それからというもの、きらりは頻繁に私の部屋に来た。
まだ、全部話した訳ではない。
でも、色々と察してくれたようで。
部屋の片付けや洗濯などの、身の回りの世話をしてくれた。
たまに食材を持ってきて、手作り料理を振る舞ってくれることもあった。
他愛もない話をしながらの食事は、泣きたくなるくらいおいしかった。
勿論。
私は、きらりの行う全ての物事において、きらりよりも上手に出来るだろう、
掃除だってもっと効率のいい方法を知っている。
洗濯だってもっとピシっと仕上げることが出来る。
料理だってもっと美味しくする一手間を知っている。
でも。
だから杏がやる、ということにはならない。
だから嫌だ、ということに、なるはずがない。
上手か下手か、ということは、関係がない。
きらりが、杏のために、してくれていることだ。
そう思えることが、たまらなく嬉しくて。
だから、きらりの優しさに、私は甘えることにした。
恐らく。
きらり以外の人間が同じようなことをしたら、私は断ったのだろう。
「いいこと」をしている自分に酔っているでもなく。
「いい人」のレッテルが欲しいでもなく。
100%純粋な、善意。
それのみに基づいて行動しているのだと。
きらりの一挙一動全てが、そう思わせるもので。
産まれて初めて受け取ったように感じるそれは、とても心地良かった。
一度だけ、きらりのために料理を作ろうとしたことがあった。
結果は、失敗。
原因は、嫌というほど理解した。
包丁を動かす度に。
鍋をかき混ぜる度に。
脳裏にちらつくのだ。
「嫌われてしまうかもしれない」。
私の方が上手に出来ることに気付いてしまったら、嫌われてしまうかもしれない。
私のお母さんが、そうだったように。
きらりの役割を、奪ってしまうかもしれない。
きらりの善意を、踏みにじってしまうかもしれない。
そう、考えてしまって。
そこで初めて、自覚した。
私は、他人のために何かをするのが、怖い。
一度、絶対に失敗してはならない相手に、失敗してしまったから。
だから、怖い。
「たかが一度だ」。
確かにそうなのだろう。
だが、「たかが」で済まされるほど、失敗の代償は軽くはなかった。
「たかが」で済まされるほど、小さな「一度」ではなかった。
だから私は、ただ、きらりの善意に溺れていって。
それを悪いことだなんて、思いたくなかった。
分かっている。
これは依存だ。
でも、しょうがないじゃないか。
今までずっと、ずっと我慢してきたんだ。
許してくれたっていいじゃないか。
私は、私の考えから逃げるように、きらりに甘え続けた。