お父さんが、家を出て行った時。
私も連れて行こうとしていたことは、知っていた。
お母さんがおかしくなってきていたのも分かっていたし、客観的に見れば、それは正しい判断なのだろう。
でも、私はそこまで大人じゃないし、それに。
お母さんのことは、全然嫌いなんかじゃなかったから。
だから、お父さんは、捨てたんだと思った。
私と、お母さんを。
私は空回りばかりだったし、お母さんとは仲が悪くなってきていたから。
お父さんは私達を嫌いになったんだと。
本気で、そう思っていた。
「……ああ、驚いた。」
一緒に暮らそうと言ってくれたことも。
お金を振り込んでくれていることも。
全部、建前で。
世間体を気にしているだけで。
親という立場上、そうしなければならないだけで。
お父さんは、もう、私を愛してなんかいないんだ。
ずっと、そう思っていた。
「日曜日に公園で待ってる、なんて書いてあるから、急いできてみれば。」
でも、きらりは言った。
嫌いな人に、手紙なんて出さない。
そう言われて、初めて考えた。
私は、お父さんから逃げていたのかもしれない。
私はもう愛されてなんかいない。
そう考えることによって。
そう思い込むことによって。
頑張ることから、逃げていただけなのかもしれない、と。
そして、その思い込みすら、私は遠ざけた。
愛されていないということは、つまり私が失敗したということだから。
その結果、「お父さんが私を愛していないことを認めない私」が出来上がった。
そういうことなのではないだろうか。
「本当に、居るじゃない。」
きらりは、こうも言った。
お父さんも、失敗してしまったことを後悔している、と。
愛情とは、褒められることが全てではない、と。
頑張りもおねだりも必要なく、与えられるものなのだと。
……正直、まだ、信じられない。
でも、もしも。
もしもそれが、本当なら。
私は、やり直せるのかもしれない。
お父さんとの、関係を。
勿論、すぐに理想の毎日へ、なんてことは無理だろうけど。
それでも、少しずつでも。
理想に近づけるのなら。
私達が失敗した日常を、やり直すことが出来るのなら。
それは、どんなに素晴らしいことだろう。
どんなに、嬉しいことだろう。
「ねぇ、お父さん。」
「……杏ちゃん。」
お父さんはそう言って、やつれた顔を上げた。
「見ないうちに、随分と弱々しくなったもんだね。」
「……杏ちゃんは、変わらないね。」
少し、眉をひそめる。
「そりゃ、お陰さまで、ね。」
「……ごめん。」
「いいよ謝んなくて。そんなに気にしてないし。」
嘘。
会って二日目のきらりに八つ当たりするくらい気にしてる。
「学校は、行ってるのか?」
「まあ、それなりには。」
嘘。
高校なんて、まだ私の席があるのかすら怪しい。
「友達は、出来たか?」
「そこそこ、ね。」
嘘。
友人と呼べる存在なんて、きらりしか居ない。
「……幸せ、か?」
「そんなわけないじゃん。」
これは、嘘?
「……ごめん。」
いいよ謝んなくて。そんなに気にしてないし。
同じことを同じように言おうとして。
しかし、口から漏れたのは。
「ねえ、お父さん。」
「……何だ?」
「私のこと、愛してた?」
私の、本心。
ずっと、それが知りたかった。
ずっと、それを知るのが怖かった。
ついに、言った。
言ってしまった。
手が震える。息が荒い。胸がうるさくてしょうがない。
後、たったの数歩。
たったの数歩で、私とお父さんの距離は無くなってしまうのに。
その数歩が、どうしようもなく、遠い。
「……。」
お父さんは、何も言わない。
何も、言ってくれない。
どうして。
どうしてさ。
嫌いなら嫌いって言ってよ。
……好きなら、好きって言ってよ。
「……ねぇ。」
絞り出すように発した声は、やっぱり震えていて。
私はもう、お父さんの顔を見ていることも出来ない。
かたく、かたく目を閉じる。
「なんでも、いいから……。」
出来ることなら。
たった数歩を走り抜けて、抱きついてしまいたい。
それで、突き放されたら、それで終わり。
とぼとぼと家に帰って、そこにはきらりが待ってて。
やっぱりダメだった、なんて言いながら、思いっきり泣く。
そうしてしまいたい。
でも、動いてくれなくて。
私の身体は、固まっているままで。
だから、ただ、じっと。
お父さんの答えを待ち続ける。
「何か……言って、」
「杏ちゃん。」
被せるように、お父さんが私の名前を呟く。
少しだけびっくりして目を開けると、目の前にお父さんが居て。
それで更にびっくりしているところに、追い打ちと言わんばかりに。
「────っ」
私を、抱きしめた。
きらりよりも堅いし、きらりより雑だ。
まるで抱きしめ方を分かっちゃいない。
なんて不器用なんだろう、私の父は。
でも。
だからこそ、確かに伝わってきて。
その答え合わせをするように、お父さんの口が開く。
「愛してる。」
「……ほんと?」
「僕は、杏ちゃんのことを、愛してる。」
「きらい……じゃ、ない?」
「好きに決まってる。」
「……しんじ、らんない。」
「ごめん。」
「あやまん、ないでよっ……ばか。」
「……ごめん。」
「……いい。もっとつよくって、いいよ。」
「……ん。」
言われるまま、更に強く私を抱きしめる。
強すぎて、苦しいくらいだ。
でも、何故だろう。
全然、嫌じゃないや。
「……杏ちゃん、僕はね。」
抱きしめたまま、お父さんは言う。
「ずっと、後悔してたんだ。」
「……こう、かい?」
「杏ちゃんは頭もいいし、何でもできる。僕の自慢の娘だ。
だからそれを褒めていたし、そうしたら杏ちゃんは、とっても喜んでくれたよね。」
「……うん。」
「でも、僕たちはそれしかしなかった。
……他にやらなきゃいけないことなんて、沢山あるはずなのに。」
「……。」
「杏ちゃんに、褒めることでしか愛情を伝えることをしなかった。」
きらりが言っていた、通りだ。
「でも、そんなのは違う。
頑張らなければ愛情を貰えないなんて、そんなのは違う。」
抱きしめられている感触から、伝わってくる。
「……ごめん。ごめん、杏ちゃん。
ずっと、謝りたかった。」
お父さんの、気持ち。
「親が子に与えて当然のものを。
与えなければならないものを。
僕たちは、与えてやれなかった。」
私と、おんなじだ。
「子供は、そんなことで悩んじゃいけないんだ。
子供を、そんなことで悩ませちゃいけないんだ。
……「愛してた?」 なんて、絶対に言わせちゃいけないんだ。」
失敗した。
絶対に失敗してはいけないことを、失敗した。
「それを杏ちゃんに悩ませたのは、僕だ。
それを杏ちゃんに言わせたのは、僕なんだ。」
どうしよう。取り返しがつかない。
「許してくれ……なんて、無責任だよな。
僕にはその権利なんて、無いんだ。」
でも、このままじゃ、いけない。
「でも、せめて。せめて謝らせてくれ。
……本当に、ごめん。」
そして、もし。
「……そうだね。許してなんか、あげない。」
もし、やり直せるのなら。
「……っ」
「でもね。」
きっと、今度は。
「頭、撫でてくれたら……いいよ。」
今度こそは。