の陽気がぶり返してきたかのように、見滝原市は連日の猛暑日を記録していた。
登校するだけで額には汗がにじみ、知らずと財布を持った手が自動販売機へと伸びていく生徒も少なくない。
駅へと向かうスーツ姿のサラリーマンはクールビズと呼んでいいのか、ネクタイをはずし袖を捲り上げ会社へと向かっている。
すっかり参ってしまいそうな気温の変化に、美樹さやかは窓の外を見下ろしながら、涼むようにパタパタと自身の手のひらを扇いだ。
教室内はエアコンにより快適な室温に管理されているのだが、窓から差し込む太陽光に若干熱を感じる。
美樹さやかの隣で、同じように外を見下ろす鹿目まどかもピンクのハンカチを団扇代わりに扇いでいた。
その事実を裏付けするように、窓際には鹿目まどか達以外のクラスメイトは存在せず、皆廊下側で楽しげに話しを繰り広げていた。
それは教室でただ楽しく話していたい生徒にとっては当然の行為であり、また鹿目まどか達にとっても都合の良いことでもある。
「うわっ!? あんな態勢から決めるの!?」
鹿目まどかの肩には気候など我関せず、といった様子で眠り続けるキュゥべえがいた。
勿論一般人であるクラスメイトにはその存在は見えていない。
その存在を視認できるのはこの学園には5人しかいない。
その内の2人が内緒話するかのように…
堂々と且つひそひそと窓際で話しを繰り広げていた。
眼下に広がるのは見滝原中学校が県下2位を誇る、広大な敷地面積である校庭が広がっている。
辺りを林で囲まれた本校はその余りある敷地を贅沢に利用し、野球とサッカーを1試合同時に行えるほどだ。
従って昼休みにはスポーツ好きの学生が校庭には多々存在するが、鹿目まどか達はその中でも端の一点だけを眺めていた。
「瀬津君、なんであんな動けるんだろう?」
「どうせまた『俺って何でも出来ちゃうからな~』…とか言ってくれるんでしょうね。あ~、腹立つ!」
「あはは、瀬津君なら言っちゃうかもね。」
校庭の端、校舎から少し離れた所にあるバスケットリング。
そのリングに向けオレンジ色のボールを放る男子生徒の群れに、キュゥべえを視認できる5人の内の1人がいた。
瀬津そうまはその長い手足を利用して鋭いカットインを見せ、そのまま数人の男子生徒を置き去りにした。
そして今日何度目かのシュートをリングに叩き込んだ。
校門を飛び越える脚力はバスケットボールにおいても絶大な力であった。
それだけではなくその右腕から放たれるパスは悉く敵陣の急所を突き、パスを受ける男子生徒があまりにもドンぴしゃ過ぎて胸元でのキャッチングをミスしてしまうほど。
瀬津そうまがボールを持つとゴールの匂いが、遠くから眺める鹿目まどかにすら感じられる。
事実またしても決定的なパスをゴール下へと供給した。
「…マミさん、どこ行っちゃったんだろうね?」
「…それが分かったら苦労しないんだけどね。」
鹿目まどかは辺りを囲むように存在する広大な林を見やる。
そこに金色の影は見当たらない。
美樹さやかも口惜しそうに顔をしかめた。
あの魔女退治の次の日…
安心した子供のように微笑んだ巴マミはその日を持って3人の前から姿を消した。
魔女退治の体験講座は勿論無期限停止を瀬津そうまから受けるまでもなく、教授がいなくなってしまったのだから続けようもない。
そのためもあってか鹿目まどかと美樹さやかはここ一週間、肩で眠るキュゥべえの存在にも気付けない一般人と変わらぬ生活を送っていた。
むしろ鹿目まどかや美樹さやかにとっては都合の良い事態でもあった。
以前と変わらぬ笑顔を振り撒いて、昼休みにはクラスメイトとバスケットボールをする瀬津そうまの姿を見るとどうしても思い出してしまう。
漂う血の臭い。
溢れ出す死への恐怖。
魔女の力に対してどうすることも出来ない絶望感。
そしてその異世界から離れることで簡単に訪れる平穏な日常。
鹿目まどかは既に魔法少女に羨望の眼差しを向けることは出来ない。
「そうまの奴は『任せとけ』とか言って、1人で勝手に行動してるし。そうま1人で何が出来るのよ?」
「とりあえずバスケットは出来るみたいだね。」
「そんなこと聞いてないわよ~!」
赤のリボンで結ぶピンクの髪をくしゃくしゃと両手で乱すと、鹿目まどかは花が咲いたかのようにパッと笑みを見せる。
気の済むまで鹿目まどかの髪の毛を乱した美樹さやかも、どこか楽しげな笑みを見せる。
「…ったく。純粋なまどかがこんなひねくれ魔神になっちゃうなんて…そうまの所為ね。」
「そ、そんなことないよ~! …でも瀬津君と話してたら、いつの間にか~…」
「え~っ。まどかってあんな奴がタイプなの?」
「ち、違うよ!? そういうことじゃないから!?」
ニヤニヤとしながら茶化すように鹿目まどかの頬を美樹さやかの指が突っつく。
それを顔を真っ赤にして、首を勢い良く左右に振って否定した。
その時ちょうど瀬津そうまは4mほど離れた位置から、ゴールに向けシュートを放っていた。
ボールは鮮やかな放物線を描いて、リングの中心を通過する。
「もぅ~…。それよりマミさんだよ。探してくれてる瀬津君は何も教えてくれないし…。さやかちゃんは知ってる?」
「全然。最近バスケしてる姿しかみてない。あと授業中寝てるとこ。」
「そうだよね…。キュゥべえは教えてくれないし…」
「マミがそれを望んだからね。それにそうまからもまどかとさやかには言わないよう言われてるし。」
キュゥべえはあっけらかんと、テレパシーを用いず補足を加えた。
その声は教室の喧噪に紛れ、2人の耳以外には届かない。
「まぁとりあえず今はゆっくりしときましょっか。あたし達だけじゃマミさんは見つけられないし。」
「うん…そうだね。」
こうして2人は今日も身を引く。
その決断は瀬津そうまにとって喜ばしいものであり…
そしてクラスメイトと表面上は話しをしている暁美ほむらに安堵を与えるものだった。
すべてを飲み込む闇の空間。
上下左右を見渡しても何一つ見えない暗黒。
カサカサと辺りを何かが蠢く。
そんな空間の中心に、闇の中にぽつんと浮かび上がっているように1人の少女が存在していた。
左右にロール状の金色の髪が垂れ下がり、額には汗がにじむ。
胸に結ばれた黄色の黄色のリボンは所々切れ、薄汚れている。
足取りも重くカサカサと音が空間に響くたび、態勢を音が響いた方向へと向き直すのがやっと、といった具合だ。
吐く息は絶え絶えで、それがよりいっそう少女のか弱さを表現していた。
…巴マミは1人歯を食いしばる。
「っ!? そこっ!」
微かな気配を頼りに銀のマスケット銃を撃つ。
魔力を帯びた金色の弾丸は闇を切り裂き、そして闇に隠れていた使い魔を打ち抜いた。
ギャッ、と短い悲鳴が空間に響く。
この金切り声は使い魔の断末魔の声だろう、と何度かその声を生み出していた巴マミは考えていた。
しかしまだ辺りを蠢く気配は無くなることはなく、むしろその数を増やしているようにさえ感じる。
巴マミが相対する暗闇の魔女。
自身の身を守るため結界内を暗闇で包み込み、迷い込んだ仔羊(にんげん)を刈る。
仔羊は恐怖に身を震わし、そして魔女に気がつく間もなく命を落とす。
これまで何人もの行方不明者を出した凶悪な魔女だ。
そもそも魔女が作り出した暗闇の結界にも、この魔女の醜悪さが表れている。
魔女や使い魔、また結界内に存在する障害物が全て暗闇に隠れ視認できないのに対し、巴マミの姿だけがぽつんと浮かび上がっている。
仔羊のみを照らし出す暗闇。
そうして仔羊に恐怖と孤独感を与えていた。
何か近付いてくる気配に、一つ弾丸を放つ。
またもギャッという断末魔が空間には広がった。
「はぁっ…はぁっ…」
これで両手両足の指では数え切れないほどの使い魔を倒したことになる。
しかしその間魔女には一撃も与えることが出来ていない。
魔女を倒せなければ使い魔は産み出され続ける。
今までの全てが徒労となってしまう。
巴マミは一か八かと感覚的に大きな気配を感じた方向に弾丸を放つ。
オレンジ色の弾丸は暗闇を切り裂くように飛んでいき、そして無残にも何も撃ち抜くことなく彼方へと飛び続けていった。
これで貴重な魔力を一つ消費し、ソウルジェムは澱んでいく。
すでに巴マミのソウルジェムは、全てを照らし出すような黄金の光を放ってはいない。
「はぁっ…はぁっ…」
息を整える事もなく、続けざまにマスケット銃を二丁眼前に生み出すとそれを手に取り、左右から近付く気配にそれぞれ一撃ずつ放つ。
銃撃の結果は短い2つの悲鳴ですぐさま確認された。
「ちょっと疲れたかな…」
ぽつりと呟く巴マミの声はか細く、今にも消えてしまいそうであった。
戦闘開始から1時間。
魔女の気配に神経をすり減らすこと45分。
放った魔力を編んだ弾丸は500を超えていた。
体力的にも限界は近く、両肩は酸素を求め大きく上下している。
しかし未だに暗闇の魔女の攻略法は見えていない。
このままではジリ貧だろう。
故に一旦撤退し、態勢を立て直すことも考え始めることも必要であった。
…しかし巴マミの頭の中に敗走はない。
(この魔女を逃がしたら、多くの一般人が危険だわ…逃がすわけにはいかない!)
頭に浮かぶのは魔女の存在に気付かぬ人々の日常。
家族や親友、恋人と過ごす笑顔が歪んでしまうかもしれない未来。
…そして腕を無くしても笑顔を向けてくれた巴マミの重臣のこと。
それだけで両足に力が入り、ガリッと音が鳴るほど強く歯をグッと噛み締められる。
(暁美さんの言った通り…私達に甘美な評価はいらない。)
乱れた胸のリボンを勢い良く解き、巴マミ自身を囲むようにそのリボンで床に小さな円を作る。
するとリボンから様々な発光色が解き放たれ、筒を形成するように光は上空へと伸びていった。
暗闇の世界を分断する一本の光の束がそこにはあった。
(所詮自分の欲望に勝てなかった私達には…)
巴マミを取り囲む光は魔女や使い魔を通さない結界と化した。
いまだ暗闇に潜む魔女も動きを止め、巴マミの逃げの一手を眺める。
結界を作ろうが、魔女側から仕掛けない限りそれは打開策にはならない。
魔力で作った結界ならば魔力が枯渇すれば自然と消滅する。
つまりは魔女が見に徹することで、それはただの時間稼ぎとなる。
そして魔女はその本能に従って、動きを止めてしまった。
あとは食事が用意されるのを待つばかり。
(私の所為でそうま君は…もう私は怖くないわ。)
しかし巴マミの反撃の一手はここから始まる。
両手を広げ結界を外へと広げていく。
すると巴マミ1人だけを覆えていた結界に数人分の余白が生まれた。
使い魔は音を立てることなく巴マミを凝視していた。
(大切な人が傷付くくらいなら、自分がどうなろうともう怖くないんだから!)
続けて巴マミは右腕を前方に向け真っ直ぐ伸ばす。
瞳には強い意志を宿し、右手には大量の魔力を保持する。
そしてそのまま身体をくるりと横回転させた。
その動きはまるでダンスでもしているかのように可憐で、この状況だけをみれば1人の踊り手と多数の観客のようにも見えるかもしれない。
勿論そんな日常風景ではない。
伸ばした右手が体に合わせてくるりと円を描くと、そこにはマスケット銃が隙間なく敷き詰められていく。
その数優に100を超えていた。
全方位ありとあらゆる角度に砲身が向く。
明らかな脅威に使い魔が慌てて逃げ道を探す。
しかし地を這う彼等に逃げ場はない。
巴マミは一回転すると、勢いそのまま右手をピンと挙げる。
その姿は先程とは打って変わって、兵士に命令を下す直前の華麗な軍人。
その右手には全てを動かす決定権を保有していた。
結界がスッと形を消していく。
その結界が完全に消滅したのを合図に、絶対的な権力を保持する右腕は勢い良く振り下ろされた。