①
八月二日午前。
現在俺は車で上条夫婦と共にさほど遠くない距離にある海岸へと向かっている。
後部座席に俺が座り、運転席に刀夜さんが、助手席に詩菜さんがそれぞれ座って、三人で絶え間なくにこやかに、緩やかに他愛もない話を続けている。
特に目の前に座っている上条夫婦は仲睦まじく、言葉にノロケ要素がなくとも雰囲気で既にノロケているという感じである。傍目から見ると居心地は悪いが熱冷めやらぬ新婚夫婦の様で、とても微笑ましくもある。
実に微笑ましい。
本当に微笑ましい。
この上なく微笑ましい。
……間違いなくその筈、なのだが。
俺だって気付いてはいるのだ。目の前に転がっている、あえてスルーしている懸念事項に。
(なんだろう…この状況は)
突っ込み所満載なのだが突っ込めない。突っ込むべきなのに突っ込めない。突っ込みたいのに突っ込めない。突っ込めない突っ込めない突っ込めない突っ込めない突っ込めない突っ込めない。
突 っ 込 み た い ! ! ! !
「あの…詩菜さん?」
「あら、士郎さん。どうかしたのかしら?」
綺麗な声が鼓膜を震わせる。ただそれは昨日家で聞こえた声にしては幼く、ようやく大人の階段を上り始めた思春期くらいの少女のそれ。詩菜さんとは明らかに別物。
だが俺は、異常なのを知りながらどう動けば良いか分からず、本題に当たらずとも遠からずな言葉しか口に出来ない。
「い、言い忘れていましたが、昨日より随分若く見えますね…」
コチラを振り向く顔も普通なら、頭が見える筈の場所は前方の迫りくる風景しか映らず、俺の言葉に応えるべく振り向く顔は低い位置から視界にひょっこりと姿を現す。
「あらあらあらあら。そんなに褒めても何も出ませんよ?」
「士郎君っ!?君はもしや、母さんを狙っているんじゃ…わ、渡さないからな!!?」
「い、いえ!そういう訳ではないです。ただ…」
…オカシイ。
コレが正常である筈はないのに、世界は正常に回っているという強烈な違和感。
だが、そんな事を目の前で優しげに笑っている彼女に追及する事は憚られ、ただただ誤魔化しの言葉を口にするしか今の俺には出来なかった。
「
■
…本当に、どうしてこんな事になっているのか。
今朝は人格も口調も安定し、ある程度俺もリラックス出来ていた。その時はまだ詩菜さんは昨日と同じ容姿だった筈だ。間違いない。そんな事を忘れたり勘違いしたりするほど呆けていたつもりはない。だというのに…。
「なあ母さん。
「そうですよ。毎年長い休みでも大好きな当麻『お兄ちゃん』と遊べないからいつも寂しい思いをしていましたから、今回の旅行を一番に楽しみしてたのは乙姫ちゃんかもしれないですね」
「…私だって楽しみにしてるぞ」
「あらあら。刀夜さん拗ねないで下さい。そんな事は良く分かっていますよ」
「そ、そうかな?ははは」
「あらあらあら、刀夜さんったら。ふふ」
仲良く話す刀夜さんと詩菜さん。
本来なら俺の目には仲良し夫婦の絵として映り込む筈だ。だが、今の光景は言ってしまえば明らかに血の繋がりのない外国人の少女と中年オジサンである。
…危険だ、危険すぎる。色々な意味で。
だが、目の前の二人は確かにあの夫婦の筈だ。
銀髪の少女の容姿こそしているが、その体に纏う雰囲気は詩菜さんそのものなのである。刀夜さんだって、いきなり違う相手にここまで自然に対応出来ないだろう。
見ていて分かる。この人は生粋の愛妻家だと、そこに偽りなど決してない事も。
―――それに、この事態は彼らに限られた事ではない。
ガラス一枚で仕切られた外界はここ以上に、異常で異様な異空間と化している。
探すまでもない。擦れ違う車の運転手、歩道を行きかう歩行者達、建物から絶えず出入りする従業員や客。
目に映る多くの人々、その多くがチグハグになっているのだ。
当初は『異世界』だからだと自分に言い聞かせたものだが、流石にスーツを着て道を這う赤子や、化粧をしてスカートを履いて大胆に胸元をさらけ出す還暦を迎えて久しいと見られるご老体を見た時にはそんな発想は跡形もなく消失していた。
…それに、俺は感じている。『界』の異変に。
俺は特異な体質故『界』の異常を感じ取る能力に長けている。
五感から知りえる情報を排除しても、この世界を覆う違和感が精神そのものを揺さぶる。その第六感じみた感覚が俺に伝えているのだ。昨日と今日とではナニカが違うと。
人体を溶解させる悪趣味な結界の内部は甘くどろっとした感触だったが、今回のこれは無味無臭だ。危険性がない、というわけではない。あまりに強過ぎるその感覚に知覚が麻痺しているかの様なそんな違和感が消えない。
だから俺に分かることは、今この瞬間、この世界に働きかけるナニかが存在していて、それはとてつもなく強大なモノである、ということだけである。
(この規模での魔術展開…、数百から数千単位の魔術師の仕業?もしくは魔法使い?いや精霊か神霊でも一枚噛んでるのか?)
悔しい。異変を感じ取れているのにも拘らず、正す手段さえ見えない自分に腹が立つ。
この世界の常識を理解し切れていない俺には、この事件の首謀者の正体を推測することさえ許されない。
(そもそも、何の為の魔術だ?人の容姿を気付かれずに変えた所で誰が得をする?)
神秘の隠蔽という点では優れたものであるかもしれないが、やはり自分の様な例外を困惑させる以外に役に立つとは思えないし、超能力の話を聞いた時点でそんな
とりあえず即興で立てた仮説は五つ。
『単なる悪ふざけ』、『何かの間違い』、『自分の容姿が嫌だった』、『誰かに成り代わりたかった』、『最終目的の為の前準備、もしくは副産物』。
悪ふざけにしてはやりすぎだ。それに、容姿を変えられた本人達がそれに気が付いていない時点で悪ふざけとしても二流だろう。特定の人間を対象にしている可能性もあるがそれなら暗示でもかければ十分だ。一先ずその可能性は置いておく。
同じ理由で自分の容姿が嫌だった、誰かに成り代わりたかったというのも否定出来る。というかそれであれば別にこんな大げさな魔術は必要ないだろう。
何かの間違いも何をどう間違えればこんな魔術が出来上がるというのか。よってコレも否定。
やはり可能性としては最終目的の為の前準備、もしくは副産物だろう。どんな目的があってこんな事をしているのか見当はつかないが。
それに俺の目に入る範囲だけが全てではないのかもしれない。神奈川県中、東北地方中、日本中、世界中でコレが起こっているのかもしれないのだ。
(どうする…?)
術者も不明、発信源も不明、詳しい効果も不明、範囲も不明。
何もかも分からずヒントもなく、それどころかがヒントを得る方法すら分からない始末。現状で俺の出来る事は何もない。
この世界にとって俺は完全なる
だが、蛇足だからこそ何か出来る可能性もある。
容姿が変えられた本人達はこの事態に気付いていない、つまり、周りの人を本来の容姿で認識しているということ。つまりこの場では私のみがこの異常を感知出来ている。
実際『魔術抵抗』を行うまでもなく一切の干渉を受けなかった、つまり
ただ、その為にはコチラの世界の魔術を知る者と接触する必要がある。
こちらの魔術師がどの様な組織体系で存在しているかは分からないが、探してみるしかないだろう。
海に着いてしばらくしたら、行動を起こすとしよう。探しても見つからない場合は魔術で軽い事件でも起こせばアチラから何らかのコンタクトがあるはずだ。
「(何としてでも解決策を見つけてやる)」
「ん…?どうかしたのかい、士郎君?」
一人で勝手に意気込んでいると、そこそこ会話に参加していた俺が黙り込んだことに疑問を持ったのか、そう質問してきた。
何でもないですよ、と慌てて否定し意識を窓の外へ向け直す。
前方には青い大海原が広がっている。すると目的地はもうすぐということだ。
今意気込むのも良いが、焦り過ぎては大切な事を見失う。到着するまでの間だけは、少しゆっくりさせて貰うとしよう。
■
「着いたぞ士郎君」
「あ、はい」
それから間もなく、海辺のほとりに立つ建物の傍に車が停車した。
嬉しそうに笑う刀夜さんに促され、アスファルトの引かれた地面に降り立つ。
建物の反対側へ目を向ければそこは白い砂浜と青い海が悠然と存在していた。派手ではないが立派な海水浴場の様だ。ただし、砂浜には殆ど誰もいないし、海を泳ぐ者もいない。
この時期ならまだ海水浴を楽しむ人々がいてもおかしくないのだが、二人の話によると、現在、太平洋側ではクラゲが異常発生しているせいで客足が遠退いているらしい。この海水浴場も例に漏れなかった様だ。
しかし、これは不幸中の幸いだったのかもしれない。
海ではしゃぐ女物の水着を着たお爺ちゃんや、男物の水着を着た上半身裸の女性や、幼女をナンパするお婆ちゃんを見なくて済んだのだから。しかも、上半身裸の女性に目を奪われていると、女性を凝視している事に対しての批判的視線ではなくではなく、別の意味の気味悪がられた視線を向けられるという罠もある。
…そんな
「では、私達も行きましょうか」
目の前でツバの大きな白い帽子を被った少女、もとい詩菜さんが刀夜さんと俺に呼びかける。
…ふ、と頭をよぎる考えがある。
こうして今の詩菜さんを見るとつい考えざるをえない。
(どこか、似ている…)
生前、いや死後にも
目の色等細部は異なっているのだが、背格好が良く似ているのでどうしても重ねて見てしまうのだ。
本当なら、生前の記憶は磨耗してしまっていて思い出す事は叶わない筈だった。だが、今回は『記録』を全て所持している。しかも、直接霊体に組み込まれ生前の『記憶』に直結している状態なので、『記録』を経由させ、記憶を呼び出すのでスムーズに過去の事を思い出すことが出来る様になっていた。
思い出す事も叶わなかった擦り切れた記憶が鮮明な絵となり、思い浮かべる事が出来るという事実に驚きつつも安堵している。もし今すぐ座に連れ戻されても少しの時間は気持ちも紛らわせられそうだ。
だが今は彼女の事も記憶の事も今でなくて良いだろう。優先するべきは現状の確認だ。
それなら少しでも多くの人がいる場所に行きたい。
黙ったまま行く訳にはいかないので刀夜さんに許可を貰う事にした。
「済みません。ちょっと街の方に行ってきても良いですか?」
「どうしたんだい?」
「いえ、最近ゆっくりと外を出歩く事が出来なかったので少し見て回りたいと思いまして」
「ああ、そうか、そうだったな…」
刀夜さんはまるで自分の事の様に落ち込んでしまった。本当に人が良い。
本気で申し訳ない。しかも、その事情が偽りである事で倍になってのしかかってくる。
数秒の思慮の後、刀夜さんは優しい顔になり、言った。
「分かった。行ってきなさい」
「はい。ありがとうございます。それから…済みません。こんな所まで連れて来て下さったのに身勝手な事を言って」
「いや、構わないよ。のんびりしてきなさい。皆には私から言っておこう」
「本当にありがとうございます」
「士郎さん。コレをどうぞ」
横から詩菜さんの声と思われる少女の声がしたのでソチラを向くと、少女が数枚のお札をコチラに差し出していた。しかも、それらは全て過去の著名な教育者が描かれている。所謂、一万円札である。
「えっ!こ、こんなに貰えませんよ。それに買い物はしないつもりですし」
「大丈夫ですよ」
少女は微笑みながら言う。
「刀夜さんはとっても良い仕事をしていますから、お金は沢山あります。心配しないで下さい」
「そういう訳ではなくてですね。色々お世話になったのにお金まで頂く訳には…」
「良いですって」
「そうだぞ士郎君」
刀夜さんまで言ってくる。
「お金を一切使わずに家を直してくれたし「それは俺が壊したものですし…」…良いから良いから!私達だって子供を学園都市に預けて少し寂しい思いをしていた所でね。昨日一日とはいえ、私達は楽しい思いさせて貰ったんだ。そのお礼と言う事では駄目かな?」
「…」
…脱帽してばかりだな。この人達には。
コレ以上ここに足止めするのは申し訳ない。今回も俺が引き下がるしかない。
「…分かりました。ありがたく頂きます。コレ以上お二人の邪魔をするのは気が引けますしね」
「あらあら。士郎さんったら。当麻さんには言っておきますから遠慮せず楽しんできて下さいね」
差し出されたお金を受け取る。
「はい、ありがとうございます。しばらくしたらまた戻ってきますね」
もう一度お礼を言って俺は街に向かおうと歩き始めた。が、
「…」
どうしても気になる事があり、立ち止まる。
振り向けば刀夜さんも詩菜さんも背を向けて海の家に入っていく姿が見えた。
…気になっている事。
詩菜さんが入れ替わっている、というのは間違いなく彼らに伝える事は出来ない。彼らがそれを認識できていないから、異常とは思えないからだ。
それと同じく、刀夜さんだけ元の姿のままだ、ということも伝えることの出来ない異常だ。
「どうして刀夜さんだけが…」
始めは入れ替わった詩菜さんや歩行者を見て、個人によっては入れ替わりが起きていない者もいるのだと考えていた。しかし、ここに向かって来てくる最中の誰の彼もに大なり小なりの違和感を覚えたが、上条刀夜だけにはそれがなかったのだ。
もしかしたら彼こそが…。
「いや、そんな訳があるか」
それはありえない、筈だ。彼からは魔力の残り香すら感じられなかったし、立ち振る舞いからして一般人そのものだった。
そんな彼が、今回の事件の首謀者であるというのは考えにくい。それに自分だけ入れ替えないなんて如何にも疑ってくれと言わんばかりじゃないか。せめて変装でもするべきであるが、刀夜さん昨日から服くらいしか変わった点はない。
やはり、当初の考え通り偶然この魔術から逃れたという方がまだ信憑性がある様に思える。
「…とにかく情報を集めよう。話はそれからだ」
絶対的な証拠がない以上完全に容疑者から外すわけにはいかないが、最初から決めつけるには早計だ。
そう結論を出し、俺は海の家に再び背を向け市街地へと歩を進めた。
■
…結局、お金は使わなかった。
買う必要があると判断したリュックや貰ったお金を入れる財布は良質な現物を見繕って複製したのでお金を使わなかったのだ。中には怪しまれない様にしっかりと洗濯され洗剤の良い匂いが漂う外套と貰ったお金の全額が入った財布だけが入れられている。
鎧は下に着たままだ。不測の事態を想定しての事でもある。
その他には近くの交番にいた子供の警察官に案内して貰ったり、釣り道具に目を奪われて『いかんいかん!』と首を振ってみたり、本屋で地図を見てわが故郷である冬木市がないことを確かめ終わって顔を上げた時、偶然目に入ったグラビア本の表紙に小太りの中年男性がポーズを決めていて失礼な事ながら不快感を催したりした。
それらはさておいて、ここら辺はあまり開発された都市ではないので、情報にどうしても限界がある。
しかし、分かった事はある。
この魔術はこの地区だけに作用している訳ではないという事だ。
偶然目に入った店のテレビで海外との中継をしていたのだが、通行人がここと同じくおかしくなっていた。当然誰も気付いていない。異常は世界中を蝕んでいたのだ。
「…一度戻るか」
ここでの情報集めを一度切り上げ、海の家『わだつみ』へと足を向ける。
…こんな所でモタモタとしている自分に苛立ちが募るが、どうしようもない。これ程までに広範囲に魔術が効果を及ぼしていると魔力の出所を探る事も出来ない。
「はあ…どうしたものか。…と、ここだったな」
考え事をしている間にいつの間にか宿の下の方まで来ていた様だ。
そこのすぐ側にある砂浜では数人の人達が遊んでいるのが見える。他に客はいないと聞いていたので恐らくは上条親子と付いてきた人達だろう。
そこまで見ると俺はそのまま部屋に行って荷物を置いてこようと宿に足を進めようとした。
その時である。
「ん?」
もう一度砂浜の方に視線を戻す。
水をかけ合ったり、砂に埋められたりして遊んでいる?所から離れている三人に目がいった。
一人は身長は今の俺より少し大きいくらいの中肉中背のツンツン頭の少年…上条夫婦から聞いた特徴と一致するので彼が上条当麻だろう。どうやらとても落ち込んでいるみたいだ。
彼に特に不審な点はない。
今問題なのは、一八〇センチメートル位の金髪でアロハシャツを着た少年と黒髪の日本美人という言葉が似合いそうな容姿に切り刻まれたジーパンと臍がもろに見えるくらいの所で結んであるシャツという変わった女性という周りからかなり浮いている二人だ。
見た目もさる事ながら、その身に纏う雰囲気もその場所からは浮いていた。
…俺には分かる。あれは戦う者のみが纏う気だ。しかも、巧妙に隠してはいるが二人の体からは魔力の残り香がする。つまり、彼らは…。
「魔術師か」
…思わぬ所で手掛かりを見つけた。こんな時に動く魔術師は十中八九今起きている事絡みだろう。
色々考えるのはとりあえず後回しだ。接触してみない事にはどうにもならない。
「…」
心中ではどう話を進め、協力を得るか計画を練りながら、彼らに近付いていった。
記録は原作に登場する話を使い易くするという都合上組み込んでいますが、本来は本当にただの情報の羅列みたいな感じだと思うので記憶を思い出すのに役に立つかは微妙だと思う。思い出したくもない事も沢山書いてありますしね。
プロフィール更新
〔特性・体質〕
〔異界察知〕
周囲の世界の異変を無意識且つ五感的に感じ取る。
〔魔術〕
〔魔術抵抗〕
魔術師が始めに習う初歩の初歩の魔術。
自身に干渉する魔力を弾く。既に侵されてしまった場合は自分の魔力で洗い流す方法を取る。