――詩菜さんとの名前の交換からしばらく経った。
布団を綺麗に畳み、立ったままの姿勢で開け放たれた窓から外の世界を眺めていた。
ベッドか床に腰を落ち着けていれば良いのだろうが、自分が原因で散らかってしまった部屋を他人に任せっぱなしという状況が、心身共に落ち着かない要因となっている。
呼びにいくと言っていた詩菜さんも中々姿を現さず、やはり方便だったのではと思い始めた。
もっと情報整理・収集もしておきたい所ではあるのだが、やはり落ち着かない。
「…やっぱり手伝いに行った方が良いよな。いつまでもこんな所で油は売ってられない」
自分の尻拭いくらい自分でやらなければ、そう思った所で部屋を出てすぐ傍らにある階段の踏み板が軋む音が耳に入ってきた。
人数は二人。音の大小から足音の軽いは詩菜さんだと分かった。つい先ほどの会話からして、足音の大きい方は『刀夜さん』だろう。
こちらが出向く前に一段落着いてしまったのか。こうなる前にさっさと片付けに参加しておけば良かった。とは言っても全て片付けてしまった訳でもないだろう。挽回のチャンスはまだある。
せめて今は失礼のない様にしておくべきだと思い、ベッド前に立ち、不自然にならない程度に姿勢を正した。
数瞬の後、二つの足音は部屋の前で止まり、扉が開いた。
そこから一人の中年くらいの男性が詩菜さんを伴って入ってきた。
どうやら彼が『刀夜さん』らしい。さっき聞いた声の印象と同じで、言い方は悪いがオジサンという印象がピッタリの人だった。
その人は、気絶していた奴が既に準備万端と言わんばかりに立ち上がっているのを見てか一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに気を取り直して話しかけてくる。
「やぁ、気分はどうだい?」
その声音は
詩菜さんにしろ『刀夜さん』にしろ本当に人が良すぎる。
普通なら家を壊した相手にここまで親密に話し掛ける様な事はしない、というか出来ないだろう。もしかしたら、優しいとかではなくお二方とも天然なのかもしれない。
ともあれ、挨拶をされたのに返さないというのは少なくとも
「はい、おかげ様で」
「そうか。良かった良かった。あ、忘れてた。私は詩菜の夫の上条刀夜だ。よろしく頼むよ」
「あ、はい。わた…俺は衛宮士郎です。よろしくお願いします」
再度自分の名を名乗り、差し出された手をとる。
………?……………うん?
「ん?どうかしたのかな?」
「い、いえ」
あれ、『夫』?そう言ったか?待てよ…この二人って…?
「ご夫婦…だったんですか…」
「えっ…」
刀夜さんは一瞬ポカン、とした表情を作り、詩菜さんは『あらあらあら?』と驚いているとは思えない程やんわりとした口調で呟いていた。
どうにも俺は勘違いをしていた様だ。恋人なのかもしれないのだから別にこの二人が夫婦であろうとおかしくはない筈なのに。失礼なことを言ってしまった。
その後、気を悪くさせてしまったかと思ったが、刀夜さんは『なるほど分かった』とした顔になり、予想とは外れて笑いながら答える。
「ああ、そうか!そうだよな。母さんと私が夫婦とは思えないか。初めての相手に『私達は夫婦です』と言うと良くそういう反応が返って来るんだったなー。はっはっは。参った参った」
「あら、刀夜さん?違いますよ?『よく』ではなく『必ず』ですよ」
「そうだったかな?ははは、参ったな。でもそれは詩菜が若いって事だから私としては嬉しいな」
「あらあら、刀夜さんったら…ふふふ」
展開からして、惚気話に入るとは予想出来なかった。まだまだ経験不足らしい。正直そんな経験は要らないが。
にしても冗談ではなく本当に夫婦らしい。服装さえ変えれば、財閥のお嬢様と中堅執事にも見えるし、似てない兄妹でも通りそうだ。
…と、違う。今はそんな感想を述べている場合じゃない。
「あの、すみませんでした」
自分達の世界にのめり込んでいたお二人を現実世界に引き戻す。
「あらあら、どうして謝るのかしら?」
「いえ、俺の言い分ですと刀夜さんを貶している様に思えたので…」
うん?と俺の言葉を少し考えてからすぐ思い当たったのか刀夜さんは口を綻ばせながら答える。
「いや、気にしなくて良いよ。私も詩菜より年上に見られるなんて事は日常茶飯事だからね」
「ですが…」
「…それなら私も謝っておかないといけないな」
「えっ、どうしてですか?」
怒られるならまだしも謝られるとはどういう事だろうか?
俺を勝手にベッドに寝かせた事?…いやいや、それこそ俺がお礼を言うべき事だ。
服を脱がせた事?或いは服を洗濯している事か?いや、それも当然の事だ。ベッドに寝るのに鎧は要らないし、自分達のベッドにそんな物を乗っけたい訳もないから謝られる程の事じゃないし、俺の礼装が洗濯機と洗剤の合わせ技如きで色落ちするとも思えないし。そもそも懇意で洗濯させて貰っている身だし文句など言えたものでもない。
むー、思いつかない。
「私も詩菜も君が日本人とは思わなかったからね」
「?……ああ、そういう事ですか」
そういえばそうだった。見た目で勘違いされるという点なら、方向性は違えど俺も誤解を招く容貌をしている。
肌が浅黒く髪は真っ白、服はどう見ても一般的な日本人が着ている物とはかけ離れた、…どちらかといえば日本の非一般的な人達が着ている
俺を日本人と思えなかったのにも頷ける。
「俺の方こそ気にしていませんよ。外国人と間違われる事なんて日常茶飯事なので」
「そうか、ありがとう」
「いえ…」
……。…どうして俺は迷惑をかけておいて謝罪やお礼をさせているんだ。
どうにか今の状況を打破すべく別の話題を考えていると、刀夜さんは今までの顔とは打って変わって怪訝な表情をして声をかけてくる。
「ああそう言えば、君に聞いておきたい事があるんだが」
…この流れは一番受けたくなかった質問が来てしまったのかもしれない。
だがしかし、一応考えられる事は考えた。展開、回避、完了の展開は既にバリエーション豊かに取り揃えている。
後は臨機応変に、用意した解答を選択していけば良い。
俺の長年に渡って積み上げてきたモノは形としては残っていなくても体には染み付いている。故に、いかなる
「何で君は私達の家にいたのかな?」
予想通りの質問をがくる。
この状況ならば必然的に誰もが疑問に思う、持たざるを得ない質問を出してきた。むしろ、今までされなかった方がおかしい質問だ。
しかし、必然の疑問であるがこそ予想も立て易い。
後は思考を総動員して組み上げた嘘を、さも真実かの様に話すだけでこの場は乗り切れる筈だ。
今から話すのはほぼ全てが偽り。上条夫婦の様な善良の人達を騙すなど勿論好む所ではない。
しかし、魔術なんてモノに関わるとロクな事がないことは散々思い知っている。コレは自分の為だけではなく、この夫婦の安全を守る為の嘘でもあるのだ。
だから、ここは最善の
「ソレはですね、実は、」
「あらあら、そんな事は聴いたら駄目ですよ刀夜さん」
「…ッ(何!?)」
思わぬ伏兵が飛び出してきた。
なんだ?その『そんな事はもう分かっていますよー』というニュアンスを含んだ言葉は。
考慮しないでもなかったが、可能性が低かったので排除していた考えを再度思考の中心に持ってくる。
…もしや彼女が俺を呼んだのか?まさか、そんな筈はない。
俺が魔力感知を行った際には上条夫婦のどちらからも魔力を一切感じる事は出来なかった。この家でこそ魔力の痕跡を発見出来たが、魔力の残滓すらない一般人が何らかの形で術式を編んだ所で
その前提を崩せない以上、彼女はシロ。ならば、彼女は一体何を知っている?
その次の瞬間、彼女の口から放たれた言葉にーー。
「士郎さんは莫大な借金を背負っているんですよ」
――呆然とした。
「え?」
「ど、どういう事なんだい母さんっ!?」
なんでさ。
俺も刀夜さんも詩菜さんの予想外の言葉に驚愕を露にした。
莫大な借金って…そんな
詩菜さんはそんな疑心暗鬼に駆られ始めた俺の様子を気にも留めず続ける。
「お友達に借金の保証人をさせられた後、お友達はいなくなってしまって」
「え、ちょ」
「借金取りに追われる毎日で終わらせたいと思って、偶然目に留まった家に侵入してしまって」
「まっ」
「そこの住民を脅すつもりで持っていたお手製の爆弾を誤って爆発させてしまって、今に至るんですよ」
「て下さい…よ。と、刀夜さん、あなたからも何か言って、」
「…す、す、凄いな母さんっ!!そこまで細かい事まで見抜けるなんて!」
「あらあら、褒めても何も出ませんよ?」
「……」
えー、刀夜さんそこは反応が違うでしょう…。
うーん…でも、なんと言うか…。
案外コレでイける様な気がしてきた。詩菜さんは満足そうだし、刀夜は自分の妻に感動してるし。
コチラとしてはコレ以上追求されない方法を探していたので、理由はどうあれそれが叶うというのなら…。
そんな思考に陥ってしまった時点でこの夫婦に侵され始めている様な気はするが、そんな事は心の片隅に置いて、場の流れに乗っかる。
「…その通りです。良く分かりましたね」
「あらあらあらあら!私は『こんな子だったらな』って思っただけよ?でも、合っているなんて偶然ね。私も超能力者デビューかしら?」
どうにもこの嘘は危うい…。
だけど、まぁ…。詩菜さんが策士でもない限りこの件は大丈夫だろう。どう見ても策士って柄じゃなさそうだし。
この件はこれで良…くない気はするが、…いや、もうどうとでもなれば良い。
ここまででも、十分流されてきたが更なる波が襲ってくる。
「あら、そうだわ。借金取りの人に追われてるなら一緒に来ないかしら?私達今から一人暮らしの息子と海水浴を楽しみにちょっと遠くの海まで行く予定ですから」
「え、そう、なんですか?」
「ええ」
「…」
いや待て。この流れは既に運命の行く末が決定している気がする。
コレ以上好意に甘える訳にはいくまいと思考回路をフル回転させるが、刀夜さんも天然でダメ押しを仕かけてくる。
「息子は当麻って言うんだけどね、君と同じくらいの年頃なんだ。君も高校生くらいじゃないか?」
「え、ええ。高校には行っていませんが」
「なら丁度良いじゃないか。君にも色々事情があるみたいだけど家の息子と一緒に遊べば気晴らしになるんじゃないかな?少し変わっている所もあるけど良い奴だから」
「で、でも良いんですか?聞く限りでは息子さんにはあまり会えないみたいじゃないですか。そんな中に赤の他人である俺なんかが混ざってしまっても…」
「あらあら、そんな事は気にしなくて良いですよ?大人数の方が楽しいですからね」
「そうだぞ士郎君。当麻だって何かと嫌な目に会う事は多いけど、根っこから熱くて優しい私達の自慢の息子だからな。絶対に後悔する様な事にはならないぞ」
「…分かりました。その申し出はありがたく受けさせて貰います」
「ははは、そんなに堅苦しくなくても良いよ。じゃあ皆で楽しい旅行しよう」
なんか…俺はもうこの二人には逆らえない様な確信に似たなんかが心の底から沸き上がってきた。
それに、ここまで言われたら付いていかない方が失礼な気もしてきた。それに考えてみると必ずしも俺にマイナスになる訳でもない。
今ついている嘘を強固な物に出来るし、情報を得る為にも人間関係を作る事は必要だと思う。
こんな言い方は汚いかもしれないが、今俺が最もすべき事は情報の収集なのだ。明確な情報元がない以上はやれる事はなんでもやってやる。
…まあ、何だかんだと言っても二人の好意を
「はい。…それでなんですけど」
「ん?どうかしたのかい?」
「ここまでして貰っていて何もせず、お世話になりっぱなしなのは俺としては申し訳ないので、恩返しの意味を込めてやりたい事が一つあるんですが」
「何かな?」
不法侵入に器物破損を犯した犯罪者に此処までしてくれたのだ。お金は払えなくても最大限の恩返しをしておきたい。
「下の部屋の事は全部任せて貰えないかな?じゃなくて貰えませんか?」