3度目の人生は静かに暮らしたい 作:ルーニー
「…………」
彼の手にはファイルがあった。紙も何も綴じられていない、薄いファイルを開いたり閉じたりと弄ぶように触っていた。
「…………」
時々ファイルに挟むのであろう真っ白な紙の束に手を伸ばしては触れる前に止め、戻す。さっきからそのようなことばかりしている。
彼は迷っていた。自分の知識を紙媒体へ記し、万が一の時のためにも残しておくべきかを。
それが料理のレシピや日記などといったメモ書き程度に留まらないだけなら迷うことなく書き記しただろう。だが、彼が紙を媒体として残そうとしているのはそんな程度のものではない。
神の知識。淘汰されるべき生物。そして、魔術。
日本、いや、世界の多くの人間がそんなもの存在するわけがないと一蹴するような、しかしその存在を知るものはいつまた非日常的なモノに襲われるのかと怯える毎日を送ることになってもおかしくはない知識を、記すのだ。
本来記憶とは忘れるものである。それが大切なことであっても嫌なことであっても、記憶は脳にとってのストレスとなる場合が多い。
だから脳は記憶を消す。自身を守るためにならどんなに大切であったとしてもその記憶を消していくのだ。
しかし、彼の持つ知識は消えることはない。前世において、もう既に消えかかっていて自信を持っては言えないが前々世の記憶を死ぬその時まで持っていた。
それがどんなに楽しいことであっても、悲しいことであっても、憎たらしいものであっても、おそろしいことであっても、知っている限りの全ての記憶を持っていた。
今でもそうだ。前々世の記憶は既に消えかかっているが前世の記憶は全て覚えている。それこそパンを何枚食べたのか数えれば答えられるほどにはっきりと、親友が死んでいく時の恐怖に歪んだ顔と悲鳴すらも鮮明に思い出せるほどに。
「っ……!」
その時のことを思い出したのか、顔から血の気が引いて真っ青になった。ファイルを投げ捨てて口に手を当てて必死に胃の中身を食道へ出さないように、必死になっていた。
「……はぁ……はぁ……」
息が荒くなる。浅く、早く、呼吸として成立しているのかすら怪しいほどに短い間隔で呼吸が行われている。
普通ならば気分が悪くなったり気持ち悪くなったり、最悪意識が遠退いてもおかしくはないのに、ずっとその呼吸を続けている。最低限のことすら困難になるほどに、
これからはそんなことが起きてはならないのだ。脳内だけでは整理することはできてもそれに多くの時間を要することが多い。だから見比べることができるように、いち早く判断できるように知識を書き記すことをしておかなければならないのだ。
しかし、それが会社のデータ程度ならば何も問題はない。今から記そうとしているのは存在を許すことができない、唾棄されるべき知識なのだ。
どうするか。本来ならこのような知識は記すべきではない。自分以外に存在すら赦されない脅威を、総てが終わる存在をなにかに記すなど、自らの首を絞めるようなもの。それを、自らの弱点とも言えるものを書き記すなど、常人のすることなどではない。
だが、同時に自分の力は自らを滅ぼすことすらあり得るほどのものばかり、いやそれしかないと言ってもいい。
それをいつ消えてもおかしくない頭のなかに留めておくことは、記憶を消す呪文を使われたときに自らを助けることに繋がるのだ。
だからこそ。ここでまだ鮮明に残っている今、知識を記すべきか否か。それを決めなくてはならない。
絶対などない、自らの首を絞める行為をするのか、あるかもわからない脅威に備えるのか。
「…………」
いや、違う。自分の知識は完全なものではない。もう朧気な部分もある前々世の知識を含め、今持っている知識が正しいとは限らないのだ。
呪文は間違いない。出来る限りの呪文は全て成功しているのだから。儀式もそうだ。神を降臨させるものや人を生け贄にするもの以外のほとんどを行って成功しているのだから。
問題はクリーチャーだ。今自分が呼び出せるもの、遭遇したものはほぼ間違いなく知識のものだと判断してもいいだろう。だが神格や接触するべきではない存在はそうであるのか分からない。
前々世と前世で違いがあったように、前世と今世でなにか違いがあってもおかしくない。だから知る必要がある。比べる必要がある。頭の中と記されている事を、ではない。
自分が知っている知識とこの世界の真実を比べるために、前々世と前世との記憶を混じらせてしまったときのようなことは起こってはならないのだ。
以前知識を混在させたそのときは、親友の死だった。生半可な知識しかなかったために、その知識と新しい知識を頭のなかでぐちゃぐちゃにしていたからあんなことになったんだ。
比べなければ、真実が見えない。真実が見えなければ、行動が遅れる。行動が遅れれば、死ぬ。
イヤだ。あんな死に方はイヤだ。俺のせいであいつは死んだ。俺が混乱してなかったらあいつを助けられた。俺が行動できていれば玉虫色の物体に押し潰されなかった。
イヤだ。イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ死なせたくない死にたくないイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ。
「……なければ」
ぽつりと、無意識のうちにその言葉をつぶやく。次々と出てくるその言葉を、止めようとする気も起きずただ惰性的に呟き続ける。
「しらなければ」
ポツリ、ポツリと、ふらつきながらも目的のモノを手に取るために立ち上がり、しかし狂気に満ちた虚ろな目を空にさ迷わせて口を動かす。
「しらなければ。しらなければ」
幽鬼のようにふらつきながら今まで集めた本が仕舞われている棚へと近づく。そのまま覚束無い手で持てるだけの本をつかんでは引き抜き、床へとそれを落とす。
複数の本が落ちる音が響いても気にすることはなく、再びその手を本へと伸ばして床へ落とした。
「しらなければ。
彼の狂気は、恐怖は、
全然リリカルしてないなぁ